ふたりのいるところ



1) 欠損

 いざ手に取れば、一体どれを選べばいいかと思うほど、大量の色数だった。
 柔らかな肌触りは、それを、自分の素肌の上にまとうことは、一生ないだろうと思っていたから、よけいに魅力的で、掌の中にくしゃりと握り込んで、一瞬だけ、こっそりと、目を閉じて味わった。
 明るい、鮮やかな色は、ジェットにまかせることにして、やっぱり、皮膚に馴染んだ、濃い暗い色に視線が向く。
 「黒は、日なたで熱いよ、せんせェ。」
 そう言われて、それもそうかと、思い直す。
 第一、これだけ色があふれていれば、黒は、今選ぶ必要はないように思えた。
 灰色がかった色へ、目を移す。
 ベージュは、無難だけれど、記念すべき1枚には、少しばかりインパクトがない。
 薄いカーキ色は、地味すぎる。オリーブは、まるでこれから戦争にでも行くような、今は洒落にならない選択だった。
 グレーは、黒よりも、選択肢としては下の方へ位置づけたい。
 意外と自分が、いろいろと口うるさいのだということに、唐突に気づく。
 たかが、半袖のシャツ1枚とは言え、10年近く、それを遠去けて来て、ようやくこうして、自分で着たいという欲求に従って、まず色から選ぼうと思うと、目の前の色の氾濫に、とりあえず、眉をしかめることから始めてみる。
 気軽に着ることのできなかったものだからこそ、長い時間の後、こうして勇気を奮って身に着けるなら、どうしても、気に入った1枚を見つけたかった。
 「いっそさあ、赤とかオレンジとか、ダメ?」
 ジェットが、にこっと、口元だけで笑って、真っ赤なTシャツを取り上げて見せる。
 それに、無表情な視線を返してやると、うっ、と言葉につまった表情で、ジェットはこそこそと視線を反らす。
 白い、スタンドカラーの襟元に指を差し込んで、まるで、ネクタイでもゆるめるような仕草をする。ふうっと小さく息をこぼして、また、色探しを再開した。
 やっぱり、色はいつもの類いかと、やや薄い色から視線を流し、もっと、濃い、地味な色の方へ、体の向きを変える。
 黒は、どれも色が平坦で、そののっぺらぼうな質感が、どうしても好きになれない。コットン素材の黒は、ことに値段にこだわらないと、地味を通り越して、悪趣味になる。
 黒のTシャツなんか、論外だと、次の色に指を移す。
 やや明るい青。明るすぎる。似合わない。むしろジェットの色だ。
 やや明るい緑。同じくこれも、ジェットの方が似合う。
 茶色。Tシャツの色の選択として、これほど最悪のものはないかもしれないと、心の中でごちて、無視することにした。
 暗い青。好きな色だけれど、膚の白さを強調しすぎるし、瞳の水色と調和し過ぎていて、無難すぎて面白くない。
 結局、Tシャツなんて、ジェットの服であって、自分の服なんかではないのだと、そう結論づけようかと、諦め気分でそう思った時、濃い、深い、緑色のシャツを見つけた。
 黒ほど平坦ではなく、青ほど無難でもなく、自分に似合うと確信できる色とは、少し外れた、けれど色合いは、膚に馴染むことが容易に想像できて、ほとんど黒に見えながら、けれど、もっと深く、視線を吸い込むようなその色に、魅かれた。
 いい色だと思って、その色に合う、ジーンズや靴や、パーカーも揃えようと、とっくに心は、そちらへ飛ぶ。
 これを着て、オレンジや赤のシャツを着たジェットと、肩を並べた自分の姿を思い浮かべて、アルベルトは、こっそり頬を赤らめた。


 さすがに、一気に服を全部揃える気にはならず、また次の週末に、シーンズを買いにゆくことになって、そんな話の、すでに決まっていた金曜の夕方、ジェットが、ひどく暗い表情で、アルベルトのマンションにやって来た。
 「どうしたんだ、何かあったのか。」
 いつものように、キッチンのテーブルに向かい合って坐ってから、目の前の熱い紅茶を促してから、そう尋いた。
 しばらくの間、言いにくそうに言い淀んでから、ジェットが、少し冷めた紅茶をすすって、ようやく重い口を開いた。
 「・・・学食でさ、先輩と、話してて、先輩、年上の彼女さんいて、その人の話になって・・・」
 年上の恋人がいる同士で、何か、人間関係についての話にでもなったのだろうかと、黙ったままで、続きを促した。
 「その彼女さんって、福祉関係で働いてるとかで、何か、障害者がどうのって話になってさ・・・」
 一回りも年上の、元は教師だった、男の恋人の自分に、もしかして、何か嫌気でも差した話になったのかと、少し身構えていたのが、別の方向に外され、アルベルトは、それでも話の方向に、うっすらと口元を引き締めた。
 「車椅子の人とか、義手つけてる子どもとか、そういう話で・・・」
 そう言えば、障害者という言葉を、自分が使ったことも、使われたこともなかったなと、ふと、ジェットの言葉を聞きながら思った。
 「生まれつき、両腕ない子で、あごと肩でペンはさんで、字書いたり、足でちゃんとスプーン使って食事したり、自分でちゃんとできるのに、そういうのは、正しくないから、義手つけて、普通に近くなるように、訓練すべきだって・・・」
 ジェットが、語尾を小さくして、ちらりと、うかがうように、上目にアルベルトを見た。
 続けて、と、視線に言わせると、ジェットは、きゅっと唇を噛んでから、また、唇を開いた。
 「先輩の彼女さん、見た目を、他の、障害のない人間に近づけるのが正しいことなんて、間違ってるって。腕がないから足使うとか、見てくれがどうとかじゃなくて、それの何が悪いのって、なんか、すごい怒ってたんだって、先輩が言ってて・・・」
 正しくは、憤っていて、だと、心の中で、ジェットの言葉遣いを直しながら、話はそれで終わりかと、さて、何を言おうかと言葉を探していると、ジェットはまだ、ぼそぼそと、言葉を続けようとする。
 「・・・それ聞いてオレ、せんせェにずっと、半袖のシャツ着て、海に行こうって言ってたの、間違ってたのかな、って思って・・・」
 ああ、そんなことが言いたかったのかと、ようやく、ジェットの論点が見えて、アルベルトは、舌に乗せようとしていた、一般的な正論を、音を立てずに飲み下した。
 「オレ、せんせェが、腕隠してるの、いいことじゃないって、勝手に思ってたから、なんかそういう、オレの"正しいこと"を、せんせェに、普通になれよって、押しつけてたのかなって・・・そしたら、自分がやになった。」
 言った途端に、顔を隠すためなのか、テーブルに顔を伏せ、子どもがいやいやをするように、ごろごろと額をテーブルにすりつける。それを見て、アルベルトは、苦笑をもらした。
 この素直さが、たまらなくいとしいのだと思いながら、自分の、右の掌を、そっと眺める。
 「普通にならなきゃいけないと、思ってるわけじゃないんだ、別に。」
 顔を伏せたままのジェットに向かって、うっすらと笑いかける。
 「腕があった時のことを、覚えてるから、その時に、できるだけ近くなれたらと、楽だと、思う。もう、あんなふうにピアノは弾けない。でも今は、本を読むのが楽しい。以前は、どんな服でも、気にせずに着れた。だから、君がこうして、背中を押して、それを励ましてくれるのが、うれしい。何より、腕を失くさなかったら、この腕がないままだったら、君には、出逢えなかった。」
 ジェットが、ゆっくりと、顔を上げた。
 本気で落ち込んでいるのか、かすかに潤んだ淡い緑の瞳が、こちらに向かって揺れているのが、見える。
 「君は、別に、この腕があってもなくても、かまわないんだろう?」
 右手を差し出すと、それに視線を当てて、
 「オレは、せんせェが、せんせェだったら、それでいい。」
 「だから、それで、いいんだ。」
 一言一言を区切って言ったジェットに、合わせるように、言い聞かせるように---ジェットにも、自分自身にも---、アルベルトは、ゆっくりと言った。
 「いやなことなら、君がどんなに言っても、やらないから、心配しなくていい。この腕を隠さなくてすむなら、その方が楽だって、思ってるのは、自分だから、君もそう思ってくれてるのには、感謝してる。」
 「・・・せんせェ、本気で、そう言ってる?」
 「本気じゃなかったら、今さら、Tシャツなんて、わざわざ買わない。ジーンズも靴も揃えようなんて、言わない。」
 「そっか・・・」
 細い声で、テーブルに向かって、ジェットが言った。
 ようやくまた、紅茶のマグに手の伸ばし、それから、もう一方の手も伸ばして、アルベルトの右手に触れた。
 「せんせェと海に行くの、楽しみだなあ。」
 指先を握り返しながら、ああ、と答えた。
 「オレ、せんせェ、好きだよ。」
 指が、握り返した指先を、さらに握り返してきた。
 ああ、とまた答えて、紅茶のマグを持ち上げる。
 「・・・だから、オレ、もうちょっとケンキョになるから、せんせェ、オレのこと、きらいにならないでね。」
 唇が触れる一瞬前に、マグを手前で止めて、ジェットの言った言葉を、ゆっくりと反芻した。
 「・・・嫌いになんかならないから、"謙虚"って言葉を、ちゃんと書けるようになってくれ。」
 言った瞬間の響きが、カタカナだったことを素早く聞き取って、アルベルトは、混ぜっ返すように言う。
 ジェットが、うっと、図星を刺された表情を隠せずに、言葉につまった。
 夏にゆく海で、機械の掌と、生身の掌を重ねて、砂の上を歩いている、自分たちふたりの姿を思い浮かべながら、アルベルトは、もっと強く、ジェットの指先を握った。


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