「あらし」


6) Without You

 ありがたくない訪問客は、またやって来た。今度は、紅茶を抱えて。
 「砂糖抜きで、ミルクたっぷりだろ?」
 あの、無邪気にも見える笑顔を浮かべて、大きな紙のカップを差し出す。
 アルベルトは、苦笑ではあったけれど、思わず微笑みを返してしまった。
 客のいない店の中で、取引もない今日は、ジェットを邪魔にする口実もなく、アルベルトは、あきれて肩をすくめてから、また苦笑をもらした。
 コーヒーの香りのする紙のカップを片手に、ジェットは静かに店の中を歩き回って、時折並んだ本に手を触れては、顔を傾けて本のタイトルを読んでいた。
 薄い本を取り出し、表と裏を返し、それから、表紙をめくる。一度だけ中を眺めて、また本を棚に戻す。
 本の中で、居心地悪そうに、肩をすくめている。
 本を読むタイプでは、明らかにない。字さえ読めるのかどうかあやしいと、アルベルトは思った。
 「アンタ、こんな店で、食ってけるのか?」
 英語らしい表現の、ひどくぶしつけな質問だったけれど、アルベルトは、カウンターで読んでいた書類から目を上げ、背の高い青年の方を見やった。
 「だから、誰も雇わずに、ひとりでやってるんだ。」
 ふーんと、納得したのか、それとも単なる相槌か、青年はまた、本棚の上の方を見上げた。
 「そっちこそ、昼間から、ずいぶん暇そうじゃないか。」
 ジェットは、ふんと鼻先で言って、肩を大げさにすくめて見せた。
 「車の修理工で、クビになったばっかりさ。失業保険まで、まだ2ヶ月もあるんだぜ。」
 「それで、強盗の真似事なんかしようと思ったわけか。」 
 語尾にかぶせるように言うと、ジェットが、少しばかり生意気な表情を見せる。
 「アンタ、何が何でも、オレを強盗にしたいらしいな。」
 「違うのか?」
 ジェットが、本棚から離れ、ゆっくりとこちらへやって来る。歩き方も表情も、自分を大きく見せようとしているのが、滑稽なほど明らかだった。
 「強盗じゃなくて、殺し屋だったらどうする?」
 アルベルトは、思わず、止める間もなく吹き出していた。
 ジェットが、鼻白んで、唇を突き出したのにも気づかず、ひどくおかしそうに笑い続けた。
 「そんな、スキだらけの殺し屋がいてたまるか。硝煙の匂いもしない、あちこちにべたべた指紋を残す、そんな殺し屋に、誰が大事な仕事を任すんだ?」
 「アンタ、いちいち頭に来ること言うな。」
 「悪かったな、よそ者で、英語の使い方を知らないんだ。」
 この間、ジェットによそ者呼ばわりされたことに対する、アルベルトにしては子どもっぽい意趣返しだった。案の定、ジェットは顔を真っ赤にし、まだ、くつくつと笑い続けるアルベルトを、頭上から見下ろしている。
 「で、ホントにアンタ、なにやってんだよ?」
 カウンターにコーヒーを置き、アルベルトがようやく笑いをおさめた頃、ジェットがぽそりと尋いた。
 ふと、視線をきつくして、アルベルトはジェットを斜めに見た。
 「どういう意味だ?」
 にやりと、歳に似合わないふてぶてしい笑みを、口元に刷く。ジェットは、囁くように、言葉を継いだ。
 「どうせ、アンタも売人だろ? 扱ってるのがなんだか知らないけどさ、マリファナか何か、ガキ相手にでも売ってんのか?」
 始末の悪い輩だと、アルベルトは、かすかに口元を歪める。
 回転の速い頭はないけれど、同類を見抜く嗅覚は、充分に鋭い。あちこちをかぎ回り、うまい話は転がっていないかと、ろくでもないことに鼻を突っ込みたがるタイプだ。
 突っ込んだ先が、どんなところか、思い巡らす頭はない。だから、便利に使われ、刑務所へ送られる羽目になるか、警察の安置所で、冷たい死体になって、家族を泣かせる羽目になる。
 アルベルトは、静かに頭を振った。
 「大した想像力だな。小説家になれば、とんでもない話が書けそうだ。」
 「おトボケがお上手で。」
 茶化すように、ジェットが言った。
 今度は、アルベルトが鼻白む番だった。
 生意気なガキだ。誰かに思い知らされるまで、絶対に自分がへまをやるとは思わない。気づいた時には、ひどい火傷で骨まで炭になっている。
 どうしようもないチンピラだなと、アルベルトは舌打ちしたい思いに駆られた。
 会話の途切れた間に、アルベルトは、そっとジェットを盗み見た。
 背の高さに負けないほど、長い手足。華奢にさえ見える体は、けれど服を脱げば、意外な厚みがありそうだった。首筋から鎖骨に降りる線の張りが、ふと、眩しくさえある。若いなと、アルベルトは何度目か、またそう思った。
 腕っぷしでよりも、女を口説くことで、充分ストリートでは生き残れそうだと、そんなことを思う。
 喜んで貢いでくれる女のひとりやふたり、簡単に見つかるだろうに。けれどそれは、男の誇りが許さないとでも思っているのだろうか。
 そんなことを考えていると、不意にジェットが、カウンターの上の、アルベルトの右手を指差した。
 「アンタ、その手袋、何なんだよ。」
 きっちりとはめた、黒の革手袋を差して、ジェットが、平坦なトーンで尋く。
 思わず隠そうとして、けれど手を止めて、薄い笑いを含んだ視線を自分の掌に当てる。
 何か、魔が差したとしか言いようのない気持ちがわいたのは、その時だった。
 「義手だ。あんまり、見て気持ちのいいもんじゃない。だから、こうして隠してる。」
 さらりと、ジェットを真正面から見つめたまま、そう言った。
 「義手?」
 ああ、とうなずいて、笑って見せる。
 ジェットの瞳が、好奇心に光ったのを、もちろん見逃さない。
 何をしているのだろうかと、どこかで声がする。
 誰にも、この腕のことを自分から言ったことはなかった。誰にも、わざわざ知らせる必要などなかった。秘密というほどの秘密ではなくても、アルベルトにとっては、過去の傷口だったから。
 この街で、わざわざ弱味を人に見せる馬鹿はいない。見せれば、次の瞬間には食い殺される。
 黙ってしまったジェットの傍をすり抜け、アルベルトは、店の扉の内側のサインを、開店から閉店に変え、鍵を閉める。それから、夕方店を閉める時のように、通りに面した窓のカーテンを引いた。
 急に薄暗くなった店の中で、ひとりぽつんと立っているジェットに振り返り、アルベルトは、うっすらと笑って見せる。
 目元が笑っていないことに、ジェットが気づいたのかどうかは、わからなかった。
 一体何をするつもりかと、いきなり顔を硬張らせたジェットの腕を引き、アルベルトは、店の奥へ向かってあごをしゃくった。
 「来いよ、見せてやる。」
 ジェットは、逆らいもせず、けれど目は、驚きに大きく見開いたまま、おとなしくアルベルトの手に従った。
 事務所になっている、奥の小さな部屋へ入り、アルベルトは、わざと静かにドアを閉める。
 緊張に、肩の線を硬くしたジェットが、アルベルトから視線を外さない。
 アルベルトは、芝居めいた仕草でジェットを見つめ返し、ゆっくりと革の手袋を外した。
 誰かの目の前に、こんなふうにこの手を晒すのは、もしかすると初めてだろうかと、心のすみで思う。グレートしか知らず、彼にしか見せず、彼だけが触れる、アルベルトの機械の右手。
 後ろにある小さな机の上に、またゆっくりと、外した手袋を放り、身じろぎもせずに自分を見つめているジェットの目の前で、アルベルトは上着を脱いだ。ぱさりとそれも机に放り、ジェットから視線を外さずに、アルベルトは、黒のタートルネックのシャツのすそに、手をかける。
 しゅるっと、首から抜ける時に、柔らかな音がした。ざりっと髪とシャツがすれ合い、乱れた毛先が頬に散る。
 軽く頭を振って髪を払い、アルベルトはまた、ジェットに、挑むように笑いかけた。
 白く浮き上がる、上半身。その半分近くは、鉛色の金属片に覆われている。右腕と右肩と、胸の右の部分の大半が、まるで機械の部品のような、そんな様を晒している。
 ジェットは、まるですくんだように、少し肩を引いて、頬の線をかすかに震わせていた。
 驚いて声も出ないのかと、思わず笑ってやりたくなる。
 このまま、部屋を出て行ってしまうかと思ったジェットが、不意に、アルベルトに向かって手を伸ばした。
 長い指だった。
 無言で、けれど何か言いたげにかすかに唇を開いて、アルベルトの右肩の、皮膚との接ぎ目に触れる。
 肩を辿り、肘の辺りに降りて、手に触れるジェットに指の動きを、アルベルトは黙って見ていた。
 ふと、その腕が、自分を引き寄せる幻を、見る。
 ひどく間近にいる、ほとんど出会ったばかりの他人の体を、アルベルトは、不意に皮膚の上に感じたような気がした。
 ジェットの手が動き、アルベルトの頬に触れた。
 その手に上向かされ、ジェットの、言いようのない瞳の色に出逢う。
 単純な驚き、それからかすかな動揺、憐憫に似た何か、好奇心、そんなものが混ざり合った、視線。
 「アンタ、一体・・・」
 ようやくそれだけ言ったジェットの手を、アルベルトは冷たい仕草で払いのけた。
 もう相手にはしないと、表情を消した横顔に言わせ、背中を向けて、机からシャツを取り上げる。
 「わかったら、とっとと出て行け。もう、ここには二度と来るな。」
 硬い声。突き放すように、素っ気なく言った。
 シャツに首を入れ、また、鉛色の膚を隠す。
 ジェットの方を見ずに、ゆっくりと手袋をはめ直した。
 まだ何か言おうとしたジェットを、鋭くにらみつけて、アルベルトはもう一度、低い声で言った。
 「出て行け。」
 視線に射すくめられたように、細いあごを胸に引きつけて、ジェットは黙って部屋から出て行った。
 騒がしい足音の後に、ガランガランと、表のドアにつけたベルがうるさく鳴る。
 突然静かになった部屋の中で、アルベルトは手にした上着を着ることもせず、ため息をこぼしながら立ち尽くしていた。


 いつもよりも早く店を閉め、アルベルトは、晴れない気分のまま家へ帰った。
 わざわざ見せる必要もないものを見せ、あれできっと充分脅しになったろうから、二度と顔を出すことはないだろうと思いながら、何故自分があんなことをしたのか、アルベルトには理解できなかった。
 手元に引き寄せて、突き放すような真似をしたのは、どうしてなのだろう。
 わからないと、運転中に何度も頭を振って、アルベルトはまたため息をこぼした。
 廃工場の、横の入り口から中へ入り、そこから鉄の階段を上へ上がる。見慣れたドアの前に立って、アルベルトはグレートを思った。
 ハンガリーから、まだ連絡は一度もない。あるはずがないと思いながら、それでも、もしかするとと思わずにいられない。極秘の旅先から、情人に電話を入れるほど、グレートが軽率なわけはないけれど、けれど、自分になら、声を聞かせてくれるかもしれないと、思わずにいられない。
 ぼんやりと、そんなことを考えながら、アルベルトはドアを開け、中に入った。
 明かりをつけ、空の部屋の中で、またため息をつく。
 その時、不意に、背後に人の気配がした。
 振り向いたそこに、ジェットがいた。
 「アンタ、ずいぶんぼんやりだな。」
 そういう手に、さっきドアを開けた鍵が、ぶら下がっている。
 「こんなとこ、誰も来ないだろうけど、ドアにカギ差しっ放しなんて、不用心だぜ。」
 思わず、空の手を見て、不意にわいた怒りに、頬が赤くなる。
 「尾けて来たのか?」
 鋭く問うと、今度はジェットもひるまずに、笑いもこぼさず、細めた視線でアルベルトを見た。
 「あれだけ人のことコケにしたくせに、尾けられてるのに気づかないなんて、アンタもけっこう抜けてるよな。」
 自分の迂闊さに、舌を噛み切りたい思いがした。
 ジェットが投げて寄越した鍵を受け取って、アルベルトは、皮膚に食い込むほど強く、鍵の束を握りしめる。
 「そう邪険にすることないだろう。オレはアンタが何者なのか、興味があるだけだぜ。」
 「"Curiosity kills the cat"(好奇心は猫を殺す)。」
 冗談めかしたジェットの口調に、ぴしりと返すと、ジェットがまた、やれやれとでも言いたげに軽く首を振る。
 「アンタも、ほんとに食えねえヤツだな。」
 言いながら、ジェットは部屋の中に入って、ドアを閉めた。
 身構えたアルベルトに向かって、両手を上げて見せ、表情を和らげて、害意のないことを示そうとする。
 肩を落として、アルベルトは、あきらめたように言った。
 「知らない方がいいこともあると、思わないか?」
 「いいかどうか決めるのは、オレだぜ。」
 「知った後で、後悔しても?」
 「後悔するのは、オレであって、アンタじゃない。」
 勝手にしろと、アルベルトは口の中でつぶやいた。
 右手から手袋を外し、床に投げつけた。
 わけのわからない衝動が、体の底からわき上がる。
 危険を承知で、獣の前に飛び出す感覚と、それは似ているような気がした。
 つかつかと近づいて、アルベルトは衝動のまま、ジェットの両腕をつかんで引き寄せた。
 体を引きかけたのを許さず、長身のジェットの肩に向かって、伸び上がる。
 歯がぶつかって、音を立てた。接吻とも言えない、不様なキスだった。
 突き飛ばすように体を離すと、顔を赤らめたジェットが、口元を押さえて、目を大きく見開いていた。
 「そういうことか、アンタ。」
 ひとり言のように言ったジェットに、アルベルトは、なぜかひどく優しい笑みを見せる。
 「知りたいと言ったのは、そっちだろう。」
 それから、その笑みを、侮蔑の表情に変えようとしたアルベルトを、今度はジェットの両腕が引き寄せた。
 「後悔するかどうかは、オレが決めるって言ったよな?」
 耳元で、ジェットがそう囁いた。
 床に押し倒されながら、シャツの下に滑り込む、長い指を感じた。
 かぎ慣れた、コロンの匂いが、するはずもないのに、その香りを求めて、首筋に顔を埋める。
 赤い髪に、金属の指先を差し入れながら、欲しい、とアルベルトは思った。
 何を、か、誰を、かはわからなかったけれど。
 自分に重なる、長い体。首に絡みつく、長い腕。背中に回る腕の位置が、いつもと違うことに、かすかに戸惑いながら、アルベルトは熱くなる自分の躯を、止められなかった。
 グレート、と、目の前で動く、厚く筋肉のついた肩に向かって、アルベルトは小さくつぶやいていた。