ふたりのいるところ
4) 鏡の中
クローゼットを開いて、扉の裏にある鏡の前に立って、さて、と、まるで自分に言い聞かせるように、唇を引き締めた。
足元には、わざわざ買ってきた濃い緑のTシャツと、まだ、生地の固いままのジーンズが置いてある。
ジェットから、もうすぐ着くからと電話があったので、それなら、せっかく買った服を着けて、ジェットに見せようかと、そう思う。
生徒たちが、よくはいているような、白い靴ひもの、ぶ厚い外見の、奇妙に手触りのやわらかい靴も、もう買ってある。
ジェットなら、そんな靴をはいて、1m以上も飛び上がってくれそうな、そんな靴だった。
もう一度、Tシャツを取り上げて、開いて、眺めた。
首回りのゆるい、もちろん袖の短いそれは、身に着ければ、今アルベルトが隠している体を、否応なしに外に晒すし、そのために、これを着るのだからと、もう一度、改めて、自分に言い聞かせる。
いきなり、これだけで外に出ることはしないけれど---少なくとも、アルベルトはそのつもりだった---、右腕が、人目に晒されるのだと思っただけで、ほんの少し、怖くなる。
手袋をしない右手に、人目が集まるのには、もう、慣れつつある。
不思議なことに、アルベルトが堂々とすればするほど、うしろめたそうに、視線を反らすのは、周りにいる他の人間たちで、もしかすると、隠しもせず、目さえ反らさなくなったアルベルトは、案外厚顔無恥な人間だと、今は認識されているのかもしれなかった。
それは、あながち、間違いではない。
自分の隣りに立つ、ジェットのひょろ高い体を思い出して、笑う。
自分に向けられる視線---背も高い、髪も赤い、顔立ちも端正で、人目を魅かずにいられない空気を、まとっている---にはまったく無頓着なくせに、時折、アルベルトに向けられた---と、ジェットが思う---視線に、敏感に反応する。
やだな、せんせェがかっこいいからって、じろじろ眺めるなよ。
右手、隠さなくていいからね、せんせェ。
オレのだから、って書いとけたらいいのに。
そのうち、人前で、手を繋ぎに来そうで、少しだけ、はらはらしている。
まだ、そこまでの勇気はない。
まだ、なのか。そう自分に訊いて、アルベルトは、ひとりで照れて、頬を染めた。
実のところ、ジェットが、アルベルトに向けられていると思っている視線は、ジェットが集めたもののはずで、自分は、ジェットを眺めたついでに、視界の端に引っかかるに過ぎないと思っているけれど、ジェットの中では、"みんなが、せんせェのこと見てるから、オレ心配だよ"ということになっているらしい。
あの調子では、大学で、ジェットを羨望のまなざしで眺める誰---男でも女でも---も、まったく視界に入っていないに違いなかった。
人のことは、よく口が回ると思うほど、言葉を連ねて、言い重ねるのに、自分のこととなると、まったくわかっているのかわかっていないのか、まるきり読めない。
素直に自分を信じている人間の、あれが強さなのだろうか。
卑屈になることもなく、自分の外見を、卑下することもせず、オレはオレだし、これがオレだからと、傲慢さもなく、そこに、立っている。
アルベルトは、鏡の中の自分を見つめてから、ゆっくりと、ワイシャツのボタンを外し始めた。
ピアノを弾いていた頃、そう言えば、自分がどんな人間か---内面も、外見も含めて---なんて、気にしたことはなかったなと、ふと思った。
ピアノを弾くのが楽しくて、弾ける自分がうれしくて、視界に入っていたのは、ピアノを弾く自分と、ピアノを弾く他人だけだったような気がする。
音楽以外の資質は、頭にすら浮かばないほど、問題ではなく、あの頃はそう言えば、今のジェットとは違った意味で、卑屈さはなかったなと、そんなことを考える。
シャツを脱いだ。
今は、卑屈になる、理由がある。自分の外見を、少なくとも、醜いと思う、根拠がある。そして、それを醜悪だと感じる自分を、いやな人間だと、思う。
右肩を、そっと撫でた。
まだ、つけ替えてから、そう時間の経っていない腕は、大きな傷も見当たらず、真新しい機械同様、ぴかぴかと光っている。
具合を確かめる時のように、右腕を、肘から何度も曲げてみた。
動くたびに、皮膚の上に影が差して、胸や首筋の筋肉が動く。
それを眺めているうちに、ふと、確かめたいことを、思いついた。
乱暴に、ズボンと下着を一緒に引き下ろして、蹴るような仕草で、足を抜いた。
ジェットは自分を、どんな視線で眺めているのだろうかと、鏡の中の、自分の裸身を、斜めに見て、思う。
左手を、胸に当てて、それから、視線を真っ直ぐにした。
何がいいんだろうと、思う。
胸から、下腹に手を滑らせて、それから、腿に手を置いた。
右手を、顔の前に上げて、開いた指の間から、掌の輪郭と、鏡の中の自分の顔を、交互に眺める。
ジェットの笑顔を思い浮かべた時、ドアの向こうで、音がした。
「せんせェー、どこー?」
ばたばたとキッチンに荷物を置いたらしい音が聞こえ、それから、バスルームに向かう足音がする。
慌てて、脱いだシャツを拾い上げながら---2度、床に落とした---、背後のドアに声を掛けた。
「着替え中なんだ、すぐに出るから------」
「あ、なんだ、そっちにいるの。」
足音と、ほとんど同時に、ドアが、一瞬開きかけたのが、鏡の中に見えた。
シャツに、ようやく右腕を通したところで、ジェットが、声を上げて、ドアを閉めて、また、そっと開く。
まだ、半裸のままのアルベルトは、床にしゃがみ込んで、体を隠した。
「・・・入っていい?」
ドアから、もう、体を半分滑り込ませて、言う。
アルベルトは、頬を染めた横顔を、ちらりと見せてから、ああ、と小さな声で答えた。
アルベルトの傍にやって来ると、ジェットが、床に置いたままの、例のTシャツに気づいて、体を折り曲げて、それに触れた。
アルベルトはまだ、床に膝をついたままで、シャツのボタンをとめようと、躍起になっている。
「もう、着てみたの?」
ジェットが、アルベルトの腕を引いて、立って、と目顔で促した。
「・・・いや、まだだ。」
素直にジェットの腕に従うと、ふたりの姿が、鏡に映る。
ジェットの両腕が、後ろから、腰に回った。
耳の後ろと首筋に、ジェットが、唇を当てた。
「・・・着替え、手伝おうか?」
くすくすと、笑う息が、うなじにかかる。
アルベルトは、さっきまで自分がしていたことを思い出して、うつむいて、頬をまた染めた。
腰に回った腕が、外れて、まだ、全部をとめていないボタンを、また、ゆっくりと外し始める。
シャツの肩を落としながら、ジェットの掌が、アルベルトの両腕を滑って行った。
いきなりまた、全裸になったアルベルトの後ろで、ジェットが、付き合うように、服を脱ぎ始める。
削いだように、よけいなものの何もついていないジェットの胸が、背中に触れた。
前に回ってきた、長い腕に自分の腕を絡め、背中と胸を合わせて抱き合って、アルベルトは、一度、目を閉じた。
ふたりで、鏡の中に映る体を、一緒に見比べた。
ジェットが、少し体をかがめ、肩の線を揃える。広さはあまり変わらないけれど、アルベルトの首筋の線の方が、やや太い。
胸の厚みも、見た目は、アルベルトの方があるけれど、触れれば、その印象が変わるのを、アルベルトは知っている。
ジェットが、左腕を水平に上げて、伸ばした。
ほら、と促されて、同じように、腕を上げる。
肩の位置を揃えると、腕の長さが違うのが、よくわかる。肩の筋肉の大きさと、二の腕の太さも、思ったよりも、ずいぶん違う。
運動をしている人間のからだだった。
なるべく、視線を移さないようにしていた、右側の上半身に、ジェットの視線が流れたのを追って、アルベルトも、自分の右腕を、少し斜めに見る。
ジェットが、右側に、少し動いた。
紙のように白い、アルベルトの膚。少し血の色のかかった、ジェットの皮膚の色。その中で、アルベルトの、銀色に光る腕が、映える。
形だけは、生身の腕そっくりな、機械の腕。それでも、生身のジェットの腕と並べば、にせものくささが際立つ。
その腕を、ジェットが持ち上げた。
「せんせェ、きれいだね。」
冷たい手の甲に、ジェットが口づけた。
不意に、何も着けていない自分の姿を自覚して、アルベルトは、ジェットの方へ向き直った。
ジェットの肩口に顔を埋め、背中に腕を回す。
血の上がった首筋に、ジェットが気づいただろうかと、また頬に血を上らせる。
今は、多分ジェットしか知らない裸の後ろ姿を、鏡の中に晒して、けれどそれにはかまわない振りをして、回した腕に、力を込めた。
「・・・後で、買った服、着て見せてよ。」
ジェットが、首筋にささやいた。
「後で、いいのか?」
長い腕が、背中を滑って、裸の腰に落ちる。
「今は、こうしてる方が、いい。」
鏡の中の自分の後ろ姿に、ジェットが、目を凝らしているのを、アルベルトは知っていた。
ジェットのジーンズに手をかけ、ふたりで、ゆっくりと唇を重ねる。
手探りで、ジェットを裸にしながら、鏡の中に映る背中は、そうとわかるほど、火照って見えるだろうかと、そう思った。
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