路地裏の少年


13) 拾いもの

 バタバタと、アパートメント中に響くような足音だった。階段を駆け上がり、そのまま、廊下を走ってくる。一体誰だと、ドアの方へ首を回した時、足音が、ドアの前でいきなり止まった。
 がちゃがちゃと、ひどく慌てたように、鍵を回す音が聞こえ、それから、また、ばんと音を立ててドアが開いた。
 部屋に飛び込もうとしたジェットが、アルベルトが、リビングのソファで本を読んでいるのを見て、いきなりそこで動きを止める。驚いた顔は、見る見る真っ赤になって、ぎくしゃくとそこで立ち止まったまま、その勢いをどこへやろうかと、思案する風に見えた。
 「ずいぶん、にぎやかだな。」
 皮肉でも何でもなく、薄く笑ってそう言うと、ジェットが、いきなりしぼんだ風情で、そっと部屋に入ってきて、そっとドアを閉めた。
 「・・・なんだ、アンタ、帰ってたのか。」
 「最後の授業がキャンセルになったんだ。」
 ジェットが、なぜか唇を突き出して、アルベルトに、ただいまと飛びついて来ることもなく、そのまま足音を忍ばせるようにベッドルームの方へ行く。
 アルベルトがいないと思って帰って来たのは明らかで、一体何だろうと思いながら、けれど、子どもがあんな風に元気がいいのは良いことだと、さして深くも考えず、アルベルトはまた、読んでいた本の世界に自分を引き戻した。
 しばらくして、ジェットがベッドルームから出て来て、ひどく静かにキッチンでこそこそと何かやった後、玄関のドアの辺りをうろうろとしてから、ひどくぎこちなく、言った。
 「オレ・・・ちょっと・・・すぐ、戻ってくるから。」
 歯切れ悪くそう言って、もう、アルベルトの方へ背中を向けている。
 ああ、と出て行く背中を見送る時に、胸の前に何か抱えている気がしたけれど、それを呼び止めることはしなかった。
 煙草でも、学校でもらったのだろうかと思ってから、見えるところやこの部屋では、絶対に吸わないように言わないとと、字の流れを追う頭の片隅で、ぼんやりと思う。
 マリファナだと、困るな。
 吸えば、匂いですぐわかる。そんな気配があれば、きちんと話をすればやめるだろう。
 アルベルト自身は、煙草も吸わなければ、マリファナと言われる、その類いの麻薬に触れたことさえない。学生のパーティーには、様々なドラッグが付きものだと、話には聞くけれど、そんなパーティーに誘われたこともなければ、ダウンタウンを歩くことさえ滅多にないアルベルトには、まったく縁のない話だった。
 酒も飲まない、煙草も吸わない、ドラッグには興味がない、暇さえあれば本ばかり読んでいるアルベルトを、つまらない奴だと思う連中もいるのだと、知っていて、それをわざわざ否定する気にはなれなかった。
 つまらない奴、という表現が、アルベルトの実際の人となりから、それほどかけ離れているとは思えなかったし、そう思われたところで、痛くもかゆくもない。
 大学にいるにも関わらず、本を読むことが苦痛で、読まなければならない文献さえ、平気で読まずに過ごしてしまう連中の方を、かわいそうに、と思うことすら、今はある。
 読書の楽しみを知らないなんて、つまらない人生だな。
 ささやかな、意趣返し。字を追う視線が使う頭の部分とは、少し離れた場所で、そう思った。
 今日のジェットの宿題は、何だろう。この間の、つづりのテストがあまりよく出来ていなかったから、少し見てやった方がいいかもしれない。ジェットがひとりで宿題をするはずのこの時間に、ここにいるのが珍しいのだから、たまには、尋ねられる前に、宿題を見てやるのもいいかもしれない。
 勉強にもっと忙しければ、薬をやる時間も、パーティーに費やす時間もないはずなのに。
 1年の半分近くは、宿題もなく学校を休んでいる、この国の学生たちのことを思う。まったくこの国の政治家と来たら、自国民の頭脳がまともに発達するのを、わざと妨げるための政策なら、いくらでも思いつくらしい。そうやって生まれて来るのは、口先が回るだけで、聞く耳のない、中身のない人間たちだった。
 それでも、少なくとも、許された自由の多さにだけは、感謝する。
 そんなことを、行間の合間につらつらと流れるように考えながら、そろそろ紅茶でもいれようかと思った時に、電話が鳴った。
 ここで電話が鳴ることなど、滅多とない。一体誰だろうと思いながら、本を置いて、電話の傍へ寄った。
 ------アンタ、ちっちゃい動物、好きか?
 もしもし、と言い終わりもしないうちに、ジェットの声が、そう訊いた。
 「ちっちゃい動物?」
 ジェットの言い方をそのまま繰り返して、眉を寄せる。
 ------きらいか?
 詰問するように、すがりつくように、必死の口調で、ジェットが続けて訊く。
 「・・・きらいって・・・動物なんて・・・」
 飼ったことはおろか、触れたことさえない。そこは、喉の奥へ消えた。
 「どこにいるんだ、一体?」
 ------張大人の、店。
 すねたような声で、ジェットが答えた。
 「何か、見つけたのか?」
 ジェットが、電話の向こうで黙る。そうだと言えば、すぐにでも保健所に電話されてしまうのではないかと、疑っているような、そんな沈黙だった。
 埒が開かない。アルベルトは、名残り惜しげに、首を回して、置いた本の方を見てから、小さくため息を滑り落とした。
 「すぐに下に行くから、待っててくれ。」
 ジェットの返事は聞かずに、電話を切った。
 何となく予感がして、きちんとコートをつかんで、部屋を出る。
 下のレストランの、カウンターの傍に、所在なさげに立っているジェットを見つけるまでに、3分。
 アルベルトはもう、きちんとコートを着ていた。
 「どこにいるんだ、その、ちっちゃい動物は?」
 まだ笑顔を浮かべられず、少し硬い声で尋くと、ジェットがすぼめた肩を軽く揺すって、先に立って歩き出す。
 レストランの表に出て、道を渡る。そこから4軒ほど先の、また小さなレストランが並んでいる辺りで、ジェットが不意に、小さな路地を右に入った。
 店の裏の、ごみごみした場所に足を踏み入れ、表通りに比べるといくぶん薄暗い感じのそこで、ジェットは足を止めて、アルベルトに振り返る。
 ジェットがあごをしゃくった方に目をやると、白いタオルが地面に置いてあるのが、目に入った。
 その中央に、小さくうずくまった、薄汚れた感じの、灰色のかたまり。大きなごみかと一瞬思ってから、じっと目を凝らす。
 猫か、と思ってから、ジェットの方を見た。
 「そこの、表の道に、よたよた出て来たんだ。オレの足元で、止まったから・・・」
 いっそうすぼめた肩に、首を埋めるようにして、アルベルトを上目に見る。
 ひどく単純な、そのせいで、解釈次第ではいくらでも難しくなりそうな、そんな課題を与えられたような気分だった。
 猫か、ともう一度思ってから、その、灰色のかたまりの傍へ寄った。
 小さな、猫。背中を丸めたその大きさは、アルベルトの片手にさえ、軽々と乗ってしまいそうだった。
 両目がつぶれている。濡れて、ごわごわとしているように見えた。目が見えないのだろうか、病気だろうかと思ってから、アルベルトの気配を感じても、身じろぎもしない子猫に、アルベルトは、ようやくそっと手を伸ばした。
 ばさばさと、水気のない毛並み、骨張った背中、子猫という言葉から連想する、ふわふわとした柔らかやさ丸みは、どこにもなかった。
 触れても、動かない。ぬくもりはあるけれど、もしかすると、もう死にかけているのかもしれないと、アルベルトは思った。
 「張大人の店から、箱か何か、もらってくるよ。それから、獣医を探して・・・・・・20分くらいで、戻って来るから。」
 考えるより先に、口が動いた。驚くジェットを振り返りもせず、そのままきびすを返して走り出す。


 すぐに連れて来ても構わないと、明るい声が応えてくれた獣医に、その猫を連れて行った。
 タオルにくるまれて、箱に入れられて、車に乗せられても、子猫は鳴きもせず、身動きもせず、ただそこで、じっとしていた。
 背の低い、顔の四角い、どちらかと言えば無愛想に見えるその獣医は、診療台の上でじっとしている子猫を見て、少し悲しそうな表情で、苦笑いした。
 体を触り、耳の中をのぞき、口を開けさせ、牙に触れる。尻尾を持ち上げて、それから、眉をぴくりと上げた。
 「メスで・・・生後8週間とちょっとってところかな。」
 「目は・・・見えるんですか?」
 いちばん心配していることを尋くと、獣医はかすかに微笑んで、子猫のその目を指の腹で撫でた。
 「目やにでくっついてるだけだから、元気になれば、自分できれいにするよ。もっとも、薬は塗った方が、良さそうだけどね。」
 「元気に、なるんですか?」
 そう訊いたアルベルトの、上着の袖を、ジェットがぎゅっとつかんだ。
 「・・・大分、弱ってるから・・・ブドウ糖を注射して・・・元気になったように見えても、それは薬のせいだから、なるべくあったかくして、自分でエサを食べるようになれば、多分心配いらないと思うよ。」
 袖を握ったジェットの手を外し、アルベルトは、並んで猫を見守りながら、手を繋いだ。
 ジェットがその手を、またぎゅっと握る。
 「・・・母親ネコに、捨てられたのかな・・・」
 ぼそりと、言った。
 「猫は、子どもを見捨てることは、しないよ。」
 きっぱりと、少しばかり鋭い口調で、獣医がジェットを見返した。
 ジェットが、打たれたようにあごを引く。見下ろしたその緑色の瞳が、少し潤んでいるように、アルベルトには思えた。
 「猫を飼うのには、何が必要ですか?」
 動かない子猫に、手早く注射をする獣医の手元を、見ていた。
 「・・・大事に飼えば、猫も長生きするから、少なくともそのつもりじゃないなら、飼おうなんて思わない方がいい。」
 「でも、また捨てるわけにも行きませんから。」
 「飼い主を探してくれるところは、いくらでもあるよ。」
 「オレ、ちゃんと、責任持って、飼うから。オレ、ちゃんとめんどう見るから。」
 ふたりの間を遮るように、まるで泣くように、ジェットがいきなり言った。
 ジェットの手を握り返して、アルベルトは、唇を震わせているジェットに、優しく言った。
 「わかってるよ、心配しなくても、いい。」
 言い聞かせるように、ゆっくりと言ってやると、安堵したように、ジェットの頬に涙が流れる。
 ふたりの様子に、獣医が少しばかり呆気に取られたように、子猫を撫でる手を、一瞬止めた。
 「助かるにしても、助からないにしても、路上で死ぬよりはましでしょうから・・・連れて帰ります。」
 まだ少し、疑い深そうな獣医の視線を真っ直ぐに受け止めて、アルベルトは、きっぱりとそう言った。


 獣医で、2、3日分の猫のエサと、1週間分の薬と、それから猫のために必要なものを記したメモをもらって、ふたりはまた、アパートメントへ戻った。
 ジェットと猫を残して、大きなスーパーマーケットに走り、メモに記されたものを、とりあえず手に入れて、また慌てて戻った。
 獣医が言った通り、ブドウ糖の注射のせいか、子猫は少し動き回るようになって、ジェットが皿に入れたミルクを、自分で飲んだ。
 三毛というのだろうか、白い部分の多い毛色に、濃い灰色と薄い茶色のまだらがあって、灰色の部分は白い縞が入っている。
 小さな体は、アルベルトの掌に、少し余るくらいにおさまった。
 箱の中に入れたタオルの上に、体を丸めて眠り、それきりあまり動かない。
 ふたりは、心配で、何度も顔を並べて、箱の中を覗き込む。
 「・・・元気に、なるかな。」
 「さあ。でも、少なくとも、あんなところで死ぬよりは、ましだろう。」
 慰める言葉のひとつでも言えればいいのに、と、自分を少し冷たい人間だと、アルベルトは思う。
 リビングの真ん中辺りに箱を置き、その傍で、ジェットが寝そべって宿題をするのを見ながら、アルベルトは夕食の準備をした。
 食事の間も、ふたりは口数も少なく、まるで言い合わせたように、箱の方ばかり見ていた。
 子猫は、箱の中で少しばかり動いて、覗き込んだふたりを、見上げるようにはなった。
 目はつぶれてしまっていても、匂いや気配はわかるらしく、音を立てれば、ぴくりと耳を動かして、そちらへ顔を向ける。
 骨張った背中を撫でてやりながら、まったく鳴きもしないのを、ふたりで一緒に不思議がった。
 「母親ネコ、どこにいるんだろう、探してないかな・・・」
 「さあ、どうだろうな。」
 あの路地裏に行って、毛色の似たような大人の猫がいないか、週末にでも行ってみようと、アルベルトが言うと、ジェットが素直にうなずいた。
 何となく、ふたりで箱の傍に坐り込んで、アルベルトはそこで本を読み、ジェットは、宿題の続きをした。
 子猫は、その間も、大半は体を丸めて眠り、鳴きもせず、時折、思い出したように、覗き込むふたりの顔を見上げて、大きく口を開けた。
 ふたりでかわるがわる手を伸ばして、喉や背中を撫でてやると、気持ち良さそうに、体をすりつけてくる。
 「ほんとに、この猫、飼ってもいいのか?」
 ジェットが、箱の中を覗き込んだままで、言った。
 「捨てられないだろう?」
 答えずに、ジェットが黙る。
 母親に捨てられたのだろうかと言ったジェットに、猫は子どもを捨てないと、あの獣医は、きっぱりと言った。
 ジェットが、自分と子猫を、母親を通して重ねていたのを、アルベルトは知っている。
 捨てられた、あるいは、母親を失くした者同士。
 だからジェットは、この子猫を、見捨てられなかった。子猫は、ジェット自身だったから。
 アルベルトがジェットを拾い、ジェットが子猫を拾った。
 この猫は、助かるだろうかと、アルベルトは思った。
 ふたりが、ふたりで暮らすことを決めたように、この猫も、ふたりの暮らしの中に、するりと入り込んでくるのだろうか。
 「そろそろ、寝よう。」
 宿題が、ようやく終わったらしいジェットを促して、アルベルトは立ち上がった。
 ジェットがそれを見上げて、箱とアルベルトを、交互に見た。
 「・・・ベッドルームに、連れて行けばいい。」
 ジェットが訊きたいことは、すぐにわかる。
 ジェットはうれしそうに微笑むと、そっと箱を抱え上げ、アルベルトの後ろから、ついて来た。
 部屋のすみに、静かに箱を下ろし、また手を差し入れて、子猫を撫でる。そんなジェットを見ながら、アルベルトは、先にベッドに入った。
 服を脱ぎ、明かりを消してベッドにもぐり込んで来たジェットが、アルベルトの腕を、いつもそうするように、胸に抱き寄せる。
 「オレ、ちゃんと、めんどう見るから。」
 わかってる、と言う代わりに、引き寄せて、額にキスした。
 そのまま、ふたりで向かい合って、しばらく、闇に目が馴れるまで、何も言わずに見つめ合う。
 「名前を、決めなきゃ・・・」
 そっと、ささやくように、アルベルトは言った。
 「名前?」
 ジェットが、声をひそめて、聞き返す。
 「ああ、猫の、名前。」
 箱の中で、子猫が動いたのか、かそこそと、音がした。
 今夜は、静かに眠ろうと、ふたりで、目顔でうなずく。
 静かに、静かに、夜が落ちてくる。ふたりが、ふたりきりではなくなった、夜だった。