ふたりのいるところ



3) 姉弟

 職員室で待っているのが、何となく居心地が悪かったのか、ジェットの姉のフランソワーズは、教室まで、アルベルトを訪ねてきた。
 突然の訪れにも関わらず、なぜか驚きはなく、来るべきものが来たかと、むしろアルベルトは、心のどこかで安堵していた。
 担任のクラスのないアルベルトは、時々放課後、生徒の去った教室で、生徒の机に坐って、仕事をすることがある。フランソワーズが、遠慮がちに、教室のドアをノックして入ってきた時---校内の者なら、そんなことはしない---、アルベルトは、来週の、小テストの問題をつくっているところだった。
 「突然、申し訳ありません。」
 フランソワーズは、少し固い表情で、深く頭を下げ、アルベルトは、手早くノートの類いを片付けて、自分のすぐ横の席の椅子を、フランソワーズに示した。
 「いえ、構いません。」
 ジェットが、春先に、アルベルトを家族に紹介して---あれを、もし、そう呼ぶのなら---から、すでに数ヶ月過ぎている。すぐに何か言ってくるだろうと思っていたアルベルトには、むしろフランソワーズの反応の遅さが、意外だった。
 フランソワーズが、きれいに脚をそろえて、小さな固い椅子に、腰を下ろす。
 少し伏せた目元の睫毛の長さが、ジェットそっくりだった。丸く秀でた額は、けれど、ジェットの方が広いかもしれないと思う。頬やあごの線の丸みに、ジェットと同じものを見つけようとして、知らずに、じっと見つめている。
 「どうしても、お話をうかがいたくて・・・」
 目を伏せたまま、フランソワーズが言った。
 机の間を挟むようにして、ふたりで向き合う。まるで放課後、遅くまで居残って、おしゃべりに興じる生徒たちのようだと、ほんの少し、おかしくなった。
 少し背中を丸め、組んだ両手を、軽く開いた膝の間に置く。
 もう、校内では、あまり隠すことをしなくなった、剥き出しのままの右手を、アルベルトは、素直にフランソワーズの前に晒した。
 「反対しているとか、そういうわけじゃあ、ないんです。」
 柔らかく、フランソワーズが言葉を落とす。
 同じ年頃の女性の声を聞くのは、そう言えばあまりないことだと、その、甘く深い声---少女たちの声は、もっと細くて軽い---に、まるで音楽を聴くように、耳を傾ける。
 促すために、言葉を引き取った。
 「ええ、わかります。」
 反対したとしても、驚かないと、声の響きに含ませた。
 フランソワーズが、ようやく顔を上げ、アルベルトを、正面に見た。
 「あの・・・弟とは、一体・・・・・・いつ、から?」
 ためらいのわりには、単刀直入な問いだった。
 アルベルトの瞳を、まっすぐに見て、そう訊いてから、フランソワーズの視線が、下へ滑る。組んだ手に、視線が当てられているのを感じた。
 「・・・いつから、と言うと?」
 質問の足りなさを補うために、質問を返す。意地が悪いかなと思いながら、口元の笑みは、消さない努力をした。
 フランソワーズが、薄く頬を染めた。
 「いわゆる、お付き合いって、言うんですか・・・?」
 言いにくそうに、何度も視線をさまよわせてから、ようやくフランソワーズが言った。
 どこら辺りからが、そうだったのだろうかと、アルベルトは、ほんの少し考え込む。
 つまり、保護者としては、当然ながら、一体いつ、ふたりが---生徒と教師だったから---そんなことになったのか、確認しておきたいのだと、そういうことらしいと見当をつけ、言い逃れや言い訳はするつもりはないけれど、余計なことも言うつもりはないと、アルベルトは、数分のうちに心を決めた。
 「どういうことを、付き合うというのか、よくはわかりませんが、お互いに恋愛感情があることは、彼の在学中に、確認しました。」
 つっかえないように、必死で呼吸を整えながら、一気に言って、ほっとした瞬間に、ぴくりと、フランソワーズの頬が硬張るのが見えた。
 罪悪感は、不思議となかった。
 まだ生徒だったジェットと、ためらいながら、恋人と呼ばれる関係になって、それについて、ジェットの保護者に、こうして、真正面から問い詰められても、平静ではなくても、自然体で、答えを返すことのできる自分の、神経の太さに、ほんの少し呆れてみる。
 フランソワーズの視線が、また、顔の正面に戻ってきた。
 「お互いに、だったんですか?」
 視線が、静かにぶつかり合った。
 嘘は許さないと、フランソワーズの、澄んだ青の瞳が言っている。それを、水色の視線で受け止めて、アルベルトは、眉ひとつ動かさなかった。
 瞳の色は違う。けれど、視線の色合いがそっくりだと、改めて、ジェットに繋がる血の濃さを、感じる。
 はっきりと、あごを引いて、深くうなずいて見せた。
 「ええ、お互いに、です。」
 一体、いつから、ジェットが、自分の中に住みついてしまったのだろうかと、自分を見つめるフランソワーズを、真っ直ぐに見返して、思った。
 好きだと言われ、一度は、拒んだ。誰かと、魅かれ合うということを、受け入れられなかったから。愛される資格のない自分を、ジェットの、まだ稚ない腕にゆだねるのが、恐ろしかったから。抱え込んだ傷の重さの分だけ、ジェットを傷つけるのが、怖かったから。
 いつ、恋に落ちたのだろうかと、記憶を手繰り寄せる。
 今まで、考えたことすらなかったことを、今、フランソワーズを前に、アルベルトは、つらつらと考え始めていた。
 ボールを追い駆け、コートの中を走り回る。長い手足、ひょろりと背高い体、真っ赤な髪が揺れ、軽々と飛び上がって、シュートを決める。
 鳥のようだと、思った。
 大きな羽を広げて、舞い上がる、自由に空を飛ぶ鳥のようだと、そう思った。
 思って、胸が痛くなった。自分とは違う。地上に縛りつけられ、まともに呼吸さえできなかった、---あの頃の---自分とは、違う。そう思って、目が離せなくなった。
 とくんと、胸が鳴る。
 そうかと、思って、知らずに右手で、胸を押さえていた。
 自覚すらなく、とうに恋に落ちていたのだと、今さら気づく。そんなに以前から、ジェットに魅かれていたのだと、改めて気づく。
 ほんの少し、息苦しくなった。
 「弟とのことは、本気だと、そう受け取っても、かまわないと、そうおっしゃってるんですか。」
 少し低い声で念を押すように、フランソワーズが言った。
 そう言われて、会話に意識を引き戻され、アルベルトは、ふっと眩しげに、フランソワーズに向かって目を細めた。
 「ええ、そう取っていただいて、構いません。」
 「じゃあ、あの子が言っていた、一緒に暮らすっていう話も・・・?」
 あの子、と、初めてフランソワーズが言った。
 その言葉の響きに、アルベルトの知らない、もっと幼いジェットが、フランソワーズの傍にいるような、そんな気になる。
 この女性は、あのジェットの姉なのだと、また、改めて思う。
 「すぐではありません。でも、いずれは、そうしてもいいと、思っています。」
 フランソワーズが、言葉の真意を探るように、アルベルトから視線を反らさずに、一言一言を、真剣に受け止めようとしているように見えた。
 「失礼ですけど、そちらはご家族は?」
 ジェットは、ほんとに、何もまだ話していないのかと、少しだけ驚いた。
 「ひとりです。事故で、家族は全部失くしました。」
 言いながら、さり気なく、右手を軽く上げて見せた。
 腕を見つめるフランソワーズの視線には、好奇心や同情といった感情は微塵もなく、ただ、大事な弟のために、アルベルトという人間を見極めようとする、真摯さだけがあった。
 「じゃあ、どなたも、反対なさる方は、いらっしゃらないんですね。」
 皮肉とも取れる言い方だったけれど、その響きを、アルベルトは甘んじて受け止めた。
 「反対されても、おそらく、気持ちは変わらなかったと、思います。」
 言葉を区切って、言った言葉に含んだ意味が、きちんと伝わるように、アルベルトは、挑むように自分を見つめる、少し年下の女性を、強く見つめ返した。
 ジェットを、それほど好きなのだと、思った。
 受け入れてもらえるなら、その方がいい。けれど、受け入れてくれないなら、それはそれで仕方がない。ジェットと一緒なら、何を言われようと、耐えられるような気がした。
 真っ直ぐに、自分を好きだと言ってくれるジェットを、おそらく、ジェットが思う以上に、ジェットが想う以上に、好きだと、思う。
 すとんと、胸の奥に、何かが音を立てて落ちて行った。
 フランソワーズが、視線を反らして、淋しそうに、微笑んだ。
 「どうも、失礼しました。お仕事の邪魔でしょうから、これで、今日は、失礼します。」
 丸い膝頭が、目の前で、ゆっくりと伸びた。
 数瞬遅れて立ち上がり、もう、体を回して、教室から出てゆこうとするフランソワーズの、揺れる細い肩を追う。
 背中に、わずかに、寂しさがにじんでいた。
 ドアを開いて、そこで振り返り、にっこりと笑って見せる。
 「ぶしつけなこと、いろいろとお聞きして、どうも、すみませんでした。」
 アルベルトは、うっすらと笑って、首を振ってから、ひどく真剣な視線で、フランソワーズを見下ろした。
 ふたりとも、何か、言いたいことがあるような気がしているのか、視線をぶつけ合ったまま、立ち去ることができない。
 アルベルトは、とりあえず、唇を開いた。
 考えずに、舌が動くままにまかせても、フランソワーズなら、言いたいことをわかってくれるだろうと、そう思った。
 「以前、彼に、世界の終わりに、一緒に逃げようと、言われました。」
 フランソワーズが、赤い、形のいい唇を、少し強く引き結んだ。
 ジェットにそっくりだと、そう思いながら、言葉を継いだ。
 「もし、明日死ぬなら、最期の時間を、彼と一緒に過ごしたいと、そう思ってます。そして、できるなら、彼のために、死にたくないと、思ってます。」
 一度は、死にかけた体だったから。何度も、死にたいと思ったことがあるから。
 生きていて良かったと、そう思っているから。
 ジェットに、出逢えたから。ジェットが、いるから。
 それだけの思いを、言葉に込めた。
 伝わったのかどうかは、よくわからなかった。
 フランソワーズは、それについては何も言わないまま、失礼しますと、軽く会釈をして、ドアを離れた。
 人気のない廊下を、フランソワーズの背中が、ゆっくりと歩いてゆく。
 その、華奢な後姿に、ジェットを重ねて、アルベルトは、ふと、切なさにため息をこぼした。
 教室の中へ戻ろうとした時、フランソワーズが足を止め、顔だけで、アルベルトを振り返った。
 どうしたのかと、怪訝な色を口元に刷くと、フランソワーズが、
 「・・・今度、ぜひ、うちへまたいらして下さい。」
 そう、はっきりと言った。
 どこか、はにかみのうかがえる、声音だった。
 ふたりの頬に、同時に、うっすらと朱が散る。
 ええ、とアルベルトがうなずくのと、では、とまたフランソワーズが歩き出したのは、同時だった。
 今度こそ、教室の中へ戻り、そっとドアを閉める。
 閉めたドアに、額をすりつけ、ほうっと、ため息を降りこぼした。
 ジェット、と、小さくつぶやいて、胸の広がる暖かさに、アルベルトはもう一度、大きく深呼吸した。