「あらし」


7) Long Ago

 床の上で、先へ進もうとしたジェットを止め、ベッドに移ってから、アルベルトは乱れながら、声を殺した。
 グレート以外の誰も、足を踏み入れたことのないこの部屋で、アルベルトは、ほとんど見知らぬ他人の男の腕の中で、グレートとは違う動きに戸惑いながら、それでも次第に、その動きに溺れていった。
 技巧もへったくれもない、性急なだけの行為は、アルベルトの好みではなかったけれど、がむしゃらに動きを合わせながら、いつか我を忘れていた。
 ジェットは、珍しそうに、アルベルトの腕に触れ、指先を、口に含みさえする。歯を立てられ、アルベルトはお返しに、ジェットの耳を強く咬んだ。
 荒い息をおさめもせず、ジェットが背中に抱きついてくる。
 汗に濡れた体はまだ熱く、また熱が甦ってくる予感に、アルベルトはふと怯えた。
 何が起こったのだろうかと、思う。
 何をしているのだろう。グレートはここにはいない。ここにいるのは、出逢ったばかりの、自分の名さえ告げていない、若い男だった。ジェットというその名が、本名かどうかさえ、知らない。
 不意に、首をねじ曲げられ、愛しげな接吻が降って来た。
 体が避けるよりも、唇が先に、それに応える。長い腕が、首に回った。
 グレートではない、からだ。長い手足。肩は広くはないけれど、それでも、アルベルトと比べて、見劣りがするわけでもない。張り切った皮膚は、指を食い込ませた跡さえ、残さない。
 硬い背骨を、指先でなぞってから、また、始めようとしたジェットの胸を、アルベルトは押し返した。
 「アンタ、まさか、こういう商売してるわけじゃないよな?」
 体を売っているのかと、訊かれているのだと悟ってから、侮辱に頬を赤く染めて、アルベルトは思わず左手を振り上げた。
 その手を難なくつかんで、殴られるのを避けると、ジェットは、にっと笑って見せた。
 「冗談も通じねえのか、アンタ。」
 つかんだ手首を、頭上に縫いつけると、また、柔らかく唇を重ねて来る。
 触れ合わせただけで、体を起こすと、ジェットが、上気した顔で訊いた。
 「バスルーム、どこだよ?」
 体を起こす気にもならず、ドアの方を、指で差し示す。
 ジェットは全裸を隠しもせず、指差された方へ、そのまま歩いて行った。
 水を使う音を聞きながら、アルベルトは気だるげに、ベッドに起き上がった。
 不自然にねじ曲げた、首や腕や脚が痛む。体の中心の、軽い、けれど鈍い痛みが、ジェットの激しさの名残りだった。
 正確には、アルベルト自身の、激しさでもあったけれど。
 事情のない限り、いつも穏やかで静かな、グレートの交わりとは、似ても似つかない。体を痛めつけるようなことは、滅多にしない。
 一緒に、高みへ昇りつめるよりも、いつもアルベルトだけが、グレートの手でそこへ導かれる。熱くなるアルベルトを、グレートはいつも静かに見下ろしていた。
 ジェットは違う。アルベルトのことなどお構いなしに、無我夢中になって、自分の動きに没頭する。その熱さに煽られて、アルベルトも、知らずに熱くなっていた。
 ガキじゃあるまいし。
 まるで、他人と躯を繋げることを、覚えたばかりの、子どものように、稚拙で、激しさばかりが先走る。躯の奥深くをこすり合わせて、それを互いを知り合うことだと誤解できる純粋さの残る、まだ物を知らない間にだけ許される、交わり。
 求め合っているのだと、盲目的に錯覚できる純真さは、無知と幼稚の裏返しでしかない。
 アルベルトは、苦笑いに唇を歪めた。
 グレート、と思った。
 ひどく遠く、懐かしい。
 罪悪感よりも、自分が、どれほど深くあの男に結びつけられているのか、アルベルトは甘い疼きとともに思い知っていた。
 それでも、躯の奥の熱は、今は別のものを求めている。
 ゆらりと体を起こし、アルベルトは、うつろに部屋の中を見回した。
 かすかに開いた、バスルームのドアへ、引き寄せられるように、重い足を運ぶ。
 途中で、床に脱ぎ捨ててあったシャツを拾い上げ、袖を通した。
 もれる湯気に、思わずあごを引きながら、アルベルトはバスルームの中へ入った。
 ジェットが、ちょうどシャワーを止めて、シャワーカーテンを開いた。
 赤い髪から水を滴らせ、その間からアルベルトを認めて、にいっと笑う。
 「アンタも、浴びるのか?」
 別に、と素っ気なく背中を向けようとすると、肩をつかまれ、引き寄せられた。
 「来いよ。」
 シャツを脱がしもせずに、ジェットはまた、シャワーのコックを開いた。
 熱い湯の下で、濡れたシャツが膚に張りつく。その上から、ジェットが舌を滑らせた。
 そこだけが、上半身で唯一生身らしい、片方だけ残った、尖った胸の突起に、ジェットがシャツごと歯を立てた。
 狭いバスタブの中に、ふたりで倒れ込みながら、流れる湯に滑る体を必死に支えて、また、躯の熱を交換する。
 ジェットの舌が、薄紅い突起を、玩ぶように弾いた。肩を揺らしながら、もどかしげに、アルベルトは濡れたシャツを自分で剥ぎ取った。
 隔てのない、濡れた体を重ねて、忙しく唾液と舌を絡めながら、ふたりは互いの下腹に手を伸ばす。
 不意に立ち上がって、ジェットが、アルベルトの髪を軽く引っ張った。
 鉛色の右手をつかんで、自分のみぞおちに触れさせる。
 下から見上げたアルベルトに向かって、ジェットはほら、というように軽く体を揺すった。
 「その右手で、さわってくれよ。すげえ妙な感じだ。」
 ジェットの瞳の緑が、いっそう淡く見える。
 アルベルトは、右手を添えて、それから、ゆっくりと唇を近づけた。
 息を吐く音が、頭の上で聞こえる。ジェットの手が、力を込めずに、アルベルトの額に触れた。
 見た目も、機能も同じなのに、触れれば、かすかな違いがわかる。
 自分のそれとも違えば、グレートのそれとも違う。
 舌を滑らせて、水音に紛れて、アルベルトはわざと濡れた音を立てた。
 時折、思い出したように、みぞおちの辺りに触れると、固い腹筋が、さらに硬くなるのを掌に感じる。
 いずれは、自分の中へ入り込む熱の塊を、舌の上で育てながら、アルベルトは、開いた喉の奥まで、ジェットを飲み込んだ。
 唇を外して、濡れた口元を拭いながら見上げると、熱に浮かされたように、流れる湯のせいばかりでなく、首筋から上を真っ赤に火照らせたジェットが、ぎらぎらと光る瞳でアルベルトを見下ろしている。
 倒れるように、またバスタブの中へ膝をつくと、ジェットは、ものも言わずに、アルベルトの両脚を抱え上げた。
 バスタブのふちに背をもたせかけ、そこに両手をかけ、アルベルトは、不自然な形に体を支えようとした。
 ジェットが、昂ぶった躯を、もう容赦もなく、突き上げてくる。
 「アンタ、すげえ淫乱だな。店で、あんな涼しい顔してるくせに。」
 息を切らせながら、憎まれ口は忘れない。
 顔を歪めて、切れる息の下で、
 「だま、れ。」
 ようやくそれだけ、ぴしりと言った。
 体を浮かせたまま、アルベルトはジェットを受け入れた。
 水が、外に跳ねる。
 ジェットの上げる声が、バスルームの壁に響いた。
 押し込まれるジェットの形に、必死にアルベルトの躯が添おうとする。
 ひときわ強く押し広げられて、それから、不意にジェットが、アルベルトの腰を抱いた。
 そのまま、ジェットはアルベルトを自分の上に抱え込んだ。
 バスタブの中に坐り込み、自分の上にアルベルトを乗せ、ジェットは、アルベルトの右の掌に、音を立てて接吻した。
 「今度は、アンタが動けよ。」
 にやりと、ジェットが笑う。
 「この、ガキ。」
 ジェットの指が、すいと後ろに伸びる。
 触れられて、躯が揺れた。
 声を上げそうになって、それを殺すと、アルベルトは、観念したように、ゆっくりと動き始めた。
 ジェットの掌が、アルベルトの、勃ち上がった熱を、包み込みに来る。
 握られて、思わず腰が逃げた。
 真正面から、こんな姿を見られることに耐えきれず、動きながら、ジェットの両目に、掌をかぶせる。
 生身の掌と、鉛色の掌。ジェットの視線を遮って、額にはりついた赤い髪を見ながら、アルベルトはようやく、思い切り声を放った。


 濡れた体を互いに拭いて、ベッドに戻って、また躯を繋げた。
 バスルームの床に、濡れたタオルと、アルベルトのシャツが、放り出されたままでいる。
 癇性なアルベルトが、そんなことにさえ気が回らないほど、疲れきっていた。
 力の入らない体を、ぐったりとジェットに預け、その膝の間に抱かれて、もう、ジェットの手がどこに伸びようと、振り払う気配さえない。
 ジェットは、抱きしめたアルベルトの、額や首筋や耳に、ようやく穏やかになったキスを落としながら、髪をすき続けている。
 「アンタ、名前は?」
 囁くように、耳元で、ジェットが訊いた。
 「聞いて、どうする?」
 だるそうに、素っ気もなく、アルベルトが軽く首を振った。
 「アンタはオレのを知ってて、オレがアンタのを知らないのは、フェアじゃないだろう。」
 声に、甘さがにじむ。
 躯を繋げて、馴れ合ってしまったふたりの間でだけ、使われるべき、声のトーン。共犯者同士かと、アルベルトはふと思った。
 声を、わざと細くした。
 「アルベルト。」
 一度だけ、言ってやった。
 口移しに、ジェットが繰り返すのを聞いて、何故か、耳の辺りに甘く響くのを、アルベルトは、かすかな恐怖とともに感じた。
 「アルベルト。」
 ジェットが、アルベルトのそのままの響きではなく、英語の発音に近く囁いて、体を傾けた。
 アルベルトのあごを持ち上げ、また、そっと唇を重ねる。
 もう、激しさは使い果たされ、残り火のようにくすぶっているのは、アルベルトには気だるさと、ジェットには誤解だけだった。
 眠りは、遠くへあった。体は内側から疲れているのに、頭の中は、ほんの一筋だけが、澄みきっている。極限まで張りつめた糸のように、そこだけが、今にも切れそうに緊張している。
 ジェットの手が、アルベルトの右の胸を撫でた。
 「アンタ、この手、どうしたんだよ。」
 右側に向かって、あごをしゃくって、ジェットが尋いた。
 「交通事故かなにかか?」
 質問の陳腐さが、今は滑稽だった。
 腹を抱えて、大声で笑いたいと思ったけれど、もう、そんなことさえ億劫だった。
 平たい声で、まるで、空が青いのが気に食わないと文句を言うような口調で、アルベルトは、答えてやった。 
 「チョーンソーで、切り落とされたんだ。」
 ジェットが、答えを反芻して、一瞬黙る。
 「誰に?」
 「ポルノ業者。スナッフ・フィルムを撮るために、殺されるはずだった。」
 ジェットが、軽く頭を振ったのが、アルベルトの肩に伝わった。
 「スナッフ・フィルムって、あれか、人殺しの実写映画っていう、あれか。そんなこと、現実にあるわけねえだろ。」
 声が震えているのは、ああ、もちろん冗談だと、言ってほしいからだ。
 「冗談だと、思うか。」
 気だるげな気配は一瞬に消え、声に、低く凄みが戻る。
 ジェットが、後ろで、息を飲んだのが、聞こえた。
 ジェットの胸から背中を浮かせ、アルベルトは、自分の右肩を撫でた。
 肩越しに、軽く振り返り、青ざめた顔色で、自分を凝視している、まだ若い男を見やる。
 斜めに、冷たい視線を送って、アルベルトはまた、滑稽さに笑い出したくなった。
 少しばかり、冗談めいた声音で、言ってやる。
 「知らない方がいいこともあると、最初に言ったろう。」
 ジェットの瞳に、ふと、小さく恐怖が浮かんだ。
 その、硬張った頬に、右手を伸ばし、アルベルトは体をねじって、優しく冷たい接吻をした。