「あらし」


20) As Always

 また、日常が帰って来る。
 1週間、何の音沙汰もなしに、店を閉めていたのに、それを訝しむ誰もおらず、常連のいないアルベルトの店の客たちは、相変わらず、表情のないまま、店にやって来て、去ってゆく。
 その人の流れをぼんやりと眺めながら、前以上に熱意もなく、アルベルトは、ただ慣れと惰性だけで体を動かしていた。
 それでも、本に囲まれていれば、安らげた。
 紙と、かすかな埃の匂い。常に自分を慰めてくれたもの。
 いきなり思いついて、本棚をひとつ全部空にし、並んでいた本を、全部並べ替えた。
 ほんのいたずら心で、作家の名前や著名順ではなく、表紙の色で、本を揃えてみた。
 薄い色から始めて、白から淡い黄色へ、そこから濃いオレンジへ、そして赤、紫、青、緑、そんな風に、色を並べて、何度も何度も首をひねりながら、本を並び直し、本がすっかり棚に戻ってしまっても、また気に入らずに、やり直す。
 そんな意味のない作業に、何日も費やした。
 時には、久しぶりに目にする本の題名に魅かれ、客が来ないのをいいことに、床に坐り込んでその本を開く。
 とり憑かれたように何時間も、本から顔も上げず、そうして一日が終わる。
 手と体を動かして、視線を常にさまよわせ、頭が、ふと考え込もうとするのを、必死に止めていた。そんな隙を与えないように、周囲にある、意味深い文字と言葉の連なりを、それよりさらに意味深くして、頭の中に流し込む。自分の思考を追い出すために、誰か別の誰かの思想を、詰め込む。
 学ぶためではない、楽しむためではない、忘れるための、読書。
 痛々しく、アルベルトは、本を手に取り、本を読み続けた。


 アルベルトを気遣ってか、取引の話は持ち込まれることはなく、何の責任もない日々だった。
 午後に一度、グレートから電話が入る。
 おそらく、朝の遅くに起きて---ダウンタウンの店が閉まるのは、いつも午前3時近くだから---、朝食を食べ、ゆっくりと新聞を読み、身支度を整えて、店に出る前に電話をしてくるのだろうと、アルベルトは勝手に想像する。行く先が店でないなら、どちらにせよ、仕事に関わりのあるどこかへ、出掛ける前に。
 元気かと尋かれ、元気だと返す。変わりはないかと訊かれ、変わりはないと返す。それで話が終わらない日は、夜になれば、グレートは、アルベルトのアパートメントへやって来た。
 何も変わらない。変わらない時間が積み重なり、崩れ、流れてゆく。
 「ダウンタウンの店、まだ新しい支配人が見つからないのか?」
 まだ少し眠そうなグレートの声に、ある日、からかうようにアルべルトは言った。
 売り上げをごまかしていた、前の支配人が病院に送られてから、まだ次の支配人は雇われていない。
 あの支配人は、無事に病院を出たのだろうかと、口にせずに思う。
 「ああ大きな店じゃ、誰でもいいってわけにはいかんさ。雇える連中はロクでなしばかりだ。出来のいいのは、全部売約済みだ。女にも金にも固くてきれいで、こちらが信用できる人間なんて、そうそういるわけがない。」
 「ボス自ら店の支配人を代役なんて、他じゃ聞かない話だ。」
 「他のことはどうでもいいさ。言いたい連中には、好きに言わせておけばいい。オレは他に、することもないんでね。」
 軽く、グレートが舌の奥で笑った。
 もちろんうそに決まっている。やるべきことは、おそらくこの先10年、山積みになっているはずだった。
 同じような店を増やし、そちらで表の顔を保ちながら、売春と麻薬の売買の部分を、確実に大きくする。さらに、今は武器の密輸もある。
 表で、信用できる人間がいないと、愚痴をこぼして、自らが手持ちの店の一軒を切り回し、さも暇なふりをする。
 あいつ、馬鹿じゃないのか、わざわざ支配人なんざ、自分でやるなんざ。
 頭の回らない---この世界では、頭の回らない連中の方が、絶対的に多い---輩は、そんなグレートを、もちろん笑っている。2流の組織の、手腕のないボスが、使いものになる部下の数が足らずに、自分で走り回っているのだと、グレートがそう印象づけたがっているように、素直に信じ込む。
 2流どころに、グレートがわざわざ甘んじているのだと、そんな連中は、もちろんちらとも思わない。
 おれは元々、ただの下っ端のチンピラでね。組織を束ねるなんざ、柄じゃない、そんな腕も人望もない。目立たないところで、自分のやりたいようにやるには、この辺りがいちばんいいのさ。
 柔和な笑みを、優雅に浮かべ、どこまでが本音か、どこまでが建て前か、まったく見当もつかない、曖昧な喋り方をする。グレートの本音の部分を、常に的確に読み取っている、アルベルトは数少ない人間のひとりだったけれど。
 一度だけ、ほんとうに一度だけ、グレートが、酔いにまかせて、ぽつりと言ったことがあった。
 守るものがあると、人間、死ねなくなるもんさ。死ねないなら、死なないように、自分を守らなくちゃならない。守るもののために、自分が死なないために、人でなしにならなきゃ、いけないこともある。
 言葉の間を問い詰めるのは、簡単だった。不粋で、それをグレートが嫌うと承知で、問い質すことはできた。けれど、そうするにはアルベルトは聡明すぎて、ふたりで重ねてきた時間の長さと濃さが、言葉の間の、漂うような曖昧さなら、グレートの説明など、必要もなく理解させてくれた。
 My Dearと、グレートが呼ぶ。
 グレートが、アルベルトにだけそうする、呼びかけ方。
 熱さや、激しさではなく、いとしさに満ちた、呼び方。
 おれの、と呼ばれることを、不快だと思ったことはなかった。むしろそれは、グレートに守られているのだと、常にアルベルトに、甘やかに自覚させてくれた。自分のものだと、だから守ると、見捨てることはしないと、そう、約束してくれているように、いつも耳に響いた。
 そうしてそれは、いつもほんとうだった。
 いつもいつも、グレートがそこにいた。手を伸ばせば届く距離に、常にいた。
 アルベルトを裏切ることなど、決してなく、飽きたから捨てると、そんな素振りを見せたことは一度もない。
 それなのに、なぜこんなふうに、息苦しく感じるのだろう。
 狭い、小さな世界が、ぐるりと、柔らかな厚い膜に覆われている。押しても押しても、その膜が破れることはなく、その、立ち上がって、手の伸ばすのが精一杯の小さな空間に、閉じ込められ続けていると、感じるのはなぜなのだろう。
 暖かく、満たされた空間。それでも、そこから出てみたいと、アルベルトの中のどこかが、叫び始めている。
 その声を押し殺しながら、聞こえない振りをしながら、本を開き、ページの上に或る世界へ目を向けて、自分が、ほんとうに飛び出したがっている世界へ、背中を向ける。
 そんな世界など、存在しない、するはずがないと、思い込もうとしてみる。
 膜を突き破れば、見えるかもしれないその世界は、もしかすると、空気すらない空間なのかもしれない。
 荒涼とした水のない砂漠を、そこに見つけるのかもしれない。
 それとも、闇に包まれ、落ちてゆく感覚だけに、満たされているのだろうか。
 そっと、右腕に触れる。
 冷たく硬い、おそらくこれを、醜悪だと感じずに触れるのは、この世でグレートだけだろうと、そう思える機械の腕に、そっと手を当て、アルベルトはため息をこぼす。
 あんただけだ。そうつぶやいて、本を閉じた。


 「また、飲んでるのか。」
 グレートが、脱いだ帽子を、キッチンの小さなテーブルに置きながら、咎めるようにではなく、言った。
 アルベルトは、シャワーを浴び終わって、バスローブだけの姿でソファに坐り、ひとりでボトルを半分空にしているところだった。
 「まだ3杯目だ。」
 「朝から何杯目かが、重要だ、My Dear。」
 濃い茶色の、香りの高いそれは、決して軽い飲み物ではないと、アルベルトの頬の赤みが伝えている。
 「さあ、いちいち数えてない。」
 少しだけなげやりに、アルベルトが答えた。
 口元から、最近消えることのない苦笑が、少し深くなる。
 飲み過ぎを、さり気なく咎められて、少し照れているのだとわかるから、グレートはそれ以上は何も言わない。
 上着を脱いで、それもまた、キッチンの椅子の背にかけると、自分でグラスを取って来て、アルベルトの傍に坐った。
 アルベルトが、手を伸ばすより早く、自分でボトルを取り上げ、グラスに注ぐ。
 いい酒だ、と思ってから、アルコール度の高さに、ほんの少しだけ眉を寄せた。
 「酔っ払いは苦手だが、酔ってるおまえさんは、ひどく色っぽくて、目のやりどころに困る。」
 にやりと笑って、軽口を叩くと、アルベルトもにやりと、唇の端を上げた。
 グラスを触れ合わせるより先に、酒の匂いのする唇を重ねる。
 少しばかり強引な仕草で、アルベルトは舌先を、グレートの乾いた唇に押し当てた。
 「おまえさんに、酔っ払いそうだな。」
 唇から匂う、酒の香りに、グレートはそう言った。
 アルベルトの、熱っぽい瞳が、水色をいっそう淡くして、グレートを見ている。
 ほんとうに酔っているのか、それとも案外素面なのか、その瞳の色からは読み取れない。熱っぽく自分を見つめてくる青年の、厚みのある体を抱き寄せてやりながら、グレートは、グラスをテーブルに置いて、それから、アルベルトの手からもグラスを取り上げた。
 呼吸も体も、瞳に負けないほど、熱く潤っている。
 赤くまだらに染まった胸元に、手を滑り込ませた。
 自分の上で、もう息を弾ませているアルベルトの、バスローブの肩を剥き出しにし、鉛色の、機械の部分に触れる。
 体温のないはずのそこさえも、掌に熱い気がした。
 「グレート。」
 かすれた声が、名前を呼ぶ。
 胸がまた重なって、唇が触れた。
 狭すぎはしないけれど、決して充分な大きさではないソファの上で、男がふたり、体を重ねる。
 アルベルトは、むしゃぶりつくように、グレートの唇を貪って、滑らかな手触りの、グレートのスーツがしわだらけになるのも構わず、自分の体をしゃにむに押しつける。
 必死さが、滑稽なほど、アルベルトは近く近く、グレートに体を寄せようとしていた。
 腰を抱き寄せて、バスローブのすそを割り、両手を、腿の裏側に添えた。
 触れるどこも、火照って、熱い。
 アルベルトが注いでくる熱さに、一点、どこか醒めた部分を残しながら煽られて、グレートは、一瞬我を忘れた。
 指を、滑らせて、伸ばす。
 馴染んでしまっている躯は、前触れなど必要はないけれど、なぜかアルベルトが欲しがっているように、与える気になれず、焦らすように、指を使った。
 ソファの背に手を掛けて、アルベルトの体が、上に反る。
 胸を反らして、けれど首を折り、小さく喘ぐ。
 両手の指を揃えて、ゆっくりと、内側を探った。
 耐える気もないらしい、声が、鼻から抜けて、甘く響く。
 ドアの外にいる、部下に聞こえているだろうかと、そんなことをちらと気にしながら、けれど指の動きを止める気はない。
 追い詰めて、落ちて、降伏するまで、責め苦は、淫らに続く。
 グレートの上で、アルベルトが、何度も肩をうねらせた。
 我を忘れているのかと思えば、喘ぐ合間に、グレートのシャツに手を掛け、それでもおぼつかない手つきで、ネクタイをゆるめ、シャツのボタンを、引きちぎる勢いで、ひとつずつ外す。
 グレートの胸に、左の掌を這わせながら、また、泣きそうに潤んだ水色の視線が、見下ろしてきた。
 深く閉じ込めた指に、アルベルトの内側が絡みつく。
 もっと、別のやり方で触れて欲しいのだと知っていて、それは、もう少し先延ばしにするつもりで、グレートはまた、焦らすように指を引いた。
 体を起こしたままでいるのが、苦痛になったのか、アルベルトは、また胸を重ねてきて、頬をすり寄せながら、舌先を差し出した。
 開いた唇で、それを受け止めてやりながら、また、指を深く沈ませる。
 舌を絡めて、声を殺す。
 うねる躯を、指の動きでそそのかし、なだめながら、もっと先を期待させる。
 きくきくとソファのきしむ音が、濡れた音の合間に聞こえた。
 「グレート・・・グレート、もう・・・」
 ねだるように、アルベルトが、グレートの下唇を、強く噛んだ。
 グレートがようやく指を外すと、アルベルトは体を起こして、グレートの下肢に両手を伸ばした。
 ベルトを外し、グレートの助けも借りずに勝手に前を開き、左手を滑り込ませようとする。
 触れたその手を、グレートが止めた。
 「はしたない。」
 一瞬、アルベルトが動きを止めたすきに、バスローブのベルトをするりと抜き取り、グレートは、かすかな微笑みを、頬に浮かべた。
 腰を抱き寄せ、一緒にソファからずり落ちると、アルベルトを、床に押し倒した。
 続きを待ちわびて、開ききった体を無防備に横たえたアルベルトの両手を、つかんで持ち上げた。
 「マナーを、忘れたのかな。」
 揶揄するように言っても、もう、耳には届かない。
 両手首を重ねて、さっき取り上げたバスローブのベルトで縛り始めてようやく、瞳が、生気を取り戻す。
 抗う言葉を口にしようとしたのか、開きかけた唇の奥の舌が、誘うように動いた。
 大きく開かせた両脚の間に、さっきまでの悠長さがうそのように、強引に、躯を押し入れる。
 アルベルトの声が、叫んだ。
 痛みのせいなどではないのは、わかっていた。
 誘うように、開いてうねる内側の熱さが、舌先よりも雄弁に、アルベルトの、声の元を物語っている。
 腕を伸ばし、縛った両手首を、頭上に縫い止めた。
 入り込んで、侵しながら、欲しがっていたものを、与えてやる。
 そうしながら、背骨の辺りが、うそ寒い、そんな気になった。
 グレートが動くたび、アルベルトの、白い指と灰色の指が、抗うようにもがく。開きかけ、また閉じかける、皓く柔らかい指のつけ根に、グレートは、血の滲むほど強く、爪を食い込ませた。
 ひくひくと、喉の辺りを引きつらせるアルベルトの、柔らかな熱さに負けて、そこにまた、熱を注ぎ込む。
 ゆるりと躯を引くと、体を隠す気遣いもなく、力の抜けた手足が、床に伸びる。
 乱れきった服を、見られる程度に整えてから、グレートは、テーブルに置かれたままの酒に、手を伸ばした。
 一気にあおると、喉を焼く熱さが、胃を通り、ふとまた、アルベルトの熱さを思い出す。
 その中に、またひたりたいと思ってから、床に体を投げ出したままの青年の方を、ちらりと見た。
 腕と体を伸ばし、自分が縛った両手首を、そっと解いてやる。
 アルベルトの、また生気のない瞳が、グレートを見返す。
 うつろなその瞳を見続けたくなくて、グレートは、濡れた唇に接吻した。
 「グレート。」
 つぶやいた唇を、軽く噛む。
 「ベッドに行こう、My Dear。」
 素直に、力なく、アルベルトがうなずいた。