路地裏の少年



16) 膿

 歩き方が、少しおかしいと、ふたりで思ったのは、実はずいぶん前のことだった。
 後ろ足のどちらかを、少し引きずるようにして、けれど、それもいつもそうすると言うわけでもなく、人間で言えば、ほんの少し、どこかに飛び降りた衝撃が強すぎたとか、そんな感じにも見えた。
 だから、ふたりとも、さして大事なこととも思わず、歩き方が、少しヘンだ、ああ、そうだな、と、それだけの短い会話で終わってしまっていた。
 そんなことが1週間も続き、それから、足を引きずっている回数が増えたように思え、足の動きの奇妙さかげんも、もっと目につくようになっていた。
 それでも、猫のザジは、痛みを訴えるふうもなく、様子のおかしさも、他には見当たらず、いつもの忙しさにまぎれて、アルベルトはそれを見過ごし、ジェットは、アルベルトが何も言わないので、不審がりながらも、黙って見ているだけだった。
 ザジは、やたらと足の裏を舐めるようになり、何か妙だなと思い、それでもアルベルトは、大学の忙しさを口実にして、そのうち治まるだろうと、心配しながら、放っておいた。
 ジェットが、リビングのコーヒーテーブルで、いつものように、床に坐り込んで勉強していた。
 アルベルトは、夕食を簡単にすませるつもりで---やたらと課題の締め切りの多い頃だった---、パスタソースを煮込んでいた。
 ジェットの大好きなマッシュルームを、まるごと入れて、オーブンで先に焼いた大きなソーセージを、一口の大きさに切って、一緒に煮込む。真っ赤なトマトソースは、たとえ何日続こうと、ジェットは一言も文句を言わない。これを作り出すと、アルベルトがやたらと忙しい頃だとわかるのか、あまりかまってくれとも、素振りに出さなくなる。
 一度に、大量のスパゲッティをゆでてしまえば、後は、最悪の場合、2日ほどは夕食の準備もいらなくなる。
 大きな鍋いっぱいのソースをかき回しながら、アルベルトは頭の中にカレンダーを思い浮かべ、そこに入るさまざまな課題の締め切りを、また思い出していた。
 申し訳ないけれど、週末には、ジェットにひとりで、買い物に行ってもらう羽目になりそうだと、思わずため息をこぼそうとした時、リビングでジェットが、あっと驚いた声を出した。
 「どうした?」
 振り向きもせず、そう声を投げると、ジェットがばたばたとキッチンの方へやって来た。
 「ザジの手、おかしい。」
 まだ、鍋の中身をかき混ぜる手は止めず、首だけひねって、肩越しに振り返る。真後ろに、ジェットが、ザジを胸に抱えて立っていた。
 「ほら。」
 ザジの右の前足---つい、手、と言ってしまう---を、裏の部分が見えるように、ジェットが指でつまんで、軽く持ち上げる。
 ザジの肉球は、淡いピンクと濃い茶色のまだらで、その、人間でいうなら、ちょうど指のつけ根に当たる部分が、明らかに、いやな色合いの黄色に腫れ上がっていた。
 ジェットが、もっとよく見せるために、さらに左の前足も持ち上げ、肉球をふたつ、並べて見せる。
 そうして比べれば、右側のその部分が、ほんとうにそこに小さなボールでも入っているかのように、丸々と盛り上がっているのがよくわかり、アルベルトは、ジェットの真剣な瞳を、ようやく真っ直ぐ見返して、鍋から手を離した。
 おとなしく抱かれたままでいるザジの前足に手を伸ばし、アルベルトは、近々と顔を寄せながら、その、腫れた部分を軽く押した。
 途端にザジが、体をよじって、その手を振り払おうとする。
 張り切ったその部分は、不自然に固く、明らかに、触れれば痛いのだと、獣医でなくてもわかる。
 「病院に、連れて行かないと。」
 そこを始終舐めていたのは、傷があったせいだったのかと、今さら思って、アルベルトは、小さなため息をこぼした。
 ジェットも唇を噛み、ザジの頭に、あごをすりつけている。
 かわいそうに、と思ったのはふたり一緒で、放っておいた自分たちを責めているのも、ふたり一緒だった。
 けれど、訝みながら放っておいた、自分の方が悪いと、アルベルトは思う。
 化膿は、どれくらい広がっているのだろうかと思いながら、アルベルトは、ジェットの頭を撫でてやった。
 「明日、朝一番に病院に電話を入れるよ。午後に、予約を入れる。」
 「オレも、一緒に行く?」
 「当然だ。」
 あごの下を撫でてやるアルベルトの後ろで、パスタソースがぐつぐつと音を立て、ザジが、トマトの煮える匂いに、ぴすぴすと鼻を鳴らした。


 すっかり、ザジの名前もふたりの名前も---それでも、やはり動物の認知が、先のように思える---覚えてしまっている、例の獣医が、今は柔和になった笑顔を、ふたりと1匹に向けた。
 「右の前足が、化膿してるんです。」
 診療台の上で、おとなしく自分を見上げるザジの背中を、なだめるように撫でてから、獣医は、ザジの体を持ち上げ、両方の前足に触れた。
 一瞬、驚いたような表情が目元に浮かんで、もう2、3度、確かめるようにそこに触れてから、獣医は、ザジを診療台の上に戻した。
 「どうしたかな、自分で引っかいちゃったか、何か、踏んだか・・・いつ頃から、こうかな。」
 当然の質問だと思いながら、自分のミスを指摘されたようで、アルベルトは、きりきりと胃の辺りの痛みに、軽く眉を寄せる。
 「多分、2週間くらいです。歩き方がおかしかったのが、それくらい・・・」
 「オレ、気がついてたのに、何も言わなかったから。」
 アルベルトの語尾を遮るように、ジェットが言葉をかぶせた。
 アルベルトだけが悪いのではないと、獣医に言いたいらしいジェットを、驚いて見下ろして、アルベルトは、思わず苦笑をもらした。それから、頭に手を置いて、なだめるように、唇を突き出しているジェットを、じっと見つめた。
 「ただの化膿だろうから、あんまり心配はいらないと思うけど、様子がおかしかったら、あんまり放っとかないように。猫は、死ぬほど我慢強いから、痛いのがわかり出したら、手遅れってことが多いからね。」
 素直に反省しているふたりに、獣医が、諭すように言った。
 はい、とふたり同時に返事をして、また、獣医の手元に視線を移した。
 「じゃあ、ちょっと押さえててくれるかな。」
 促されて、アルベルトは、そっとザジの背中に両手を伸ばした。
 獣医が指示するように、肩と腰の辺りを押さえると、獣医が、ザジの右の前足を持ち上げて、くっつくほど顔を近づけた。
 「膿を、絞り出すから。」
 それから、両手の親指を、その腫れ上がった肉球に添え、見ていても痛いほど、強く押し始めた。
 ザジが、鳴く。あまり暴れはしないけれど、それでも、痛みに肩を跳ね上げて、また、声を上げた。
 目の前で、どろりとした、気持ちの悪い色の膿が、中からゆっくりとあふれ出す。
 ふと、眩暈がした。
 ザジの手---ほんとうは、前足なのに---が、腐っているのだと、唐突に気づいた。
 腕の力が抜け、体が、横に傾いだ気がした。
 掌の下で、ザジが、必死で痛みに耐えている。小さな小さな体で、与えられる理不尽な痛みに、耐えている。
 腕の力が、完全に抜けてしまう前に、アルベルトは、必死で、唇を開く気力を集めた。
 「ジェット、代わりに、押さえててくれ。」
 途切れるようにそう言うと、獣医が、怪訝そうに、手を止め、アルベルトを見上げた。
 壁際に立っていたジェットが、後ろからやって来て、横から手を伸ばして来た。
 ジェットが、ザジをしっかりと押さえたのを確かめて、アルベルトはふらりと手を外し、ふっと肩を後ろに滑らせた。
 貧血だ、と思ってから、支えるように、足元を踏みしめる。
 自分の声ではないように、遠くで、バスルームの場所を尋ねる声がした。
 「ドアを出て、右だよ。」
 獣医が、少し心配そうな声で、答えた。
 ふっと、膿の匂いが、鼻先に上がった。
 肉の腐る匂い、そう思って、ゆらりと部屋を出て行った。
 心配そうに見送る、ジェットの視線には気づかず、ドアを背中で閉めた途端に、こみ上げる吐き気に口元を押さえ、走る必要もない距離を、走る。
 廊下のいちばん奥にあったドアの中に飛び込み、そのまま、カギもかけずに、トイレの上に身を伏せ、喉と胃をあえがせた。
 茶色っぽい胃液が、苦く這い上がって来て、舌の奥を打つ。空の胃には、吐くものもなく、ぎりぎりと、胃を絞り上げられる痛みに、思わずうめいた。
 咳き込みながら、また胃液を吐き出して、必死に、あの匂いを忘れようとする。
 死臭だと、ありもしないことを思う。
 肉が腐り、どろりとした、濁った黄色の、粘着質の液体に変わる。腐敗は、次第に進んで、体中の肉を腐らせて、全身を黄色に腫れ上がらせて、後は、肉の腐る速さと、意識を失う速度の、競争になるだけだ。
 右腕が、痛んだ。
 機械の右腕ではなく、そこにあったはずの、生身の右腕が、痛んだ。そんな気がした。
 また、胸をあえがせて、胃を絞って、吐く。
 病気の犬のように、惨めな姿で、床に這いつくばって、苦い唾液に、顔を汚した。
 痛みと苦しさに、涙が流れた。
 吐き気が、ようやく鎮まってから、アルベルトは、床にぺたりと坐り込んだまま、唾液と涙で汚れた顔を左手で覆い、2分だけ、泣いた。ちょうどザジが、痛みに声を上げたように、小さな声をもらして、ほんの少しだけ、泣いた。


 診察室に戻ると、ジェットが、顔色の悪さを心配するようなことを言ったけれど、それには薄い笑顔だけを向けて、アルベルトはよけいなことは一切言わずに、ザジのための薬を受け取って、家に戻った。
 「気分が、悪いんだ。」
 アパートメントに着いた途端、ジェットの方を見ずに、そう言い捨てて、ベッドに入った。
 ほんとうに、気分が悪かった。
 悪寒が、背筋をひっきりなしに這い上がっていて、ないはずの右腕が、ずきずきと疼き続けていた。
 もう夕方近かったけれど、昨日作ったパスタソースが残っているから、ジェットの夕食のことは、心配すらしないことにする。
 ジェットも、アルベルトの様子がおかしいのを、あえて何も言わず、ドアを閉める向こうで、緑の目を、悲しそうに伏せた。
 服を脱いで、ベッドにもぐり込んで、寒気に肩を震わせながら、冷たい爪先をこすり合わせて、必死で眠ろうとした。
 風邪の引き始めかもしれないと、気休めに思ってみる。
 そんなことではないのはわかっていて、それでも、そういうことだと、わかるのが恐ろしかった。
 ザジの、右の前足を、また思い浮かべた。思い浮かべながら、ようやく、寝苦しい、浅い眠りに落ち込んでゆく。
 眠りの形は、ふわふわとしていて頼りなく、まるで酸素がないように、息苦しかった。眠っているのか目覚めているのか、どちらとも見分けがつかず、遠くの方で、人の気配がするのを感じながら、ああ、まだ目覚めているのだと、時折思う。
 右腕の痛みは、次第に全身に広がって、夢を見ているのだと思いながら、骨を疼かせる鈍い痛みに、何度も寝返りを打った。
 小さな、いきものの気配が、あった。
 目を閉じているのに、それがザジだとわかり、ザジが、アルベルトの全身を、くまなく調べているのがわかる。
 鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、時折、冷たい濡れた鼻先が、皮膚をかすめる。
 何の意味もなく、左手で、右腕に触れた。
 そこにあったのは、機械の腕ではなく、腐りかけた生身の腕だった。
 固く腫れ上がり、見もせずに、黄色い膿が、皮膚の下にたまっているのが、指先にわかる。
 熱を持ち、骨の奥から疼いていた。
 その右手の指と掌は、もう、人間の手とは思えないほど、醜く丸くふくれ、関節を、曲げることすらできない。その指先は、そろそろ、赤黒く、色を変え始めていた。
 腐った腕は、血の流れを止め、かすかに流れる血には、しっかりと、腐敗を促す毒が含まれている。
 絞って、膿を出さないと。
 誰かの声がした。姿は見えず、透明な指が、腕に触れた。
 「やめろ。」
 声を、ほんとうに出したのか、そう言ったつもりだっただけなのか、わからない。
 薄笑いの交じる声が、空気を揺らす。
 鋭い痛みが、手首を、真横に切り裂いた。目を落とすと、ぱっくりと割れた手首から、そこも黄色く変色した皮膚の内側の肉が現れ、同じ色合いの、寒気のするような膿が、どろりとシーツに流れ出た。
 透明な、無数の指が、腕のあちこちを押す。手首の切り口に向かって、たまった膿を押し出すために、痛みにもかまわず、容赦なく押し続ける。
 どろどろと、膿は、熱を持って流れ出し、シーツを黄色く染めた。
 そんな腕にはもう、血の通うはずもないのか、流れるのは膿ばかりで、血の一筋の色も見えない。
 腐っているのだと、思った。
 ザジの気配が、まだあった。
 皮膚のあちこちの匂いを嗅ぎながら、ようやく、死臭を放ち始めている右腕にたどり着く。臭いのひどさに、飛んで逃げるかと思ったのに、ザジは、まるで、そこが傷ついているのだと知っているかのように、切り裂かれた手首から、ゆっくりと舐め始めた。
 流れ出た膿を舐め取り、固く腫れ上がった指先から、ゆっくりと、一生懸命、その小さなざらつく赤い舌で、舐め始めた。
 アルベルトは、目を閉じた、と思った。
 一体、どれほどの間、ザジは、アルベルトの腐った腕を舐め続けたのか、ふと見れば、舐め終わった指先と掌は、鉛色の、見慣れた金属の手に変わり、肘近くまで進んで来たザジの、小さな体越しに、いつの間にか、傷口も消え、膿の跡も見えない手首の辺りも、痺れるように、ゆるゆると金属に変化し始めている。
 冷たい機械の腕に、熱があるはずもなく、消えたほんものの骨と一緒に、疼きも消え、額に吹き出していた汗も、いつの間にか引いていた。
 肘を過ぎ、二の腕に、ザジの舌が進む頃、アルベルトは、左手を伸ばして、ザジを止めた。
 「もう、いい。ありがとう。」
 小さな頭を撫でてやると、きょとんとした表情を見せて、それから、鳴く時のように、牙のある口を開ける。
 「大丈夫か?」
 ジェットの声が、その、真っ赤な口からもれた。
 少しだけ驚いて、それから、うっすらと笑った。
 「ああ、大丈夫だ。」
 そんなはずはないのに、ザジが、口元を少しつり上げて、笑い顔を見せる。
 猫の笑顔かと、そう思ってから、目を閉じた。


 起き出すと、まだ、体はだるかったけれど、いきなり紅茶が飲みたくなった。
 何時だろうかと思いながら、脱いだ服をまた着て、ベッドルームを出た。
 ドアを開けた途端に、リビングのソファから、ジェットが伸び上がって振り向く。心配そうな色が、瞳に浮かんでいた。
 それに向かって笑って見せると、ジェットが、キッチンへ向かうアルベルトを、小走りに追いかけてくる。
 「アンタ、腹へってないか? オレもう、先にすましちまったけど。」
 シンクには、ジェットが言った通り、汚れた皿がひとり分、水につかっていた。
 「宿題は?」
 「すんだ。」
 何となく、こちらを伺うように、小さな声で、素っ気なく返事が返ってくる。
 「いや、いい。胃が、痛いんだ。」
 胃が痛むのは、ほんとうのことだった。
 心配そうに自分を見上げるジェットの髪を、安心さえせるために撫でてやる。
 「紅茶飲むなら、オレがいれてやるよ。」
 ケトルに手を伸ばしかけたアルベルトに、ジェットが、少し強い声でそう言った。
 そう言われてから、少し気が変わった。
 「じゃあ、ミルクを、あっためてくるかな。」
 昼食以来、紅茶くらいしか胃に入ってなかった時間を思うと、暖かいミルクの方が、胃には良さそうな気がした。
 ジェットがやっと笑い、アルベルトも、それに笑い返して、ジェットに後を任せて、リビングのソファへ行った。
 ソファに坐ってから、部屋の中を見回して、見えるはずのものが見当たらないに気づく。
 「ザジは?」
 ジェットへ訊くと、振り向きもせず、答えが返ってきた。
 「テーブルの下で、オレのシャツの上で寝てるよ。」
 そう言われて、床に額がつくほど体をかがめ、テーブルの下をのぞき込んでみた。
 ザジが、体を丸め、重ねた前足の上にあごを乗せて、気持ちよさそうに、ジェットのシャツの上で、眠っていた。
 「キミの匂いが、するから・・・」
 思わず、ひとり言のようにつぶやいて、笑う。
 獣医で、少し痛い目に遭って、化膿止めの注射を打たれ、おまけに、大きな苦い錠剤も飲まされたから、きっとくたびれているのだろうと、そんなことを思う。
 やっと、暖かなジェットの体温に包まれて安心して、それでも、とりあえずはテーブルの下に隠れて、ようやく安眠できたらしかった。
 ジェットが、湯気の立つマグを、ふたつ抱えて戻ってきた。
 「アンタは、具合いいのか?」
 隣りに、坐りながら、目の中をのぞき込んでくる。
 ああ、と、ひるまずにその目を見返して、うなずいた。
 熱いミルクが、舌を焼いた。
 横目に、そんなアルベルトを見ていたジェットが、こつんと、頭を右肩にぶつけてくる。
 ああ、腕があるのだと、そう思った。思って、そこからは伝わらないジェットの体温を、ふと、欲しいと思う。
 テーブルの下へ視線を走らせ、ジェットのシャツにくるまれて眠るザジが、不意にうらやましくなる。
 ミルクの入った熱いマグを、テーブルに、静かに置いた。
 左手を伸ばし、ジェット頬とあごに触れ、唇を、自分の方へ向けさせた。
 自分からジェットに触れることは、ほとんどない。欲しいと、言うのも態度に表すのも、いつもジェットの方だけで、アルベルトが、自分からジェットに何か仕掛けるということは、皆無に等しかった。
 近づいてくる唇を、ジェットが、目を見開いて眺めているのが、見えた。
 気弱になっているのだと、思う。だから、ぬくもりが欲しのだと、思う。
 いやだと言われれば、すぐにやめるつもりで、唇を柔らかく重ねながら、ジェットをそっとソファに倒した。
 「・・・アンタ、どうしたんだよ。」
 濡れた唇が、動いた。
 「・・・ザジだけ、ずるいと、思っただけだ。」
 言われた言葉を受け取りかねて、ジェットが怪訝な顔をする。何か言おうとする前に、また、柔らかく唇をふさいだ。
 右手を、ジェットのシャツの下に、そっと差し入れた。
 ジェットの両腕が、首に回る。
 首とあごの境目を、そっと唇で撫ぜると、ジェットの肩が震えた。
 「アンタ、明日、学校だろ? いいのか?」
 朝から授業がある前日は、いつもやんわりと断るくせにと、言葉の外に聞こえる。
 ジェットを見下ろして、手の動きは止めずに、薄く笑った。
 「・・・課題の提出を、延ばしてもらう。少しだけ、ゆっくりするよ。」
 忙しすぎたのだと、思った。だから、ザジの傷も、知っていて放っておいた。ジェットのことも、課題を言い訳にして、きちんとかまっていないと、冷蔵庫の中の、大量のパスタソースを思い出しながら、思った。
 「明日の夜は、下の張大人のところで、ゆっくり食事をしよう。それから、映画でも見よう。」
 「ほんとに?」
 心底うれしそうに言って、ジェットが、いきなり顔を輝かせる。
 「アンタと出かけるの、久しぶりだ。」
 それ以上は何も言わず、ベッドに比べれば、幾分居心地の悪いソファの上で、ぴったりと胸を重ねる。
 気配をかぎつけたのか、ザジが、テーブルの下から、そっと顔をのぞかせた。
 ジェットの目を、右手で覆って、ザジの方へ、しぃっと、唇に指を立てて見せた。
 「・・・そこで、寝ててくれていい。」
 ささやくと、何か言おうとしたジェットの唇を、抱きすくめて、またふさいだ。
 おまえには、シャツがあるだろう。
 ジェットの腕が動き、指先が、アルベルトのシャツのボタンを外した。
 脱いで、脱がされて、脱がしながら、もう、今さら他へ移動する気もなく、互いの肩口に、顔を埋める。
 ジェットの、骨張った足首が、腿の後ろを、そろりと撫でて行った。
 夢のことは、忘れていた。
 きくきくと鳴るソファの上で、また少し、ためらいの消えた夜だった。