「あらし」


25) Your Breath

 朝は、音もなくやって来て、陽の光が、色の薄いアルベルトの瞳を、容赦なく刺した。
 車のドアを閉める前に、ふと、空を見上げ、目の上に手をかざし、透き通るような、その青さを見上げた。
 雲は、うっすらと空にかかり、風のない今、ちらとも動く様子はない。
 鳥の姿は見えないかと、そう思って見上げたのだと気づいてから、そんな思いを振り払うように、また軽く頭を振り、右手を、上着のポケットに入れた。
 今はもう、隠す必要もないのに、アパートメントに向かいながら、しっかりとその中で、右手を握りしめていた。
 晒された視線を思い出して、また、唇を噛む。
 気持ち悪いと、声が聞こえた。
 泣き出しそうになるのをこらえるために、階段を上がる半歩手前で立ち止まり、左手で、目元を覆った。
 大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。
 繰り返し口の中でつぶやいて、それから、ゆっくりと、手すりに手を乗せ、足を持ち上げる。
 思わず上を見上げて、ドアの辺りに、人影がないことを、確かめずにはいられない。
 人の気配が、体中にまとわりついてくる。服の下の皮膚に、無数の掌を感じて、じわりと汗が吹き出す。
 胃が、不意に痛んだ。
 吐き気に、気づかないふりをして、手すりを握った左手に力を込め、かかとに体の重心を移した。
 誰もいない。いるはずがない。だから、大丈夫だ。
 もう一度、自分に言い聞かせて、右手で、ポケットの中のキーを握りしめた。
 静かにそっとドアを開けると、何の変化もない部屋が、目の前に広がった。
 あの、眠り続けたホテルの部屋に比べれば、少しばかり生活感の漂う、自分の気配の残る、自分の居場所。
 けれどここに、自分の気配だけが残っているわけではないことを、アルベルトは知っている。
 あの街で捨ててきた、血で汚れたシーツの、無数の染みを思い出して、思わず寒気がする。
 大丈夫だ。もう一度、今度は声に出してつぶやいて、ドアを閉め、それからようやく、中に入った。
 まるで、見知らぬ他人の部屋ででもあるかのように、足音を忍ばせて、部屋の中を歩き回る。そっと伸ばした指先で、そこに触れるすべてが、幻でないことを確認する。
 ここに戻ってきたのだと、思いながら吐息をこぼした。
 ソファに、どさりと体を投げ出し、疲れたように、深く首を折った。
 それから、弾かれたようにまた立ち上がり、電話のところへ駆けて行った。
 ここにひとりで、いたくはなかった。
 受話器を取り上げ、もしかして、まだ眠っているだろうかと思いながら、それでもかまわずに、番号を押す。2度で受話器が取り上げられ、驚くほど近くで、声がした。
 「グレート?」
 「ああ、戻って来たのか?」
 しっかりとした、弾んだ声が、アルベルトを迎えてくれる。
 あいさつもすべて省略して、すぐ用件を口にした。 
 「ああ、もう、部屋にいる。すぐ来てくれるのか?」
 声が切羽詰まるのを、必死で抑えようとしながら、それでも急かすように、そう言った。
 苦笑いする気配が伝わってきて、それから、グレートが、ああ、と言った。
 「ジェロニモが、すぐに迎えに来てくれる。1時間あれば、おまえさんのところに着く。」
 1時間、と思った。
 ひとりきりの、最後の1時間。
 シャワーを浴びて、紅茶を飲んでいれば、そんな時間は、あっと言う間に過ぎてしまう。


 髪が濡れているのが、少し業腹だったけれど、アルベルトは、クローゼットを開けて、グレートを迎えるための服を選んだ。
 軽い服でもかまわないと思いながら、ふと、濃い、深い翠色のスーツに、指先が止まる。
 それに合わせて、少しグレーがかった、薄い緑のシャツを選ぶ。ネクタイは、ほとんど黒に見える、これも濃い翠のものを合わせて、ベッドに、取り出した服を投げながら、さりげなく、シーツからは視線を反らす。
 丁寧に、ひとつひとつを、身に着けた。
 カフスはいらない。そこまで形式ばることはない。
 それでも、袖と襟をきちんと伸ばし、手の切れそうなほどぴしりと折り目のついた襟元に、ささやかに満足する。
 しゅるりと、ネクタイを巻いた。巻いて、ゆっくりと、長さを加減しながら、結ぶ。
 首を軽く締め上げる感触に、ふといやな吐き気がこみ上げそうになりながら、次の瞬間には、それに気を引き締められて、もう、吐き気のことは忘れていた。
 すきもなく、折り目のきっちりとついたズボンをはき、もう一度シャツの袖を伸ばしてから、上着を肩に乗せた。
 濡れた髪に触れ、襟の後ろに、ほんの少しかかる後ろ髪が、そこを軽く濡らすだろうことを思って、小さく舌打ちする。
 ネクタイを、胸に押さえて、シャツに馴染ませる。
 クローゼットの扉の裏についた、大きな鏡に全身を映しながら、顔色のあまり良くないことを、作り笑いでごまかしてみようとする。
 どうしてか、武装、という言葉が浮かんだ。
 全身を鎧って、守ろうとしているのだと、そう気づいてから、唇を噛んだ。
 忘れなくてもいい。忘れる必要はない。ただ、あんなこと、一筋も自分を傷つけてなどいないのだと、見せてやればいい。頭を高く上げて、胸を張って、いつもの顔を保ったまま、冷たく見下ろしてやればいい。そうすれば、目を反らすのはあちらの方だ。
 そう思ってから、守りたいのは、自分を傷つけた連中からだけではなく、グレートからなのだとも、不意に気づく。
 グレートを責めている、自分の中にある、ほんの小さな部分が、グレートに会った途端に暴れ出さないように、いつもの自分を保つための鎧なのだと、気づく。
 これから何が起こるのだろうかと、アルベルトは、ネクタイを撫でながら思った。思って、何も起こりはしないと、自分に言い聞かせた。
 ネクタイを撫でる右手に気づいて、手袋を、見回して探そうとして、やめた。
 グレートの傍にいるなら、右手を隠す必要は、ない。
 これで準備はできたと、キッチンへゆく。
 思った通り、沸いた湯を、ポットに注ぐ頃、足音がして、ノックされたドアに向かって声を掛けると、グレートが、ひょいとドアの影から顔を突き出した。
 「久しぶりだな、My Dear。」
 アルベルトの、一分の隙もないスーツ姿に、賞賛の色の視線を投げてから、グレートが、キッチンへ足を運んでくる。
 軽く首を伸ばして、唇に触れてくるグレートの、眉間の辺りを、アルベルトはじっと見ていた。
 表情が消え、自分の中が、すうっと冷たくなるのを感じながら、そんな自分を、ほんの少し怪訝そうに見返したグレートに向かって、アルベルトはにっこりと笑って見せた。
 「・・・心配かけて、悪かった。」
 「かまわんさ、おまえさんだって、たまにはひとりで考えたいこともあるだろう。」
 上着を脱ぎ、キッチンの椅子に掛けて、ふたりはそれぞれ自分の紅茶を抱えて、リビングのソファの方に向かって、肩を並べた。
 ひとりではなくなった途端に、痛いほどの緊張がほどけてゆく。呼吸ができるほど、濃くなった酸素を、気づかれないように、胸いっぱいに吸い込みながら、その中に、グレートのコロンの香りを嗅いだ。その匂いに、ふと懐かしさを憶えて、思わずうっとりと目を細める。
 「で、あんたの、電話でしにくい話ってのは、何なんだ?」
 グレートの向かいに坐って、大きなマグカップを口元に当てたまま、アルベルトは、努めて平静な声で訊いた。
 グレートが、軽く首を傾け、手にしていたカップをテーブルに置くと、不意に目つきを鋭くして、アルベルトをじっと見た。
 ふっくりとした唇が、ゆっくりと動く。
 「ダウンタウンのあの店を、おまえさんに任せたい。」
 眉を寄せ、視線が思わず泳いだ。
 言われた言葉を、何度も何度も繰り返して、言われた通りの意味だと悟るまで、アルベルトは、目の前を覆う、紅茶の白い湯気を、まるでそこに答えがあるかのように、しつこく追い駆け続けた。
 「ずっと、考えてたんだが、おまえさんはあの本屋をよす気はなさそうだったんで、諦めてたんだが・・・女にも金にも固くてきれいで、おれが信用できるっていうと、おまえさんがぴったりだろう。いいかげん、ロクでなしと付き合うのに、おれもうんざりでね。」
 「雇ったばっかりじゃないのか、支配人を。」
 「雇った翌日に馘にした。店の女の子に手を出したいなら、もう少しうまくやるべきだったな。」
 また、腕の1本くらいは折られたのだろうかと、不用意に思って、息が止まる。
 心臓の鼓動が、どくどくと、首に響く。ゆっくりと、細く息を吐き出して、アルベルトは、張りついた顔の皮膚を、口元からやわらげようとした。
 「あの店だけじゃない、いずれは、おまえさんに、おれの跡を継いでほしいと思ってる。」
 今度こそ、止める間もなく、驚きで、目を見開いた。
 紅茶のカップを口元から膝の間に下ろし、アルベルトは、呆れ顔で、グレートを見やった。
 大した冗談だと、言いたい口元は驚きで動かず、グレートのはしばみ色の瞳に、冗談の気配は微塵もない。
 一体、そんな話を、いつから胸の中で暖め始めていたのか。グレートの、言葉のひとつびとつを思い出しながら、そんなことを、ちらりとでも匂わせたことがあったろうかと、必死で考える。
 「・・・あんた、本気で、俺がそんな器の人間だと、思ってるのか。」
 カップを抱えた両手の、右手にだけ、力が入る。
 声が震えるのを隠せず、動揺が、指先にまで伝わっていた。
 「おまえさんひとりでやる必要はない。おれだって、今すぐ引退するってわけじゃない。張大人がいる。おまえさんが一人前になる頃には、ジェロニモがりっぱな右腕になって、おまえさんを待ってる。部下も全部、おまえさんが好きに躾ければいい。」
 どこかすがるような、懇願するような口調で、グレートが、言葉を継いだ。
 言葉が、体を染み通ってゆく。言葉に押されて、体から、何かが流れ出してゆくような、そんな感じがした。
 冷えてゆく体の奥と表面で、そこから、ゆっくりと、空気に溶け出しているような、そんな気がした。
 消えてゆく。まるで幻のように、自分の姿が消えてゆく。それを眺める、もうひとりの自分がいる。
 もがいて、苦しんで、押し潰されて死んでいった、青と赤の、幻の小鳥の、架空の死骸の重みが、不意に右の掌の中に甦る。
 冷たい掌の上の、冷たい死骸。
 ぬくもりが、さらさらと、鉛色の指の間からこぼれていった。
 ふっと、アルベルトは、微笑んだ。
 微笑んで、目を伏せ、それから微笑みのまま顔を上げて、グレートを、真っ直ぐに見つめた。
 「・・・あんたがいいなら、俺は、それでもいい。」
 返事を待って、硬張っていたグレートの目元と口元が、ほどけるように、やわらいだ。
 「あんたが、傍にいてくれるなら、俺は、それでいい。」
 グレートの、嬉しそうな表情に、笑いを返しながら、耳の奥に、自分の声が空ろに響いていた。
 「決まりだ。」
 弾むように言って、グレートが、勢いをつけてソファから立ち上がる。
 まるで、踊るようなその仕草を、いきなり遠くなった視界の中に、アルベルトはぼんやりと眺めた。
 つられて、首を伸ばして、立ち上がったグレートを見上げて、また弱々しく笑う。
 指先が、かすかに震えていた。
 「・・・頼みがあるんだ、グレート。」
 目を伏せ、小さな声で言った。
 「なんだ?」
 明るい声で、優しくグレートが言った。
 顔を上げ、晴れ晴れとしたグレートの表情が眩しくて、すいと目を細めた。
 「・・・ここを出て、あんたのところに、戻ってもいいか・・・?」
 グレートの表情が、一瞬消える。それから、驚きと喜びと戸惑いが、交じり合って頬に浮かぶ。
 「もちろんだ、My Dear。」
 うなずきながら、喜びをいちばん強く声に込めて、グレートが、ひどくはかなげに笑った。
 グレートが、アルベルトの傍にやって来て、右手を差し出した。
 その手を見て、グレートを見上げる。
 それから、その手に、自分の右手を重ねて握った。
 手を引かれるままに立ち上がると、引き寄せられ、抱きしめられ、唇が触れ合った。
 暖かな乾いた唇を、静かに、自分の薄い冷たい唇の上に感じながら、そのぬくもりが、皮膚の上ではじかれて、冷え凍った背骨の中心に届かないことを、ひどく悲しく感じていた。
 それでも、このぬくもりだけが、自分に残されたものなのだと、そう思う。思って、それを、不意に激しく憎んだ。
 憎みながら、外れた唇は、思いに反して、にっこりとグレートに笑いかける。
 微笑み合って、ふたりは、互いから腕を外した。
 「・・・早速、ここを引き払って、おまえさんの店を閉める準備を始めるとするか。」
 肩を並べて、玄関のドアに向かって歩きながら、微笑みは、もう一瞬たりとも、ふたりの口元から去らなかった。
 上着を、グレートの肩に乗せ、そろって外へ出ながら、不意に思いついて、アルベルトは足を止めた。
 「あんたのところに戻ったら、鳥を飼ってもいいか?」
 「鳥?」
 上着の肩を、叩いて馴染ませながら、振り返ったグレートが、きょとんとした顔をする。
 「ああ、鳥を飼っても、いいか?」
 ドアを後ろ手に閉めながら、にっこり笑って、アルベルトは重ねて訊いた。
 「鳥くらい、好きに飼えばいい。」
 上機嫌のまま、グレートが答えた。
 ドアの鍵を閉め、先にゆくグレートに追いついて、アルベルトは、階段を並んで下りながら、グレートの手を取った。
 グレートの右側を歩きながら、両手で、グレートの右手を握り、離したくないとでも言うように、しっかりと指を絡めた。
 おそらくもう、この手を離すことはないのだと、そう思いながら、指先に力を込めた。
 それは、予感だったのだろうか。
 グレートが用意した、表面だけの違いしかない、今までの過去に連なる未来を、素直に受け入れたのは、ふりだけだったのだろうか。
 階段を降り切って、コンクリートの地面に爪先が触れた瞬間、アルベルトは、左側に広がる、空っぽの空間に、グレート越しに、ふと目をやった。
 目をやって、並んだ柱の、その1本の影から、静かに滑り出てくる人影に向かって、思うより先に、体を動かしていた。
 絡んでいた指と手が、するりと離れる。
 驚いて自分を見たグレートの視線を、頬に感じた。
 気配を消して現れた、赤い人影と、グレートの間に、アルベルトは、両手を広げて走り出していた。
 濃い翠色の上着は、翻る黒い羽にも見えるように思え、まるで死神か悪魔だと、心のどこかで思う。
 自分に向かって---それは、実はグレートに向けられたものに、違いなかったけれど---、銃を構えたジェットの姿に、アルベルトは、心の底からの微笑みを浮かべた。
 ほんとうに、哀しみも虚しさもなく、生まれて初めて、心の底から微笑んでいた。
 激しい音が、空の空間を満たして、痛みと熱さが、胸の中心を貫いていった。
 微笑んだまま、アルベルトは、撃たれた反動で後ろによろめきながら、背中から、床に倒れ込んだ。

 
 長い時間のように思えたのに、それは、ほんの数秒のうちに起こり、ふたりの男は、ひとりは空の手で、ひとりは弾を吹き出したばかりの銃を震える両手に、真ん中に横たわる、血を流す体を、見下ろしていた。
 「アルベルト!」
 「アルベルト!」
 ふたりは、同時に叫んで、けれど、赤毛の青年の方が、動きは素早く、青年は、銃をその場に放り出し、慌てて、撃たれたばかりの体に走り寄った。
 抱き上げ、揺すり、また名を呼んだ。
 撃たれた体は、自分を抱えた青年を、うっすらと目を開けて見つめ、それから、ゆるゆると、もうひとりの、立ち尽くしている空の手の男の方へ、顔を向けた。
 「・・・ぐ・・・・・・・グレート・・・」
 右手を、泳ぐように伸ばし、届けと、願うように、鉛色の指先を動かした。
 男が、傍へ寄って、その手を取る前に、腕は、かしゃんと音を立てて、コンクリートの床の上に落ちた。
 それきり、もう、動かなかった。


 銃声を聞いて、外から入ってきたジェロニモを、目顔で止め、グレートは、アルベルトを抱きしめて泣きじゃくるジェットを、ひどく虚ろに見つめていた。
 アンタじゃなかった、アンタを撃つつもりなんかじゃなかった。そう、繰り返し叫びながら、ジェットは、アルベルトを抱きしめ、その、血塗れの胸に、額をすりつけて、涙をこぼし続けている。
 上着の、内側に手を差し入れ、グレートは、静かにふたりの傍へ寄った。
 以前、グレートに見せたと同じ、涙に濡れた顔を上げ、ジェットが、グレートを見上げた。
 見上げたジェットの、その眉の間に、グレートは、取り出した銃の先を、ぴたりと当てた。
 「・・・・・・最期の祈りを、ボウヤ。」
 ジェットが、息を止めた音が、聞こえたような気がした。
 そっと下りたまぶたの影に、緑の瞳が消えてゆく。
 それを見届けて、瞬きもせず、引き金を引いた。
 はじけた体が、アルベルトから腕を外し、後ろへどさりと倒れる。
 不自然な方向へ手足を曲げ伸ばして、砕けた頭から、どくどくと、灰色の床の上に、血の海が広がる。
 その中に、真っ赤な髪が、浸り始めていた。
 数歩後ろに立って、静かに、自分の役目を見極めようとしているジェロニモを、グレートはようやく振り返った。
 「始末屋を呼んで、死体を始末させてくれ。」
 できたばかりの、足元の、ふたつの死体にあごをしゃくって、グレートは、平たい声で言った。
 ジェロニモが、一瞬、グレートを、不思議そうな色の瞳で見た。
 「死体、両方?」
 腕を伸ばし、撃ったばかりの銃を、ジェロニモに渡しながら、グレートは、もっと色のない声で応えた。
 「両方だ。」
 ジェロニモの静かな瞳を、射るように見つめて、グレートが、低く言う。
 銃を受け取って、ジェロニモが、下目にうなずいた。
 「それから、ここを取り壊す。今すぐ、業者に連絡を取ってくれ。」
 早口に付け加えて、階上の、数分前に出て来たばかりの、アルベルトのアパートメントのドアを、一度振り仰ぐ。
 ジェロニモが、黙って外へ消えると、グレートは、上着の内ポケットから煙草を取り出して、ゆっくりと火をつけた。
 ちらちらと、並んだ死体を眺めながら、吐き出した煙の行方を追う。
 不意に、浮かんだ言葉があった。
 唇と舌が、抗うようにもがいて、それから、言葉が滑り出た。
 「"さらば、最も醜く、この上もなく美しき者。さらば、清らかなる不敬よ、罪深き清浄よ"(から騒ぎ)。」
 ふっと、鼻先で、自分のざれ言を笑った。
 笑って、唇と頬が震えた。
 突然吹き上げてきた、涙を止められず、グレートは、煙草を指にはさんだままの掌で、目元を覆った。
 涙が、こぼれる。こぼれて、頬と掌を濡らす。
 手の中の、小さな暗闇の中で、グレートは静かに泣き続けた。
 じじっと、煙草の燃える、小さな音以外には、もう、何も聞こえなかった。


        後書き