路地裏の少年



12) 変化

 大学に、人より少し長くいると---特に留学生は、滞在費を節約するために、なるべく早く単位を取って、卒業してしまおうとする---、毎年入ってくる新入生---18や19の学生たち---が、年とともに子どもっぽくなるように見える。
 言葉使いや態度、そして外見も、前の年より今年、そして今年より来年、そんなふうに、同じ年にも関わらず、年下の彼らは、どんどん子どもじみてゆく。
 そんな年下の学生と、大きな教室で一斉に受ける講義ならともかく、20人程度の人数に分かれて、ひとりひとりが与えられた課題について発表をし、それについて討論をするセミナーで付き合うのは、いつも骨が折れた。
 アルベルトが、いつも必ずいちばん年上だとは限らないけれど、大半の学生よりは常に年上であることは間違いなく、その上、英語が第一言語ではないということや、アルベルトが病的なほど寡黙なせいや、そんな諸々で、アルベルトはいつも、そうありたいと願う通りに、たやすく無視される立場にいた。
 敬意を払うつもりのない相手に無視されたところで、痛くもかゆくもなく、腕のこと---つまりは、過去---をできれば誰からも隠したいアルベルトには、ある意味では好都合でさえあった。
 その日も、比較的気に入っている、"ジェンダーと社会"というクラスのセミナーで、退屈な、クラスメートたちのおしゃべりに付き合う羽目になった。
 こんな少人数のクラスでは、必ず、常に口を開く学生が、3、4人いる。少なくとも、いつも耳を傾ける価値のある意見を聞ける場合もあれば、揃いも揃って、授業など何も聞いていないことを暴露するだけの学生もいる。
 どちらの場合も、アルベルトは滅多と口を開かず、自分の発表だけをすませて、その他は、存在すらしないように、クラスの中に沈み込んでいる。
 このクラスは、授業自体は気に入っているにも関わらず、セミナーが、よりによって最悪のタイプ---特定の誰かが、延々と下らないおしゃべりを披露する---で、アルベルトはいつも、1時間、頭痛を耐えるのにひどく苦労していた。
 背の高い、容姿も比較的整った、どこから見ても、人の注意を引くことに慣れている学生のひとりが、また、大きな口を開く。
 このクラスが、女性学の一部のせいなのか、男の学生はいつもひどくおとなしい。
 アルベルトは膝の上に両手を重ね、必死に、彼女のおしゃべりを聞き流そうとした。
 彼女につられたように、またいつも口を開く2、3人が、一斉にさえずり始める。
 今日は何故か、彼女らのおしゃべりが、いつも以上に神経に障った。
 ひとりが、高校の時のクラスに、こんなクラスメートがいたと、長々と喋っている。
 「どうして彼女が、そんな行動をしたのか、社会学的に説明してくれないかな。」
 言葉がようやく切れた合間に、アルベルトは、思わず舌を滑らせた。
 ぎょっとなったクラス全体が、アルベルトの方を向き、さっきまで滔々と喋っていた学生は、驚きで血の引いた頬を、ひくひくと引きつらせていた。
 「体験談で終わるようなセミナーなら、1年生で充分じゃないかな。」
 口調は柔らかかったけれど、痛烈な皮肉だと伝わるのを承知で、アルベルトは言葉を継いだ。
 我慢できないと思った時には、唇が動いていた。
 セミナーを受け持っている大学院生に、口が過ぎると注意されるならそれでもいいと、ふとなげやりに思う。
 そのままクラスはしんとなってしまい、別の、いつもは口を開くことのない学生が、まるでアルベルトに励まされたように意見を述べて、少しましな意見が出始めたところで、セミナーは終わった。
 みなが、がやがやと小さな教室を出て行くのを見送って、アルベルトは、重い腰を上げた。
 次の授業から、きっと居心地がもっと悪くなるなと思いながら、それなら、セミナーのクラスを変えてもらえばいいだけのことだと、珍しく楽観的に思う。
 教室を出たところで、さっき、ようやくまともに発言をした学生---アジア人の、女の子だった---とセミナーリーダーが話をしているのに出くわす。
 軽く頭を下げて去ろうとすると、セミナーリーダーが、ちょっと、とアルベルトを呼び止めた。
 叱られるのかと思って、少し重い気分で、足を止める。
 セミナーリーダーは、アフリカから来ている、ピュンマという修士課程の学生だった。
 アルベルトと向き合って、にっこりと笑って見せる。
 「なかなか、手厳しかったね。」
 「言い過ぎたとは、思ってる。でも、謝る気はない。」
 「謝れなんて、言わないよ。ボクも実は、どうしようかと思ってたんだ。3年生にもなってあのレベルじゃ、こちらも教えようがないからね。」
 アルベルトは、驚きを隠して、ただ、無言で、目の前の、黒檀の膚をした青年を見下ろした。
 「ところで、君は、修士課程に行くの?」
 教授に最近、少し話をしたのを聞いたのだろうかと思いながら、アルベルトは、また黙ってうなずいた。
 「修士課程に行くなら、何か質問があれば、答えるよ。君のこの間の論文は、なかなか面白かった。」
 90点をもらった、先月提出した課題のことを思い出しながら、アルベルトは、サンクス、と短く言う。
 「前より、掘り下げ方が、深くなってるね。視野が広まってるように、ボクは感じたんだけど。」
 思い当たることもなく、アルベルトは、肩を軽くすくめただけだった。
 「何か、変わったことでもあったかなって、思っただけだよ。後期試験の前の課題も、楽しみにしてるよ。」
 ピュンマはそう言って会話を切り上げ、手を上げて、背中を見せた。
 さっきから、そこに立って、ふたりを見ていたアジア人の女の子にも、手を軽く振って、ピュンマは長い廊下を去って行った。
 それを見送ってから、今度は、その女の子が、おずおずとアルベルトに話しかけてきた。
 「あの、今日は、どうも、ありがとう。」
 「・・・・・・礼を言われるようなことは、何もしてない。」
 素っ気なく言うと、その子---アルベルトよりも、かなり背が低い---は、肩にあごを埋めるようにしながら、
 「あたしも、あなたと同じこと、思ってたから。でも、言い出せなくて、あなたが、憎まれ役を、してくれたみたいだから。」
 「あんなセミナーなら、受けない方がましだと、思っただけだ。」
 その子は黙って、じっとアルベルトを見返した。
 心の内を読まれているような気がして、アルベルトは、思わず会話の矛先を変えた。
 「君は・・・中国人かな。」
 クラスメートについて、そんなことさえ、アルベルトはろくに知らなかった。
 彼女の英語の訛りから、そうではないかと思ったことを、失礼にならないように、口にした。
 「台湾人よ。」
 「アジア人の女性が女性学をやるのは、珍しいんじゃないかな。」
 自分のことが話題にならなければ何でもいいと、アルベルトは、彼女のことに話を振る。
 「そうね、クラス全部であたしだけだと思う。でも、アジア人女性だって、今は女性問題について、詳しくなってるわよ。」
 彼女は、一息ついて、少しだけためらった後で、言った。
 「あたしなんかは、アジア人と女だってことで、ここでは二重に差別されるから。」
 ふと、頬を張られたような気がした。
 差別について口にするのは、時と場所を選ぶ。この国の人間たちには、決して理解されないことだったから。
 彼女がそれを今口にしたのは、明らかに、アルベルトを、ここでは外国人だと知った上でのことだった。
 自分が、少なくとも、白人種の男であることを、自分の一部として、アルベルトは初めて意識した。
 アジア人で女------わかりやすい差別のひとつだ。もっとわかりにくい差別は、もっとたくさんある。
 傷ついた者同士でしか、差別される者同士でしか、わかり合えないこともある。
 ピュンマの、フランス語訛りの英語を思い出して、彼から見れば、自分も所詮、恵まれた白人のひとりに過ぎないのだろうかと、アルベルトは思った。
 ふと、ジェットのことを考えた。
 白人の、少年。ジェットはおそらく、心の傷がいつか癒えても、それを忘れることはないだろう。差別される者の痛みと、踏みつけにされる痛みを、きちんと理解できる大人になるだろうと、アルベルトは思った。
 こんなふうに依怙地な自分とは違って、きっとこの大学に来れば、さまざまなことを、無駄なく学んでゆくのだろう。
 「とにかく、ありがとう。また、セミナーで。」
 彼女は、にっこりと微笑んで、アルベルトに向かって手を振った。
 頭を上げ、胸を張って去ってゆく彼女の背中を見つめながら、あんなふうに、誇り高く歩いてゆくジェットを、アルベルトは、脳裏に思い浮かべていた。


 夕食の後のお茶のために、中国菓子でも買って帰ろうと、アルベルトは、アパートメントに上がる前に、張大人の店へ寄った。
 「アルベルト、ひとりは久しぶりアルね。」
 張大人が、店の奥から、エプロンで手を拭きながら出て来る。
 「例の、中国菓子を持って帰ろうと思って。」
 にこやかに言うと、張は破顔して、傍を通ったウエイターに、アルベルトが言った菓子を包みにして持って来るように言った。
 「ちょうど、夜の仕込みが終わったとこアルよ。お茶に付き合うヨロシ。」
 そのつもりだったのはほんとうらしく、カウンターに連れて行かれ、腰を下ろした途端、大きな陶器のポットに入った中国茶が、目の前に運ばれて来た。
 小さな湯のみに注がれる、熱い中国茶に、薄い唇を寄せながら、アルベルトは、上機嫌な張大人を、上目に見る。
 「学校、頑張ってるアルか?」
 「ああ、4年の成績次第で、修士課程に行くつもりでいる。」
 「なら、まだ、もっとここにいるアルか。」
 ここ、というのが、この街なのか、この国なのか、このアパートメントのことなのか、はっきりはしないまま、アルベルトはああ、とうなづいた。
 それを見てから、張大人は満足したようにうなづき返すと、ずずっと音を立てて、熱い茶をすすった。
 「アンタはん、よく笑うようになったアルね。」
 突然、張大人が言った。
 思わず口に含んだ中国茶を吹き出しそうになって、アルベルトは、慌てて、湯のみを唇から離した。
 「いいことアル。顔色も、前よりずっといいアルよ。」
 にこにことそう言う張大人を見て、アルベルトは意味もなく顔を赤らめた。
 思わず頬を撫でながら、そんなに暗い顔つきだったのだろうかと、以前の自分を思い出そうとしてみた。
 ジェットがここに来る前は、唯一親しく付き合っていた張大人にだけは、それなりの笑顔を見せていたつもりだったのだけれど、それも、そう思っていただけで、一向に笑顔ではなかったのかもしれない。
 目の前の張大人の笑顔が、あの、台湾人の彼女の微笑みに重なる。
 同じ中国人と言うだけではなく、その笑顔には、確実に共通点があった。
 差別される人々は、敏感に、差別される他の人間を見分け、こんなふうに笑いかけてくれるのだろうか。
 仲間だと、口にはせずに、そう、笑顔で伝えようとしてくれるのだろうか。
 ジェットが自分を見つけたのも、そんな、同じ匂いのせいだったのだろうか。
 自分を取り巻く、さまざまな視線を思った。突き刺すものばかりだと思っていたその中に、確実に、包み込もうとする、優しいそれもあったのだと、初めて気づく。
 ふと、ひどく優しく微笑んだことに、アルベルトは自分で気づかなかった。


 「アンタ、まだ寝ないのか。」
 キッチンから振り向くと、眠い目をこすりながら、ベッドルームのドアのところに立っているジェットがいた。
 「起こしたかな。」
 申しわけなさそうに言うと、ジェットは、首を振って、ぺたぺたと裸足のまま、キッチンへやって来る。
 一度ベッドに入ったものの、何となく眠れずに、あれこれ考えているうちに、後期試験のための論文のアイデアが浮かび、それを簡単にまとめておこうと起き出したのは、もう2時間近くも前だった。
 「また課題かよ。」
 半分あきれたように、ジェットが言う。
 キッチンのテーブルの上に、数冊の本と、大きなノートと、それから英語の辞書が、さまざまな書き込みと一緒に、ずらりと広がっていた。
 「いや、正確には、課題の準備だ。」
 「大学って、こんなに勉強すんのか?」
 「学校っていうのは、勉強するところじゃないのか。」
 混ぜっ返すように言うと、ジェットが、ぷっと頬をふくらませんた。
 アルベルトの肩越しに手を伸ばし、広げていた本のページに触れる。
 「今から大学行く気が失せるようなこと、言うなよな。」
 悪かったと、笑いを含んで言うと、その唇に、ジェットが軽くキスをした。
 「今度は何だよ。」
 「異性愛の、弊害について。」
 ジェットが、目を細めて、首を振る。
 「通訳、通訳。」
 アルベルトは、声を立てて笑った。
 「男と女が愛し合うことが、自然で当たり前で、それが基準だと思い込むことの、危険性について。」
 「・・・・・・オレのことでも、書く気か、アンタ。」
 ふと、考え込む。
 ジェットのことを書く気はないけれど、ジェットとのことが、そんなテーマを選ばせたのは明らかだった。けれど、そんなことは、ちらとも考えなかった。
 もう一瞬だけ考えてから、アルベルトは、口を開いた。
 「今日、クラスで、セミナーリーダーに、書くものが少し変わったと、言われた。」
 「セミナーリーダー?」
 聞き慣れない単語を、ジェットが聞き返す。
 「20人くらいで、討論するんだ。それを受け持つ、大学院生とか、教授の助手とか、それが、セミナーリーダー。」
 「それで?」
 「・・・・・・前より、掘り下げ方が、深くなったと、言われた。」
 ジェットが、天井の方へ瞳を持ち上げて、それから、アルベルトをまた見る。
 「それって、誉められたんだろ?」
 「まあ、そうだな。」
 「じゃあ、素直に喜べよ、そんな、深刻な顔で言わなくてもさ。」
 テーブルに肘をついて、掌に、こめかみを乗せる。そうしてから、うっすらと笑って見せた。
 ジェットが首に腕を巻き、アルベルトの片方の膝に腰を下ろす。ジェットの腰に、空いた右腕を回して、アルベルトはそれを支えた。
 「それから、クラスの女の子に、ありがとうと言われた。」
 「なんだよ、アンタに気でもあんのか、その女?」
 「いや、クラスで、ちょっと気に入らないことがあって、それをはっきり言ったら、彼女もそう思ってたんだって、それでありがとうと、言われた。」
 またジェットが、あごを引くようにして、じっとアルベルトを見る。
 「彼女と話してる時に、キミのことを、考えてた。キミも大学に行って、いろんな事を、いろんなふうに学ぶんだろうって、そういうことを、考えてた。」
 ジェットが、くすぐったそうに肩をすくめ、照れたように、喉の奥で笑う。
 両腕をアルベルトの首に回し、首筋に顔を埋め、アルベルトと向かい合うように、膝の上で位置を変える。
 「今日は、何だか、いろいろ考えることが、多かった。キミのことも、いろいろと、考えた。」
 「なんだ、オレ、アンタがてっきり、その女のことでも、好きになったって言うのかと思った。」
 椅子の上で、アルベルトの膝をまたぐ形で抱き合い、ジェットは、アルベルトの肩の上で、そう言った。
 「・・・・・・そんなことは、考えたこともなかったな。」
 ジェットの息が、首にかかる。
 「アンタ、学校で、女見て、ヤリたいとか、全然思わないのか?」
 不思議そうに、ジェットが尋いた。
 まだ、掌に頭を軽く乗せたままで、アルベルトは、考えるために視線を動かす。
 「キミは、どうなんだ。キミは、女の子と、寝たことがあるのか?」
 「ねえよ。オレ、自分がゲイかどうか知らないけど、女と寝たいと思ったこと、まだねえもん。」
 「・・・・・・どうも我々は、どこかで、女性と経験する必要が、あるらしいな。」
 「アンタは、女と寝たいのか?」
 真っ直ぐに訊かれて、アルベルトは、真っ直ぐにその質問を受け止めた。
 首を振って、ジェットの頬に口づける。
 「いや、寝るのは、キミとだけでいい。」
 「それって、アンタが、オレを好きってこと?」
 ジェットがまるで、ベッドの中で躯を繋げる時のように、椅子に坐っているアルベルトに、体を押しつけてくる。
 その瞳が潤んでいるのを見て、アルベルトは、思わず、ジェットがベッドの中で上げる声を思い出した。
 「・・・・・・まあ、そうなんだろうな。」
 少なくとも、アルベルトがよく笑うようになった---張大人によれば---のは、明らかに、ジェットのせいだった。
 ジェットが、弾むように言った。
 「じゃあ、オレとヤリたい?」
 誘うような仕草で、接吻が重なる。
 唇を舌先でなめられて、アルベルトは、一瞬、ノートや本の存在を忘れた。
 「オレと勉強と、どっちがいい?」
 「・・・・・・頼むから、試験と課題の提出の前には、やめてくれよ。」
 「答えろよ。」
 呼吸が、唇にかかった。
 答える代わりに、ジェットを抱きかかえて、アルベルトは椅子から立ち上がった。
 「アンタ、もう勃ってるだろ。」
 おかしそうに、ジェットが言った。
 「それが答えだな。」
 ジェットのひょろりと長い足が、そう言ったアルベルトの腰に絡む。
 まだ軽いジェットの体を、胸を合わせる形で抱いたまま、アルベルトはベッドルームへ歩いて行った。
 ドアが、音を立てて閉まる。空気が息をひそめたような、しめやかな夜だった。