「あらし」
24) Another Place
眠りに落ちることもなく、泣き続けて、夜を迎えた頃、ようやく、バスルームに重い体を運んだ。
目立つところに、傷も跡も見えなかったけれど、ぬるいシャワーさえ、両脚の奥に、ひりひりとしみた。
鉛そのものになってしまったような、体の重さとだるさに、起こったことを反芻して、初めて吐き気がこみ上げる。
目の前に浮かぶのは、つるつると奇妙に光る、ジェットの、下腹の皮膚だけだった。
ろくに体も拭かないまま、バスルームを出て、バスローブだけを身に着けて、そっとソファに横たわる。
誰にも会わずに、ただ眠りたかった。
眠って、それから、混乱した頭の中を、整理したかった。
今は、誰にも会いたくない。グレートに、さえも。
ジェットがまた、ここへやって来るかもしれない。
街を出るべきだと、不意に思った。
2、3日でいい。少なくとも、眠って、体が元通りになるまで。どこかに隠れて、眠りたいと思った。誰にも会わずに、眠りたいと思った。
国道沿いを走れば、小さなホテルが並んでいる場所が、必ずある。
どこでもかまわないと思いながら、あまり近いと、グレートを知った顔に会うかもしれないと、思い直して、さらに車を走らせた。
こんな深夜には、車の通りもほとんど途絶えている。
薄暗い車中で、アルベルトは、不意に、ハンドルを握る右手が、剥き出しなことに気がついた。
手袋をし忘れたのだと思って、一瞬動揺しかけてから、気持ちが悪いと言った、あの黒人の男の声が、耳の奥に甦った。
生身でない、冷たい灰色の手を、あの3人の男たちは、それぞれ勝手なやり方で楽しんではいたけれど、それでも、日常に、こんな手を見れば、まずは嫌悪の表情を浮かべるに違いなかった。
掌の上に、ジェットの熱を、思い出しかけて、アルベルトは、慌てて頭を振った。
今は、何も考えるな。
そう、自分に言い聞かせながら、明かりの少ない広い道路を、ただ真っ直ぐに走ることだけに、心を傾けようとする。
やや大きめの街に近づいて、そこのダウンタウンに向けて、国道を下りた。
むやみに車を走らせるうちに、比較的明るい、大きな道路沿いに、背の高い建物を見つけた。
フロントデスクの人間が、きちんと制服を着て、客に向けるべき笑顔を知っている類いの、大きなホテルだった。
入り口の明るさに引き寄せられるように、車を駐車場に入れ、アルベルトは、小さな鞄---ほんの少しの着替えと、酒のボトルしか、入っていない---を手に、ガラスのドアを押す。
女と男がひとりずつ、フロントデスクから、アルベルトに視線を向けた。
女の前に立つと、小さな紙に、ペンを添えて差し出され、名前と住所を書いてくれと言われた。
ペンを見下ろして、戸惑いながら、10数えた。それから、深呼吸をして、右手を、上着のポケットから出した。
女が、ふっと息を飲んだのがわかる。
手元だけを見つめて、ただ、気配だけを感じていた。
女の様子に気づいて、男も、そっと盗み見る視線を投げてくるのがわかる。
顔を上げる前に、鈍感なふりの微笑みをつくった。
丁寧な仕草で、わざわざ、紙とペンを、右手で女の方へ差し出してやった。
部屋を取る手続きの間、その右手からは、さり気なく視線を反らし、そう訓練されているのか、きちんと好奇心を消した笑顔で、女は、部屋のキーをアルベルトに手渡してくれた。
そのキーを、右手で受け取る時に、アルベルトはわざと、女の手に、指先を触れさせた。
キーが、完全に手の中へ収まるより一瞬早く、女の手が、怯えたように、引き戻される。
気持ち悪いと言った、男の声が、また耳の奥に甦った。
キーをしっかりと握りしめて、アルベルトはにっこりと笑って、ありがとうと女に言った。
向けた背中を、小さな囁きが追い駆けてくる。
足を引きずりながら、そのかすかな声を、足音に消した。
エレベーターにも廊下にも、誰の姿もなく、同じ表情ばかりのドアの中から、与えられた部屋を見つけ、その、清潔で無個性な空間に足を踏み入れた途端、アルベルトは、体中の力が抜けるように思った。
足元から崩れそうになりながら、ドアの外に、"Don't Disturb"のサインを出し、鍵だけは閉めて、床に服を脱ぎ散らかしたまま、ベッドにもぐり込んだ。
誰の匂いも、気配もない、ベッドの中に、傷ついた体を、小さく丸めた。
誰もいない。誰もやって来ない。自分を傷つける誰も、自分を守ってくれる誰も、ここにはいない。
清潔で、無個性な眠り。人の気配のない、恐ろしいほどの静けさ。
怯えながら、アルベルトは目を閉じた。
ひとりを望んでいたけれど、ひとりは、今はつらすぎた。差し伸べてくれる腕が、欲しかった。抱きしめられたいと思ったけれど、それが一体誰の腕なのか、自分でわからないことが、ひどく悲しかった。
右腕を胸の前に回し、それから、左手で、そっと撫でた。
気持ち悪いと、あの男は、そう言った。
そうか、と思いながら、その右腕を、ずっと撫で続けた。
撫でながら、眠りが訪れるまで、泣き続けた。
部屋からは一歩も出ず、目が覚めれば、持ち込んだ酒で眠りを誘い、アルベルトは、眠り続けた。
眠りに訪れるのは、様々な悪夢だったけれど、それでも、誰に対する憎しみもわかず、あるのはただ、哀しみだけだった。
何が哀しいのか、もうわからないまま、自分の気持ちを持て余して、このまま、どこかへ消えてしまおうかとさえ、ふと思う。
痛みがやわらぎ、涙が止まり、気持ち悪いという、あの声が夢の中に聞こえなくなったのは、3日目の午後だった。
窓のカーテンを開けて、明るさに目を細めてから、外へ出ようと、不意に思った。
外へ。人のいるところ。明るいところ。騒がしいところ。
熱いシャワーを浴びて、身支度を整えて、久しぶりに人間らしさを取り戻して、体のずっと奥に、かすかに飛び跳ねるような、そんな感覚がある。
外へ出ろと、体の底から声がした。
声に従って、ドアを開けて、3日前よりも軽い足どりで、ホテルのロビーに下りて行った。
明るさの中で、自分ひとりが、灰色の影のような、そんな気がする。それでも、内側からの声に押されて、忙しげなフロントデスクに、足を運んだ。
初めて見る顔が、にっこりとアルベルトに笑いかける。
「この街で、いちばん大きなショッピングモールは、どこだろう。」
笑うと、口元が、ぱりぱりと音を立てそうな気がする。
若い男は、手元から、小さなリーフレットを取り出して、アルベルトに開いて見せてくれた。
この街の名前が書いてあるそのリーフレットには、簡単な街の地図と、レストランや店の名前を並べたリストが刷られていた。
「すぐそこです。」
ドアの方を指し示した指先が、ホテルの、少し南の方向を指した。
左手でリーフレットを受け取り、ありがとうと言い残して、アルベルトはホテルを出た。
車に向かいながら、その地図を眺めて、行く先を確かめた。
言われた通り、目指すショッピングモールは、車で5分もかからない位置にあり、巨大な駐車場には、車があふれていた。
目的があるわけではなく、ただ、人の多いところと言えば、こんなところくらいしか思いつかなかっただけだった。
それでも、人波と車の波を眺めるうち、見続けた悪夢を、ふと忘れかける瞬間がある。
剥き出しの右手も、今日は、それほど気にならないように、思えた。
手袋くらいなら、どこかで見つかるかもしれない。
大きな、背の低い建物の周囲をぐるりと回りながら、外から見える店の名前に、素早く目を走らせる。男物の服を売る店くらいは、ありそうに思えた。
鮮やかな色と、明るさに、外の世界は満ちている。
人たちは、並んで歩きながら、互いに笑い合っている。
こんな日常もあるのだと、いきなり思う。
思いながら、おまえには無理だと、声がする。
奇妙にはしゃいでいる自分がいる。
顔の皮膚だけが、必死に笑っている。神経が、ぴりぴりと尖っていて、痛いほど、張りつめている。痛みは確かにそこにあるのに、まるで、麻痺したように、無感覚になっている。どこか別の場所から、自分を見下ろしている、もうひとりの自分がいる。
まだ、夢を見ているのだろうかと、そう思ったけれど、確かめる術はなかった。
モールの裏へ回ると、道路を隔てた向かいに、さら別の建物があった。
時間をつぶすつもりで、そちらに車を回すと、その大きな建物が、巨大なペットショップなのだと知れる。
そんな場所に足を踏み入れたことなど、一度もない。
おもしろそうだと、はしゃいでいる自分が思って、店の前に車を駐めた。
店の中は、見上げるほど天井が高く、広々と明るかった。
そういう店なのか、犬を、引き紐に繋いで、一緒に連れている客がいる。
驚いて、思わず足を止め、そんな自分に、怪訝そうに振り返った犬に、意味もなく笑いかける。
時間だけはあるのだと、店の端から眺めることにした。
右手の、いちばん壁際に、ガラス張りのスペースがあり、その中に並んだ小さなオリには、さまざまな猫が入れられていた。
大人の猫ばかりで、どうやら、保健所から送られてきた、引き取り手を探している猫なのだと知れる。
ガラスに額を寄せ、中をのぞき込んだ。
それぞれのオリの前には、小さな紙片がぶら下がっていて、目を凝らすと、猫の名前や年齢、性別などが記してあるのが読めた。
どの猫も、淋しげな目でこちらを見て、中にはオリの間から、前足を静かに差し出す猫もいる。
ここから出してくれ、連れて行ってくれと、上目の、その色とりどりの瞳が言っていた。
ふと、ジェットの、淡い緑の瞳を思い出す。思い出して、今は忘れるために、強く首を振った。
ガラスに、かちんと、右の掌を添わせた。
その手が、鉛色で、生身でないことに、気づかないのか、気にしないのか、猫たちは、相変わらず視線も反らさずに、アルベルトを見つめ続けている。
もしかすると、自分をここから出してくれる人間なのかもしれないと、期待を込めた瞳で、同時に、そんなことは起こらないさと、あきらめをたたえた瞳で。
その猫たちに重なるのが、一体ジェットなのか、自分自身なのかわからず、わかりたくないと、そう思って、アルベルトは、引き剥がすように、ガラスの前から、一歩引いた。
もう1分長くいれば、右手で、そのガラスを叩いて、割ってしまいそうな、そんな気がした。
怯えたように、肩を震わせて、くるりときびすを返す。
わざと、大きな歩幅でその場を去ると、真っ直ぐに進んだところに、今度は、鳥がいた。
ずらりと、空の鳥かごが並んだその場所に、ガラスで囲んだ空間があり、中におさめた鳥かごの、その中に、さまざまな鳥が、閉じ込められていた。
さえずりが、ここまで集まれば耳に痛いほどで、アルベルトは顔をしかめ、それでも、好奇心で、ガラスの周りを、ゆっくりと回る。
動物に興味はないので、どんな種類の、どういう鳥か、まったくわからない。羽根の色がきれいだと、そう思うだけだった。
アルベルトの親指ほどの大きさの、真っ赤な鳥がいた。似たような見かけの、真っ青な鳥もいた。
その色の鮮やかさに目を奪われて、こんな鳥も、ある場所では、外を飛び回っているのかと、不思議な気分になる。
外で生まれたのに、飼われるため、あるいは売られるために、捕らえられて、かごに入れられる。かごの中に慣れてしまえば、もう、外へは戻れない。
飛ぶための羽根を、もう、一生使わないまま、かごの中で、短い一生を終える。
そんな生き方も、確かにあるのだ。
飛ぶ力を持ちながら、飛ぶために生まれてきながら、飛ばずに、その力を使わずに、あるいは、その力を奪われて、死ぬまで、閉じ込められた空間だけを世界にして、一生を過ごす。
鳥は、空を飛ぶはずの、生きものなのに。
視界が、歪んだ。
体が傾いたような気がしたけれど、足も肩も真っ直ぐに、揺らいでもいなかった。
その、真っ赤と真っ青の、小さな鳥を交互に見ながら、アルベルトは、すうっと、背筋を走る、冷たいものを感じた。
飛ぶのが、鳥なのに。飛んでこそ、鳥なのに。
これは、鳥じゃない。
鳥じゃない。知らずに、口に出していた。
飛ばない鳥は、飛べない鳥は、鳥じゃない。
握りしめていた右手を、そっと持ち上げて、目の前で開いた。
機械の掌を眺めて、グレートに電話をしようと、そう思った。
人間らしい食事をすませ、久しぶりの紅茶に舌を焼いて、暗くなる頃、ホテルに戻った。
はしゃいでいた自分は、外へ出たことに満足したのか、今はひどく静かに、絨毯を踏みしめる足元だけを見つめいてる。
どこか、すべてに現実味がない。
輪郭のぼやけた世界に、体を滑らせながら、これは夢だろうかと、何度も思った。
夢でないと自覚するのは、右手に向けられる好奇の視線を、はっきりと感じる時だけだった。
ふっと意識が遠のく刹那、自分がどこにいて、何をしているのかさえ、わからなくなる。
それでも、体だけはきちんと動いて、ここまで戻ってきた。
夢ではないのだと、何度も言い聞かせながら、ベッドに坐って、電話を取り上げた。
夢の中でさえ、間違えることのない番号を、ゆっくりと頭の中で繰り返した。
ぷつっと音がした瞬間、期待していなかった声が聞こえる。
「ボス、今、忙しい。後、掛け直す。」
「ジェロニモ?」
向こうで、声が黙り込んだ。
「・・・ボス、心配してる。」
「連絡せずに、悪かった。」
声が、つい低くなる。
がさがさと音がしてから、グレートの声に変わった。
「おまえさん、どこにいるんだ。」
咎める調子ではなく、まるで、家出をした子どもから、ようやく電話をもらった親のように、心配だけを込めて、グレートの声が、向こう側から響いてきた。
「ちょっと、考えたいことがあって・・・街の外にいる。」
「・・・ならいい。連絡がつかなくて、少し心配してた。」
「悪かった。」
素直にそう言うと、向こうで、安堵の吐息をこぼした音が聞こえた。
目を閉じて、グレートの気配を、自分の中に満たそうとする。
閉じたまぶたの裏に、あの、真っ赤と真っ青な鳥の姿が、並んで浮かんだ。
「グレート、もし俺が、あの本屋をやめたいって言ったら、どうする。」
ずっと、ぼんやりと考えていたことを、いきなり口にすると、そのことばかりを、一日中悩んでいたような気になる。
ほんとうに言いたいことは、いつも、言葉にしようもなく、心の底に、澱のように積もって、たまってゆく。
鳥たちが、まぶたの裏の薄闇で、ぴちぴちとさえずった。
グレートが、考え込むような沈黙を送って来た後で、ようやく言った。
「おまえさん、本気で言ってるのか。」
本気だろうかと、自分に問いかけた。
目の前に、また右の掌を広げ、そこに、鳥たちの幻を映す。
本気なわけが、ないじゃないかと、頭の中で声がした。
「・・・ああ、店を閉めて・・・後のことは、また考える。」
また、グレートが、少しの間黙り込んだ。
「おれはかまわんさ。おまえさんの好きにすればいい。それに、おまえさんがあの店を閉めるなら、実は、おれの方にも都合がいい。」
「都合?」
「・・・電話じゃしにくい話だ。おまえさんが戻ってきたら、ゆっくりするさ。」
グレートが、軽く笑う。
唇だけで、グレート、とアルベルトは名前を呼んでみた。
涙が、こぼれた。
「で、いつ戻って来るんだ?」
開いていた掌を、ゆっくりと閉じた。
その中に、鳥たちの幻を握り込んだまま、冷たい機械の掌を、ゆっくりと閉じた。
鳥たちが、その中であがき、悲鳴を上げ、細い軽い骨と、小さな内臓のつぶれる感触を伝えて来て、それきり静かになった。
「明日の朝、戻る。街に着いたら、電話する。」
幻の鳥の死骸を、掌の中に握って、アルベルトは、平坦な声でそう答えた。
「じゃあ、明日、おまえさんのところで会おう。」
うれしそうにそう言って、グレートから電話は切れた。
電話を元に戻し、アルベルトは、ゆっくりと手を開いた。
空の掌の上に、赤い鳥と青い鳥の、並んだ死骸が、はっきりと見えた気がした。
飛べない鳥は、鳥ではない。
それでも、かごの中でしか生きられない。
右の掌をかざしたまま、左手で口元を覆い、アルベルトは嗚咽をこらえた。こらえながら、また、泣いた。
気持ち悪い、というあの声が、また耳の奥に響いていた。
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