「あらし」
19) End Off
水をもらえずに、しおれかけた白い薔薇が、その姿と匂いとともに、アルベルトを迎えた。
なぜか、それが忌々しく、花瓶を取り出して活けることもせず、汚れた食器にはまだ触れないまま、シンクに水を張って、そこに薔薇を投げ込んだ。
自分に起きたことが、まだ信じられずに、アルベルトは、むやみにアパートメントの中を歩き回った後で、シャワーも浴びないまま、ワインを一びん、ひとりであけてしまった。
紅茶のカフェインが恋しかった---ジェットのところで、飲み損ねた---けれど、アルコールを代わりに体に入れ、空っぽの胃に染み込むアルコールは、手早くアルベルトを酔わせてくれる。
必要なのは、ほんの一時の、記憶喪失。忘れて、眠ること。
戻って来たジェットが、空っぽのベッドを見つけて、ひどく腹を立てたことは、容易に予想がついた。ここまで追い駆けて来たとしても、階下の、工場の入り口に立っているジェロニモ相手に、中に入る入らせないの問答を、ジェットがしたいとは、とても思えない。
あの場所も、今はグレートの気配に侵入されてしまっている。
もう、あそこには行かない方がいいと、アルベルトは思った。
グレートの知らない自分。そんな自分を発見して、ほんの少し、ほんの少しだけ、心のどこかで、アルベルトは、初めて自由に、自分の意思で、自分の体と心を使って、呼吸をしたような、気がした。
錯覚だったのかもしれない。グレートの庇護を前提とした、そんな見せかけの自由を、まるで子どもがいたずらでもするように、スリルとともに、味わってみたかったのかもしれない。
かごの中の鳥は、いきなり外へ放り出されたところで、生き延びるわけもない。そんな術も知らず、常に守られることが身につけば、守られないことなど、想像すら、できない。
かごの外には、恐ろしい世界が待っている。自分を引き裂こうと、何もかもが、爪を研いで待っている。
落とし穴と罠だらけの外の世界に、鎖に繋がれたまま、足を踏み入れてみる。後ろを振り返り振り返り、保護者が、その鎖の端を、きちんと握っていてくれることを、何度も確認しながら、ほんの、数歩。
けれどそんな遊びも、もう終わりだ。
また、かごの中に戻って、しっかりと鍵が閉まる。
楽しかったのだろうか。幼稚な冒険は、それとも人を傷つけただけだったろうか。
冒険の終わりに、何が待っているのか、まだわからない。
探しものを見つけて、めでたしめでたし、冒険の途中で命を落として、暗い結末、それとも、話はまだ終わらないまま、続いているのだろうか。
自分に触れた、優しいジェットの掌の暖かさを、ふと思い出す。
やっと、優しく触れ合えたのに。言葉のないことが、卑怯にならない時間を持てたのに。傷つけやすさを分け合って、互いの奥底に、触れたように思ったのに。
自分が、グレートの所有物であることを、アルベルトは初めて自覚した。
情人と言い表される関係は、所有格で表現される、物と持ち主の関係でしかない。
My Dearと、グレートが使う呼びかけの正しさを、アルベルトは、今ようやく、はっきりと理解していた。
ジェットとは、ほんとうに、これきりだと、アルベルトは思った。
もう、会わない。ジェットのアパートメントへは、二度と行かない。ジェットの気配が、グレートとの世界を侵してしまう前に、もう、終わりにしなければ。
物は、物自身の意思で行動するのではなく、所有者の意思で、動かされるのだから。
もう、会わない。
自分に言い聞かせるように、アルベルトは、そう口にして、ゆっくりと言った。
繋がっていた躯が、不意に離れた時のように、突然体の中が軽くなる。満たしていたものが去り、空になった躯の中に、冷たい空気が流れ込む。軽くて、寒くて、淋しくて、思わず、両腕を、宙に伸ばす。
そこには、グレートもジェットも、いはしないのに。
ジェットのアパートメントで、乱暴に身に着けた服を、立ち上がりながら、手早く剥いだ。ベッドに向かう足元に、コートやシャツが、点々と落ちてゆく。
生まれたままの姿に戻って、アルベルトは、自分のベッドにもぐり込んだ。
酔いが、神経を溶かしている。眠りを妨げる痛みは、どこにもない。
忘れて、眠ろう、と思った。
「アルベルト。」
名を呼ばれ、肩に手が触れた。
覚えてもいない夢の淵から引き上げられ、真っ暗な部屋の中で、うっすらと浮き上がる影に、焦点のぼやけた視線を当てる。
肩を起こして、軽く頭を振った。
「今日はよく、起こされる日だな。」
そんな軽口の皮肉が、思わず舌を滑る。
頭を振ると、頭の後ろ側が、かすかに痛んだ。
影が動き、ベッドサイドの明かりを、そっとつける。
淡い光に、目覚めたばかりの瞳を刺されて、アルベルトは思わず何度も大きく瞬きした。
体を起こし、毛布を体に巻きつけたアルベルトの目の前に、グレートが、ベッドを揺らさない心遣いをしながら、そっと腰を下ろした。
「気分は、どうだ、My Dear。」
アルベルトは、ふっと、苦く笑いを刷いた。
「俺の台詞を、取らないでくれ、グレート。」
「ご機嫌うるわしく、とは行かないようだな、お互いに。」
「あんたの方が、はらわた煮えくり返ってるんじゃないのか。」
珍しく、挑発するような口調で、グレートに話しかける。
物静かに振る舞われるより、激昂された方が楽だと、アルベルトは思う。
腹の探り合いより、気持ちのぶつけ合いの方が、今はいい。
どこか疲れたように見えるグレートは、ネクタイをもうゆるめていて、シャツの首のボタンも外していた。
自分のせいかと思って、ふと心がうずく。
それでも、アルベルトは、グレートから目を反らさなかった。
いつもなら、ふたりきりで会えば重なる唇も、触れ合う掌も、今は、そんな気配すらない。互いを伺って、距離を置いて、互いの出方を見極めようと、待っている。先に動いた方が負けなのだと、まるで言い交わしでもした、ゲームのように。
あまりにも沈黙が、重くて長すぎて、ベッドから出て、紅茶をいれるか、酒を持ってくるかしようかと、アルベルトが思い始めた頃、グレートがぼそりと、話の最初の言葉をこぼした。
「おまえさんの意見を訊かずに、悪かったが、あのボウヤとは、話をつけた。」
眉を持ち上げ、一瞬間を置いてから、ばたんと、ヘッドボードに背中をぶつけた。
「もう、おまえさんの周りをうろちょろすることは、ないだろう。」
ひどく静かに、威圧感はなく、ただ、疲れだけの滲んだ声音で、グレートは言葉を続けた。
「・・・腕の2、3本くらい、折ったのか。」
誇張を冗談にして、けれど瞳は笑っていない。
うつむいて、今は覇気のない表情の、グレートの秀でた額の辺りを、アルベルトは眺めている。
「右腕だけだ。どうやら、左利きらしかったんでね。しばらくの間、少しばかり、不自由になるだけさ。」
ヘッドボードに背中をもたせかけ、頬と目元を赤黒く腫らしている、ジェットの顔を思い浮かべた。
ぎりっと、音を立てて、奥歯を噛んだ。
腕だけですんだのは、幸いだったのだと、ジェットは思わないだろう。
けれど、こんなことになって、グレートが、腕を折っただけでジェットを解放したのなら、それは奇跡とも言えた。
アルベルトを、どんな形であれ、踏みつけにした男たちを、偶然見つけるたび、グレートは速やかに、その男たちを痛めつけて、そして消した。
消されなければ、一生消えない、忘れられない記憶を、目に見えるどこかに刻みつけられ、後悔の中で生き続けることを強いられる。
それが、男たちが、過去のアルベルトに与えた苦痛の、代償だった。
それを、恐ろしいとも思いながら、守られている安堵に、アルベルトは酔った。アルベルトを守りながら、その過去の傷を、同じほどの傷を相手に与えることによって、グレートは癒してくれようとした。
それがたとえ、実はグレート自身のエゴだったのだとしても、もう誰も、自分を傷つけることはないのだと、少なくともグレートは、はっきりとアルベルトに伝えてくれた。
見つかれば、こうなることがわかっていて、ジェットを拒まなかったのは、どうしてだったのだろう。見つからないと、見つかるはずがないと、そんなことさえ思いもしなかった。
あまりにも突然足元をすくわれて、起こった時には、グレートのことなど、考えもしなかった。
激情と衝動が、自分を突き動かしていた。
目の奥の痛みに耐えるために、アルベルトは、大きく息を吐き出した。
「あんた、ジェロニモに、俺の後を尾けさせてたのか?」
ジェロニモが、ジェットのアパートメントに突然現れた理由を、それ以外思いつけず、今さら聞いても仕方のないことだと思いながら、沈黙の訪れを遅らせるために、わざわざ質問する。
「おまえさんには、しばらく前から、護衛がついてたよ。」
「護衛?」
眉を寄せて、目を細めた。
「言ったろう、新しい組織が、うろうろし始めたらしいと。おれを狙うなら、おまえさんも狙われる。だから、ジェロニモが、おまえさんに、ふたりほど若いのをつけた。そのふたりが、おまえさんと、あのボウヤのことを、嗅ぎ回る羽目になったってわけだ。」
だから、ジェットのアパートメントから戻って来た後に、グレートが、薔薇を抱えてやって来たのかと、ようやく合点が行く。
「おまえさんは、おれと違って、あくまで一般市民だからな、そう大っぴらに、護衛がついてますなんて、言いふらす必要もなかった。もっともおれは、おまえさんが、とっくに気づいてるんだろうと、思ってたがね。」
少しばかりの皮肉な口調を、それでも、それは罰なのだと、アルベルトは素直に受け取って聞き流した。
顔を横に向け、自分の愚かさ加減を、唇を歪めて笑う。
最初から最後まで、グレートの掌の中で、踊らされていただけなのだと、今頃思い知った自分が、少しばかり惨めだった。
「ハンガリーとの取引もある、新しい組織のこともある、こんな時でもなければ、もう少し、おまえさんの好き勝手にさせても良かったさ。でも、長引いて苦しむのは、おまえさんだ、アルベルト。」
親が子どもに諭すように、グレートが、静かに、けれど重く、そう言った。
そして苦しむのは、グレート自身でも、ある。
ジェットは、去ってしまったのだと、思った。
先行きなどない、あるはずもない関わりだったから、これで良かったのだと、思い込もうとする。遅かれ早かれ、こんな結末を迎えることは、誰の目にも明らかだったのだと、必死で思おうとする。
突然始まったことは、同じほどの突然さで終わる。
登場人物たちは、その唐突さについてゆけない。
もう少し、時間が必要なだけだ。
「・・・右腕1本ですんだなんて、運の良い話だ・・・」
自嘲を込めて、その痛みを、自分が感じるために、アルベルトはそう言ってみた。
グレートが、泣くのをこらえているそんな横顔を、なぜだか痛々しそうに見つめているのを、頬の上に感じた。
「My Dear・・・」
つぶやいて、手が、その頬に伸びてくる。
触れられて、まるで反射のように、頬の骨を、掌の線に添わせた。
馴染んでしまった皮膚。重ねれば、ひとつに溶け混じったように、自然に触れ合える。
造作もなく、ひとつになれる、ふたつの体。長い長い間、ふたりには、互いしかいなかったから。
また、ここに戻って来たのだと、アルベルトは思った。
グレートの手に、両方の掌を重ねた。冷たい鉛色の掌を、グレートの、長い節のない指に重ね、目を閉じた。
ジェットの熱さを思い出しながら、グレートの与えてくれる、暖かさを思う。
どちらが欲しかったのか、どちらも欲しかったのか、選ぶこともできず、心が迷うままに、結局は人を傷つけて終わるのだと、自分のその愚かさを、心の底でこっそりと嗤う。
グレートが、目を閉じないまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。
そのはしばみ色の瞳に、今は鋭さはなく、ただ痛々しい、哀しげな色だけが、そこに浮かんで見えた。
グレートの傷の深さを、今さらのように思い知って、胸が痛む。
グレートが殺したいのは、どちらなのだろうかと、アルベルトは思った。
自分か、ジェットか。
「あんた、俺を殺したくないのか?」
唇が触れる一瞬前に、考える時間さえなく、言葉が滑り出た。
「おれに、おまえさんが殺せると、思うか?」
息の触れる近さのまま、そう言ったグレートに、思わない、と、アルベルトは首を振った。
「正しい認識だ、My Dear。」
唇が、ようやく重なった。
グレートの両手が、頬を引き寄せる。体を前に軽く倒し、アルベルトは、目を閉じた。
長い長い、接吻だった。激しさも熱さもない、ただ、互いの存在を確かめ合うためだけの、柔らかな、ついばむような接吻だった。
ジェットの気配を、互いの間から消し去るために、ふたりはおずおずと、皮膚を触れ合わせようとしていた。
唇がようやく離れても、アルべルトはグレートを離さず、額を触れ合わせて、その手を自分の頬にとどまらせた。
「俺を、許してくれるのか・・・?」
はっきりと聞くのは、グレートがもっとも嫌う不粋だと知っていて、それでも、それを確かめずにはいられない。
「おまえさんこそ、おれのことを、許してくれるのか、My Dear?」
また痛々しく、グレートの瞳がかげる。
「おまえさんの意向を聞きもせず、おれは、あのボウヤを追っ払っちまった。」
「俺のことは、あんたがいちばんよくわかってるさ、グレート。あんたがすることは、何もかも、すべて俺のためだ。」
グレートが、ごくりと喉を鳴らした。
震えているのが、掌と額の、両方から伝わってくる。動揺しているのだと思って、アルベルトは、それを怪訝に思った。
「おまえさんが、そう言うおれは、人殺しの、人でなしだ。」
言葉が、震えを帯びる。
グレートらしくもない、その、どこかちぐはぐな様子に、アルベルトは不審を隠せなかったけれど、それは恐らく、出逢って初めて、アルベルトが、他の誰かに心を移しそうになったための、グレートの動揺なのだろうと、アルベルトは自分を納得させた。
額をすりつけて、アルベルトは、言葉の続きを引き取った。
「あんたは、人殺しかもしれない、でも、人でなしなんかじゃない。人でなしなら、俺を助けて、守ってくれようなんて、思わなかったはずだ、そうだろう?」
グレートは、是とも否とも、反応を返さなかった。
額が離れ、それでも掌はアルベルトの頬に当てたまま、グレートが、水色の瞳を覗き込みに来た。
まるで、アルベルトではなく、その瞳の中に写る、自分自身の、揺れる小さな姿を見つめて、問いかけるように、
「人でなしと人殺しと、どっちがどれだけましなんだろうな。」
唇に、自嘲がわいた。
歪んだその唇を、見続けるのに耐えられず、アルベルトは、グレートを引き寄せ、唇をまた重ねた。
体を倒し、自分の上に、グレートを抱き寄せる。
唇を開き、濡れた舌を差し入れて、熱く、唾液を絡める。
忘れよう、と思った。忘れたいと、思った。
グレートの腕が、肩に触れ、アルベルトの頭を抱え込んだ。
胸を重ねて、グレートの重みが、ゆっくりとアルベルトを押し潰す。
アルベルトの胸のどこかで、自力で、開けてみようとしていた心の中の扉が、ばたんと、音を立てて閉まった。
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