「あらし」


22) In Silence

 その夜、アルベルトがねだった通り、グレートは黒のボルボに、ジェロニモだけを乗せてやって来た。
 これもアルベルトが言った通り、ふたりで張大人の店へ行き、珍しく時間の大半を同席して過ごした張大人と、グレートがまた、仕事に関係した話をしている間、アルベルトは、椅子を近くへ寄せ、グレートの肩に頭を預け、グレートの膝の上で、その手に触れて、目を閉じていた。
 口を開くたびに、かすかに揺れる肩に、まれに頬をすりつけると、気遣うように自分に落ちかかってくるグレートの、暖かな穏やかな視線を感じながら、ひどくくつろいで、グレートの傍にいた。
 料理が運ばれてきても、ほとんどグレートの手は離さず、グレートが、冗談交じりに差し出したフォークに噛みつくと、張大人が、声を立てて笑った。
 グレートは、張大人と老酒を少し、アルベルトは、それには手を伸ばさず、香りのいい中国茶だけを飲んだ。
 ジェロニモは、頼まれてアルベルトに酒を運んだことを、グレートに告げたのか告げていないのか、アルベルトを見ても表情ひとつ変えず、いつもと一向に変わらない態度で、食事を終えて店を出て来たふたりのために、黙って車のドアを開けてくれた。
 たどり着いたベッドの中で、ほとんど言葉も交わさずに、何度も何度も口づけを繰り返す。
 舌の絡まる音だけを聞きながら、目を閉じて、アルベルトは、グレートの薄い体を抱きしめた。
 煙草と、かすかな酒の匂い。それから、いつもつけているコロンの香り。
 慣れ親しんだ、ぬくもったシーツの間にこもる、ふたり分の体臭。
 掌が触れ、掌で触れた。
 いとおしむように、右腕と右肩を撫でられて、アルベルトは、うっとりと目を閉じる。
 グレートを、昨日よりも愛していると、思った。
 ジェットに、また会えたからこそ、ジェットがまだ、自分の身近にいるのだと思うからこそ、グレートへのいとしさが増した。
 胸をすり合わせながら、それを示すために、グレートの鎖骨のくぼみに、そっと舌を這わせる。
 空の自分を満たしてくれる、柔らかな暖かさ。
 膝の間に、グレートの手が滑り込む。
 それから、体全体が、落ちかかってくる。
 繋がればいつも、考える前に、躯が添う。
 そう、なっている、躯。
 そう、されている、躯。
 誰のためでもなく、グレートのために。グレートのために、ある、躯。
 グレートのための、アルベルト。
 My Dearと、囁かれてから、アルベルト、と名前を呼ばれた。
 目を開け、自分の上で、ゆっくりと体を揺らすグレートを、見つめた。
 はしばみ色の瞳の、色は今は見えず、その底に、時折揺れ走る、ナイフの光も今はない。
 けれど、そこに映る自分の姿は、見えなくてもわかる。見える必要などないほど、何度も、何年もの間、見続けてきたから。
 そこにいる自分を、グレートの瞳の中に閉じ込められた小さな自分の姿を、ほんとうの自分だと思った。
 それが、グレートの、My Dearであるアルベルトなのだと、そう思った。
 また、唇を重ねる。
 開いて、誘い込みながら、けじめもなく、躯を交じり合わせる。
 こうすることで得られる安堵は、もう、体に染みついている。存在するとさえ、知らなかった、安心感。包まれて、守られる心地良さ。ぬくめられて、熱を注ぎ込まれ、交じり合うその熱の中で、我を忘れる。忘れた先に、相手の顔が見える。
 行って、また戻ってくる。
 ふたりきりで積み上げてきたこの場所に、ジェットを招き入れること、あるいは、ジェットとふたりきりで、アルベルトが、また別の世界を構築すること、それを、グレートが許すだろうかと、ふと思った。
 グレートもジェットも、両方欲しい。選びたくない。どちらも失いたくない。
 もし、とアルベルトは思った。
 グレートが、もし、またジェットに危害を加えるなら、それを守ろうと思った。
 ジェットに、手出しはさせない。ジェットを守るのだと、そう思った。
 守られてきた自分が、守るもの。
 ジェットの瞳の中に映る自分の、小さな姿を思いだそうとして、思い出せなくて、焦れた。それから、次の時は、しっかりと目を見開いて、自分を上から見下ろすジェットの瞳の中の、自分の姿をよく憶えておこうと、そう誓う。
 ふっと微笑んで、アルベルトは、グレートの耳に噛みついた。


 翌朝、グレートより、少しだけ早く目を覚まして、そう自分で計画した通り、まずは紅茶をいれ、それから、朝食を作った。
 ベーコンが、フライパンに並ぶ少し前に、むっくりと起き出したグレートが、キッチンへやって来て、後ろからアルベルトを抱きしめた。
 「おはよう、My Dear。」
 少し背を伸ばして、首の後ろに口づけられ、振り向いて、頬骨の辺りにキスを返す。
 ふたりとも、そうと口にはせず、互いの上機嫌に、さらに機嫌を良くしていた。
 じゅうじゅうと音を立てるベーコンが、かりかりに近く焼き上がる。卵を3つ分、スクランブルで、ふたりで分けた。薄いトーストに、バターを塗りすぎないように。
 大きな皿を前に置くと、グレートが、また腕を伸ばして来た。
 「ありがとう、My Dear。」
 伸ばされた首に、顔を落として、また唇を触れ合わせる。
 こんな朝が、もっとあってもいいなと思いながら、アルベルトは、自分の皿を置いて、椅子に坐った。
 酒を飲まなかった24時間のせいで、頭も体も軽い。酒の匂いのない呼吸で、朝が、久しぶりに朝らしい。
 午後にジェットに会うことを考えながら、幸先のいい朝だと、ひとりで思った。
 「今日は、また仕事だろう?」
 グレートが、皿から顔を上げた。
 「家に戻って、一眠りしてから、午後から人に会う。例の店の、支配人候補だ。」
 「ああ、誰か見つかったのか。」
 グレートが、支配人代理をしている、ダウンタウンの、グレートが関わっている中では、いちばん大きな店だった。
 「骨を折られずにすみそうな、そんな感じか?」
 少し茶化して訊くと、グレートが苦笑いをもらす。
 「さあな、会って、話をして、雇うにしても、しばらくは目が離せん。」
 また、しばらく忙しいと、言葉の外に聞こえた。
 夕べ、アルベルトのわがままを全部聞いてくれたのは、そのせいかと思って、ほんの少し淋しくなる。
 それでも、グレートはどこにも行かないのだと思った。目の前から、何があっても、姿を消すことなどあり得ない。いつまでも、ずっと、傍にいてくれる。
 だから、と思った。
 きっと、言葉をつくして話せば、わかってくれるだろう。ジェットを欲しいというアルベルトを、おそらく、受け入れてくれるだろう。
 いずれ近いうちに、ゆっくりと話をしよう。
 まだ、ベーコンの油のついたままの唇を、グレートの方へ寄せた。焼いた卵の匂いのする唇に、音を立てて、軽いキスをした。


 アルコールの抜けた、すっきりと軽い頭で店を開け、また、たまっていた雑用を、てきぱきと片付けた。
 午後に来ると言ったジェットを待ちながら、ひとりで考え始めた途端に、また、あのジェットの瞳の暗さに、心が飛ぶ。
 グレートといれば、跡形もない不安が、また、ぞろりと頭をもたげ始める。
 ほんのかすかな不安。あの瞳の暗さが、どうしても解せない。
 あれは、どこかへ、理不尽に突き落とされた人間の目だった。突き落とされた穴の底で、ひとりでもがいて、あがいて、苦しんで、自分の運命を呪ったことのある、人間の目だった。
 グレートが何をしたのか、今日、ここへ来たら訊こうと思った。
 見えるどの場所にも、傷も痕もなかったように思う。腕を折っただけというのは、ほんとうだろう。もちろん、そうする前に、散々殴られたに、違いないけれど。
 もっと、ひどい目に遭った男たちがいると言えば、ジェットはどんな顔をするだろうか。
 自分に与えられた暴力が、信じられないほど慈悲深いものだったと思うのか、それともまた、グレートにそうさせたアルベルトを、淫売呼ばわりでもするのか。
 自分のせいだと知っていて、それでも、その程度ですんで良かったと、言ってやりたい気もする。
 一緒にいてくれと、言うつもりでいた。
 グレートが、自分を手放すはずはない。けれど、ジェットと、一緒にいたい。
 だから、グレートに、受け入れてくれるように、言うから、それを、受け入れてくれるかと、訊くつもりでいた。
 ふたりともが、欲しい。どちらも、選べない。選ばせないでくれと、そう言うつもりでいた。
 守るから。俺が、守るから、だから、傍にいてくれ。グレートにはもう、何があっても、手出しはさせない。そう、誓うつもりでいた。
 グレートに痛めつけられ、おそらく、もう二度と会わないと、約束させられたに違いなく、それでも、自分の目の前に再び現れたジェットの、想いの強さに、アルベルトは、今度こそ真摯に、真正面から応えようと思った。
 好きなのかと問われれば、そうだと、即座に答えられる確信は、まだない。
 けれど、欲しいと、思う。失いたくないと、そう思う。
 今度こそ、その手を絶対に離さないと、アルベルトは、口の中でつぶやき続けた。


 昼を過ぎても、事務所にこもったまま、ずっと書類の整理をしていた。
 いつものように、客はひとりもなく、店のドアがからんと音を立てたのは、ジェットが入って来た時だけだった。
 意味もなく、壁にかかった時計を仰ぐと、ちょうど2時になる頃で、グレートがそろそろ、支配人候補とやらに会う時間だろうと、ふと思った。
 ジェットは、昨日と変わらず、奇妙に無口で、口元だけでアルベルトに笑いかけ、裏口に向かってあごをしゃくった。
 出ようと言われているのだと悟って、ジェットを待たせて店を閉め、とりあえず車のキーを持って、外へ出た。
 「どこへ行くんだ。」
 車の方へ歩きながら、肩を並べたジェットにそう訊くと、アルベルトの方を見もせずに、
 「アンタんとこ。」
 短く、吐き捨てるように、ジェットが言った。
 少しだけ、ほんの少しだけ驚いて、アルベルトは思わず頬を薄く染める。
 ああ、そういうことかと思って、グレートが、朝までいた気配が、あからさまでないだろうかと、部屋の中のことを思い出そうとする。
 着いたら、ジェットを外に待たせて、点検した方が良さそうだった。
 ベッドのシーツは、替えた方がいい。思いながら、車の中に滑り込んだ。
 助手席で、肩にあごを埋めるように首を縮め、ジェットはひどくおとなしかった。
 ほとんどしゃべりもせず、久しぶりに会ったというのに、アルベルトに、触れようともしない。
 まだ、体のどこかが痛むのだろうかと、アルベルトは、ちらちらと隣りのジェットを何度も見た。
 「・・・右腕を、折られたって、それだけだったのか。」
 ジェットが、うっそりと首を動かして、アルベルトの方を見た。
 すっと細めた目に、鋭く光が満ちた。
 「いやってほど殴られた。顔には、ほとんどさわりもしねえで、もっぱら腹と背中と・・・」
 低い声で、中途半端に答えて、また、黙り込む。
 沈黙が、痛みをともなって、頬の辺りを刺した。
 言葉ではなく、何かが伝わってくる。ジェットが切った言葉の続きを待って、アルベルトは、ひっそりと焦れていた。
 アルベルトの、必死で先を促す視線に気づいたのか、ジェットが、顔を動かさずに、ちらりと視線だけ流して、
 「後で話す。先にアンタん家に行こうぜ。」
 そう言われて、それ以上、今問い詰める気も失せ、アルベルトは、唇を結んで前を見た。
 腹を立てているのだろうと思った。理不尽に痛めつけられて、二度と会うなと脅されて、その原因になったアルベルトと、それでも、会わずにいられない自分自身に、腹を立てているのだろうと、アルベルトは思った。
 暴力に晒された、思いがけない自分の脆さと、アルベルトをそれでも断ち切れない自分の弱さと、そんなものに、腹を立てているのだろうと、思った。
 当然だ、と思って、アルベルトは唇を噛んだ。
 もう、そんなことは、二度と起こらない。絶対に。
 右手を、そっと伸ばした。
 窮屈そうに折れたジェットに膝に、アルベルトは、黒い革手袋の右手を、静かに置いた。
 びくんと、ジェットの膝頭が上がる。
 思わず手を引くと、少しだけ血の気の失せたジェットの、いっそう白い横顔が見えた。
 ちらりと視線が流れ、探り合うような視線が、そろりと絡む。
 ハンドルから離した手を、少しだけさまよわせて、アルベルトは、精一杯の気力で、その手をジェットの膝に戻した。
 今度は、何の反応もなく、その手を振り払うこともなく、ジェットの膝は、おとなしいままだった。
 膝の骨の形を、革越しに感じながら、アルベルトは、車を、廃工場の駐車場に入れた。
 少し名残り惜しげに、膝から持ち上げたその手を、ジェットがいきなり握ってくる。
 停めた車の中で、ふたりはまだ動かずに、握り合ったその手を、見つめていた。
 そのまま引き寄せられることを期待して、アルベルトは、車のドアにさえ触れずに、ジェットが動くのを待った。
 ジェットは、右腕を伸ばして、車のキーを引き抜くと、ほんの一瞬、アルベルトを強く見つめた。
 ひどくせつなそうに、アルベルトを見ていた。
 その唇に、接吻しようと、そう思った瞬間、するりと視線が外れ、握っていた手も離れた。
 ドアを開けて、ジェットが車の外へ出る。その、丸まった背中を見て、慌ててアルベルトも、車を出た。
 「・・・会わなかった間、アンタ、少しはオレのこと、思い出してたのか・・・」
 アルベルトのために、開けたドアを押さえて、ジェットがぼそりと言った。
 ドアを閉めるジェットを振り返りながら、ようやく口を聞いてくれたと、思わずほっとする。
 肩を並べて階段を上がりながら、ジェットを真っ直ぐに見上げて、アルベルトは、ああ、とうなずいた。
 「・・・二度と、姿を現さないと、思ってた。」
 ジェットが、鼻先で笑った。
 「アンタに会いたくても、動けなきゃ、会いにも行けねえ。」
 階段を上がり切ったところで、ジェットを見上げたまま、足を止めた。
 動けない。どういう意味だ。
 怪訝そうに眉を寄せたアルベルトを見下ろして、ジェットが、唇を歪めた。笑ったのだと悟るまでに、数瞬かかる。その数瞬の間に、ジェットの表情が、いきなり怒りをあらわにする。
 笑いに歪んだ口元と、吹き出した怒りに見開かれた瞳の対比に、アルベルトは、一瞬視線を奪われる。
 それから、気配がした。
 男が3人、アパートメントのドアの前に立っていた。
 黒人がひとり、後のふたりは、メキシコ人かプエルトリコ人か、ヒスパニック系の顔立ちだった。
 ぞっと、背中に寒気が走る。
 ジェットが、長い腕で、アルベルトを抱き寄せた。
 「オレが何されたか、教えてやるよ。」
 耳元で、囁かれた声は、なぜか、ベッドの中で聞くジェットの声に、そっくりだった。
 突き飛ばされた体に、男たちの腕が伸びてくる。
 絡みつく、何本もの腕に引き寄せられながら、アルベルトは、叫ぶことさえ忘れていた。