「あらし」


4) Black Coffee

 その日は珍しく客の多い日で、午前中に10人ほど、午後も、いつも誰かが店の中にいるほど、人が入った。
 まさか、警察の手入れかと勘繰ってみたけれど、目つきも行動も、どう見ても一般人で、こんな日もあるのかと、アルベルトは少しばかりびっくりする。
 あの赤毛の青年は、アルベルトが、そんな客のひとりの相手をしている時に、静かに入って来た。
 ドアベルの音に、アルベルトはそちらに視線を向け、そうして、それがあの青年だとわかると、相手をしている客にはわからないように、彼をにらむ。
 青年は、まるで友人にでも会ったように、手を上げてアルベルトに応えた。
 客の前で、青年をどなることもできず、アルベルトは、無視はしていない、という態度を客に見せて、けれどそれ以上の反応は、青年には返さなかった。
 客が、ようやく本を手にして出て行ってしまうと、また青年は、微笑みを浮かべてアルベルトに近づいてきた。
 「アンタ、コーヒーに何入れるんだよ?」
 差し出す手には、コーヒーショップで見かける、紙のトレイがあって、大きな紙コップが、プラスチックのふたの下から、コーヒーの匂いをこぼしていた。
 トレイの開いた部分には、砂糖らしい小さな包みと、クリームと字の読める、小さなカップが乗っている。
 「悪いな、コーヒーは飲まないんだ。」
 青年が目を見開き、英語で話しかけた相手が、紫色の皮膚をした異星人で、チベットなまりのスワヒリ語で答えでもした、という顔をする。
 「コーヒー飲まないって、アンタ、カフェイン中毒の治療でもしてんのか?」
 発想が、いかにもアメリカ人だなと、あきれた顔をしてやる。
 「アメリカのコーヒーは嫌いなんだ。」
 薄くて、まるきり色のついた湯のようなコーヒーを飲むくらいなら、水の方がまだましだと、言わずに心の中で思って、またアルベルトは青年をにらんだ。
 「いちいち、これだから、ヨソから来た連中ってのは。」
 それを聞き咎めて、アルベルトは、胸の前に腕を組んで、声を低めた。
 「よそ者で悪かったな。英語しか喋れなくて、他に行けない連中とは違うんでね。」
 こんな、ストレートな言い方を、直接本人にするのは珍しいと、自分でもどこかで驚きながら、アルベルトは、眉の辺りをひくりとさせた。
 「どうせオレは、英語もロクにしゃべれねえよ。」
 カウンターにトレイを置き、カップをひとつだけ取り上げながら、青年が、子どもっぽく、すねたように言う。
 間違いではなかった。いかにも、教育のない、路上にたむろっている若者が使う英語だった。アジアやヨーロッパの言語の文法が混ざり合い、発音も、早口で話すために、変えられ、省略されている。
 グレートが、なまけものの英語、と呼ぶ類いの英語だ。
 英語が第一言語でありながら、きちんとした英語を知らないのは、別に珍しいことではない。大学にいる頃も、彼らの論文の文法をいつも直してやっていたのは、外国人のアルベルトだった。
 嘆かわしい、とグレートが、頭を軽く振りながらつぶやくのを、アルベルトは何度も聞いた。
 乱暴に、砂糖の袋をちぎって、中身をコーヒーにふり入れ、それからミルクをいくつか注ぐ。
 教育も教養もなければ、ものの味もわからないらしいと、アルベルトは思った。
 典型的なアメリカ人だな。半分、軽蔑と憐れみをこめて、そう思う。
 井の中の蛙。海を見ることすらなく死ぬのに、世界の全部を知っていると、思い込んでいる。
 コーヒーをすする青年を眺めて、アルベルトはため息をついた。
 「それで、今日は何の用だ?」
 カウンターの前に、ふたり向き合って立ち、アルベルトは、少しだけ優しくなった声で訊いた。
 「言ったろ、アンタに尋きたいことがあるって。」
 「なんだ、尋きたいことって?」
 コーヒーをカウンターに置くと、赤毛の青年は、上目使いにアルベルトを見た。
 「・・・アンタ、なんでオレらがグルだってわかった?」
 何のことか一瞬わからず、軽く頭を振って、顔をしかめる。
 青年が、少し苛立った表情を見せて、また口を開いた。
 「アンタ襲ったヤツと、オレが仲間だって、どうしてわかったんだよ。」
 ああ、あの駐車場での夜のことかとようやく合点が行って、アルベルトはくすりと笑った。
 「アンタ、その、ヒト小バカにしたような笑い方やめないと、いつか刺されるぜ。」
 「別に、馬鹿にしてるわけじゃない。」
 まだ笑いを消せずに、凄んでも、迫力はないなと、ふとその青年を可愛らしいと感じた。
 アルベルトが何者なのかを知らないなら、せいぜいが、どこかの小さなギャングの連中という程度に違いなかった。そんなチンピラが、アルベルトに向かって凄むのを許すのも、その無知さゆえなのだと知ったら、この青年はどんな顔をするのだろう。
 「なんでアンタ、わかったんだよ、オレらが組んでるって。」
 青年は、同じ質問をまた繰り返した。
 「匂いが、同じだったんだ。」
 「匂い?」
 青年が、唇を突き出した。
 「最初の男と、おまえさんから、同じ匂いがした。車の機械油か何かか? あんまり馴染みのない匂いだ。そんな匂いをさせて、全然見知らぬ赤の他人が、同じ場所に、同じ時に現れるのも、すごい偶然だと思ってね。」
 今度こそ、正真正銘、心の底から、馬鹿にした笑いを、薄く刷く。
 青年は、そんなアルベルトの表情に、気づいたのか気づかないのか、突然、体をふたつに折って笑い始めた。
 涙を拭いながら、ようやく体を起こして、それでもまだ口元はゆるんだまま、青年は、いくぶん小さくなった笑いを噛み殺している。
 「今度やる時は、一緒に、盗んだ車をバラしたヤツとは組まない。まったくマヌケな話だ。」
 ようやく笑うのをやめ、青年は、残っていたコーヒーを一気にほした。
 「強盗なんて、わりに合わない。刑務所の中で死ぬなんて、惨めだと思わないか。」
 ふと、静かな口調でアルベルトは言った。まるで、真剣に、誰かを救おうとしているかのように。
 「残念ながら、オレ、まだムショには入ったことないんだ。」
 ふん、とアルベルトは思った。
 珍しい。この手の若者は、たいてい出たり入ったりを、早ければ10代の初めから繰り返している。刑務所など、ここでは子どもが夏休みに参加する、キャンプくらいの意味しかない。
 入らずにすんでいるのは、犯罪を犯したことがないか、犯していても、捕まっていないだけか。それでも、経験がないと言えば、仲間内では軽く見られる。
 下らない話だと思うけれど、刑務所に出入りを繰り返して、初めて犯罪者として一人前と認められる。
 犯罪者に、一人前もクソもあるもんか。
 自分も、その片棒を担いでいるし、グレートも、ひとりの幸運な犯罪者---刑務所に入らずにすんでいる---に過ぎないのだと、知っていて、アルベルトはなおそう思った。
 アンタさ、とまた青年が言った。
 「あの時、オレに、素人と玄人の区別もできないんなら、こんなことするなって言ったよな。」
 笑顔で、青年は続けて言った。
 アルベルトは、笑顔を返して、とぼけた。
 「そんなこと、言ったかな。」
 「言ったよ。」
 切り込むように、青年が言う。嘘なら見破ってやると、その奇妙に真剣なまなざしが言っていた。
 胸の内を隠さない彼を、若いな---無知だな、という意味合いで---と思う。
 「強盗に襲われて、気が動転して、わけのわからないことなら、口走ったかもしれない。」
 はぐらかすように、アルベルトは答えた。
 青年が、鼻先で笑う。赤い髪の下で、淡い緑の瞳が、きれいに光った。
 「よく言うぜ、気が動転してたなんて。」
 いいかげんに、会話を切り上げようと、アルベルトは思った。
 身も知らぬ他人、しかも、自分を襲った相手に、こんなところまで踏み込ませるのは気狂い沙汰だ。
 カウンターの向こうへ行くために、肩を回した時、青年がさらに言葉を重ねた。
 「オレみたいなのなんか、鼻先であしらえる程度には、アンタ、玄人ってことか。」
 「何の話か、全然わからんな。」
 「とぼけたいなら、トボけてればいいさ。オレだって、アンタが思ってるほどマヌケじゃない。」
 「まぬけじゃないなら、あんなヘマはしないことだ。警察に捕まれば、暴行罪もくっついて来る。そうすれば、最高10年刑だ。あんなところで、10年生き残れるほど賢いなら、とっとと更正すべきだな。」
 「お説教聞くために、アンタと話してるわけじゃない。」
 「だったら出て行ってくれ。忙しい。」
 もう、かまわずにカウンターの向こうへ行くと、さも、仕事の邪魔をされたという態度で、アルベルトは書類の束に視線を落とした。
 「オレも忙しいんだ。もう行くよ。」
 青年は、素直にそう言うと、ドアの方へ向かって歩き出した。
 ドアに手をかけてから、また振り返ると、
 「アンタ、コーヒーキライなら、なに飲むんだ?」
 思いがけない質問に、アルベルトは思わず、驚いた表情を見せ、それから素直にその問いに答えていた。
 「紅茶。ミルクたっぷり。」
 短く、けれどゆっくりと言うと、
 「砂糖は?」
 「抜きだ。」
 青年が、にっこりと笑った。
 「覚えとくよ。ところでオレ、ジェットって言うんだ。じゃな。」
 店の中が、急に静かになる。
 去ってゆく青年---ジェットと、名乗ったばかりの---を、アルベルトは見えなくなるまで、店の中から目で追っていた。
 カウンターに、青年が持って来たコーヒーが、すっかり冷めて、手もつけられずに残っている。アルベルトは、カップを持ち上げると、プラスチックのふたの一部分を破って、口を開けた。
 冷めた薄いコーヒーは、ひどく舌に苦かったけれど、その苦さが、なぜか少しだけ、今は好ましかった。


 ジェット、とその名前を、アルベルトは、口の中で転がすように発音した。
 シャワーを浴び終わり、まだ濡れた髪にタオルをかぶったまま、アルベルトは、もう何度目なのか、あの赤毛の青年のことを思い出していた。
 ジェット。短い、いかにも男らしい名前。どうせ本名ではないだろう。
 ひょろりと背が高く、手足が長い。街の中を探せば、バスケットボールに興じているのを、見つけられるかもしれない。
 チンピラですらない、まるで14、5の子ども程度の、犯罪予備軍。あの素人くささが演技なら、大したものだと思う。
 どこかの手の者だろうかと、また、アルベルトはゆっくりと、思い出せる限りの顔を思い出す。
 けれどどれも、あのジェットと名乗った青年とは、結びつきそうにない。
 単なる杞憂かと、思った。
 グレートに頼めば、すぐにでも身元はわかる。まず間違いなく、グレートのネットワークの、どの部分にもひっかからない、ほんとうの小者だろう。気にかける必要すらない。
 それでも。
 ほんの少しの、可能性を、アルベルトは排除できずにいる。
 警察か?
 まさか。身のこなしに切れがなさすぎる。目つきも、まるで違う。あれは、武器を持ち慣れた、扱い慣れた人間の瞳ではない。
 むしろあれは、幼い子どもの瞳に近い。
 アルベルトは、あの、淡い緑色を思い出した。
 春の初めの頃の、ようやく冬を越して、優しく生き返り始めたばかりの、緑の色。
 いくつくらいなのだろうか。20か、24くらいか、せいぜいがそんなところ。
 まだ、後戻りのきく年頃だと、アルベルトは思った。
 今日は、グレートからの電話はない。おそらく、いくつか店を見回ることになっている夜に違いなかった。
 声を聞きたければ、携帯電話にかければよかったのだけれど、今夜はなぜか、グレートの声を聞こうとは思わなかった。
 こんなに長い間一緒にいれば、一晩や二晩、声すら聞かないこともある。
 最初の頃は、指折り数えて、グレートの訪れを待っていたのに。
 もっとも、あの頃は、まだ、ふたりの間には何もなかったのだけれど。
 グレートが何者かを知ってからも、アルベルトは、グレート本人に対する敬意は失わなかった。
 グレートは、明らかに命の恩人---惜しい命ではなかったけれど、少なくとも、苦痛は終わった---だったし、最初はまるで実の親のように、その後は大事な恋人---グレートの情夫と、知る人は言う---として、常にアルベルトのかたわらにいてくれた。
 大きな売春の組織を束ね、麻薬の売買を管理し、武器の密輸も手がける。そして必要なら、人を殺す命令を下す。そんなことを全部知っていて、アルベルトはそれでも、グレートの元にとどまった。
 もっとも、まだ10代半ばの子どもが、身寄りのいない外国で、ひとりで何ができたろう。
 また同じ境遇に堕ちるという選択と、ひとりの犯罪者の情人になるという選択と、どちらがましか、子どもでもわかる。
 アルベルトは、右腕を撫でた。
 失った腕の代わりに、腕の形をした部品を得た。腕として動く、機械の部分を得た。
 似たような選択だ。腕を失ったままで生きるか、それとも、醜くても、ほんものの腕と同じように動く機械を使うか。ましな方を選んだだけだ。
 ましな選択。そう思ってから、自嘲する。
 素晴らしい選択だな、まったく。
 このまま、グレートの情夫として、一生過ごすのだろうかと、唐突に思う。
 もう、若過ぎはしない自分の年齢を思って、アルベルトは、ふと不安に駆られた。
 このまま、もっと年を取っても、グレートは自分を手元に置いてくれるのだろうか。
 出逢った頃のように、何も知らない子どもでは、もうない。
 グレートが、出逢って以来、他に情人をつくらないのが、そもそも奇跡のようなものだった。
 裏では売春組織を束ねて、表ではストリップジョイントをいくつも抱えているグレートには、始終女が近づいている。たとえ二流どころであろうと、それなりの規模の組織のボスの情婦になりたい女は、くさるほどいる。
 グレートとアルベルトのことを知れば、たいていの女は、さも汚らわしそうにアルベルトを見る。知らなければ、グレートを性的不能者だろうと勝手に思い込んで、ろくでもない治療を申し出る、とんだ勘違いな輩もいた。
 自分を売り込もうとする男も、もちろんたくさんいた。
 女はいらんさ。男も女も、大した違いはない。恋をしなければ、みんな体だけのことだ。体なんて、どれも同じだ。
 グレートは、静かにそう言った。
 それはつまり、自分に恋をしているということなのかとは、恐くて問い質せなかった。
 My Dearと言う、自分にだけにグレートがする呼びかけだけが、グレートの愛情の根拠だった。ずいぶんと、薄弱な根拠だけれども。
 愛しているのかと問われれば、恐らく一瞬も待たずに、もちろんと、アルベルトは答えるだろう。
 愛していないはずがない。自分を救い、守ってくれ、自分ひとりだけを見つめている男を、愛していないわけがない。
 けれど、それでは、愛とはなんだろう。
 アルベルトは首を振った。
 恋すら、したことがあるかどうかも定かでないアルベルトに、愛がわかるはずもない。 
 ひとつだけ確かなのは、グレートの死を、冗談にせよ想像しただけで、胸がひきちぎれそうに痛むということだった。
 痛み。
 腕を奪われた時と、同じ痛み。
 体の一部を失う、痛み。
 グレートの死は、そんなところと重なる。
 失うことも、奪われることも、想像すらしたくない。
 これが、愛しているということなのだろうか。
 数え切れないほどの、躯を重ねた時間も、裸の皮膚をこすり合わせた記憶も、愛ですらなく、愛を認識させてくれるのは、忌まわしい過去に繋がる、痛みの感覚。
 救えないなと、アルベルトは思った。
 グレートは、アルベルトの命を救ってはくれたけれど、魂を救ってはくれなかった。
 魂を救えるのは、アルベルト自身だけだったから。
 そしてその魂が、果たして救われたのかどうか、アルベルトにはわからなかった。
 もう一度、アルベルトは右腕を撫でた。
 冷たい硬い腕は、何の答えも与えてはくれない。
 グレート。アルベルトは、つぶやいた。
 今夜はひとりで眠るのだ---別に、珍しいことではないのに---と、そう思った瞬間、なぜだか浮かんだのは、あの、ジェットと名乗った背の高い青年のことだった。
 冷めたコーヒーの苦さを思い出して、アルベルトは唇にふと触れた。
 薄汚れた街のざわめきも、ここまでは届かない。
 愛されていると知りながら、アルベルトは、ここにひとりだった。