ふたりのいるところ



6) ヒーロー

 普通の本屋へ行くことは、あまりない。
 新しい作家に、あまり興味はないし、読みたい、集めたいと思う本は、たいてい最初に出版されてから、すでに10年以上経つものばかりで、手に入るとわかりきっているところで手に入れるよりも、まるで、宝物を探すように、あるかどうか、少し不安になりながら、古書店で探すのが、好きだった。
 それなのに、珍しく、普通の本屋にぶらりと入って、けれど別に、何か欲しい本があるわけではなかった。
 ぶらぶらと、明るい店の中を歩きながら、つやつやとした、本の表紙に見惚れる。
 誰の手も触れていないだろうそれは、古書店の、どこか埃くさい---その匂いに、いつも安堵する---本たちとは違って、あっけらかんと明るく、その底の浅さが、また別の種類の安心感を漂わせている。
 どちらが好きかは、個人の好みだ。
 どこか薄暗く、奇妙な後ろめたさの漂う、古書店という空間が、アルベルトは好きだった。
 わざわざ、古いものを探して手に入れる、その無駄とも思える過程が、いつもアルベルトをわくわくさせる。
 こんな風な、底抜けの明るさは、自分にはそぐわないような気がして、アルベルトは、苦笑いを浮かべて、肩をすくめた。
 それでも、普通の本屋は充分に物珍しく、アルベルトは、ゆっくりと店の端から、もう一方の端に向かって、暗さのかけらもない本棚の間を、顔を、右と左に振りながら、のんびりと歩いてゆく。
 入ってきた入り口の近くに、また戻って行きながら、ずらりと並んだ雑誌の棚に気づいた。
 どれも、特に興味を引くものもなく、とりあえず視線を流しながら、素通りしようとして、ふと、足を止めた。
 ジェットがいつも読んでいる、スポーツ雑誌を、その中に見つけた。
 黒人の、背の高い、体の厚い男が、長い腕を伸ばし、バスケットボールを、宙に投げようとしている写真だった。剃っているのか、頭髪のない、汗に濡れた頭と、うっすらと伸ばしたひげ、それから、金色の大きな輪が耳に目立つ、ひどく端正な顔をした男だった。
 その雑誌の隣りには、東洋人の男が、同じようなポーズで、ボールに向かって腕を伸ばしている写真の表紙があり、日本人なのだろうかと思って、思わず手に取った。
 ぱらぱらと、中をめくってから、目次のページに、大学のバスケットボールについての記事があるのを見つけた。
 まさかと思いながら、目指すページを、手早くめくって、そこに、思いもかけないものを見つける。
 「ジェット・・・。」
 思わず、声に出して、名前を呼んでいた。
 ページの半分を占める、大きな写真の中に、ジェットの、あの飛ぶ姿があった。
 真っ赤なユニフォームが、浮き上がり、めくれて、滑らかな下腹が見えている。精一杯伸ばした体、腕、食い縛った歯列が見え、視線は、上に浮いたボールを追っている。
 斜めにページを読んで、ジェットについての記述を見つけて、その場で読むことはせず、そのまま、まっすぐにレジへ向かった。


 「せんせェ、ただいまー。」
 ここがまるで、自宅であるかのように、ジェットが、帰ってくる。
 ごとんと、靴を蹴り脱いだ音が聞こえ、大きな足音が、キッチンの方へやってくる。
 その足音のために、新しい紅茶をいれようと、すでにシンクで水を薬缶に満たしているアルベルトに、ジェットが、にいっと笑いかけた。
 「おかえり。」
 笑顔で応えてやると、またジェットが、うれしそうに笑う。
 「ただいま。」
 もう一度言って、キッチンにいるアルベルトの傍に寄ると、上から、こめかみに、軽く唇を当てる。
 汗が、うっすらと匂った。
 「学校は?」
 「課題、ひとつ提出して、セミナーのプレゼンテーションの説明があって、もうひとつ、課題が出た。」
 歌うように言ってから、やっと、抱えていたジムバッグを床に置き、ほうっと息を吐いて、キッチンのテーブルについた。
 「点数は、期待できそうなのか?」
 提出したという課題のことを訊くと、ジェットが、下唇を軽く突き出して見せる。頬づえをついて、横顔を見せて、視線を、右と左にゆらゆらと揺らす。
 「あんまり、自信がなさそうだな。」
 叱る口調ではなく、少しからかうように言ってやると、ジェットの頬の線が、安心したように柔らかくなる。
 「再提出にならないと、いいなってくらいかな。」
 「まあ、君の本分は、バスケットだから。」
 そんな、物わかりのいい言い草が、するりと舌を滑った。
 本心だったけれど、ジェットは、いつものアルベルトらしくない言い方に、仰天したように、顔をこちらに真っ直ぐに向けた。
 緑色の瞳を、これ以上ないほど、ジェットが大きく見開いた。
 そんなに驚かなくてもと、アルベルトは、思わずあごを引いて、うっすらと頬を赤らめる。
 いつもなら、ジェットがそんなことを言えば、再提出なんてとんでもないと、少しばかり苦々しい口調でいさめるのに、今日はどうしてか、そんな気にならなかった。
 そんな気にならない原因を、もちろんアルベルトはわかっていて、赤くなった頬を隠すために、椅子から立ち上がり、紅茶をいれるためだという振りをして、シンクの方へ、肩を回す。
 「次の課題は、オレ、もうちょっとちゃんとやるよ。」
 いつもと勝手が違うのに、ジェットが慌てたように、そんなことを言った。
 ああ、と曖昧に返事を返しながら、まだ背中を向けたまま、ジェットのための紅茶をいれる手元に、ことさら視線を当てていた。
 ジェットが、何となく、気まずい雰囲気を悟ったのか、椅子から立ち上がった気配があった。
 それでも、そちらには振り向かず、リビングへ行ったらしいジェットの足音を、空気の揺れに聞いていた。
 「あれ、せんせェ、これ、どうしたの?」
 ジェットが、素っ頓狂な声を上げる。
 「何が?」
 問い返す声が、いつもより素っ気なくなった。
 「これ、バスケの雑誌じゃん。」
 驚いて振り返りかけて、必死で体を止めた。
 ジェットの記事を、何度も読み返して、そのままリビングの、ソファの上に置きっ放しにしていたことを、唐突に思い出す。
 先に言ってしまった方が勝ちだと、何故だか、そう思った。
 「君の写真が載ってる。」
 ぶっきらぼうに、早口に言った。
 「え、ほんとに?」
 ジェットが、本気で驚いた声を出して、ぱらぱらとページを繰っている音が聞こえた。
 いれたばかりの紅茶を、ようやく振り返って、テーブルに置いた。
 ジェットは、リビングに突っ立ったままで、手の上に開いたページを、驚きと嬉しさの入り交じった表情で、のぞき込んでいた。
 「すげえ、ほんとだ、オレだ。」
 それから、照れくさそうな声で、アルベルトを斜めに見ながら、ぼそりと言った。
 「まるで、オレじゃないみたいだけど。」
 へへへと笑った口元に、素直な照れが浮かんでいて、それを見てアルベルトは、思わずどきりとする。
 ジェットは、まだテーブルへは戻って来ないで、ページに見入っていた。
 期待の選手という、そういう趣旨の記事だった。
 大きな写真入りで、わざわざ紹介されるだけ、ジェットの扱いは大きく、今まで、ジェットの、バスケットの実力のことを、あまり深く考えたことのなかったアルベルトは、その記事を読んで、自分だけが、宙高く飛ぶジェットに見惚れていたのではなかったことを、いきなり思い知らされた。
 あの、伸び伸びと飛び上がる姿が、目立たないわけもないのに、それなりの実力があるのは、高校で出逢った時から知っていたはずなのに、そうやって、ジェットが人目を引いている現実を目の当たりにして、アルベルトは、うろたえていた。
 自分だけのジェットではないのだと、そんな当たり前のことを、考えたことすらなかった自分の、視野の狭さに、驚いていた。
 ジェットが、そうやって、バスケットの選手として認められて、ひどく嬉しいと思いながら、同時に、いきなりジェットが、遠くへ行ってしまったような、そんな気もした。
 腕を伸ばせば、いつだって届くのに、コートを走り回るジェットは、ひどく遠い存在に思えて、バスケットをするジェットは、まるで、アルベルトの知らない、別のジェットのような、そんな気がした。
 そう考え始めれば、ジェットの大学での生活のことを、何か知っているわけでもなく、どんな勉強をしているのかに口出しはしても、どんな友達がいて、どんな風に付き合っているのか、訊いたことすらなかった。
 自分の目の前にいないジェットに、興味がないというよりも、そんなジェットが想像すらできず、そんなジェットがいることすら、考えてみれば、きちんと自覚していなかったのだと、アルベルトは今さら気づいていた。
 自分の知らないジェットが、誰かと話をして、誰かと笑い合って、何か約束をして、アルベルトの知らない時間を、一緒に過ごしている。
 そう思って、胸が痛んだ。
 嫉妬ではなく、そこに入り込む権利のない自分の立場を、悲しく思った。
 そして、怖くなった。
 もしかすると、自分が知っているジェットは、ほんとうに、ごくわずかで、それもいずれ、どんどん減ってゆくのではないかと思い当たって、ふと、ひとりだと思った。
 ジェットは、どんどん先へ歩いてゆく。
 好きなバスケットに打ち込んで、それを認められて、当然の賞賛を受ける。そんなジェットを、アルベルトは知らない。知らない自分の存在の小ささを、突然目の前に突きつけられて、止める間もなく、狼狽する。
 取り残されているのだと、思った。思って、悲しくなった。
 ジェットと、いつも肩を並べていると思ったのは、自分ひとりの勘違いだったのだと、思い知っていた。
 ジェットが、ようやく雑誌をソファに戻して、キッチンへやってきた。
 「あれ? ミルクは?」
 椅子に坐ろうとして、マグに落とした視線を、アルベルトの方へ向ける。
 うっかり、ミルクを入れ忘れていたのだと気づいて、アルベルトは、慌ててジェットのマグに手を伸ばそうとした。
 「いいよ、オレ、自分でやるから。」
 弾んだ、優しい声でジェットが言う。
 その笑顔が、ひどくいとしげで、いとおしくて、ふと、目の奥が痛くなる。
 アルベルトの傍をすり抜けて、後ろを通って、ジェットが冷蔵庫の前に行った。
 弾かれたように、自分に向いているその背中に、振り向いて、腕を伸ばした。椅子から立ち上がって、気がつくと、心細さを剥き出しにして---ジェットには、見えない---、ジェットのシャツを、右手でつかんでいた。
 マグと、ミルクのカートンを抱えたままで、ジェットが怪訝そうに、肩越しに振り向いた。
 「せんせェ?」
 ジェットの背中に、額を当てた。うつむいて、泣きそうになって、歪んでいる顔を隠す。
 「せんせェ?」
 ジェットの声が、心配そうに、低くなった。
 頼むからと、隠しようもなくかすれた声が、こぼれた。
 「ひとりで、どんどん、先に行かないでくれ。」
 ジェットが、首を、アルベルトに向かって傾けたのが、わかった。
 「追いつけなくて、間に合わなくて、取り残されてるんだ。」
 説明もなく、こんなことを言っても、ジェットには何のことかわからないだろうと思ったけれど、心の中にあるすべてを、今吐き出す気にはならず、ただ、この瞬間、浮かんだ言葉を、後先も考えずに滑り落としてゆく。
 ジェットを戸惑わせて、迂闊に悩ませるだけだと知っていて、それでも、止められなかった。
 「君だけが、ずっと先に行って、どんなに一生懸命になっても、無理なんだ。」
 「どしたの、せんせェ?」
 ジェットの背中の筋肉が、うねるように動いた。
 シュートを決める、空高く飛ぶジェットを、思い浮かべていた。
 ジェットのようには、飛べない。
 ジェットのようには、走れない。
 ジェットのようには、笑えない。
 ジェットのようには、なれない。
 それでも、隣りにいたかった。一緒に、肩を並べて、歩きたかった。
 自分が、伸びやかに動くジェットの傍で、どんなに無様な姿を晒しているのか、たとえ知っているとしても、それが、ジェットの傍にいることの代償なら、かまわないと、思った。
 「・・・オレ、せんせェに追いつこうって、必死なんだけどなあ。」
 ジェットが、笑いを含んで、ひとり言のように言った。
 思わず、泣きそうになっている表情のまま、顔を上げた。
 「オレ、せんせェがいるから、オレなんだよ。」
 自分に、もっと可愛げがあれば、ほんとうなのかと、問い詰められるのにと、そう思う。
 そうするには、分別が邪魔をして、可愛げが、まるきり足りない。
 ミルクを入れ終わった紅茶を、音を立ててすすって、ジェットが、アルベルトの方へ体の向きを変えた。
 「せんせェがいるから、オレ、あんなに高く飛べるんだよ。」
 わざと、自分を抱き返さないジェットに、アルベルトは、しがみつくように、両手を回した。
 深刻になりかける空気を、わざと軽々しく扱いながら、ジェットがまた、紅茶をすすった。
 「オレ、他で紅茶なんか、飲まないしさ。」
 ジェットの胸に、潤んだ目元をこすりつけた。
 汗の匂いを、胸いっぱいに吸い込みながら、アルベルトは、ジェットを抱いた両腕に、思い切り力を込めた。