ふたりのいるところ



5) 靴

 さすがに、こんなシューズははき慣れているせいか、長い靴ひもを手に、さて、どうしたものかと思案し始めたアルベルトに、ジェットは、靴の前に並んだ小さな穴を、順番に指し示した。
 「いろいろやり方はあるんだけど、せんせェ、歩くしかしないだろうからさ。」
 歩く以外に、靴の使い方があるのだろうかと、ジェットの指先を見ながら、思う。
 それを素直に口にすると、ジェットが、にっこり笑って、説明し始めた。
 「そりゃだって、かっこよくはきたいだけのヤツもいるし、走るための靴もあるし、オレみたいに、高く飛ぶための靴もあるしさ。」
 そうなのかと思って、高く飛ぶための、靴ひもの結び方なんて、どんなのだろうと、想像してみようとする。
 そんなことに気を取られていたら、たくさんある穴の、どれがどれかわからなくなって、数度ひもを通し直して、そこでまた、ジェットの指が、アルベルトの手を止めた。
 「ダメだよ、せんせェ、強く締めすぎちゃ。」
 「・・・ダメなのか?」
 ジェットの口調を真似て、少しばかり憮然として、ジェットを上目に見る。
 「だって、脱ぐ時、いちいち全部ゆるめなきゃならないからさ。」
 言われて初めて、それもそうだと、納得する。
 靴の先の方から、ひもをゆるめて、靴の中で足を動かし、ゆるすぎないように注意しながら、強さを加減した。
 正面に、向かい合って床に坐り込んで、互いの前に足を投げ出して、靴ひもが、靴に通ってゆくのを、一緒に見つめている。
 そう言えばと、思い出して、ひとりでくすりと笑った。
 「どしたの?」
 聞きとがめて、ジェットが、怪訝そうに、手元から軽く顔を上げる。
 「いや、リハビリに、靴のひもを結ぶのが、大嫌いだったのを、思い出したんだ。」
 「きらいだったの?」
 「リハビリは何もかも、嫌いだった。」
 今だから、こんなあっさりと、口にしてしまえるのだと思いながら、ジェットにだから、こんなことも言えてしまうのだと思いながら、アルベルトは、もう一度くすりと笑った。
 「腕のない自分が大嫌いで、こんな腕のために、訓練なんかしなきゃならないのが嫌で、おまけに、ピアノを弾いてた指で、子どもみたいに、靴のひもを結ぶ練習なんて、ほんとうに、なんていうか、自分が、そういう人間なんだって、思ったんだ。思って、吐き気がした。」
 ジェットが、何も言わずに、ようやく、アルベルトがひもを通し終わった右の靴を見ながら、同じように、左の靴に、ひもを通し始める。
 さすがに慣れた手つきで、ひもの長さに注意しながら、手早く通してゆく。
 アルベルトの、半分の時間もかからずに、左の靴ひもを終えて、ジェットは、まだ黙ったままで、そっとアルベルトの足を持ち上げた。
 ひもを通し終えたばかりの靴に、爪先を差し込ませて、そのままはかせてくれる。かかとを押し込んで、ジェットが、にいっと笑った。
 「今度、せんせェがリハビリしなきゃいけない時は、一緒にやろうよ。オレが、ピアノの練習するからさ。」
 つられて、笑った。
 右足を引きつけて、ゆっくりと、ひもを結ぶ。指にひもを絡めて、きゅっと左右に、強く引いた。
 ジェットがはかせてくれた左も、同じようにして、アルベルトは、ひどく神聖な気持ちで、靴を履き終わった。
 どうして、うまく、思うように動いてくれない人工の指先で、靴のひもを結ばなければならないのか、どうしてもわからなかった。わかりたくなかった。こんなことができても、ピアノが弾けなければ無駄じゃないかと、ずっと、心の中で思っていた。
 長さや、結んだ固さが、きちんと定まらず、何度も何度もやり直しをさせられ、もう、大人であるはずの自分の年齢と、自分の立場と、その不釣合いさが惨めで、ようやく、満足に結べた自分の、靴の足を引き寄せて、ひとりで泣いた。
 腕がないということは、靴のひもが結べなくても、誰にも責められることはない代わりに、常に誰かの助けを必要とすると言うことだったし、腕があるということは、そのくらいのことは、できて然るべきだと、周囲は当たり前に思うということだった。
 靴のひもを結べるということが、当たり前であることと、当たり前でないことの間には、想像を絶する隔たりがあるのだと、腕を失くして、そして機械の腕を得て、思い知った。
 靴ひもを結べることが、当たり前の世界に戻って来て、けれど、靴ひもを結ぶことのできる自分---機械の腕のある自分---を受け入れられるようになったのは、おそらく、靴ひもを結ぶことに屈託はなく、結べないなら、靴を脱いで、裸足で歩けばいいのだと、あっけらかんと、その隔たりを飛び越えてしまうだろう、ジェットに出逢ってからなのだろうと、アルベルトは思った。
 もし。
 ピアノを弾く腕を失くしたように、走って、飛ぶための足を失くしたら、ジェットは、どうするのだろう。
 膝下の長い、形のいい足が、途中から欠けてしまったら。
 それでもジェットは、バスケをやめることはないだろうと、アルベルトは確信する。
 アルベルトと同じような義肢を得て、あきらめずに、ボールを追い続けるだろう。
 あるいは、車椅子に乗って、バスケットコートへ、走り込んでゆくのだろう。
 飛んで、シュートするだけが、バスケじゃないしね。
 にっこりと、ほんとうに、負け惜しみではなく、そう言えるジェットなのだろうと、アルベルトは思う。
 ようやく立ち上がって、自分を見上げるジェットの目の前で、とんとんと、履いたばかりの靴で、床を軽く蹴った。
 底の厚い、足首をやけに細く見せる大振りの靴は、履いているのが信じられないほど軽く、目的が違うとはいえ、まるで、ジェットがそうするように、高く飛んでしまえそうに思える。
 こんな靴も、たまには悪くないと思って、アルベルトは、うっすらと微笑んだ。
 ジェットが、床に坐ったままで、アルベルトに向かって、腕を伸ばしてくる。それに応えて、手を差し出すと、ジェットが少しだけ、切なそうな目をした。
 手を引かれ、また、ジェットの前に腰を下ろすと、ジェットの長い腕が、肩に巻きついてくる。
 「・・・せんせェ、このまま、走って、どっかに行っちゃいそうだね。」
 足元が軽くて、妙にはしゃいでいるのを見咎めたのか、ジェットが、少し淋しそうに言う。
 ジェットの肩に、頭を預けて、アルベルトは目を閉じた。
 右手を上げて、ジェットの腕に触れる。
 靴ひもを結ぶことと、結べないこと、あるいは結ばないことの隔たりの大きさを、ジェットが、少しずつ縮めてくれているのだと、おそらく当の本人は、気づきもしないのだろう。
 自分という殻の中に閉じこもって、けれど今は、その殻から、少しずつ、這い出る準備を始めている。
 けれどそれは、ジェットがいるから、できることなのだと、ジェットがいるから、したいことなのだと、言って聞かせなければ、多分ジェットは、気づかないままでいるに違いなかった。
 「行くなら、君と一緒だ・・・ひとりは、多分、つまらないから。」
 はっきりとそう言うには、まだ照れがある。
 ひとりではしゃげるのは、そんな自分を見守ってくれる視線があると、自覚できるからだ。
 「・・・その靴、似合うよ、せんせェ。」
 ジェットの呼吸が、唇にかかった。
 「今度、一緒に、バスケやろうよ。その靴だったら、飛べるよ、きっと、オレみたいに。」
 言っている言葉の意味深さを、まだ、ジェット自身が知らない。けれど、知らないだろうからこそ、その言葉の重さが、アルベルトの胸に、深く響いた。
 ジェットのように。
 アルベルトのように。
 ひとりのように。
 ふたりのように。
 今は、靴のひもを結ぶのは、嫌いじゃない。
 アルベルトは、ジェットの首にゆるく腕を巻いて、心の中で、ひとりごちた。
 靴のひもを結んで、走って、飛ぶ。靴のひもを結べるのも、そう悪いことではない。
 右の掌を、ジェットの背中に当てて、撫でるように動かした。
 ジェットの手が、下に伸びて、腿から膝を撫でて、それから、履いたばかりの靴に触れた。
 しゅるっと、小さな音がして、ジェットが、ひもを引いて、解いたのが、わかった。
 隙間から、ジェットの長い指が中に入り込んできて、足の形をなぞる。
 かかとに触れて、持ち上げるようにしながら、ジェットが、靴を脱がせた。
 新しい靴の外に出て、自由になった足が、深呼吸したような、そんな気がした。
 無意識に、爪先を伸ばして、アルベルトは、自分がひどく、伸びやかになったように感じていた。
 裸足で歩いたって、いいんだ。
 脱がされた靴に、爪先で触れながら、のしかかってくるジェットの体の重みを受け止めて、アルベルトは、微笑むことをやめない。
 靴ひもを結べなかった自分と、結ぶことのできる自分と。
 結ばないという選択をする自分に、いつか出逢えるだろうかと、ジェットの背中を抱き寄せながら思った。
 思ってまた、ジェットの下で、くすりと笑った。