路地裏の少年



15) 嫉妬

 夕食の後、いつものように、片付けたテーブルの上で、アルベルトは勉強を始め、ジェットはリビングのソファで、学校の教科書らしい、ぶ厚い本を読んでいた。
 夕食の後に、ジェットがいれた紅茶が、それぞれの前にある。
 アルベルトのそれは、すでに2杯目だった。
 ザジが、キッチンのテーブルの上に上がることは許されてないのを知っていて---ジェットは構わなかったけれど、アルベルトが断固として、それを躾けた---、椅子の上に上がって、そこから首を伸ばし、アルベルトの手の動きを追っている。
 時折、むずむずと鼻を動かし、前足を、テーブルの上にを伸ばしたそうにしながら、それに気づいたアルベルトが、少し強く視線を当てると、ふいとよそを向いて、アルベルトが、どこか別のところを見ているような、そんなふりをする。
 ぱたぱたと尻尾を振るのは、何か気に入らないことがある時だ。
 ようやくアルベルトの、革靴ほどの大きさに育ったザジは、近頃やっと、ふたりの靴の紐で遊ぶのに、飽きたらしい。
 猫の学校というものは、やっぱり存在しないんだろうかと、アルベルトはそんな埒もないことを考えていた。
 「ザジ、こっち来いよ。」
 ジェットが、リビングのソファから声を掛ける。
 テーブルに上がろうとすれば、普段は聞くことのない、低い厳しい声で叱られるから、その声を使われるたびに、ザジが少ししょぼんとするのを知っていて、ジェットが、ザジを自分の方へ呼んだ。
 ザジは、そちらに首を回し、アルベルトとジェットを見比べた後で、とん、と優雅に床へ飛び降りる。
 少し跳ねるような、とっとっとというような歩き方で、尻尾を高く上げて、ジェットの方へ行った。
 ジェットはうれしそうに、ザジに手招きすると、自分のすぐ傍の、ソファの開いた部分を軽く叩いて見せた。
 前足をそこにかけ、弾みをつけて、飛び上がる。本とジェットの胸の間に、するりと入り込み、ジェットの痩せた膝の上に、これもまだ痩せた体を、くるりと丸める。
 ザジがそこに落ち着いたのを眺めてから、アルベルトは、また自分の手元に視線を戻した。
 来月の末に提出のこの課題は、書き上がった論文を提出するだけでなく、タイトルを決めて提出し、それから参考文献のリストを提出し、アウトラインを提出した後、ようやく最終稿の提出があり、その後で、各自が短いプレゼンテーションをすることになっている。
 4年生のクラスへ進む前の、最後のクラスだけに、時間の短さのわりに内容も密度も濃く、最初の授業の日に配られた、クラスの進行予定を記したプリントを手にした途端に、クラス全体から、大きなため息がもれたのを、アルベルトは苦笑をこぼして思い出す。
 今取りかかっているのは、参考文献のリストのための準備と、アウトラインのメモ作りだった。
 実際に、文章を書き出せば、書きたいことが増えるのは目に見えていたから、できるだけ、文献の量をそろえておきたかった。書き始めてから、資料が足りずに図書館へ慌てて戻る、ということは、あまりしたくなかった。ことに、そんなことを思い出すのが、いつも真夜中を過ぎているということが多ければ。
 あまり大きな大学にも関わらず、大学の図書館で手に入る、社会学関連の文献量は、もっともっと大きくて有名な大学並みだった。そのせいで、他の大学からの問い合わせや貸し出しが多く、欲しい本は、欲しい時にきっちり手に入れておかないと、後で後悔することになる。
 論文を書く時間にさえ追われていなければ、選んだどれも、一冊一冊、丁寧に読み込みたい本ばかりだった。
 本の値段がむやみに高く、意外と手に入りにくいこの国---もちろん、それでも、たいていの国よりはましなのだろうけれど---では、アルベルトが好んで読みたいと思う本は、見つけた時に手に入れなければ、後ではまず、見つからない。
 いつか、もう少し広いアパートメントか、家に移ったら---持ち家なら、もっといい---、部屋をひとつ、完全に本の部屋にしてしまうのが、夢だった。
 そうすると、とふと、ペンの先から心を外して、思う。
 自分のために一部屋、ジェットのために一部屋、空いた部屋をひとつ、ザジのことを考えて、部屋のドアはきちんと閉まるように。裏庭があれば、もっといい。なるべく大きな通りからは離れた、静かな辺り。
 そこまで考えてから、それは一体、いつのことだろうと、思った。
 ジェットはもう、20を半ばも過ぎているだろうか。ザジはすっかり大きくなって、人間の年齢にすれば、自分たちの親ほどになっているのだろうか。
 小さな、裏庭のある静かな家で、ジェットとザジと自分が、一緒に暮らしている。
 そんなことが、起こり得るだろうか。
 起こればいいなと、思った。
 他愛もない、楽しい空想だった。


 散らばった紙をまとめ、本を積み、キッチンのテーブルを片付けてから、アルベルトは新しい紅茶を、マグに満たした。
 図書館で借りて来た本のうちの、一冊を手に、リビングへゆく。
 ザジを膝に乗せて、まだ本のページを繰っていたジェットが、意外そうな表情で、アルベルトを見上げた。
 「緒わったのか、もう?」
 「ああ、今日はもう、いい。」
 首を回しながら言うと、ジェットの傍に、ぽすんと腰を下ろす。
 ソファの揺れに、ザジがジェットの膝にしがみついて、細い肩越しに、アルベルトをにらむように見た。
 「じゃあ、アンタ、もうすぐ寝るのか?」
 ジェットが上目に、そう訊いてくる。
 「・・・ああ、この本をちょっと読んだら、寝るつもりだ。」
 何か言いたそうなジェットの瞳の色に、訝しがりながらそう答えると、途端にジェットが、ぱたんと大きな仕草で本を閉じ、膝の上に坐っているザジのことも忘れたように、思い切りよくソファから立ち上がった。
 「オレ、シャワー浴びて来る!」
 大きな声で、宣言するように言うと、本を抱えて、飛ぶようにベッドルームへ走る。
 引き出しを開ける物音が聞こえて、またばたばたと部屋から飛び出してくると、バスルームのドアが、ばたんと、大きな音を立てて閉まった。
 ザジが、アルベルトの足元で、ジェットの立てる物音を、耳を動かしながら追っていた。
 「・・・なんだ・・・?」
 ふたり---正確には、ひとりと1匹---で、色の違う瞳を見交わし、同時にあごを引く。
 水音が聞こえ始めてからようやく、アルベルトは本を開いた。
 床で、耳を拭っていたザジが、アルベルトの足に体をすりつけてから、またソファに上がってきた。
 ジェットの時とは違って、少し遠慮がちに、アルベルトの顔色を伺いながら、そっと膝に前足をかける。
 本から目を反らし、ザジの方を見ると、大きな、ジェットのそれとは少し色合いの違う、金色がかった緑の瞳が、甘えるように見返してくる。
 声は聞こえなかったけれど、鳴くように、口を開けた。
 膝に置いていた本を持ち上げ、ザジのために、膝を空けてやる。
 そっと、確かな重さが、膝に乗った。
 胸に首の辺りをすりつけ、目を細めてアルベルトを見上げてから、ザジはようやく、アルベルトの膝の上に、くるりと体を丸めた。
 右手で本を持ち、左手で、ザジに手を伸ばす。丸まった背中を撫で、今はやっと滑らかな艶を取り戻した毛並みを、そっと撫でる。
 膝と掌から伝わる、ぬくもり。人間のそれよりは、体温の高い、小さな体。
 紙の上の字を追いながら、同時に、下目にザジを眺める。
 安心しきって、体を預けている、小さないきもの。鉛色の右手を添えれば、もっとはかなげに見えるのかもしれない。
 ほんとうに、寄り添い合って生きているのだと、思った。
 ジェットとザジと自分と、3人で暮らす家。親子ではなく、兄弟ではなく、家族ではなく、けれど、一緒に暮らす。
 仲間、とアルベルトは思った。少し違う。この世に、絶滅寸前の種のような、そんな感じ。
 同類、と思ってから、ビンゴ、とらしくもない軽い表現を、胸の中でつぶやいた。
 ジェットとザジと自分。同類。
 紙の上の、言葉と言葉の合間に、そんなことを思った。
 ザジが、いつの間にか喉を鳴らすのをやめ、まるで眠ったように、アルベルトの膝の上で動かない。


 また騒々しくバスルームから出て来たジェットは、濡れた髪をタオルで拭きながら、
 「アンタの番だぜ。」
 本から顔を上げて、アルベルトはああ、と言った。
 まだ本を持ったまま、左手で、そっとザジをつつく。
 「ザジ、ほら、どいて、立つから、どかないと・・・ザジ?」
 骨張った肩の辺りを揺さぶっても、眠っているので聞こえない、という振りをする。
 せっかく気持ちいいのに、どいてたまるかと、その小さな全身が言っていた。
 「ザジ、どいてくれ、立てない。ザジ?」
 苦笑を刷いて、優しく肩を揺さぶり続けた。
 不意に、目の前に腕が伸び、ザジを膝から抱き上げた。
 「ほら、オレがどけてやったから、アンタ、シャワー浴びてこいよ。」
 ザジを抱えて、なぜか唇をとがらせているジェットがいた。
 「早く行けよ、アンタ。」
 明らかに、腹を立てている仕草で、ジェットがバスルームへあごをしゃくる。
 自分が何かしたのだろうかと、訝しがりながら、アルベルトは、少しだけ頬を赤くして、ようやくソファから立ち上がった。
 ザジが、ジェットの手の中で、体をねじって、アルベルトの方へ前足を伸ばす。
 それに指先で触れてから、アルベルトはバスルームへ行った。


 バスルームから出て来ても、ジェットはまだ、唇をとがらせたままだった。
 何を怒らせたのだろうと思いながら、使ったマグとティーポットを洗い終わって、時間を稼ぐために、用もないのに、冷蔵庫を覗いてみたりする。
 振り返ってもまだ、ジェットは、引き結んだ唇をゆるめる様子もなく、軽く顔を伏せたまま、キッチンにいるアルベルトの方へやって来た。
 何を言われるのだろうかと、少し身構えたアルベルトに、ジェットが短く素っ気なく、
 「寝よう。」
と、言った。
 「あ・・・ああ。」
 忙しなく、ジェットがバスルームへ入ってから出て来るまでの、自分の行動を頭の中で繰り返しながら、何がまずかったのだろうかと、必死で考える。
 ジェットに手を引かれ、ベッドルームへ足を運びながら、そんなふたりの後ろを、ザジが静かに追って来た。
 ベッドルームに入った途端、ジェットがくるりとドアの方へ振り向き、中へ一歩入ろうとしたザジの目の前で、ばたんとドアを閉める。
 一瞬の間の後、かしかしと、ドアを引っかく音が、あちら側から聞こえた。
 「ザジを、中に入れないのか・・・?」
 ザジが来て以来、夜眠る時に、ベッドルームのドアを閉めることはしなくなっていた。
 「ジャマされるのなんか、ごめんだ。」
 そう言って、ジェットが抱きついてくる。
 そうされて初めて、アルベルトはジェットの意図を悟った。
 ああ、そういうことかと思って、そう言えば、ザジが来てから、ふたりはずっと、静かに夜を過ごしていたのだと気づく。
 ベッドの中で、裸の胸を重ねてから、ジェットが下でつぶやいた。
 「アンタ、オレにあんなふうに、話しかけない。」
 「あんなふう?」
 手の動きを止めて、ジェットを見下ろした。
 「あんな優しい声で、あんなに笑って、オレに話しかけない。」
 何の話だと、本気でわからずに、ジェットに向かって目を細める。
 「・・・オレより、ザジの方が、いいのか・・・?」
 最初は、冗談かと思った。
 それから、ジェットの瞳が潤んでいるのを見て、冗談ではなく、本気でそう訊いているのだと悟って、アルベルトは慌てた。
 「・・・本気で、ザジに嫉妬してるわけじゃ、ないだろう?」
 恐る恐る問い返すと、ジェットが唇を噛んだ。
 「なんだよ、ヤキモチ焼いて、悪いかよ。」
 だって、ザジは猫じゃないかと、言い返そうとして、やめた。
 ジェットにとっては、愛情を奪われる対象は、人間であろうと、動物であろうと、あまり変わりはないのだと、アルベルトは知っていたから。
 「悪くは、ない。でも・・・」
 言いかけたアルベルトから、腕を外して、ジェットが遮った。
 「だってアンタ、オレより勉強の方が大事だし、本読む方が好きだし、ザジにばっかり優しくするし・・・」
 正論だ、と思った。それも、自分にとっては大事なことだ。ジェットはよくわかっている。
 でも、とアルベルトは思った。
 「キミの言ってることは、正しい。でも、俺が、こんなことをするのは、キミだけだって、知ってるだろう?」
 細い薄い体を抱き寄せて、髪をかき上げて、額にキスした。
 耐え切れなくなったように、ジェットの腕がまた、背中に回ってくる。
 「俺は、キミとしか、こんなこと、する気はないんだ。」
 「ザジとしたがったら、アンタ、ほんもののヘンタイだ。」
 「・・・そういう問題じゃなくて。」
 わかってる、冗談だと、ジェットが、額をこつんと、右肩に当てた。
 「アンタとできなくて、淋しかった・・・」
 ジェットの切なげな息が、右腕にかかった。
 抱き合って、唇を合わせる。
 今夜は、部屋の中へ入れてもらえないことを悟って、あきらめたのか、ドアの向こうでザジは静かだった。
 ザジとは違うぬくもりを分け合いながら、互いの膝に乗り切るはずもない大きさの体を、ふたりでこすり合わせる。
 剥き出しの皮膚が、汗に滑る。
 そっと躯を繋げて、ベッドのきしみを耳で追いながら、ゆっくりと、ジェットの上で動く。
 ジェットの小さく上げる声が、鎖骨の辺りに当たった。
 躯の動きを緩めて、下目に見ると、ジェットの目尻に、涙が滲んでいるのが見えた。
 「・・・痛いのか?」
 体の重みを気にして、アルベルトは尋いた。
 ジェットが首を振る。
 「痛いけど・・・気持ちいいから、いい。」
 躯を引こうとしたアルベルトの肩を、ジェットが強く止めた。
 「いいから・・・オレ、アンタが中に入ってるの、好きだから。アンタがオレん中に入ってると、安心する。」
 細い足首が、腰の後ろで絡んだ。
 諦めて、またそろそろと、ジェットの中に躯を進める。
 久しぶりに触れ合う、ジェットの中は少しばかり狭く、しがみつくジェットの声を、注意深く聞きながら、ゆるゆると肩を動かした。
 抱き合っている。抱いているのではなく、抱き合っている。
 互いの体に回す、腕と足。傷つけないように、気遣いながら重ねる、粘膜の奥。汗を混じり合わせて、こすり合わせる胸。
 ふたりは、抱き合っている。
 次第に湿りを帯びるジェットの声に、アルベルトは耐え切れずに、少し強く、躯を押した。
 躯の硬張りが、ゆっくりとどこかへ去ってゆく。
 まだ離れずに、ジェットに引き寄せられ、唇を重ねる。
 促されるまま、ベッドから薄い背中が浮くほど、ジェットを強く抱きしめた。
 「アンタのこと、すげえ好きだ・・・」
 まだ足を絡めてくるジェットに、ほとんど間を置かず、アルベルトは答える。
 「俺もだ。」
 多分、他に大事に見える、何よりも。
 久しぶりの、ふたりきりの夜だった。