「あらし」


5) My Home

 店を閉めて、裏口から出ようとしたところで、待っていたように電話が鳴った。
 しぶしぶときびすを返して、受話器を取り上げると、聞き慣れたグレートの声がする。
 「なんだ、あんたか、グレート。」
 ------なんだとは、淋しい挨拶じゃないか、My Dear。
 いつもの、茶化したような声音。くすりと笑って、アルベルトは、受話器を左手に持ちかえる。
 「今、店を出るところだったんだ。」
 ------知ってるよ。今、駐車場にいるんだ。
 なんだって、と言って、アルベルトはグレートの返事も聞かずに、電話をがちゃんと置いて、慌てて裏口から駐車場をのぞいた。
 黒いヴォルヴォが、薄く降り始めた闇の中に、ひっそりとたたずんでいる。
 出て来た扉に鍵をかけ、アルベルトは、その黒い大きな車に近づいた。
 黒く塗った窓が降りて、見慣れたジェロニモの、浅黒い、刺青の入った顔が現れる。
 「ボス、後ろ、待ってる。」
 英語が喋れないはずはないのに、この男は、笑わない顔で、自分の部族の言葉のアクセントでいつも話す。たどたどしい英語は、けれど、本人と同じほどいつも真摯に聞こえる。
 ああ、と短く言って、アルベルトは、後部座席のドアをそっと開いた。
 「ごきげんよう、My Dear。」
 芝居がかった仕草で、携帯電話をコートの胸ポケットにしまうと、グレートはにっこりと笑って見せた。
 アルベルトは、グレートの隣りに体を滑り込ませて、何も言う前に、まず彼の唇に接吻した。
 「一体どうしたんだ。取引も何もない日に、あんたがこんなところに顔を出すなんて。」
 「おまえさんに会いに来たのさ、もちろん。」
 今度はグレートが、軽くアルベルトの唇に触れた。
 行ってくれ、と短くジェロニモに言うと、ジェロニモはかすかにうなずいて、車を発進させた。
 この、ごく普通に見えるヴォルヴォは、完全防音防弾の特別仕様で、ごく私的な外出の時にだけグレートはこれを使う。
 普段は、大きなキャデラック---下品で吐き気がするが、仕方がないと、グレートは言う---に、最低3人はボディーガードを引き連れて、お抱えの運転手に運転させている。
 このヴォルヴォで来る時は、完全にプライベートな時だった。
 ジェロニモが運転しているということは、何か、他の誰にも聞かれたくない話をしたいのか、そうでなければ、また秘密クラブの類いに、アルベルトを連れてゆくつもりか。
 革張りのシートに体を静め、アルベルトは、グレートの肩に頭を乗せた。
 アルベルトの手を取り、グレートは、自分の両手ではさむようにして、そっと握る。
 「お疲れかな?」
 「別に、あんたほど神経も使わない仕事だ。疲れるわけがない。ただ、あんたとこうしてるのが好きなだけだよ。」
 グレートが、少しだけ肩を動かした。かぎ馴れたコロンの匂いが、淡く上品に、空気を揺らす。
 ああ、そう言えば、コロンがそろそろ空になる。また新しいボトルを買って来ないと、とそんな埒もないことを考えていた時に、グレートが静かに、不意に言った。
 「ハンガリーへ、行くことになった。」
 思わず、肩から頭を浮かせた。
 「ハンガリー?」
 思わず繰り返すと、グレートは穏やかに笑って見せた。
 「ああ、ちょっとしたコネから、やっと渡りをつけた。取引したいなら、こちらからおれが顔を出せと、そういうことだ。」
 ハンガリーということは、東側から横流しされた武器の密輸か、それとも麻薬か。
 どちらなのかを尋こうとして、そんなことを知って何になる、と自分で口を閉じた。
 どちらにせよ、非合法の品物を扱うことには変わりはない。
 また、自分の店から、その何分の一かが、こちらでの取引先に流れてゆく。
 「残念ながら、組織としては、こちらが格下だ。向こうの言うなりに、しばらくはなることになる。もっとも、いつまでそれが続くかだな。」
 にやりと、グレートが笑う。自信に満ちた、皮肉屋の笑み。仕事がうまく行っている時、あるいは行くと確信のある時にもらす、大胆不敵な微笑み。つられて、アルベルトも笑った。
 「それで、良かったら、おまえさんも、来ないか?」
 一言一言、区切るようにグレートは言った。
 アルベルトの指を、優しく撫でながら、うかがうように、ちらりと視線を流す。
 車はいつの間にか、ハイウェイの上を走り始めていた。
 「ハンガリーに? 俺が?」
 「ああ、そうだ。」
 「どうして、俺が、ハンガリーに?」
 「ドイツに、そう遠くない。」
 流れるような口調でそう言って、グレートは、じっとアルベルトを見た。
 「今なら、壁もない。おまえさんが向こうへ行くのに、何の障害もない。」
 一瞬、グレートの姿が、透けて見えたような気がして、アルベルトは眉を寄せた。
 それから、遠い記憶を頼りに、自分がいたはずの国のことを、思い出してみようとする。
 もう、地図の上では、存在すらしない国。思い出すら、手繰り寄せられないほど遠くなってしまっている。
 貧しい暮らしと、何かに常に怯えている人たち。覚えているのは、そんなものくらいだった。家族が生きているのかどうか、確かめようとしたことすらなかった。生きていたところで、会いたいと思うかどうかは、また別の問題だったけれど。
 「あんたはじゃあ、イギリスに寄るのか?」
 グレートが、悲しそうに唇を歪めた。
 「あそこに、安らぎはないよ、My Dear。」
 「だったら、俺にも同じことだ、グレート。あんたのいる処が、俺の家だ。」
 珍しく、グレートが重々しいため息を吐く。
 「よけいなお世話だったようだな。」
 喜ばないアルベルトに失望しているのではなく、アルベルトを喜ばせることのできない自分に失望しているのだと、アルベルトにはわかっていた。
 グレートの頭を抱き寄せ、アルベルトは、そのつるりとした額にキスをする。
 「あんたの心遣いだけで、充分だよ、グレート。俺にはもう、あんた同様、祖国なんてないんだ。」
 「捨てたわけではなく、捨てられた我が祖国よ、おお、そなたは、声の届かぬ彼方に、思い出の中に美しく・・・。」
 どこからの引用なのか、アルベルトの首筋に顔を埋めて、グレートは、芝居の時に使う太い声でそう言った。
 「祖国がないのは、我々、みな同じだな。」
 ちらりと、運転席のジェロニモの後ろ姿を見て、グレートがつぶやいた。悲しげな声だった。


 連れて行かれた先は、大きな中国料理のレストランで、経営者は、グレートの知己だった。
 「ブリテンはん、ひさしぶりアル。アンタはん、どないしてた?」
 にぎやかな、中国語なまりの英語で迎えられ、グレートもアルベルトも、思わず、その丸い背の低い男に向かって破顔した。
 「久しぶりさ、張大人。おれもいろいろ忙しくってね。」
 「いいことアル。アンタはんのウワサはよく聞くアルね。」
 「どうせ、ろくでもない風聞ばっかりだろうよ。」
 まぜっ返すグレートの口調が、いつものような、静かな穏やかなものではなく、もっとざっくばらんな、軽々しいものに変わる。
 アルベルトは、ふたりの掛け合いを聞きながら、ほんとうに久しぶりの、張大人の店の中を見回していた。
 この店の主人である張大人の後について、個室のある奥へ向かう。
 「アルベルト、アンタはどないしてた?」
 「相変わらず、グレートのお守りさ。今は本屋をやってるよ。」
 「忙しいのはいいことネ。」
 招き入れられた部屋には、すでに茶器が用意され、中国茶の、暖かな香りが漂っていた。
 席につくなり、もうさっきの軽口など忘れたように、張大人が、声をひそめてグレートに訊いた。
 「決まったアルね。」
 「ああ、来週だ。当面は薬を、様子を見て、武器の方へも、手を広げてみるつもりだ。」
 車の中で聞かされた、ハンガリー行きの話だった。
 今回の取引の始まりは、どうやら、長い付き合いの、張大人が仲介を取ったらしいと、アルベルトはようやく理解する。
 しばらくふたりは、アルベルトにはよくわからない固有名詞を交えて、その取引について話をしていた。
 アルベルトは、耳に流れ込む言葉を、右から左へ流し、決して記憶にはとどめない。知っていて得をすることなど、このふたりの会話の中にあるはずもなかった。
 中国茶で喉を潤し、きついイギリス英語と、中国語なまりに、さらにイギリスなまりの混じる、アメリカ英語の会話を、少しばかり不協和音の混じった音楽のように聞く。
 それで、とグレートが言って、ようやくふたりが、自分の方を見ているのにアルベルトは気がついた。
 「いつものことさ、おれに万が一のことがあったら、後をよろしく頼む。」
 アルベルトのことを頼むと言っているのだと、説明がいらないのは、こんな会話を交わすのが、別に初めてではないからだ。
 昔は、何か大きな、危険な仕事をするたび、グレートは、この中国人の古い友人に、アルベルトを託して行った。いつ死ぬか、殺されるか、わからなかったから。
 この愛想の良い、中国料理店の店長は、この辺りでいちばん大きな麻薬組織の元締めのひとりでもある。アジア人には、入り込むのが難しいとされるヨーロッパの麻薬ルートに、最初に参入した中国人組織の一員でもあった。
 グレートが、二流どころの組織を構えているにすぎないにも関わらず、さまざまなところで顔が効くのは、この、張大人との古い友人関係のせいだった。
 「話、これで終わりアル。料理運ばせるから、楽しむといいアルね。」
 また、にっこりと、太った体を同じほど大きな笑みを浮かべて、張大人はふたりを残して部屋を出て行った。
 「いつ発つんだ、グレート?」
 「来週だ。一週間の予定だが、もう少し、長引くかも、な。」
 思わせぶりに、そう言う。
 新しい取引に、心が弾んでいるけれど、少しばかり緊張もしている、という口調だった。
 これほど急に発つと言うなら、もう、根回しはずいぶん前から始まっていたに違いない。アルベルトがそれを今まで知らなかったということは、グレートの、このハンガリー行きを知っているのは、ほとんど誰もいないということになる。
 「誰が一緒に行くんだ?」
 アルベルトは、テーブルの茶器に視線を当てたまま、訊いた。
 「ジェロニモは連れて行く。他は直前に決めるつもりだ。張大人が、手勢を先に送り込んでくれるそうだ。」
 そうか、と言って、アルベルトはテーブルの下で、グレートの手に、自分の手を重ねた。
 あの無口な男が一緒なら、あまり心配はしなくてすむ。
 グレートがその手を、柔らかく握り返してきた。
 「心配かな、My Dear。」
 からかうように、うっすら笑って、グレートが言った。
 アルベルトは頬をかすかに赤らめて、心外だと言いたげにあごを引く。
 「当たり前だろう、フロリダや東海岸へ、ちょっと行くのとは違うんだ。」
 「なら、一緒に来ればいい。」
 ふと、視線に真剣さがこもる。
 アルベルトは、握られた手を、少しだけ自分の方へ引いて、それから目を伏せた。
 「俺は、あんたがいればいい、グレート。家族も思い出も、何も必要ない。」
 グレートは、握った手をテーブルの上に出し、いつにない、熱っぽい口調で、言葉を続けた。
 「My Dear、別におれは、おまえさんに強制するつもりはないんだ。ただ、ほんとうに、それでいいのか?」
 アルベルトは、視線を反らしたまま、静かに頭を振った。
 「おれも頑固だが、おまえさんの頑固には負けるさ。」
 しわの寄った口元から、あきらめの苦笑がもれる。
 その時、ドアが開いて、ウエイターたちが、料理の大きな皿を抱えて入って来た。
 ふたりは慌てて手を離し、何事もなかったように、別々の方向へ視線を泳がせた。


 帰りの車の中で、アルベルトは、少しばかり飲み過ぎたワインと老酒のせいで、くたりとシートに体を投げ出し、外を流れてゆく眺めを、ぼんやりと見やっていた。
 「来週じゃあ、準備に忙しくて、行く前も、会えないかな。」
 アルコールは、必要以上に舌を軽くし、人を素直にさせる。まるで子どものような甘えた口調で、アルベルトはグレートに話しかけ続けていた。
 「あんたはいつもそうだ、何も言わずに、勝手に決めて、俺はいつだって待ってるだけだ。」 
 「だから、一緒に来いと、言っている。」
 酔っているのを知っていて、グレートは、アルベルトの頬を撫でながら優しく答える。
 「行けない、行きたくない、あんなところに、戻りたくない。」
 まるで子どもが駄々を言うように、とりとめもない言葉を、無造作に並べてゆく。
 熱い、と言って、アルベルトは上着を脱いで、シャツのボタンを外した。
 グレートに向き直り、いきなり、グレートの首からネクタイを外そうとする。
 「アルベルト、おまえさん、思ったより酔っ払ってるな。」
 少しだけ、顔を引きしめて言うグレートの、シャツのボタンを引っ張る。
 「ここが車の中だってことは、ご存じかな、My Dear。」
 アルベルトは何も言わず、シートの上に、グレートを押し倒した。
 アルコールの匂う息を、グレートの唇にかぶせ、酔っ払っていれば、何をしても許されると、冷静に思う自分がいた。
 思うさま、グレートの唇と舌を貪って、ようやく濡れた唇を外し、それでもまだ、頬の触れそうな距離でアルベルトは言った。
 「しばらく、会えないんだろう?」
 「だが、今夜はまだ時間がある、My Dear。」
 「足りない。待てない。」
 後部座席の気配を察したらしいジェロニモが、車のスピードを少しだけ落とした。
 「ここがいやなら、車を止めて、あんたを外に引きずり出したっていい。」
 グレートが、腕を伸ばして、アルベルトの銀色の髪に、そっと触れた。
 「・・・夜露は体に悪い。しかし、こんなところで愛を交わすほど、我々は若くもない。」
 「じゃあ、若くないってことを証明してくれ。」
 言うなり、グレートのズボンに手をかけ、アルベルトはそこに顔を埋めた。
 アルベルトは、動揺していた。
 グレートが、確実に安全とは言えない旅に、出掛けてしまうために。グレートが、アルベルトの祖国のことを口にしたために。そこを懐かしいと思うよりも、疎ましく思ってしまう自分に、気づいてしまったために。
 酔いのせいではなく、そんな動揺を隠すために、アルベルトはこんなところでこんなことをしようとしている。
 グレートはもう、アルベルトを止めようとはせず、ジェロニモに、別の道を行くように言った。それから、車の前部と後部を分ける、黒いガラスの仕切りを、スイッチを入れて、上げた。
 少しばかりの、ささやかなプライバシー。
 ジェロニモが、ラジオをつけて音量を上げたのか、クラシックが、前の方からかすかに流れ始める。
 もどかしく服を脱ぎ、後部座席の狭さに、少しばかり罵りの言葉を口にしながら、アルベルトはグレートの上に乗った。
 なにか、非日常的な激しい行為で、自分の頭の中を空っぽにしたかった。
 むやみに動きながら、いつもより高く声を上げ、ふと、グレートを見下ろすと、憐れみの浮いた、はしばみ色の瞳に出会って、不意に背筋が凍る。
 何もかも、見透かされているのだと、唐突に理解する。
 アルベルト、と、細く名を呼ばれた。
 聞こえないふりをして、アルベルトは、目を閉じて躯を動かし続けた。