「あらし」


21) I Want

 酒は元々嫌いではないから、飲み始めれば、滑らかに喉を滑る。
 ひとりで飲めば、止める誰もいなければ---グレートしかいないけれど---、つい自分の部屋で度を越す。
 飲酒運転の趣味はなく、どこかのバーでへべれけになるのも好みでなく、結局、グレートがいようといまいと、来ようと来まいと、廃工場のアパートメントにたどり着いた途端、ひとりでグラスをかたむけ始める。
 本を開き、片手には、重いグラス。
 紅茶を酒に変えて、眠くなるまで、そうして過ごす。
 時には、酒のせいの酔いもあれば、本のせいの睡魔もある。明るくなった部屋の中で、ソファの上で、朝を迎えることもしばしばだった。
 そんな朝には、体中がだるく、もうなげやりに、店に行く気も失くして、またグラスを酒の続きで満たして、ベッドにグラスとボトルと本を運ぶ。
 そんな自堕落が増え、アルベルトは、思わず昔を思い出していた。
 傷ついた体と心を、癒すための時間。体を使われること以外、何も知らなかった頭の中に、世間の常識と、生き延びるための知識を詰め込んだ時間。
 貪るように読んだ本と、片手にはいつも、誰かが、自分のためにいれてくれた紅茶。
 香りがふと、鼻先に甦る。
 まだ、グレートのMy Dearではなかった頃の、アルベルト。
 グレートだけを、見つめていた、時間。
 グラスに、自分の顔が映る。
 傷ついて、怯えていた少年は去ったけれど、まだどこかに、そっとひそんでいる。
 出して、と声がする。
 ここから出して、と、声が聞こえる。
 ここから、どこだ?
 胸を叩いて、返事を待った。
 声はなく、ただ、空ろな音が胸を満たした。


 目が覚めたのは、もう昼も近くで、相変わらずひどい気分のまま、夕べ飲み散らかしたグラスと、空になったボトルを抱え上げ、後で片付けようと、キッチンのカウンターに運んだ。
 二日酔いではないけれど、体中に古い綿が詰まったような、重苦しい気分が、爪先から頭のてっぺんまで、どんよりと漂っていて、それをすっきりさせるには、起き抜けにまた1杯、ときれいなグラスを手に取った。
 そうしてから、見渡したキッチンのどこにも、酒の入った、酒の残ったボトルがないことに気づく。
 買い置きがなかったのか、それとも夕べ、度を越して飲み過ぎたのか---おそらく両方だった---、飲める酒がないと気づけば、ふと、腹の底にわく怒りがあった。
 誰かが、理不尽に、自分を酒から遠去けようとしているのだと、脈絡のない考えが浮かぶ。
 飲めないとなれば、無性に飲みたくなる。意地になって、何が何でも飲んでやると、誰に対してか、思う。
 きっとグレートが、飲み過ぎだと言って、こっそりここに入り込んで、置いてあったボトルを、全部どこかへ運び去ったに違いない。そんな、あり得ないことまで、埒もなく考え始めた。
 神経のすみずみまで、アルコールに浸っている。真っ直ぐに上がらない頭は、考えも真っ直ぐにはならない。
 意趣返しだ、とアルベルトは思った。
 まるで、すてきないたずらを思いついた子どものように、ひとりでくつくつと笑う。
 俺に飲ませない気なら、何が何でも飲んでやる。
 電話を取り上げて、いつもとは違う番号をダイヤルした。
 低い、響くような声が、電話の向こうから返って来た。
 「ジェロニモ?」
 黙り込んだのは、声の主が、アルベルトだったからなのだろうか。
 それがおかしくて、またひとりで低く笑った。
 まだ酔いが残っているのだと、自覚できない程度に、まだ酔っているのだと、まだ酔っているからわからない。
 聞こえないほどかすかに笑い続けながら、続けて声を送り込む。
 「酒が、欲しいんだ。白ワインと・・・・・・ウォッカを、いちばん大きなボトルで。」
 否とも是とも、返事はない。
 グレートが、すぐ傍にいるのかもしれなかった。
 第一、大事な取引の最中かもしれないのに。
 けれどそれなら、今繋がっている携帯は切っているはずだと、酔ったままの頭で、比較的まともなことを考える。
 「持って来てくれ。」
 車や、外の雑音が聞こえないから、運転中ではないはずだった。
 「すぐ、無理。」
 ようやく、ジェロニモが、ぼそりと言った。
 「なるべく、早く。」
 切羽詰まった声ではなく、そう言った。
 ぷつんと、電話が切れる。
 切れた電話を見下ろして、アルベルトは、何がおかしいのか、自分でもわからないまま、ひとりでくつくつと笑い続けた。


 シャワーも浴びず、着替えもせず、気を紛らわすために、久しぶりに紅茶をいれ、アルベルトはジェロニモを待った。
 飲み過ぎだと、近頃アルベルトをたしなめてばかりいるグレートの、腹心の部下に、酒を買いに行かせる。それが、ひどくおかしな、品はないけれど、よく出来た冗談に思えて、アルベルトは、ひとりで自画自賛した。
 グレートに、ここに酒を運ぶことを言うのだろうか。それとも、グレートには何も告げずに、そっと仕事を脱け出して、こっそり、アルベルトのために、酒のボトルを抱えてやって来るのだろうか。
 そう言えば、と思う。
 あの男は、酒はおろか、煙草も吸わない。
 グレートの傍に、いつも、物静かに立っている。でしゃばらず、邪魔にならず、必要な時を素早く悟って、大きな体を静かに動かす。
 信頼関係、とアルベルトはつぶやいた。
 体を繋ぐ必要もなく、ただ、信頼だけで、関係を結ぶ。言葉は少なく、視線を交わすだけで、互いのことを理解する。
 なぜ、そんな関係を、自分は持てないのだろうかと、アルベルトは思った。
 体で繋ぐ以外の関係を、なぜ持てないのだろう。
 誰かが、自分のことを、あんなふうに信頼してくれているだろうかと、唐突に思う。
 思って、首を振った。
 誰もいない。信頼する誰も、信頼してくれる誰も、いない。
 体を繋いでようやく、アルベルトは外へ広がる。グレートを通して、あるいは、ジェットを通して。
 そうしなければ、外の世界へ、出ることさえかなわない。
 腕を失くしたことは、つまりは、外の世界への道をふさがれてしまったことだったのだと、そんなことはとうの昔に悟っていたのに。
 外の世界。
 グレートのいない世界。グレートと繋がらない世界。グレートの、肩越しではない世界。
 手を伸ばせば、届くのだろうか。足を踏み出せば、たどり着けるのだろうか。
 ふと、赤い影が、視界をかすめた。
 微笑むグレートの、ずっとあちらの向こう側に、赤い影がちらつく。まるで手招きをするように、こっちへ来いと言っているように、視界の端を、ちらちらと動く。
 でも、とアルベルトは思った。
 それが、ほんとうに、欲しいものなのだろうか。
 あの、赤い影に腕を伸ばして、そちらへ去ってしまいたいのだろうか。
 あそこにあるのも、変わりはないものだった。
 体で繋ぐ関係。信頼や、敬意や、そんなものではなく、ただ欲情の上に乗った、関係。
 そんなものが、欲しいのか。
 違う、と声がする。
 外の世界へ出たいのは、もっと、別の理由のはずだった。その理由が、うまく像を結ばない。
 どうしたいのだろう、と思う。
 うまく繋がらない思考を、必死で追い駆けながら、時折、見えた気のする、自分の心の奥底にうごめく、黒い影の形を、アルベルトは必死で見極めようとする。
 右腕が、痛んだ気がして、肩を押さえた時、ドアが静かにノックされた。
 すっかり冷めてしまった紅茶に気づいて、慌ててカップを置くと、アルベルトは我に返って、ドアの方へ足を運んだ。
 ドアを開けると、ほとんどそこを覆うようにして、ジェロニモが、アルベルトを見下ろしていた。
 電話を切ったばかりの頃の、奇妙に弾んだ気持ちは、とうに消えていて、その、咎める気配のない、ただ静かな茶色い瞳に見下ろされて、アルベルトは、いきなり自分に対して羞恥がわいた。
 身繕いさえしていない、自分の姿と、こんなことをする義理もないジェロニモに対して、自分が取った態度と、グレートに対する、申しわけなさと、そんなものすべてで、アルベルトは思わず目を伏せて、肩を丸める。
 ジェロニモは、無言のまま、茶色い紙袋に入った酒を、アルベルトに差し出した。
 かちゃんと、ガラスのボトルが触れ合う音がして、ジェロニモが抱えていれば、そう大きくは見えない、その重い手応えが、腕にずしりとのしかかる。
 ちらりと中身をのぞくと、どうやら、グレートがいつも好んで飲む銘柄だと知れた。
 こんなふうに、こんな男に忠誠を誓われているグレートに、ふと嫉妬がわく。こんな自分に対してさえ、なげやりな態度は決して取らないジェロニモの、グレートに対する敬意の深さを、心底うらやましいと思う。
 自分には、決してないもの。得ることもなく、与えることも、ないもの。
 「・・・ボス、会う、今夜、来る。」
 黙り込んで、うつむいているアルベルトを、慰めるつもりなのか、ジェロニモが、ぼそりとそれだけ言った。
 「ああ・・・」
 ようやく目を上げ、うなずいて見せてから、照れて笑えるほどの余裕を取り戻した。
 また、ボトルが、かしゃんと音を立てる。
 それを抱え直した時、ジェロニモが、立ち去るために、一歩後ろへ下がった。
 こちらに横顔を向けながら、またぼそりと、言葉を落とす。
 「体、大事。」
 視線を一瞬泳がせ、気づかわれているのだと気づくまでに、数拍かかる。
 思わず、反射的に、うなずいていた。
 「明日は、ちゃんと、店を開ける。」
 つっかかりながら、それだけ言うと、ジェロニモが、かすかに笑みを浮かべて、うなずいた。
 ドアをまだ閉めずに、壁の向こうへ消えたジェロニモの姿を、見えない視線で追う。耳は、足音を追った。
 気づかいは、つまりはグレートへの好意だと、ぬくもりかけた自分の心を戒める。
 グレートのいない自分は、誰でもない。グレートに繋がらない自分は、存在すらしない。透明な自分を嗤う声が、どこかで響いていた。


 ジェロニモにそう言った通り、翌日、珍しく定刻に店を開け、どこかほこりくさい店の中を、昼までかかって、きれいにした。
 久しぶりに、店に入る陽の光の明るさに目を細め、今日は、酒も飲まずに眠れそうな、そんな予感がした。
 忙しく体を動かして、ただ、何も考えずに、目の前にある雑事を片付ける。
 書類に目を通し、放り出したままでいた用件に、思い立って手をつけ、もう一度きっちりと、在庫の確認をやり直した。
 書類の不備とミスを見つけて、腹を立てるより、笑い出した。
 つまらない失敗は、心ここにあらずだった自分の姿を浮き彫りにしてくれて、そんな自分の姿を、過去のものとして、笑い飛ばせる自分がいる。
 今日は、いい気分だった。
 グレートの都合が良ければ、張大人の店に、久しぶりに行ってみたいと、ふと思った。
 素面で夜を過ごす。近しくないことだった。
 できれば、あの黒のボルボで来てくれと、頼んでみようか。そうすれば、ふたりきりになれる。ボディーガードの無粋な視線を気にせずに、グレートの肩に頭を乗せて、思う存分甘えられる。
 今日は、できれば一滴も酒は飲まずに、グレートを夜を過ごせればと思った。
 グレートの、細やかに動く掌と指を思い出して、ふと、躯の底が、暖かくなる。早く夜になればいいのに、と思う。
 熱い躯を分け合って、酒ではなく、互いに酔う。汗と、皮膚と、けじめもなく。
 それから、冷えた体を寄せ合って、眠る。安らかに。
 グレートが、朝早くに仕事がないなら、久しぶりに、グレートの好きなやり方で朝食を作ろうかと、そんな空想を楽しんでいた。
 その朝食のために、冷蔵庫の中身を、手元の書類を見ながら、思い出していた時、からんと、表のドアが開いた。
 なごんでいる表情のまま、顔を上げ、それから、そこに立つ、長身の赤い髪の青年を認めて、アルベルトは、舌を喉の奥に張りつかせた。
 認めた瞬間、声よりも、表情よりも、体が先に動いていた。
 前に伸びて、泳ぐ腕を追いかけるように、カウンターから走り出ていた。
 まるで、それが、一瞬の戸惑いの間に、永遠に消え去ってしまう幻であることを、知っているかのように、アルベルトは、意識もない素早さで、その、ひょろりと背高い体に、抱きついていた。
 飛びついてきたアルベルトの体を、少しよろけて受け止めて、左腕が伸び、なだめるように、あやすように、背中を叩く。
 ジェット、と、声もなく名前を呼んだ。
 不意に、泣き出しそうになりながら、かろうじてそれを耐えて、抱きしめている体が、幻でないことを確かめるために、両腕に力を込める。
 左手が、右腕を、優しく撫でた。
 硬い、冷たいその腕の感触を、シャツの上から、懐かしむように、いとおしむように、ジェットの掌が、動く。
 ジェット、と今度こそ、声に出して、名前を呼んだ。
 それから、いきなり思い出して、体を離す。
 「・・・腕は、もういいのか?」
 見上げたジェットが、唇をねじ曲げて笑った。
 「腕? ああ、腕か。」
 ジーンズのポケットに、両手を差し入れて、軽く肩をすくめて見せる。
 まだ、唇は、ねじ曲がったままだった。
 「大したこと、ねえ。」
 言葉の間が、かすかに引っかかる。奥歯にもののはさまったような、ジェットには珍しい、どこか含んだ口調だった。
 それを訝しみながら、けれど、久しぶりに見るジェットの無事な姿に、アルベルトは、今は問うのをやめようと、さっきとはまた違う、うれしそうな笑顔でジェットを見上げていた。
 「アンタ、少しやせたな。」
 頬に、指が滑る。
 さらに高く浮き出るようになった頬骨を、折り曲げた指で撫でられ、アルベルトは、思わず肩が震えるのを止められない。
 その手をつかんで、口元に引き寄せたい衝動に、必死で耐えた。
 耐えながら、ジェットが、いつものあの身勝手さで、強引に抱き寄せてくれないかと、勝手なことを思う。
 こちらの都合などお構いもなしに、物陰に引きずり込んで、力任せに押しつけてくる体の重みを、ひどく恋しいと思った。
 思って、また、グレートのことを思い出す。
 今回は腕ですんだけれど、次は一体どうなるか、アルベルトにもわからない。2度目があった男など、今までいなかったから。
 引き寄せるべきではないのだと、思った。思いながら、それでもまた、抱きしめていた。
 欲しいと言ったら、この男が欲しいと、素直にそう言ったら、グレートは、どうするのだろう。
 あんたも、この男も、選べない。選びたくない。
 両方欲しがれば、欲張りだと、叱られるのだろうか。それともグレートは、ほんとうに怒るだろうか。
 唇を、誘うように、軽く開いて見上げても、唇を落としに来る気配はない。
 ジェットはただ、どこか悲しげに、アルベルトを見下ろすだけだった。
 それを物足りなく思いながら、店ではよせと何度も言ったのは、自分だったと思い出す。
 誰かが入って来て、ふたりを見てどう思うか、今は埒外だったけれど。
 またジェットの左腕が、アルベルトの右腕に触れて、それから、背中に回った。
 「・・・アンタに、頼みがある。」
 耳元で、まるで、睦言のように、ジェットが囁いた。
 肩に頬をすりつけながら、何だ、と、ひどく甘い声で答える。
 背中を、ジェットの掌が撫でていた。
 「あしたの昼間、会ってくれるか・・・?」
 「昼間?」
 時間の意外さに、思わず声をかすかに尖らせて、顔を上げる。
 ジェットの瞳が、見つめていた。ひどく渇いた瞳だった。
 何かが、変わってしまっている。あの、燃え上がるような淡い緑の瞳は、今は、一刷け、暗さを増している。底光りする、どこか背筋に寒気のする、凄惨な暗さが、瞳の奥に見え隠れする。
 誰かと似ていると思いながら、思い出せないまま、ああ、とうなずいていた。
 「あしたの午後、ここに、また来る。」
 右肩に、手を乗せて、ようやくジェットが、にっこりと笑った。
 笑いながら、目元が笑っていなかった。
 瞳に、金色の光が走る。一筋のその光に、アルベルトは目を細める。
 仕事をする時の、グレートと、同じ笑い方をすると、思った。
 いやな予感を振り払うように、また、肩口に顔を埋める。
 笑い方だけではない。似ていると思ったのは、グレートの瞳だと気づいて、それに気づかないふりをするために、アルベルトは、ジェットの首筋に、そっと唇を寄せた。コロンを使わない、汗の匂いがした。