「あらし」


8) 新世界

 新世界は、相変わらずやかましく、日長一日がちゃがちゃと、人々が声高に喋っている。
 もう1年になるというのに、いまだ彼らの英語に慣れられず、ついイギリス訛りを誇示してしまうのも、グレートの、そんな思いの現れだった。
 ここへグレートを連れて来た、張と言う名の中国人と言えば、ひどい中国語訛りを気にするふうもなく、声高にしゃべる、聞き取りにくい英語で、周囲を煙に巻いている。
 英語、わからないフリしてるくらいがちょうどいいアル。
 そうして、相手が自分を侮れば、追従するふりもしやすくなるというわけだった。
 相手をおだて、掌の上で踊らせる。相手は、乗せられているのだと気づきもせず、張の言いなりになる。
 大したもんだ。
 我が身と引き比べ、張の世渡りのうまさに舌を巻きながら、これこそが、人の上に立つ人間に必要な資質なのだろうと、その自分にまるきり欠けた部分について、ふと苦笑をもらす。
 でなければ、自分の命を狙おうとして失敗した、3流以下の殺し屋など、仲間に引き入れようなどと、するはずもない。
 路上に、吸っていた煙草を落として踏み消し、ちらりと周囲をうかがってから、グレートは、張の店の中に入った。
 もう、そろそろ薄暗くなり始めているこの時間、中国料理の店は、夕食を楽しむ、この街に住む中国人でいっぱいで、ちらほらと、白人の顔も見えた。
 テーブルの間を、わき目も振らずにすり抜け、何人かのウエイターに、軽く会釈を返し、グレートは、店の奥にある、張がいるはずの事務所へ向かった。
 安っぽい木の、上半分がすりガラスになっているドアを軽くノックすると、張の声が中から返って来た。
 きっちりと前のボタンを止めた、茶色の厚いコートを脱ぐこともせず、グレートは静かにドアを開け、すでに先客がいるのに、少しだけ驚いた。
 「ブリテンはん、来たアルか。」
 いつもの陽気な声に、よお、と軽く挨拶し、張のいる机の前の椅子に坐ったままの人物に向かって、かすかにあごをしゃくって見せる。
 「ああ、ジョーアルよ。心配いらないね。」
 振り向かない、薄茶色の髪の持ち主の正体に、グレートは、ぴくりと眉を上げた。
 ドアをまた静かに閉め、ふたりの会話の続きを促すつもりで、グレートは、ドアの傍に立ったままで、中へはそれ以上踏み込まなかった。
 ジョーという、その椅子に坐って、こちらに背を向けている人物は、振り向きもせずにまた、話を続けた。
 「張大人、やる価値は充分ある。獲物はいくらでも手に入る。欲しがる奴らは腐るほどいる。一本撮れば、それだけで充分だ。他と差をつける、いいチャンスです。」
 張が、グレートに声をかけた時とは打って変わって、苦い顔を見せる。
 何かまた、新しい取引の話かと、グレートは思った。
 ジョーが、熱心に張を口説いているらしいけれど、張はそれほど、魅力を感じない話らしい。
 何の話だろうかと、グレートは少しだけ興味を覚えた。
 「とにかく、今日の市で、どっちにせよ何人か、また買うなら、ひとりやふたり、こちらに回してくれたっていいでしょう。さっきから言ってるように、すでに何件か打診が来てます。フィルムがあるなら、少々の金は惜しまない、と。顧客のニーズに応えるのが、商売人の指命だ、そうじゃないですか?」
 流れるように、ジョーが言い続ける。抑えた声は、まだ若く、けれど声の強さが、野心の強さをそのまま表しているような、そんな声だった。
 グレートは、胸の前に腕を組み、壁にもたれて、会話の行く先を、それほど興味も示さず見守っていた。
 「もうちょっと考えたいアル。そこまでしたいと思わないアルよ。」
 「でも、他と同じことをしてても、この街じゃ生き残れない。」
 「あんまりハデにやると、どこで恨みを買うか、わからないアル。」
 「だから、こういう、ゲリラ的にやるのがいいって、言ってるでしょう。」
 張は、机の向こうで苦り切った顔のまま、両の掌を胸の前に上げ、止まれ、という仕草をした。
 「考えとくアルよ。今夜の市で、良さそうなのがいれば、また話するアル。」
 「ほんとうに、考えておいて下さいよ。」
 椅子から立ち上がりながら、その若者は、念を押すように言った。
 こちらに体を向け、きれいな笑顔を見せる。
 明らかに、白人と東洋人の混血とわかる甘い顔立ちの、大きな薄茶色の瞳の青年だった。
 「今夜は、大人とお出かけですか?」
 にっこりと笑っているように見せて、目元はちっとも笑っていない。見かけに騙されると、ひどい目に遭う種類の人間だ。
 張の客分のグレートに、敬意を示すために、笑ってはいるけれど、それは営業用のお愛想笑いに過ぎない。
 それをわかっていて、グレートも、見せかけだけの愛想を口元に浮かべて、
 「ああ、用心棒として呼ばれてね。」
と、どうにでも取れる答えを返しておく。
 腹の探り合いは、あまり好きではない。するりと視線を外し、グレートは、張の方へ向いた。
 ジョーは、じゃあ、と言って、グレートのわきをすり抜けて、静かに部屋を出て行った。
 「何だか、厄介そうな話だな。」
 足音が、完全に去ってしまった頃、グレートは、まだ苦り切った表情のままの張に、話しかけた。
 「なかなかあきらめてくれないアルよ。うまい話アル、でも、ちょっと心痛むネ。」
 「何の話だ?」
 張が、ちらりと上目にグレートを見た。
 両手を背中の後ろに組み、声を低めて、ジョーとの話の内容を説明し始める。
 「金持ってる連中が、ヘンなもの、欲しがってるアル。」
 「金持ちの気持ちなんて、おれにはわからんね。何だ、新しいヤクか何かか?」
 「殺人映画、アル。」
 嫌悪を込めないために、平らな声で、張がするりとそれを口にした。
 「殺人映画?」
 高くなりそうな声を抑えて、グレートがそのまま繰り返した。
 「誰か殺して、それを映画に撮るアル。ジョー、それやりたいって、ずっと言ってるネ。」
 「・・・・・・素晴らしく悪趣味だな。」
 ジョーに対して感じる、小さな嫌悪感が、その映画についての嫌悪感と、ぴたりと重なった。グレートは思わず唇を歪め、目を細めた。
 「女か、男の子か・・・・・・いくらワイでも、映画のために人殺すの、ちょっと夢見が悪いネ。」
 「それでも、大金積もうって輩が、わらわらいるってわけかい。」
 「そうアル。それに、普通のことやってても、競争に勝てないアル。」
 張が、この街で作った組織の、売春の部分を仕切っているのが、さっきのジョーだった。
 表では、ストリップバーのマネジャーをし、裏では、ポルノ業者として、麻薬の次に、組織の大事な収入源の売春業を、あの若さで仕切っているのは、有能さはもちろんだったけれど、その野心の強さゆえでもあった。
 それでも、売春は、誰もができることだけに、組織間で競争が激しく、稼げる女の調達も含め、生き残りはそうたやすくはない。
 そのために、ジョーはそんなアイデアを、張に持ち出したらしかった。
 おそらく金にはなるだろう。ジョーが言っていたように、そんな映画を一本作れば、リスクが大きいからこそ、その一本だけでしばらく稼げるに違いない。
 グレートは、小さく息をこぼして、頭を振った。
 「元人殺しの前で、楽しみのための人殺しの話とは、あの若いのも、いい度胸だな。」
 「・・・・・・組織のためと言われれば、ワイも弱いアル。」
 背中を丸めた張の肩を叩いてやり、グレートは、ボスの気苦労をねぎらった。
 「否と言ってれば、そのうち諦めるさ。何しろあんたがボスだ。」
 「わかってるアル。でも、ジョーのこと、今組織には必要ネ。ツムジ曲げられると困るアル。」
 他の誰の前でも見せることのない、気弱な張の顔を眺めて、グレートはまた、優しく苦笑いをこぼした。


 市は、数ヶ月に一度、たいてい中国人の組織によって行われる。
 同国人しか信用せずに、この街---そしてこの国---で生き残っている彼らは、密なネットワークの中に、己れを組み込み、その中で、持ちつ持たれつな関係を保とうとする。
 明確なルールはなくとも、暗黙の了解を破れば、それ相応の罰があり、互いに握手を交わしながら、腹の探り合いをしている、そんな雰囲気があった。
 その中で、張は比較的積極的に中国人以外の人間を使い、他の組織との差別化を、あまりあからさまではなく計ろうとしていた。張の人柄のせいか、とりあえず人前では人当たり良く、腰も低いせいなのか、それに目をそばめられることは多少あっても、敵を作ることは少なく、この街に来て、まだ1年にしかならないというのに、張の名は、どこで開かれる市であれ、必ず招待される程度には知られている。
 市と言うのは、つまりオークションであり、そこで取引されるのは、主に盗品の美術品か、人だった。
 人。
 若い女と男、そして子どもが、主に市で売り買いされる。
 買われる先は、奴隷のような労働者が必要な工場かもしれないし、ほんとうの奴隷を求めている、物好きな金持ちかもしれない。でなければ、売春のために、商品を探している連中か。
 張が求めるのは、もちろん売春のための若い女で、まれに、子どもを買うこともあった。
 ひとりの女が一体いくらなのか、尋ねたことすらない。
 グレートはただ、中国人だらけの、たいていどこかの店の地下で行われる市に、張の用心棒として一緒に出かけるだけだった。
 グレートの顔を、いいかげん見知っているにも関わらず、いまだ市に行くたび、突き刺さるような視線を送る東洋人たちに、グレートは、にらみ返すこともせず、そっと目を伏せる。
 彼らに逆らわないことが、すなわち張に対する敬意の現れでもある。
 案内されたテーブルにつき、市そのものには興味もなく、グレートはいつものように、上着のポケットに、いつでも拳銃を取り出せるように手を入れたまま、周囲に油断なく視線を走らせていた。
 張が、これと思う人間を落とすたび、いちいち、退屈しているだろうグレートに気を使ってか、気に入った理由をひとりごとのように説明してくれる。
 それを、生返事で聞き流しながら、ふと、グレートは、前方にあるステージの部分に、視線を止めた。
 最初に目に入ったのは、いかにも柔らかそうな、銀髪だった。
 市にかけられる人間たちは、全裸でステージに引き出される。体を売られるのだから、すべてを客に見せるというのが目的なのだろうけれど、まだ胸のふくらみさえない少女が、震えながら、無数の視線に晒されるのは、どれだけ市に通おうと、直視に耐えない。
 その銀髪も、全裸の体をふらつかせながら、腕をつかまれ、薄い胸を突き出すように、ステージの前方に引き出された。
 銀色の髪に、グレートは思わず目を奪われた。
 胸に突き刺さってくる、痛みがあった。
 「良さそうアル。ジョーが気に入るといいアルね。」
 軽い口調でそう言った隣りの張に、グレートは思わず振り返った。
 「買うのか、あの銀髪?」
 もちろんだと言いたげに、張が胸を反らして見せる。
 ジョーのところへ行くのなら、さまざまな男や女たちのおもちゃになるのかと、グレートの胸は、また痛む。
 いつも感じる、張が年端もいかない少女を買う時とは、少し違う痛みに、グレートはこっそりと眉を寄せた。
 古い傷が、久しぶりにうずく。
 この街へ来てから、思い出すことのなかったことを、いきなり思い出して、グレートは狼狽を隠すために、目の前のグラスの水を、一気にあおった。


 若い女をひとり、男の子をふたり買って、金のやり取りをすませた後、張はグレートを伴って、自分の店に戻った。
 数本の電話をすませてから、ようやく一息ついたように、キセル煙草---細く長いパイプ---に火をつける。
 「今夜のは、まあまあだったアルヨ。」
 満足気にそう言って、吐き出した煙の行方を追う張をまっすぐに見て、グレートは、幾分声を低めた。
 「あれは全部、ジョー行きか?」
 今夜買った、"品物"のことだった。
 「そうアル。いつも通り、明日にはこちらに届くアルね。ジョーが引き取って、あっちの店に連れて行くアル。」
 買った人間なら、そうまでする必要はないけれど、それでも、そうして取引された人間たち---若い女と、子ども---は、たいてい2、3日は店の地下に監禁され、その間、休む間もなく、かわるがわる強姦される。
 ジョーも、それに参加するのかどうか、グレートは知らなかった。
 特に、どこからかさらって来たのなら、そうして体に恐怖と苦痛を叩き込み、逃げようとする気力を、まず挫いてしまう。そうなれば、自分の無力を思い知って、言われたことに逆らうなど、考えもしなくなる。
 それで言うことを聞かないなら、薬を使う。
 あんたもやるかい。
 たまたま、若い女---子どもと言ってもいい年齢に見えた---が買われて来たばかりで、張に頼まれてジョーの店に顔を出した時に、その、血と青い打撲の跡だらけの体にあごをしゃくって、張の部下のひとりが言った。
 女------少女は、もうぴくりとも動かず、青白い横顔が、乱れた髪に隠れ、まるで死体のように見えた。
 腕を組んで、部屋のすみで、ジョーは薄笑いを浮かべて、そのやり取りを見守っていた。
 遠慮しとこう。
 グレートは、顔色を変えずにそう言って、くるりと背中を向けた。
 その、涼しげな顔に、唾を吐きかける前に、部屋を出て行くべきだと、そう思った。
 これは、組織の仕事だ。自分が世話になっている、張の組織のやっていることだった。嫌も何もない。ジョーのやっている、汚い仕事は、つまりグレート自身は直接手を汚さないだけで、この組織に関わっていることで、その片棒を担いでいる。
 直接、あの少女に触れなかったとしても、それがつまり彼女を助けたことにはならない。彼らは直接彼女を犯し、自分は間接的に彼女を強姦している。それだけの違いだ。
 薄汚い人間なのは、ジョーにせよグレート自身にせよ、どちらも同様だった。
 それでも、とグレートは思う。
 自分のような人間が、持つべきでない、良心と呼ばれるものを、どうしても捨て去る気になれない。
 まともに生きるには良心が足らず、こうして悪人面するには、あまりにも気が弱すぎる。
 いや、気の弱さではない。グレート自身の、弱さだった。
 張の吸うキセル煙草の匂いに誘われ、グレートも、取り出した自分の煙草に火をつけた。
 口にすべきかどうか、ずっと考えていたのだと、ようやく気づきながら、グレートは煙を細く吐き出した。
 一仕事終え、今日一日を無事に過ごした安堵を、肩の辺りに浮かべている、体も鼻も丸い張に、グレートはゆっくりと声を掛ける。
 「張大人、お前さん、どのくらい、あのジョーって若いのを信用してる?」
 こんなことは、おそらく口にすべきではないのだろうし、よけいなお世話だと言われるかもしれない。人を見る目は、何しろ張の方がずっと上だ。
 たとえグレートが張の客分であろうと、組織の中では、ジョーよりもグレートの方が格下だった。ただの、ボスにたまたま気に入られてるというだけの、どこの馬の骨とも知れないちんぴらのグレートが、幹部級の誰彼のことを、ボスに向かって口にするのは、つまりはボスの顔に、唾を吐くようなものだった。
 張が、うかがうように、グレートを眺めた。
 「・・・・・・ワイの大事な仕事を、任せるくらいには信用してるアルよ。」
 「ああ、そうだろうとも。あの若さで、あれだけのことをやってる。頭が切れる、目端も利く、それに、野心家だ。」
 最後の単語を、一拍置いて、重々しく言った。
 その微妙なトーンを読み取って、張が、ふと黙った。
 グレート同様、行き場を失くしていた、父親を知らない混血の不良少年を、張は使えると踏んで引き取り、教育した。
 その、優しげな、まだ少年めいた外見とは裏腹に、こと女を、こちら側に引きずり込む術に長け、女は騙されたとさえ思わずに、ジョーのために、喜んで体を売った。
 今は、組織のために女---と子ども---を統べ、この競争の激しい中で、満足以上の成果を上げている。
 けちをつける必要は、どこにもない。下手なことを言えば、やっかんでいるのだと言われても仕方がない。
 それでもグレートは、どうしてもジョーを完全に信用する気にはなれない。あの、薄笑いの裏に見える、ひどく冷たい表情に、一抹の危惧を抱いていた。
 「お前さんには、釈迦に説法だろうよ、張大人、だがな、おれはどうしても、あのジョーが信用し切れなくてね。何か、いずれやらかすんじゃないかってね。」
 「わかってるアル。飼い犬に手を噛まれるの、ゴメンネ。仕事よくしてくれる、だから、大事にする、でも、気をつけるアルよ。」
 「お前さんの秘蔵っ子に、ケチをつけてるわけじゃないんだ。ただ、いきなり背中を刺されるなんてことは、ないように、よく見といた方がいい。」
 「そのタメにアンタはんがいるアルよ、ブリテンはん。」
 張が、茶化すように言った。
 ふん、とグレートは鼻先で笑った。
 違いない。そう言い返して、また笑いながら、最後の一服を胸に深く吸い込む。
 煙草をもみ消そうとして、灰皿の中にたまった白っぽい灰に、また、ふとあの銀髪の少年のことを思い出す。
 かわいそうに。思わずそう思ってから、突然狼狽する。
 金で買った品物をどうしようと、買った人間の勝手だった。強姦しようと、殴ろうと、売春に使おうと、文句を言われる筋合いはない。それは、正義ではなく現実だった。
 あの少年の現実が、たまたまその類いのものだったと言うだけの話だった。かわいそうなどと、思うグレートの方が、どうかしている。
 薄笑いを浮かべた男たちに、蹂躙される細い薄い体が、脳裏に浮かんだ。
 血に固まった、柔らかな銀髪。青白い頬に流れる血。動かない体。かわいらしいスカートのすそから、奇妙な方向へ曲がった両足。その足の先を、小さな、暖かそうなスリッパが包んでいた。手には、茶色いうさぎの縫いぐるみを持ち、けれどその人形同様、その子ももう、動くことはない。
 幼い、女の子。頭を撃ち抜かれた、ざくろのように側頭部をはじけさせた父親の死体の傍に、転がるように横たわった、小さな死体。
 必要のない、殺人だった。
 その子を撃ち抜いた、左の肩に近い胸の辺りが、ふと痛む。
 そこを思わず掌で押さえ、グレートは、耐えるように口元を歪めた。
 懐かしいとは、とても言えない思い出が、銀色の視界いっぱいに広がる。
 張の方へ、必死に作った笑顔を向けながら、グレートは手の震えを止めるために、強く自分の右腕をつかんだ。