路地裏の少年


14) 生き延びる

 猫は、ザジと名付けられた。
 「ザジ?」
 ジェットが、耳慣れない響きを口移しにして、眉を寄せる。
 「ドイツ語の名前か?」
 いや、とジェットの膝の上の子猫を、左手で撫でながら、アルベルトは首を振った。
 「フランス語だ。フランス映画に、そんなタイトルがあった。」
 ふーんと、納得したような、していないような、曖昧な表情で、ジェットは子猫の首に指を差し入れ、くすぐるように動かす。子猫は、目を細め、鼻先を、ふたりの人間に向かって突き出す。
 ジェットに拾われてから2週間、子猫は、名前をつけてはもらえずに、ただの、猫、あるいは子猫、と呼ばれていた。
 最初の3日間、ふたりはそうと口には出さずに、この猫が死んでしまうのではないかと、秘かに考えていた。
 名前をつけて、痛みを増やすよりは、ただの猫のままにしておこうと、そんなアルベルトの気持ちを、聡く読み取ったのか、ジェットも、ちょっとだけ不満そうに唇をとがらせていたけれど、アルベルトに、この猫を引き取る、という以上のわがままは言わなかった。
 それでも、2週間経って、店で売っている挽き肉のひとパック分の重さから、小さな丸ごとのチキンくらいの重さに、体重が増えた頃、ふたりは、もう大丈夫だと顔を見合わせた。
 つぶれていた目は、ふたりが、こまめに薬を塗り込んだせいで、まだ汚れてはいるもののぱっちりと開き、今は自分で、その汚れを拭うのに、必死になっている。
 短い手足に乗った体は、ようやくましな見かけになり、毛並みにも艶が戻り始めていた。
 鳴き声は、哀しくなるほど、小さかった。
 エサをねだる時だけは、ほんとうにかすかな声で鳴くけれど、その他は、一切音を立てない。まるで、ここがアパートメントで、物音にはやかましく言われる場所なのだと、知っているかのように、子猫---ザジは、鳴かない猫だった。
 それを不憫に感じるのか、ジェットは、いつもザジを傍に置いて、アパートメントにいる間は、片時も自分の傍から離さないほど、ザジを可愛がった。
 もっとも、ザジのせいで、アルベルトは3日ほど大学を休み、トイレのしつけに付き合う羽目になった。
 一日中後を追回し、猫に関する本---図書館から、慌てて何冊か借りてきた---に書いてある通り、トイレに用があるように見えれば、すぐにつかまえて、バスルームのすみに置いた、猫のトイレの砂の中に置いてやる。
 ザジが、トイレの場所を覚えるまで、それを繰り返さなければならなかった。
 しつけがいいのか、それとも元々賢い猫なのか、でなければ、自分を、必死の形相で追い駆けてくる人間に、憐れみを覚えてくれたのか、2日目には、自分でトイレを使ってくれるようになった。
 やれやれ、と思ってから、親は、こんなふうに、子どもを育てるのかと、アルベルトは思った。
 慈しみと忍耐と、それが同じほど混じり合ったものを、愛と呼ぶのかと、初めて思った。
 部屋の中を、自由に歩き回るようになり、目につくすべてに、口元や首筋をすりつけ、動くものがあれば、何であれ飛びついて、おもちゃにできるかどうかを、確認せずにはいられない。
 ソファの上に飛び上がれずに、床にずり落ちた翌日の午後には、そのソファの上で、すみの方に丸まって眠っている。
 1ミリごとの成長が、1分おきに目に飛び込んでくる。それをふたりは、顔を並べて、笑いながら見守っていた。
 猫がこうした、ああしたと、一日中、ふたりで話すのは、そんなことばかりだった。
 エサは、1日2回と決めて、朝は、先に起きるアルベルトが、夕方は、宿題を終わらせたジェットが、猫の缶詰めから、ちょっと見には、肉のペーストにしか見えないそれを、多すぎない程度に、皿に出してやる。
 最初は、皿からうまく食べられず、顔やひげを汚して、皿の周囲にエサのかけらを飛び散らしていた---それをきれいにするのは、いつもなぜかアルベルトだった---けれど、1週間も経つ頃には、顔も皿も皿も回りも、汚さずにエサを食べるようになった。
 ソファに上がれるようになった頃には、ベッドにも上がって来るようになり、最初にアルベルトが与えた箱にも、入って過ごしているけれど、ベッドの上で眠っていることも、多くなっていた。
 朝になると、アルベルトの起きる時間をもう知っていて、ベッドに飛び乗って----あるいは、もう夜の間に、一緒にそこで眠っている---、アルベルトの上に乗り、起きろ、と前足でつついてくる。
 胸や肩を踏まれるのは、あまり気にならないけれど、頬に冷たい前足を当てられ、さらに、唇まで踏んでくるのには閉口する。
 一度、明け方、ジェットが自分の上に乗って、まるで犬のように、ぺろぺろと顔を舐めてくるのに、どうした、と訊こうとして、目が覚めた。目が覚めた目の前には、ザジがいて、アルベルトの頬や唇を、そのざらつく小さな舌で、舐めていた。
 新しい、この小さなルームメイトは、その体の小ささにも関わらず、ふたりを振り回し、苦笑させ、そして、ひっきりない会話の、話題の中心になってくれた。
 ジェットに誘われて、1週間経った頃、あの路地裏に戻って、ザジの母親猫を探した。
 似たような毛色の、大人のメス猫はいないかと、1時間以上も、そこら辺りをふたりでうろつき回ったけれど、元々が野良猫で、人間を警戒して出て来ないのか、それとも、縄張りが違うのか、それとも、母親猫など、もうどこにもいないのか、それらしい姿を見つけることはできなかった。
 路地裏で、ちょうど、ザジを、アルベルトに見せた辺りで、ジェットは足を止め、長い間、地面を見つめていた。傍に立ったアルベルトの手を握り、悲しそうな、けれどどこか、少し安堵した色の瞳で、今は何もない地面を、じっと見下ろしていた。
 そんなジェットの、細い肩を見ながら、アルベルトは、背が伸びたなと、そんなことを考えていた。
 猫についての本のどれにも、野良猫が外で生き延びる期間は、せいぜいが2年で、ほとんどは、飢えや病気で、1年足らずで死んでしまうのだと書いてあったことは、ジェットには言わなかった。ザジの母親猫が、たとえ絵空事であっても、どこかでザジの兄弟猫たちと、家族で暮らしているのだと、ジェットが信じたいなら、それを信じさせればいいのだと、アルベルトは思った。
 そんなふたりの間で、ザジはどんどん大きくなっていった。


 あの、無愛想な獣医は、再び同じ子猫---今はザジと名付けられた---を抱えて現れたふたりに、今度は少し優しい笑顔を向けてくれた。
 「目が、良くなったね。毛もきれいになったし。」
 耳の中を覗き込み、口を開けさせ、毛に触れ、腹を探り、獣医は、いっそう優しく、ふたりに向かって笑いかけた。
 「ワクチンの注射と、ノミの薬と・・・耳ダニも調べた方がいいかな。」
 アルベルトとジェットを、交互に見ながら、獣医が、すべきこと、した方が良さそうなことを、早口に並べる。
 それにいちいち、ジェットはアルベルトを見上げ、アルベルトはジェットを見下ろして、ふたりで同時にうなずき合いながら、診察台の上で、怯えているのか、度胸がいいのか、じっとしたままのザジを、ふたりは落ち着いた表情で見ていた。
 「それから、心配ないと思うけど、エイズの検査も、いずれした方がいいかもしれない。」
 「エイズ?」
 ジェットが、素早く繰り返した。
 「親から感染してるかもしれないし、他の猫から感染してるかもしれないし・・・必要ないなら、することはないけど・・・最近、増えてるからね。」
 ジェットが、きゅっと、唇を突き出した。
 それを見てから、アルベルトが、出来るだけ軽い口調で、
 「じゃあ、次に連れて来た時に、お願いします。」
 大したことではないと、そう伝わればいいと思いながら、言った。
 ザジは、ふたりが、自分をいじめることは絶対にしないと、はっきりと自覚しているのか、箱に入れられるのにも、ほとんど抵抗はしなかったし、今も、獣医に何をされても、ぴくりとも動かない。時折、不安そうにジェットとアルベルトの方を見るけれど、鳴き声ひとつ立てなかった。
 信頼、と、それを見てアルベルトは思う。
 おかしな言葉だ。人間の間には、そんなものが存在すると、信じたことすらなかったのに、今は、ジェットとアルベルトの間に、そして、ふたりと猫のザジの間に、そんなものが、存在し始めている。
 たがか、子猫1匹で・・・。
 苦笑と自嘲を、止められない。
 「避妊は、どうするのかな。」
 獣医が、注射をし終わったばかりの、ザジの首の辺りを撫でながら、尋いた。
 ジェットが、鼻白んだように、あごを引く。
 「するべきですか?」
 「猫が、かわいそうだからね。子猫を生ませる気がないなら、発情期はつらいだけだから。その方が、長生きもするしね。」
 「・・・それも、じゃあ、お願いします。」
 ジェットの方は見ないまま、アルベルトは言った。
 「もう、3ヶ月くらい経ったら、手術に連れてくるといい。」
 はい、とうなずいたアルベルトの隣りで、ジェットが、奥歯を噛んで、唇を突き出したままでいた。
 ザジを、診察台から引き取り、診察室を出て、ふたりで並んで受付のカウンターへ行くと、そこにいた女性が、手帳ほどの大きさのカードに、ザジの記録を書き込んでくれた。
 体重と、おおよその誕生日と、診察の内容と、毛の色と、性別と・・・それから、カードを引っ繰り返してから、その女性は、にっこりとふたりに向かって顔を上げる。
 「猫の名前は?」
 「ザジ。」
 ジェットが、胸を張るようにして、すかさず答える。
 「ザジ? スペルは?」
 聞き慣れない、英語ではないらしいとわかる響きの名前に、女性が軽く眉を寄せる。
 たちまちジェットが頬を赤くして、ザジを抱いたまま、口ごもった。
 「Z-A-Z-I-E、Zazie、ザジ、です。」
 アルベルトが、にっこりと笑って、ことさらゆっくりと、彼女のために名前をつづった。
 そんなアルベルトを見上げ、ジェットが、恥ずかしそうに、また顔を赤くする。気にするなと伝えるために、アルベルトは、ジェットの髪を撫でてやった。
 「飼い主さんの、お名前は?」
 「ジェット、ジェット・リンク。」
 今度は、間を置かずに、アルベルトがそう答えた。
 ジェットが驚いて、目を見開いてアルベルトを見上げる。
 それを見返して、アルベルトは、大きく笑った。
 「キミが見つけて、キミが拾って、キミが飼うって言ったんだ。キミがザジの、責任者代表だよ。」
 アルベルトの笑顔が移ったように、ジェットが、大きく口元をほころばせる。
 その勢いのまま、自分の腕の中でおとなしくしているザジの頭に、大きな音を立てて、キスをした。


 ザジをアパートメントに連れ帰ってから、ふたりは一緒に、大きなペットショップへ行った。
 飼うと決めて、必要なものがいくつかあった。
 ザジ用の皿---人間用の皿も、数が充分ではないので---と、猫の缶詰めを、少なくともケースごと、それから、首輪。
 皿は、エサ用と水入れをそれぞれ選び、缶詰めを箱ごと抱えて、首輪の並んだ棚を、ふたりで一緒に探す。
 「鈴とか、ついてる方がいいのかな。」
 「音がうるさいんじゃないのか。狭いアパートメントだし、音がなくても、行方不明にはならないだろう。」
 「でも、見つかんねえ時とか、すぐどこいるか、わかるし。」
 「・・・ザジが、喜ぶとは、あまり思えないな。」
 ちぇっと、ジェットは軽く舌打ちして、アルベルトの意見に従って、何の飾りもついていない、なるべくシンプルな首輪を指差した。
 「じゃ、色は?」
 「・・・ピンクじゃなければ、何でもいい。」
 「なんだよ、アンタ、ピンクに偏見あんのか?」
 周りが、一斉にこちらを見るほど大きな声で、ジェットが、意外そうに、咎めるように言う。
 偏見、という言葉を、ジェットが知っていたのを、そうとは口にせずに、意外に思いながら、アルベルトは止める間もなく、頬を赤らめた。
 「声が、大きい。」
 だからなんだと言う表情で、ジェットが、慌てているアルベルトを、おかしそうに見た。
 「なんで、ピンクじゃダメなんだよ。」
 今にもピンクを選びそうな手つきで、ジェットがからかった。
 「だめなわけじゃない。メス猫だからピンクの首輪っていう、凡庸な選択がいやだっていう、単なる個人的意見っていうだけの話だ。」
 「あーもう、アンタはどうしてそう、いちいち、理屈こねるんだよ。たかが猫の首輪だろ。」
 「キミが尋くから、個人的な意見を述べただけだ。キミがピンクにしたければ、すればいい。」
 大人げなく、アルベルトも唇を突き出した。
 「やだよ。」
 勢いを外すように、絶妙なタイミングで、ジェットが返す。
 「オレ、ピンク、きらいだもん。」
 一瞬、間の抜けた沈黙があって、珍しくアルベルトをやりこめたジェットが、うれしそうに、にいっと唇の端を大きく上げた。
 言い返す言葉もないアルベルトに向かって、ジェットが、真っ赤な首輪を取って、胸元に放り投げた。


 真っ赤な首輪を付けられたザジは、途端に飼い猫らしくなり、少しばかり重くなった首回りが気になるのか、しきりに、牙で首輪を引っ張ろうとする。
 「名札を買って来ても良かったな。」
 それを見て、ぽつりとアルベルトが言った。
 床に腹這いになり、そんなザジを眺めているジェットが、さらにぼそりと、言葉を重ねた。
 「ザジ、子ども生めなくするのか?」
 脱いだ上着を、キッチンの椅子にかけようとした手が、一瞬止まる。
 ふたりで、ふっと見つめ合ってから、アルベルトはまた動き出す。
 買って来た、ザジの皿を袋から取り出して、一度洗うために、キッチンのシンクに置いた。
 その間に、ジェットに答えるための言葉を、探しながら。
 「ザジに子どもが生まれたら、困るだろう。」
 表情を見せないために、シンクを見下ろして、背中を向けたまま、静かにそう返した。
 「・・・困るのか?」
 声の響きが、少しだけ、すがるようだった。
 「生まれた子猫の面倒までは、見れないだろう。」
 振り向くと、ジェットが床にあぐらをかいて、こちらをじっと見ていた。
 強い視線で、アルベルトと見つめ合ってから、すいを反らした視線を、今度は、まだ首輪を追い駆けているザジに注ぐ。それからまた、アルベルトを見た。
 「・・・でも、ザジは、子どもが生みたいかもしれない。」
 シンクに寄りかかって、アルベルトは、胸の前で腕を組んだ。
 「一緒に暮らすっていうことは、それなりに我慢も必要だって、わかるだろう?」
 一瞬、アルベルトの言った言葉の意味を、反芻するような顔つきをしてから、ジェットが、浅くうなずく。
 「子どもを生まないのは、ザジがしなきゃならない我慢かもしれない。ザジは少なくとも、外で死なずにすんだ。その代わりに、子どもを生まないって選択を、しなきゃいけないのかもしれない。」
 「でも、オレたちがそんなこと、勝手に決めていいのかよ。」
 「ザジはまだ、俺たちなしじゃ、生きられないんだ。」
 だから、ザジの人生を、こちらの都合で、勝手だろうと、決める必要もある。
 そこまでははっきりとは言わずに、アルベルトは、唇を閉じて、ジェットを見つめた。
 人間側の、自分勝手じゃないかと、ジェットの言いたいことは、アルベルトにも痛いほどわかる。けれど、子猫を生ませて、放り出す---おそらく、ザジがそうされたように---のも、同じく人間のエゴだった。
 どちらの勝手が、猫のためなのか、そんなことはわからない。それでも、どちらか、互いに最善だと思える方法を選ぶのが、生き物と暮らすということなのだと、アルベルトは思った。
 それをジェットに押しつける気はない。けれど、また別のザジを生み出す可能性を減らすのは、ザジを救うことを決めたジェットの責任だと、アルベルトは思う。
 それは、アルベルトが言って聞かすことではなく、ジェット自身が、ザジを通して自分で学ぶことだった。
 自分たちふたりが、親や、親以外の大人たちから見捨てられた身で、野良猫を拾って育てようとするのは、ある意味滑稽なことなのかもしれない。
 捨てられて、死にかけていた子猫が、自分たちの姿と重なったから、だから、見捨てられなかった。
 互いに、互いに対して生じた責任は、同情だけでは負い切れない。命のあるものを、それを最大限に活かして生かすために、肩を寄せ合って、守り合おうとしている。安っぽい同情ではなく、踏みつけにされた者同士にだけが持つ、優しい眼差しで、互いを理解し合おうとしている。
 人間の都合で、子どもを生むことができなくなっても、ザジはそれを理解してくれるだろうと、アルベルトは思った。
 ジェットがそれをわかるのは、もう少し後のことかもしれないけれど。
 ザジが、ようやく首輪を追うのに飽きたのか、ジェットの方へ来て、あぐらをかいた膝の中に、するりと入り込んだ。
 そこで体を丸めようとするザジを見下ろして、ようやくジェットが笑う。
 それを見て、かすかにため息をこぼしてから、アルベルトは、ザジの新しい皿を洗うために、またジェットとザジに背中を向けた。
 夕暮れの近づく部屋の中で、生き物の気配の増えた、優しい午後だった。