ふたりのいるところ



9) 贈るもの

 ジェットも何も言わなかったし、アルベルトも何も言わなかった。
 アルベルトは、意外とそんなことには---自分にも、他人にも---無頓着だったし、むしろ、そういうことを律義に覚えているのは、いつもジェットの方だった。
 だから、ジェットがそのことに触れないのを、少し妙だなと思いながら、それでも言わないなら、それはそれでいいと、ほんの少し投げやりに、カレンダーを眺めて思う。
 そうして、毎日のような訪れが、2日ほど途絶え、そんな時には必ずよこす電話もなく、たかがそんなことで、不安になる自分をなだめながら、少しばかり意地になって、読みかけの本にことさら没頭してみようとする。
 何か、用があるんだろう。大学も、入って数年になれば、いろいろと付き合いもある。
 それでも、ジェットのいない週末の始まりを、珍しいと思うよりは、淋しいと感じるアルベルトだった。
 家族で旅行ということも有り得る。ちっとも読んでいる本に集中できずに、それなら連絡がないはずはない、と、自分で自分に反論しながら、アルベルトは唇をとがらせていた。
 ひとり分の紅茶を、今はいれる気にはなれず、ページの上の字を目が追って、何度も何度も、同じところを繰り返し読んでいることに気づかない。


 だから、ジェットが現れた午後、アルベルトは、少しばかり不機嫌を口元に刷いて、キッチンで紅茶をいれていた。
 いつものように、せんせェ、と声を掛けながらばたばたと靴を脱いで、けれど何度もアルベルトに叱らせたせいか、ついに、ごとんと脱ぎ捨てることはやめて、ドアにぶつかる音はせずに、ぱたぱたと柔らかな足音がこちらへやって来る。
 キッチンの壁の向こうから、いつもの笑顔が覗いて、横に広い唇が、いっそう大きく見える。
 その笑顔に、ふとつられて笑いそうになりながら、アルベルトは、唇を引き締めてしまった。
 「やあ、いいタイミングだな。」
 それでも、言葉だけはにこやかに、慌ててポットの紅茶の葉を増やし、やかんに水を足す。
 へへへと、今も出会った時と変わらない、少し稚ない笑顔がこちらにやって来て、それから、あの頃とは違う慣れた仕草で、アルベルトに頬を寄せてくる。
 それには一応応えてやりながら、それでもまだ、唇は笑わないままだった。
 今日もまた、バスケットチームの練習の後なのか、香料のきつくない石鹸の匂いがする。それに混じる、ジェットのかすかな膚の匂いに、アルベルトはふと目を細めた。
 「試合が近いのか?」
 ジムバッグをリビングの方へ放り投げるジェットに振り返って、アルベルトは、何気なく訊いた。
 「試合はもうちょっと先だけど・・・。」
 声が、少し歯切れが悪い。
 さて、今度は何を隠しているのだろうかと、心の中だけで臨戦態勢に入る。
 ジェットに背中を向けて、何をしているのか、ジムバッグを開ける、ジッパーの滑る音を聞いた。
 香りの混じる湯気を立てる熱い紅茶を、ふたつのマグに注ぎ分けて、やっとキッチンのテーブルに振り向くと、ジェットがもう椅子に坐って、その目の前に、リボンで口をしばった、透明なフィルムのかたまりが置かれてあった。
 マグを抱えたまま、何だと目を凝らす。中身は、小さなかごに見え、その中に、薄茶色の、クッキーらしきものが見える。
 少しあごを引いて、それでもまだ何も言わずに、ことんとマグを置いてから、ジェットと向かい合う形に、椅子に腰を下ろした。
 ジェットが、そのフィルムに包まれたクッキー---らしきもの---を、アルベルトの方へ押してくる。
 「開けていいよ、せんせェのだから。」
 うきうきとした声でそう言うジェットと、目の前の包みを見比べて、また、あごを胸に引きつけて、今度は肩まで後ろに引きながら、言われるまま、それに両手を添えた。
 くしゃんとフィルムが音を立て、結ばれているリボンが、たて結びになってしまっているのに、わずかに苦笑をこぼす。白く、何かの名前が印刷されている緑色のリボンは、つるつると指先に滑った。
 左手で、リボンを引くと、待っていたようにするりとほどけ、広げたフィルムの内側から、甘い匂いがあふれてくる。クッキーに間違いないようだなと、その中に手を差し込んで、小さなかごごと取り出しながら、引き締めていたはずの唇が、いつの間にかほころんでいた。
 「オレが焼いたんだ!」
 10枚ほどの、不揃いな丸いクッキーの表面はでこぼこしていて、ジェットが焼いたのだと聞けば、ずいぶんと見事な体裁だと、かごや包装フィルムやリボンを改めて見直す。
 「・・・すごいな、キミが焼いたなんて。」
 素直の感想をもらすと、ジェットがうれしそうに微笑む。
 かごから、クッキーをつまんで裏返して、
 「ほら、焦げてない!」
 どうやら、この10枚は、無事に焼けた分らしいと悟って、一体何日かかって、何枚クッキーを焼いたのだろうかと、問うことはせずに考える。
 ジェットのうれしそうな表情につられ、アルベルトは、クッキーをつまんだジェットの手を、右手で自分の方へ引き寄せた。そのまま、首を伸ばして、一口かじる。
 「・・・うまい。」
 あまり甘くないのは、もちろんアルベルトの好みに合わせたからだと、わかっているから思わず微笑む。
 「全部、ひとりで焼いたのか?」
 クッキーの小さなかけらを、口の中でゆっくり味わいながら、珍しく行儀悪く、そのまま口を開くアルベルトを見つめて、ジェットの頬が、ほんの少し赤らんだ。
 「ねーちゃんが手伝ってくれたけど、もちろん。ほんとはさ、せんせェの誕生日に何がいいかなって探してたら、ねーちゃんが、みんなにクッキー焼くから手伝えって言って、で、じゃあ、せんせェにもって、オレが言って・・・。」
 引き寄せられた手を外して、クッキーをかごに戻すと、またその手が、今度はアルベルトの右手に伸びてきた。
 「今度さ、一緒にケーキとか焼こうよ。ねーちゃんが教えてくれるってさ。」
 一緒に、というのは、ここでなのだろうか、それとも、ジェットの家で、ジェットの家族を交えて、ということなのだろうか。
 どちらでもいいなと、思った自分に驚きながら、掌の向きを変えて、重なっていたジェットの手を軽く握る。ジェットのクッキーは、大事に食べようと、そう心に決めた。
 「焼き上がったので、きれいなの選んで・・・包んだのねーちゃんだけど、焼いたのはちゃんとオレだから!」
 「でも、リボンはちゃんと、キミが結んでくれたんだろう?」
 「なんでわかるの?」
 大人っぽくなったと、思っている表情が、途端に出会った頃に戻る。
 キミのことなら、何だってわかるんだ。
 そう言ってしまいたい気持ちを抑えて、代わりに、鉛色の指先に力を込めた。
 リボンならきっと、自分の方がうまく結べるだろう。クッキーやケーキを焼くのは、ジェットの方がうまいかもしれない。
 このリボンは、大事に取っておこう。いつか、ジェットに何かお返しをする時には、このリボンを使おう。
 誰かに、何を贈ろうかと、迷う楽しみもある。その機会を与えてくれるジェットに感謝しながら、アルベルトは、また微笑んだ。
 「後で、一緒に食べよう。」
 「後で?」
 「後で。」
 またうっすらと、頬の赤みを濃くしてから、ゆっくりと細まる、ジェットの淡い緑の瞳に、そっと近づいてゆく。
 左手の指にリボンを絡めて、右手は、ジェットの左手を、逃がしたくなくて、ぎゅっと握りしめていた。