ふたりのいるところ



2) 試着

 ジーンズなんか、はいたことすらないなと、そう思いながら、ジェットについて、店に入った。
 ジェットは、ここへは来慣れているのか、さっさと前を歩いて行って、ずらりと、たたまれたジーンズが重ねられて、並んだ大きな棚の方へ、振り返りもせずに歩いてゆく。
 「せんせェ、どの色がいい? 濃いやつ、普通の? それとも黒?」
 棚の前で、軽く首を傾げて、ジェットが尋いた。
 ジーンズに、そんなに色数があるのすら知らず、アルベルトは、答えられないまま、ジェットの隣に肩を並べた。
 「どれって、ジーンズの色って、あの、青だけじゃないのか?」
 ジェットが、軽く足を持ち上げて、自分のはいているジーンズを指で差す。
 「まあ、これが普通の青だけど。それから、もっと濃いのと、黒と、他で探せば、赤とか緑とか、いろいろあるよ。白もあるし。」
 そうなのか、と思いながら、ジーンズのあの布地に、他の色を思い浮かべられず、少し考え込む。
 「よく考えたら、せんせェ、普通のサイズで入るんだから、こんなとこ、来ることなかったね。」
 こんなとこ、とジェットが言うこの店は、明らかに専門店で、品物は、ジーンズだけがほとんどらしい店の中は、天井も高く、明るく、むやみに広かった。
 「普通のサイズ? 君のは普通じゃないのか?」
 「オレ、背が高すぎるから、ウエストとかはいいけど、長いのじゃないと、ダメなんだ。だから、いっつもここに来るんだけど、せんせェは、普通のサイズで大丈夫そうだし。」
 ジェットが、自分の足元と見下ろすのに合わせて、アルベルトも、ジェットの、ひょろりと長い足を見下ろした。
 膝の小さな、膝下の長い、形のいい足を眺めて、アルベルトは、ジーンズの、その下を思い浮かべる。思い浮かべて、それから、掌に、皮膚の感触が甦った。
 ジーンズもよく似合うけれど、やっぱり、バスケットのユニフォームがいちばん良く似合うと、今は関係のないことを思う。
 「せんせェ、ウエスト、いくつ?」
 「普通のスラックスなら、76cm、かな。」
 「え、そんなにあるの?」
 ジェットが、いきなり人目もかまわずに、腰に腕を回す手つきをする。
 それに真っ赤になるアルベルトに、かまう様子もなく、自分でつくった腕の輪を見下ろして、ほんの少しだけ怪訝な顔つきになる。
 「・・・オレ、72cmなのに・・・せんせェの方が、細いと思ってた。」
 「ハタチ前の運動選手と、比べないでくれ。大体、君は腕が長いから」
 そこまで言って、ようやく、あまり大声で、そんな話をする場所ではないのだと、思い出す。
 慌てて口に手を当てて、肩越しに回りを見回した。
 ふたりのおしゃべりには、誰も興味もないふうに、人たちはゆっくりと、動き回っている。
 人目を引かなかったらしいことに、安堵して、アルベルトは、しぃっと、唇に指を当てて、ジェットをにらんだ。
 「・・・色は、じゃあ、普通でいいから。」
 ジェットは、また、改めて棚を見上げ、考え込むように、視線をあちこちに走らせた。
 「じゃあ、ウエストは、オレよりいっこ上くらいで、長さはひとつ下かなあ。」
 唇に手を当て、今度は、視線を横に走らせる。
 そうして、上の方の棚から、いくつか選び出して、アルベルトに手渡した。
 「こんなもんかな・・・ストレートと、スリムと、ローライズ。着てみなよ、せんせェ。」
 腕に、ずしりと重い、固い布地のそれを見下ろして、何となく、戸惑った。
 ジェットに連れられて、店の奥にある試着室へ行くと、ずらりと並んだドアの中に押し込まれる。
 「はいたら、見せてね。」
 ジェットの笑顔が、薄いドアの向うに消え、アルベルトは、狭い個室の中で、持ち込んだジーンズを下ろして、そのうちの1本を手に取った。
 さて、と覚悟を決めて、今はいているスラックスを脱ぐ。
 ジーンズの固い布の中に、足を差し入れて、するりと引き上げた。
 まるで、皮膚を引っかくような感触に、少し戸惑う。
 ウエストのボタンをとめてから、ぴったりと張りつくような、膝下の感触に、何となく、背筋の寒い思いをした。
 頭を振って、脱ぐ。
 次を手に取って、またはいた。
 今度は、ウエストの線が尋常ではなく、ボタンをとめてから、ぎょっとする。
 冗談だろう。そう思ってから、下着さえ、ろくに隠れないそれを、また、慌てて脱いだ。
 「せんせェ、まだ?」
 いちばん最後の1本に足を差し入れながら、ドア越しに、ジェットに声を返した。
 「・・・こんなのが、普通なのか?」
 「え、普通って、スタイルの話?」
 ジェットが、くすくす笑う声が聞こえる。
 「ローライズは、腰の骨、見えちゃうけどね。オレ、でも、よくはいてるよ。」
 ジェットの言葉に、真っ赤になりながら、それでも、ようやく最後のをはき終わって、やっと少し、まともな服らしい感触に、少し安心する。
 シャツのすそを、入れようかどうか、迷いながら、ようやく、ジェットに見せるために、ドアを開けた。
 「入った? サイズ大丈夫?」
 どうしても、赤くなる頬を、うつむけたまま、小さくうなずいて見せた。
 ジェットが、不意に黙り込み、右と左をきょろきょろと見回して、いきなり個室の中へ足を踏み入れてくる。
 ドアを閉めたジェットの腕に、黙ったままで抱き寄せられた。
 「・・・・・・脱がしちゃダメなの、残念だなあ。」
 体を引いて、何か怒鳴ってやろうとすると、気配を察したジェットが、先に唇に指を当てて見せ、
 「ダメだよ、せんせェ、静かにしてないと、聞こえるよ。」
 そっと、小声で言った。
 「いいから、離してくれ。」
 小声で、けれど、怒った顔つきで言い返すと、ジェットがまた、くすくす笑いながら、腕を外す。
 1歩離れて、観察するように、上から下まで、ジェットの視線が、走った。
 そんなふうに見られて、また、戸惑う。
 知らずに、隠すように、両腕を胸の前で組んでいた。
 「せんせェ、けっこう足長いよね。ひざ下長いしさ。」
 どこかうらやましそうに、ジェットが言う。
 そっちだって、背も高いし、スタイルだって、文句ないじゃないかと、言い返そうとして、やめた。
 こんなところで、男がふたり、そんないい争いをしても不毛なだけだと、大人の理性が頭をもたげる。
 「どんな感じ? 好き?」
 外に出たままの、白いシャツのすそに手を伸ばして、ジェットが訊いた。
 その手の動きを、下目に見ながら、また赤くなる頬で、アルベルトは小さくうなずいた。
 「いい、大丈夫だ。」
 シャツのすそを持ち上げたジェットが、他意はなさそうに、前のポケットの部分や、ウエストの辺りに、掌を滑らせる。
 「うしろ向いて。」
 言われて、くるりと肩を回した。
 3つ数える間ほど、見つめられた後で、ジェットの手がまた、腰を覆うシャツのすそを持ち上げる。
 それから、ウエストの線に触れた指が、包まれた体の線に沿って、下に滑った。
 腿の線の、きわどい辺りに触れられて、乗せられた掌の感触に、ふっと、背筋が震える。
 「・・・オレ、せんせェが板書する後姿、すごい好きだったんだ。」
 背中に、胸が触れそうな近さに、ジェットが寄った。
 声が、耳にかかる。
 「背中とか、動くのが、すごいきれいで・・・」
 腰に、抱き寄せるように、両腕が回った。
 「今も、せんせェ、すごい、好きだ。」
 ジェットのジーンズと、触れ合う音が、背後でした。
 固い、ざらざらと、砂を踏むような音がして、ジェットの腕が、腰に巻いた輪を、ゆっくりと小さくしてゆく。
 「やだな、せんせェの、こんなの、外で他の人に見せるのって。」
 もう、胸はぴったりと背中に重なっていた。
 「・・・オレだけなら、いいのに。」
 「海に行こうって、言ったのは君だろう。」
 ジェットが、唇を突き出したのが、見えなくてもわかる。
 顔を伏せて、ようやく、アルベルトはジェットの腕を、腰から解いた。
 「これにするから、外で、待っててくれ。」
 ジェットの顔を見ないまま、そう、早口で言った。
 言われた通りには、すぐには動かずに、ジェットがそこに立ったままで、アルベルトのシャツのすそをつかんだ。まるで、迷子の子どもか何かのように、妙に、心細げな、仕草で。
 「・・・このまま、すぐ、まっすぐ帰ろうよ、せんせェ。」
 この後で、古書店へ行くつもりだったのを、やめようと、ジェットが言う理由を、アルベルトは訊かずに知っていた。
 頬の赤いジェットを、ちらりと見て、また、そこから慌てて目を反らす。
 「わかったから・・・外に、いてくれ。」
 ジェットが、叱られた犬のような様子で、肩を丸めて、ようやく個室から出て行った。
 ドアが閉まって、ロックを確かめてから、大きく息を吐く。
 ジェットの手が、そこには触れなくて良かったと思いながら、横にある鏡に映る、自分の姿を見た。
 シャツの、長いすそのせいで、そこには映らない。それをありがたいと思いながら、頬を染めて、視線を足元に落とした。
 今すぐ、マンションに帰ってしまいたいのは、ジェットだけではない。
 ジーンズの、固い布の手触りが、ジェットの掌にそっくりだと、そう思う自分がいた。
 脱ぎにくさが想像できて、それに舌打ちしながら、ウエストのボタンを乱暴に外す。