「あらし」


18) Last Straw

 グレートが持って来てくれた、白い薔薇の花束を抱いて、その香りに包まれながら、考えようとして何も考えられず、ただ、起こったことを反芻して、そのたびぶり返す痛みに怯えながら、夜が明ける頃には、その痛みだけで正気を保ち、自分を痛めつけることを、楽しんでさえいた。
 それ以外何も、他にすることを思いつけなかった。
 グレートが、戻って来てくれるのではないか、もしかしたら、電話をくれるのではないかと、眠ることも出来ず、待ち続けた。
 これで終わりなのだと、グレートは言わなかった。アルベルトを捨てるのだとは、一言も言わなかった。
 それでも、すべてをあからさまには語らないことを良しとする彼が、こんな事態であっても、そんなことを直裁に口にするとは、とても思えない。だからアルベルトは、グレートが去った後を、YesなのかNoなのか、必死に答えを探して、見つかるはずもないまま、夜を越えた。
 電話をしてもよかった。けれど、もし彼が電話に応えないなら、応えたところで、素っ気なく切られてしまったら、そう思うだけで、指がすくむ。
 捨てられたのだと、これで終わったのだと、そう確認することが、死ぬほど恐ろしかった。
 体が死ぬことを、恐ろしいとは思わない。けれど、グレートを失うことで、心が死ぬこと、そしてそのまま生き続けることは、まるで、この機械の腕を残して、他の体の部分をすべて失うと想像すると同じほど、苦痛に満ちていた。
 夜が明けて、まだ花束を抱えたまま、次第に明るくなる部屋の中で、窓の外が次第に活気を帯びてくるのを感じながら、アルベルトは、自分で自分を痛めつけることに、疲れ果てていることに、ようやく気づいた。
 気づいて、もう、自分を痛めつけることさえ出来ない自分にまた絶望し、それから、ふと、外へ出ようと、思った。
 花束を、そっとソファの上に残し、そうしてから、まるで突然ねじを巻かれた人形のように、忙しなく動き始める。
 いつも、店に出る前にそうするように、紅茶をいれ、ミルクは出来るだけたっぷりと注ぎ、珍しく汚れた食器---グレートが、手もつけずに残していった紅茶が、まだ、キッチンのカウンターの上に、放り出されたままであった---をシンクに残したまま、それからシャワーを浴びるために、バスルームへゆく。
 習慣と惰性で、体だけは動く。頭では何も考えず、ただ、とにかく外へ出るのだと、そう自分に言い聞かし続けていた。
 まるで、見た目だけはいつもの、いつもと変わらない朝。
 それでも、耳の後ろのかすかな頭痛が、眠れずに一晩過ごしたことを、はっきりと思い知らせてくれる。それを忌々しく思う気力さえ今はなく、ただ、外へ出るために、普通の表情をつくるための準備に、余念がない。
 濡れた髪にタオルをかぶって、湯気で曇った鏡の前に立ってから、その中にぼんやりと見える自分の姿を眺めて、さて、どこへ行こうかと、ふと考える。
 店には行きたくない。あんなに、グレートの気配があるところへ、今足を踏み入れる勇気は、とてもなかった。
 右手を伸ばして、鏡を拭う。きききと、指と掌の金属がすれて、いやな音を立てる。
 どこか、グレートのいないところ。グレートの知らないところ。グレートの気配の、ないところ。
 手の動きを止め、ほんの一時現れた自分の、くっきりとした姿を、吐き気をこらえながら見つめた。
 ジェット、と思った。


 車を飛ばす。ブレーキの音を立てて車を止め、外へ飛び出て、階段を駆け上がる。
 はあはあと、息を弾ませたまま、目の前のドアを、らしくもなく、切羽詰まった動作で、力いっぱい叩いた。
 3回叩いて、また3回叩いた。さらに3度、ドアを撲ったところで、足音と、文句を言う声が聞こえ、ドアが開いた。
 ドアの向こうに、半裸で現れたジェットに、アルベルトは、ものも言わずに抱きついた。
 ドアを閉める気遣いさえなく、そのまま強引に唇を奪うと、ジェットを床に押し倒す。
 両腕を、力任せに床に押さえつけ、ジェットがゆるりと開いた唇に、必要もないのに、むりやり舌を差し入れる。
 まだ、弾んだままの息が、ジェットの唇の輪郭をなぞった。
 長い時間のような気がしたけれど、ほんの、数秒だったのかもしれない。
 唇を外し、腕を離すと、ジェットが下から、ひどく真っ直ぐアルベルトを見つめてきて、アルベルトは、思わず頬を染めた。
 アルベルトの肩を押し、ジェットが、床から体を起こす。長い腕と体を伸ばして、大きく開いたままのドアを閉めると、まだ床に倒れたままでいるアルベルトを、今度は上から、じっと見下ろした。
 どこにも、言葉はなかった。
 腕が伸び、床から引き上げられる。それに従うと、引きずられるように、ベッドルームの方へ連れて行かれ、ジェットが起きたばかりの、生暖かいベッドに、放り出され、組み敷かれた。
 首のボタンさえ、ろくにとめないままのシャツの前を、ジェットが乱暴な仕草で開いてゆく。
 トレンチコートを脱がせもせず、脱ぎもせず、ろくな手順も踏まないまま、それに抵抗も抗議もせず、アルベルトは、ジェットの動きが促すまま、足を開いた。
 ベッドの、安物のスプリングがきしむ。
 声を立てず、ジェットに侵される痛みを、アルベルトは、唇を噛み切りながら耐えた。
 細い薄い体に、揺さぶられる。
 強く、内臓の奥まで入り込んで来たジェットが、いきなり躯を外した。冷たい空気が、ふたつの体の間に、さっと流れ込んでくる。
 引き止めようと、両腕を伸ばした時、ジェットの体温と、同じほどの生暖かさが、不意に、火照った膚の上に散った。


 乱れた服を、体にまといつかせたまま、ベッドに斜めに横たわって、アルベルトは動かなかった。
 ぼんやりと、まだ見覚えている天井を見上げ、傍で静かに動くジェットに、真っ直ぐ視線を当てることさえしない。
 ジェットがゆっくりと、自分から離れ、部屋を出て行くのを、瞳だけを動かして見送った。
 無感覚な心と同じほど、今は体もしびれている。さっきまで、確かにあった現実の痛みを、また思い出すために記憶を手繰り寄せる。
 ジェットに去られた躯が、ひどく空っぽだった。
 まだ少し遠慮がちな、柔らかいままの朝日に、乱れた姿を照らされて、光に満ちたこの部屋の空気に、自分の体が溶け込んで消えてしまうような、そんな気がした。
 そうなってしまえばいいのに、と思った。
 ここに、グレートの気配はない。アルベルトが持ち込んだ、ほんのかすかなグレートの気配の破片しか、ここにはない。
 ジェットの部屋で、ジェットと躯を重ねて、グレートの知らない自分を、この世界に生み出す。
 グレートの知らない自分など、存在したことなど、なかったのに。今は、グレートのアルベルトと、グレートのではないアルベルトと、自分がふたつに引き裂かれていた。
 グレートの知らない自分として、今ここにいる自分が、ひどく頼りない、現実味のない、醜悪な化け物のような気がする。架空の、怪物。人間ですらない、生きているのかどうかすら、危うい、醜い存在。
 ジェットが、部屋に戻ってきた。
 無言のまま、アルベルトをベッドの上に引き起こし、まだ体にまとわりついたままの服を、ひどく丁寧な仕草で脱がせる。
 優しい手つきに、アルベルトは沈黙の中で驚きながら、ふと慰められていた。
 アルベルトをすっかり裸にすると---ジェットはもう、とっくに全裸だった---、手を引き、まるで子どもや小さな動物にそうするように、目顔で促す。
 おとなしく手を引かれて、バスルームに連れて行かれた。
 泡のあふれる湯のたまったバスタブの中に、ジェットが先に足を差し入れる。端に坐り込むと、ほら、と言うように、繋いだままの、アルベルトの手を引いた。
 ジェットの、小さく形のいい膝頭が、両方とも、泡の中から、水面よりはるか高くに顔を出している。
 素直に、促されるままに、アルベルトはその間に、入り込んだ。
 ジェットの、長い脚の間に腰を落とすと、すかさず腹の前に、両手が回ってくる。指の長い掌が、指を組み合わせて、アルベルトを抱きしめた。
 肩にあごを乗せ、それから、首筋に唇が滑る。欲情のためではなく、ただ触れ合うためだけの、穏やかなキスだった。
 「・・・・・・悪かったな。」
 首筋から、唇を離して、突然ジェットが言った。
 「アンタの首、まだ少し、跡が残ってる。」
 5日前にここにいた時に、首を締めたことを言っているのだと、一瞬考え込んでから、気づいた。
 その跡を、癒そうとでも言うように、またジェットが、首に唇を当てる。
 ジェットの肩にうなじを預け、アルベルトは、少しだけ胸を反らした。
 自分の前に回ったジェットの手に、自分の両手を重ね、まるで、恋人同士のように、ふたりは湯の中で抱き合っていた。
 激しさはなく、欲情だけを絡め合うようでもなく、静かに穏やかに、胸と背中を重ねて、両手を重ねている。
 膝頭が4つ、泡の中から顔を出している。骨張っているのはどちらも同じだけれど、アルベルトのそれの方が、やや丸い。ジェットの皮膚は、湯の温度で、真っ赤になっていた。
 爪先で、いたずらでもするように、ジェットが、アルベルトの膝下や足の甲に触れる。そのたび湯が揺れて、たぷたぷと音を立てる。
 「朝早くに、悪かった・・・。」
 先に謝ったジェットへの、お返しのようにそう言った途端に、ジェットの腕の輪が締まる。動きで湯が大きく揺れ、バスタブの縁を越えて、床にあふれた。
 「・・・どこにも行くなよ、もう。」
 背中に顔を埋めて、ジェットの囁きが、そこに当たる。噛みつくように、背中の皮膚に、ジェットが軽く歯を立てた。
 「アンタが、ここにいたいなら、いればいい。」
 バスタブの縁に手を掛けて、ジェットに押されるまま、アルベルトは体を前に倒していた。
 自分を抱くジェットの、腕の力の強さに、ふと戸惑いがわく。
 ジェットに会おうと思ったのは、事実だった。けれど、ここにいたくて、ここに来たわけではなかった。
 おまえさんは、どうしたい、アルベルト? 昨日、そう訊いた、グレートの声が、また聞こえる。
 どうしたいんだろう。
 わからないと、かすかに頭を振ってから、考えることを拒むように、またゆっくりとジェットの胸に、背中を添わせる。
 腕を伸ばし、ジェットの首に前から回すと、顔をねじ曲げて、唇を探した。
 余計なことを、ささやかれたくなかった。
 唇が重なって、ジェットの掌が、胸を滑る。もう一方の手が、腹から下へ降りた。
 唇の間で声をもらし、思わず、口づけを中断して、少しだけ距離をあけた。
 「・・・ここ、で?」
 少しだけ、困惑したように言うと、ジェットの、上気した頬とは対照的な緑色の瞳が、ふといたずらっぽく潤む。
 「アンタ、まだだろ? オレが、やるから・・・・・・心配しなくても、続きはまた、あっちで・・・」
 ジェットの、大きな薄い生身の掌が、湯の中で、そっと動き始める。
 また唇を重ね、舌を絡めながら、ジェットの掌の中で、アルベルトは体の力を脱いた。
 指の動きを変えて、ジェットが、包み込んでくる。熱くなってゆく自分の躯を、その中に委ねて、アルベルトは、頭の中を真っ白にした。

 
 冷えたシーツの上で、湯にぬくめられた躯を、また重ねた。
 もうすっかり開いてしまっている躯は、何の前触れも必要なく、開いた膝を、ジェットが優しく押さえつけて、また寄せてくる熱を、アルベルトの中に沈めてゆく。
 躯の内側をただ、こすり合わせるだけの繋がり合いではなく、胸も腰も肩も重ねて、体全部で、重なり合う。
 首筋や耳に、ジェットの柔らかな唇を当てられ、アルベルトは、小さく声をもらして、肩を震わせた。
 傷つけるようでもなく、噛みつき合うようでもなく、ふたつの別々の体が、ひとつになるために、皮膚をこすり合わせ、熱を生んで、溶けた膚を混じり合わせるように、ふたりはそんなふうに、抱き合っていた。
 動きながら、ジェットは、アルベルトから目を離さなかった。
 水色の瞳に、淡い緑の視線を当てたまま、躯の奥深くと、体の表面からと、両方で繋がろうとするかのように、アルベルトを見つめ続けていた。
 アルベルトは、熱に浮かされたような、その瞳の色を、時折受け止めかねて、喉を伸ばす振りをして、時々視線を反らす。
 それでも、ジェットの、熱っぽい視線を、皮膚全体に感じながら、躯の内側では、そこから広がるジェットの熱に、我を忘れ始めていた。
 ジェットがまた、キスをした。
 心のこもった、優しい接吻に、アルベルトは目を閉じ、もっと深く繋がろうとするかのように、ジェットの腰を自分の方へ引き寄せる。
 傷つきやすさを、ジェットと分け合っているのだと、初めてアルベルトは感じた。


 眠れなかった反動なのか、ジェットが離れた途端、睡魔に襲われた。
 ジェットは、名残惜しげにアルベルトを抱きしめて、しばらくそうして髪や肩に触れていたけれど、微睡み始めたアルベルトを毛布でくるみ、そっとベッドを降りた。
 「朝メシ、仕入れに行って来る。アンタ、腹へってないか?」
 ゆるゆると首を振る。
 服を着ているらしい気配で、またジェットが訊いた。
 「なんか、欲しいモンでもあるか?」
 「・・・・・・紅茶が、飲みたい。」
 無意識に、そう答えていた。
 「いちばんでかいサイズに、ミルクたっぷり、砂糖抜き、だろ?」
 からかうように、ジェットが言う。
 それを、半分夢の中で聞きながら、アルベルトは、ジェットの匂いのする枕に頬を埋めたまま、小さくうなずいた。
 「すぐ、戻ってくる。」
 耳元で、そう声が聞こえて、それから、頬に唇が触れた。
 足音と気配が、静かに去ってゆく。
 微睡みの中に落ち込んで、アルベルトは、ジェットに全身を包まれていた。
 夢だとわかっていて、それでも、自分を包み込むように見つめるジェットから、目を離せない。
 熱い、ミルクの入った紅茶。高く香りの立つそれは、グレートだった。
 薄くて不味い、この国のコーヒー。けれど、それに慣れることも出来るかもしれないと、夢の中で思う。
 紅茶を飲むのを、やめようかと思ってから、ミルクがないから、いれても無駄だと、支離滅裂な方向へ、話が反れた。これは夢だからと、言い訳するような声が聞こえる。
 手の中にある、ミルクの入っていない紅茶は、舌を焼くほど熱かった。
 クリームと砂糖の、山ほど入ったコーヒーは、ぬるくて甘過ぎて飲めない。
 どちらもいらないと、首を振る。
 熱過ぎない、ミルクのたっぷり入った、紅茶。舌に馴染んだその味が、恋しかった。
 今さら、そんなコーヒーなんか、飲めるもんか。
 そう言うと、手の中に、その甘過ぎるコーヒーが残された。
 紙のカップに入ったそれから、掌に伝わる生暖かさが、何かに似ていると思った。
 何に似ているのだろうかと、不自然に白っぽくなった、薄茶色の生ぬるい液体を眺めて、考え込もうとした瞬間に、目が覚めた。
 正確には、肩を揺さぶられ、眠りを破られたのだけれど。
 ジェットが戻って来たのかと、ねじった肩越しに、ジェロニモの、いつもの無表情があった。
 「ジェロニモ!」
 驚いて、毛布の下が、何も着けていない全裸なことも忘れて、ベッドの上に飛び起きる。
 「どうして・・・」
 ここにいるんだと、唇だけが、ぱくぱくと動いた。
 「帰る。ボス、待ってる。」
 一瞬、夢と思考とジェロニモの言葉とそれの意味することが、すべてきれいに繋がったように、感じた。もちろんそれは、錯覚に過ぎず、混沌とした混乱の中に、たちまち放り込まれて、アルベルトは眉根を寄せて、ジェロニモに向かって頭を振った。
 行かない、という意味ではなく、事の次第が把握できないと、そう伝えたつもりだったけれど、それがジェロニモにうまく伝わったかどうかは、わからなかった。
 「行く、戻る、ボス、今夜、会う。」
 辛抱強く、ジェロニモが、同じ内容を繰り返した。
 その、物静かな薄茶色の瞳を、食い入るように見つめて、アルベルトは、ふっと息を吐いた。
 ここにも、グレートがいる。ここももう、グレートからは、逃れられない。
 逃れたいのだろうかと、一瞬、自分に問いかけた。
 いや、と、心の中で頭を振る。それから、肩に重い疲れを感じながら、口元に小さく苦笑を刷いた。
 「着替えるから、待っててくれ。」
 毛布を、胸の前まで引き上げながら言うと、ジェロニモは、素直にベッドから一歩あとずさった。
 「ドア、外、待ってる。」
 部屋を出て、けれどドアを完全には閉めずに、ジェロニモはその陰に姿を消した。
 まだ、ベッドからは降りずに、目元を掌で覆い、アルベルトは首を折った。
 グレートが、まだ自分を捨てるつもりはないのだと、そう思って安堵しながら、同時に、黙って消えることで、ジェットを怒らせ、失望させることに、ひどく鬱陶しさを感じる。そう感じることが、今は苦痛でさえ、あった。
 おまえさんは、どうしたい、アルベルト?
 また、グレートの声が聞こえた。
 知るもんか。そう、投げやりにつぶやいて、アルベルトは、ここから去るために、ようやくベッドから降りる。