ふたりのいるところ



8) Song We Sang Is Sung

 「ねえ、せんせェ、これ、せんせェのステレオに繋げてもいい?」
 ジェットが、ジーンズの後ろのポケットから取り出した、小さな四角い機械を見せながら訊いた。
 紅茶をいれる手を止めずに、キッチンから顔だけ振り向いて、アルベルトは深くも考えずにああとうなずく。
 ジェットが、テレビの傍に置いてある、小さなステレオのセットの後ろに、手を差し入れているのを見てから、アルベルトはまた、手元のマグカップに視線を落とす。
 ごそごそと、何か動かしている小さな音がして、それから、女性の声が、まるで足元から響くように、細く流れてくる。
 一言一言、区切るように歌う声と、その合間にちりばめられた、ピアノの音。
 聞いたことのあるメロディに耳を奪われて、アルベルトは思わず、音の流れてくる、ステレオのスピーカーの方へ振り返った。
 いつもジェットが聞いているような、騒がしいロックやラップではない。もっと繊細な、もう少し奥行きのある音だった。
 さえずるようなピアノの音と、まるで、泣いているような女性の歌声に、アルベルトは思わず目を細める。
 片手間に歌を歌っているような、そういう歌い方ではない。明らかに、歌うためにきちんと訓練を受けた、人間の声だった。
 英語の歌詞を耳で追って、けれどそれが、知っているメロディのものとは違うことに気づく。
 第一、今この歌を歌っているのは女性だ。
 ジェットが、ソファを背もたれに床に坐って、奇妙にうっとりとした顔つきで、メロディを追っているのが見える。
 マグカップを抱えて、ソファの傍へ寄ると、アルベルトは、
 「この曲は、何なんだ?」
 床からアルベルトに腕を伸ばし、湯気の立つマグを両手でそっと受け取って、ジェットが、意外そうな表情を浮かべた。
 「せんせェ、こういうの好き?」
 ジェットの質問には答えないまま、アルベルトは、ソファではなく、ジェットの傍の床に、ジェットと同じように腰を下ろした。
 ステレオに、長いコードで接続されたジェットの四角い機械は、目の前のコーヒーテーブルの上に乗っていて、再生中らしく、赤いランプが点滅している。
 次の曲らしい、別の曲が始まったので、アルベルトは、思わずジェットの左肩に、自分の右肩をぶつけて、
 「もう一回、聴かせてくれないか。」
と言った。
 ジェットは長い腕を伸ばして、小さな機械の表についているボタンを数回押した。そうするとまた、さっきの曲が流れ始めた。
 メロディは、どう聴いても、さっき思い出した曲と同じだけれど、アレンジはまるで違う。アルベルトが知っている曲は、もっと明るさのある、リズムのあふれた曲だった。
 ジェットが今聴かせてくれている方は、もっとうねるようで、聴いていると、ひどく悲しい気分になってくる。
 死ぬつもりで、手足を伸ばして暗い海に漂っている、そんな自分を思い浮かべて、アルベルトは思わず肩を小さくした。
 語るような歌い方は、むしろシャンソンに近いように聞こえる。語尾のかすれるような歌い方が、よけいに曲の陰鬱さに、もの悲しさを加えている。
 「これは、何だ?」
 また訊いた。
 「今やってる映画の---アニメだけど---、曲。サントラ、友達に借りたんだ。」
 映画のための曲だと聞いて、奇妙に映像の浮かぶ曲調や、ところどころ聞き取れる歌詞に、何となく納得する。
 「オレ、映画の方はまだ知らないけど、この曲聴いてると、なんか、ここらへんが痛くなるんだ。」
 少しだけ神妙な面持ちで、ジェットが、胸の辺りを拳で軽く叩いて見せる。
 「あんまり、キミらしくない曲だな。」
 「そうだね、どっちかって言うと、せんせェの方が聴いてそうだよね。」
 ふたりとも、手の中にある紅茶のマグのことは忘れたように、音の流れてくるステレオの方へ目を凝らしたまま、まるで、そこに、音符か文字でも浮かんでいるように、今は互いを見ることさえしない。
 聴けば、不可避に無口になってしまいそうな曲だと、思って、アルベルトは、ジェットの肩に頭をもたせかける。ジェットが、そんなアルベルトの髪に頬をすりつけて、アルベルトの気持ちを察したように、何も言わないまま、流れる曲を黙って聴いている。
 もう一度再生されたのを、そのままの姿勢で聴いてから、アルベルトはようやく、ジェットの肩から体を離した。
 「偶然だな・・・そう言えば。」
 「なにが?」
 ジェットが聞き返すのも無理はないタイミングで、アルベルトはひとりでつぶやいて、床から立ち上がって、ステレオの傍へ行った。
 「それ、ちょっと止めてくれないか。」
 ジェットの機械を指差してから、CDの並んだ棚に指先を滑らせて、目当てを探す。
 あった、と小さく言って、取り出したCDを、ステレオのトレイに乗せた。
 「キミのその曲と、同じ曲だよ。」
 そう言って、リピートを選んでから、再生ボタンを押す。
 やや高い男の声が、流れ出す。
 悲しげなメロディーは同じだけれど、こちらはきらめくような、そんな印象がある。
 初めて、ジェットの家族に恋人だと紹介された日に、車の中でラジオから流れた曲だった。
 まるで記念のように、このCDを買ってしまったけれど、まさかこんな形で、ジェットに聴かせる日が来るとは、思ってもみなかった。
 メロディを耳で追って、少しばかり驚いているジェットの傍にまた戻って、アルベルトは、大きく笑って見せる。
 たたみかけるように、音符に詰め込んだ歌詞を、後ろでリズムを刻むベースやドラムを、むしろ引っ張るように歌う。
 音のひとつひとつが、パートに関わりなくぶつかり合って、その緊張感に思わず、体が動き出す。
 「これ、なに?」
 「アル・ジャロウの、"Spain"。」
 「だれ、それ?」
 「黒人で、とにかくとんでもない歌手だということしか、知らない。」
 アルベルトの説明に、ジェットが鼻の上にしわを寄せる。
 「元々は歌のない曲で、それを無理矢理、歌を乗せてアレンジした、と説明された。」
 「だれに?」
 「大学時代の、ピアノの講師に。」
 ジェットが、まるでスワヒリ語で、宇宙人に話しかけられた、というように、軽く頭を振って見せる。
 「全然わかんないよ、せんせェ。」
 同じ曲に魅かれたのだという偶然を、ジェットに説明しようとして、アルベルトは笑ったままで、口をつぐんだ。
 「でも、すごさはわかるだろう?」
 そう尋ねると、ステレオの方を見て、ジェットは素直にうんとうなずく。
 「なんでこんな歌えるんだろう。」
 「キミが、あんなに高く飛べるのと、同じことだ。」
 ジェットが、唇を突き出して、それから、頬を赤く染めた。
 「せんせェが、ピアノ弾けるのと同じ?」
 曲の途中で、キーボードのソロが始まったところで、ジェットがそう言う。
 「・・・頼むから、こんなのと比べないでくれ。」
 誰が聴いても---たとえジェットでも---超一流とわかる音に、アルベルトは思わず苦笑いをこぼした。
 キーボードのソロをなぞったスキャットが続いて、ジェットがそれに目を見開く。
 何か言おうとしたのか、唇が軽く開いて、それからアルベルトの方を見たけれど、何も言わずにまた、ステレオの方へ向き直る。
 曲が終わって、また始まる。
 「どうしても、歌ってみたくて、必死に歌詞を覚えた。でも、やっぱり無理だった。」
 昔を思い出しながら、そう口にして、今は胸も痛まないことにすら、アルベルトは気づかない。ピアノを弾いていた頃、まだ、右腕のあった頃、家族のいた頃、ジェットと出逢う、ずっとずっと前のことだ。
 あの頃のことを、こんなふうに、誰かに、痛みもなく話せる時が来ると、数年前まで思ったことすらなかった。
 歌が、思い出を運んでくる。苦痛だったそれが、今は、懐かしさだけで、胸に迫ってくる。
 知らないうちに、唇が、覚えている歌詞をくちずさんでいた。
 ぼくらはまた恋人になる。きみはぼくのかたわらにいる。
 アルベルトは、隣りのジェットを、思わず見つめた。
 歌をくちずさんで、かすかに動くアルベルトの唇に、ジェットが目を細めて、それから、触れるだけで、唇がゆっくりと重なった。
 過去が痛みを失うのは、今が幸せだからだと、口にすればひどく陳腐なことを思いながら、アルベルトは、ジェットの肩に腕を伸ばした。
 ピアノだけを愛していた自分に、音楽そのもののおもしろさを教えてくれようとしたのだと、あのピアノ講師のことを思い出して、今ならわかる。
 ジェットに魅かれて、アルベルトの世界が色と音を取り戻したように、ひとは、ひとりきりではなく、この世界も、閉じられた、背中を丸めてやっと立ち上がれるだけの空間というわけではない。
 広げることも、広がることも可能なのだと、高く飛び上がる、まだ少年の匂いの残る、この恋人が教えてくれたのだと、歌声を聞きながら、アルベルトは思った。
 ジェットのためにピアノを弾いたら、聴いてくれるだろうかと、ジェットの肩に両腕を巻きつけて思う。抱き寄せられて、頭の中にあるのは、情熱の塊のような、音の連なりだけだった。
 音に圧倒されるように、ジェットの体の重みが、胸にゆっくりと乗ってくる。音を受け止めるように、アルベルトは、目を閉じて、それを受け止める。