「あらし」


9) 回想

 また、同じ一日を繰り返す。
 ゆっくりと起きて、自分で作った朝食を、ひとりで食べる。
 オレンジジュースを、たっぷりとグラスに注ぎ、起きた瞬間に飲む。目覚まし代わりだ。
 卵を3つ割って、スクランブル・エッグを作る。ゆで卵は、口の中でもそもそするので、滅多に作らない。その隣りで、ベーコンを4切れ、かりかりに焼き、トースターでは、薄い切りのパンが、柔らかな茶色に焼き上がりつつある。
 そのすべての進行中に、やかんにはたっぷりと熱い湯が沸き、香りのよく立つ紅茶のために、まずはティーポットが先に温められる。
 大きな皿に、卵とベーコンを盛りつけ、焼き上がったパンにパターを塗って、添える。
 気が乗れば、小さな皿にサラダを作ることもあったけれど、今日は、朝からウサギの食事をする気に、何となくなれなかった。
 キッチンのテーブルに、皿と2杯目のオレンジジュースを運び、目の前の朝食の出来映えを、一瞬評価する目で眺めてから、まずは卵を一口すくう。
 こうして、ひとりきりで朝食を食べるのが当たり前になって、一体どのくらい経つのだろう。
 陽気な酒飲みの、仕事を転々としていた父親。父親の、腰の定まらなさのせいで、いつも身を粉にして働いていた母親。優しい姉と、生意気な弟。
 朝早く起きて、家族5人分の朝食を作る、母親の、厳しい、けれど優しい後ろ姿。
 焼き上がったパンの傍に置かれる手製のマーマレードジャムは、絶品だった。
 貧しくて、根拠のある、明るい希望などどこにもなくて、それでも家族は一緒に食事をした。さまざまなことを、好き勝手にしゃべりながら。
 姉が、20で、10も年上の男と結婚しようとした時、母親は、男の素性よりも、男の年齢に顔をしかめた。
 それでも、姉が見せた指輪の、ダイヤモンドの大きさを目の当たりにした時、母親は口をつぐんで、幸せにおなり、と小さく言った。自分たちの稼ぎでは、結婚式どころか、ウェディングドレスさえ買ってやれないことを、母親は誰よりもよく知っていたから。
 姉に求婚した男は、自分は株をやっているのだと説明した。
 その説明にそぐわない男の行動を、時折不審に思いながらも、姉は、男の懐から出る金と、そして男自身に惚れていたので、一切何かを問うようなことはしなかった。
 切れ切れに仕事を見つけ、また次の仕事へ移り、その間はひまを持て余して街をうろつく、そんな生活---父親そっくりだ---をしていたグレートに、義兄である男は、ヒマなら俺の仕事を手伝えよと、ある日小声で言った。
 姉には言うな、誰にも言うなと念を押され、姉の大事な連れ合いで、大人でもある男の言うことに逆らう気などさらさらなく、グレートはもらえる金にも目がくらんで、男の後ろにくっついて、彼の仕事の切れ端を手伝うようになった。
 仕事の切れ端。
 麻薬を運んだり、受け取ったり、金を集めに行ったり、人を脅したり・・・そんな、つまらない仕事だ。
 姉と男は大きな家に住み、大きな車を運転して、幸せそうに見えた。その幸せの源の、金がどこから流れ込んで来るのか知らないからこそ、姉は幸せでいられた。
 男は、グレートと姉の家族にも、惜しみなく金を与え、それは、酒飲みの親父を、陽気な飲んだくれから、救いようのないアル中に変えていった。
 母親は、どこかで歯車が狂ってしまったことを感じながら、娘の結婚を止めなかった自分の迂闊さを責めて、相変わらず黙って身を粉にして働いていた。母親にはもう、流れを変える力など、なかったので。
 男は、下の弟が学校を卒業するのを待って、グレートと同じように、自分の元で、使い走りをやらせるようになった。
 その頃には、男が一体何をやっているのか、知らない者はいなかったけれど、誰もそれを、決してはっきりとは口にはしなかった。
 姉は、時々暗い表情で、どうしてあたし、あんなロクでなしとくっついちゃったのかしらと、ウイスキーのボトルをひとりで空にしながら、つぶやくようになった。
 男が、街でいちばん名の通った麻薬の売人になった頃、グレートは、初めての銃を手にした。
 ナイフなんて、ガキのおもちゃだぜと、下の弟にうそぶき、その黒光りする鉄の塊まりを、グレートはにやにやと見せびらかした。
 酔っ払った父親が、夜の路上で、車に轢き殺されてから、続いて母親も、ある日ベッドの中で眠るように死んでいるのが見つかった。
 半年も経たない間に、身内の葬式をふたつも出して---もちろん費用は男持ちだ---、姉はもう、他に頼る誰もいないことを悟ったのか、すべてのことに酒を頼るようになり、ある日、些細な口論から男に殴りかかり、男の唇の端に、少しばかりの黒ずみを残した罰として、腕の骨をへし折られ、一月ほど、誰とも会いたくなくなるほど、顔を殴られた。
 男が、姉を愛していたのかどうか、よくわからない。
 グレートが知る限り、男は何人かの女と、それなりの交渉を楽しんでいたようだったけれど、姉を捨てることはしなかった。
 姉も、捨てられることは、望んではいなかった。
 男の庇護なしには、もう酒さえ飲めない自分に絶望しながら、姉は、まるで唯一できる、男に対する嫌がらせだとでも言うように、浴びるように酒を飲んで、父親そっくりの、アルコール中毒患者に成り果てた。
 いつから、朝食を一緒に取ることをしなくなったのだろうかと、またグレートは考える。
 家族を、恋しいと、時折思う。
 母親、父親、姉と弟。貧しい暮らしの中で、けれどそこでだけは、隠すべきことは何もないと、自覚もなく信じていたのは、グレートの稚なさだったのだろうか。
 また、卵をひとすくい、フォークに乗せた。
 母親の、手製のマーマレードの、甘い苦さが、舌の上に蘇る。
 疲れ果てた死に顔は、実際の年よりも、10は老けて見えた。それが、自分たちのせいなのだとわかっていて、グレートは、何も言わずに目を反らした。
 両親を失くし、姉と弟とグレートは、すでに家族ですらなかった。
 3人ともそれぞれ、男に関わるひとりひとりでしか、なかった。
 グレートは表情を失くし、寡黙な男になった。余計なことは一切口にせず、ただ黙々と、今は、姉がこの世でもっとも憎む男のために、両手を、さまざまな血で汚した。
 小さな鉛の塊まりが、人の命を奪う。
 男に、憎まれたためだったり、なわばり争いのせいだったり、単純に、男に気に入られなかったためだったり、男への裏切りのせいだったり・・・理由を知るのは、たいてい、命を奪った後でだった。
 男は、名前を告げ、写真があればそれを見せ、やれ、と一言だけグレートに告げる。
 グレートは、わずかにうなずくだけで、部屋を出てゆく。
 どこと言って、目立つ容貌でもなく、暗い瞳をしたグレートは、どこにいても周囲に溶け込んでしまい、誰にも気づかせるとこなく仕事を終え、姿を消す。
 瞳は、さらに暗さを増した。
 姉が、アルコール中毒患者の、治療用の施設で死に、弟は、つまらないちんぴら同士のごぜり合いで刺されて死に、グレートには、失うものなどもう、何も残ってはいなかった。
 もっとも、失いたくないものなど、もうとうの昔に消え失せていたのだけれど。
 男は、何人かの女に、それぞれ子どもを生ませ、楽しげに父親を演じていた。
 その隣りで、グレートは、父親づらをする自分を想像しては、いつも吐き気をこらえていた。
 行きずりに関わった女は、少なくはなかったけれど、母親の死に顔と、酒で青白くむくんだ、姉の横顔が目の前にちらついて、どうしても、どの女とも深く関わる気にはなれなかった。
 失いたくないものなど、もう、いらない。
 いつ死ぬかわからないなら、常に死への準備は、しておいた方がいい。
 女も、子どもも、家族も、悲しませるくらないなら、必要はない。自分が死んで悲しむ人間など、どこにもいない方がいい。
 自分が手にかけて来た人間たちのように、頭や胸の肉を、砕けたトマトのように弾けさせて死ぬなら、そのまま、床や地面の染みになって、消え果てた方がいい。
 何もいらない。
 男が、仕事のたびにくれる金も、虚しさを増す役目しか、果たしてはくれなかった。
 それも、張に出逢って、少しばかり変わりはしたけれど。
 朝食の皿は、もうほとんど空になっていた。ポットから、すでにいれておいた紅茶を、華奢なティーカップに注ぎ、ミルクを、たっぷりと入れる。
 香りを楽しんで、丸く転がるような液体の感触を、舌の上で味わう。
 生きていると、ふと思った。
 張は、グレートにとって、最期になった仕事だった。
 少しずつ勢力を増し、男のなわばりを、こっそりと荒らし始めた中国人たち、新参の移民たちを、男は目の敵にした。
 張は、その頃、おそらく中国人のグループの中では、いちばん大きかった組織のボスの片腕で、とぼけた外見に似合わない切れ者だと、男はとっくに見抜いていた。
 今も充分邪魔なら、将来もっと面倒なことになる。その前に、消せ。
 張を消せば、少なくとも、目障りな中国人組織を潰す手がかりにはなると男は踏んで、いつものように、グレートを送り込んだ。
 少しずつ大きくなり始めていた、中国人街の奥深くにいる張を、辛抱強く捜し出し、けれど、東洋人ばかりの中に、怪しまれずに入り込むのに手間取った。
 中国人のネットワークを、男よりむしろ、グレートの方が、甘く見ていた。
 必死に、白人から蔑まれながら、異国で生き延びようとしている彼らは、常に背後をうかがって、襲ってくる敵から、互いに身を守り合おうとしている。
 そんな中に飛び込んだグレートのことなど、張にはとっくに筒抜けで、自分を殺すために出掛けて来たグレートを、罠を仕掛けて、あっさりと捕まえてしまった。
 殺すつもりのないやり方で、5、6人の東洋人に痛い目に遭わされた後、背の低い、体の丸いその張という中国人は、キセル煙草を吸いながら、血まみれのグレートに笑いかけた。
 ここまで来たの、アンタはんが初めてアルね。なかなかいい腕アル。
 グレートは、暗い瞳を、虚ろに、しとめ損ねた獲物に向けた。
 張は、笑みを消さずに続けた。
 ワイ、近いうちに、この国出るアルよ。アンタはん、ワイと一緒に来るヨロシ。
 張の、ひどい中国語訛りのせいだろうかと、グレートは、ぴくりと眉を上げて、思わず、"Pardon me(何ですって)?"と問い返してしまった。
 張が、声を上げて笑う。
 ワイと一緒に来るアル。アンタはんの依頼人も、そこまでは追って来れないアル。それに、ワイが無事なら、アンタはんは失敗して、殺されたと思ってくれるアルよ。心配いらないネ。
 そんな心配など、はなからしてなどいない。
 自分が殺そうとした、中国人の男の真意を探ろうとして、グレートは、張に視線を当てたまま、すっと目を細めた。
 話が、見えない。
 ようやく、素直にそう言った。
 ワイ、人必要ネ。信用できて、仕事できる人間必要アル。敵つくるの簡単、でも、仲間見つけるの、難しい。ワイ、アンタはんを仲間にしたいアルね。
 さっさと殺した方がいいと、思わないか?
 ワイ、自分の人見る目、信用してるネ。でなかったら、組織、束ねてられないアル。
 張が、人なつっこく笑った。
 張の吸っている煙草の煙を目で追いながら、グレートは、猛烈に煙草が吸いたいと思った。
 それに、と、また煙を吐き出し、張が続けた。
 死にたがってる人間殺しても、罰にも見せしめにもならないアル。
 声に、ふとひそんだ凄みがあった。
 ふっと、グレートは、笑いをもらした。
 長い間、誰かに笑いかけたことなど、なかったのに。
 言う通りだ、人を見る目は確からしい。
 さすがだなと思ってから、グレートは、肩を揺すって笑い出した。
 腹の底から笑った後、張に、煙草を吸わせてくれないかと、言った。
 それが、契約完了の合図だった。
 この国に来てから、張は、街を選び、静かに居つき、そして、もっと静かに行動を起こした。人を集め、必要なら消し---それがグレートの役目だった---、こっそりと他の組織のなわばりを奪い、小さな組織を吸収しながら、少しずつ大きくなって行った。
 中国人同士が繋がり合い、助け合って、さらになわばりと勢力を広げる。
 それを間近で見ながらも、グレートはあくまで、ただの用心棒---そして時には殺し屋---としての自分の立場を守り、張が手塩にかけて育て上げた組織の中で、大きな顔をしようとは、決してしなかった。
 張は何度も、幹部クラスになって、組織の、もっと大事な仕事をやってみる気はないかとグレート尋ねたけれど、グレートはそのたび薄く笑って、首を振るだけだった。
 おれには、似合わんさ、張大人。
 人の上に立つなどまっぴらだったし、いまだ、いつ死ぬかわからないという気分は捨てられず、下手に大きな仕事を任せられて、途中で死ぬのは張に悪いと、単純に思ってもいた。
 おれは、お前さんの用心棒が、いちばん性に合ってるのさ。
 グレートの忠誠心だけで満足すべきと言い聞かせながら、それでも張は、まだ諦めきれないらしかったけれど。
 組織の一員ではなく、客分として、ある意味では友人として張に大切にされ、用心棒として、張の後ろに控えている以外は、せいぜいが使い走り程度の仕事しかしていないにも関わらず、他の連中から軽んじられることもない。殺し屋としての部分は、誰にも知らせる必要はなかった。 
 ありがたいことに、敵は、消すよりも、おだてて仲間にするという張のやり方のおかげで、殺し屋としての仕事は、ほとんど皆無に等しかった。
 汚れた皿を洗ってから、ふくれた胃袋の辺りを撫でる。
 もう一杯紅茶をいれるために、またやかんに水を満たし、火にかけた。
 やかんの底を嘗める、青い炎を見つめながら、キッチンに立って、家族のために料理をしていた、母親の後ろ姿を思い出していた。
 一日がまた、始まろうとしている。