路地裏の少年


17) 誘惑

 久しぶりに、暖かな日だった。
 窓からは、陽が差し込んで、眩しいほど明るく、アルベルトは、色素の薄い目を、午前中から何度も細めていた。
 課題を提出し終わって、ようやく一息つき、評価が戻ってくるまでの、ほんの一時を、まるで救いのように、アルベルトは、授業に関係のない本ばかりを読んで過ごしていた。
 ジェットは、珍しく熱心に、来週発表があるという課題の資料を、市立の図書館に探しに行きたいというので、車で一緒に行って、一緒に本を探して、ついさっき戻って来たばかりだった。
 遅い朝食をすませたので、昼食は抜いてしまうことにして、ジェットが、キッチンのテーブルに、借りて帰った本を、どさりと積む。
 本の山の前に、ぶ厚いノートとペンを置き、それから、クラスで渡された、課題のためのプリントを手に、後はもう、何も見えないと言ったふうに、アルベルトの方を見もしない。
 いつものように、ふたり分の紅茶をいれてから、ひとつはジェットに、残ったひとつは自分のために、熱いマグを片手に、本を抱えて、アルベルトは、リビングのソファに寝転がった。
 今日の本は、ずいぶん前に、大学の帰りにふらりと寄った大きな書店で見つけた、映画の、女性の主人公は、なぜいつも殺されて終わってしまうのかという、テーマがそのまま本のタイトルの、女性論だった。
 深くも考えず、ただ、おもしろそうだと思って、手に入れたものの、課題に追われて、ベッドの傍に、置いたままになっていた本だった。
 取り上げられている映画は、中途半端に古いものばかりで、名前だけは知っていても、実際に見たことのあるものは少なかった。それでも、手際の良い解説とストーリーの紹介と、著者の、いかにも映画好きな口調のせいで、女性論を抜きにして、映画論としてもおもしろい内容だった。
 眠気を誘うほど暖かい日だったけれど、外から降り注ぐ陽が、目に痛いほど眩しく、アルベルトは、光を遮るように、開いた本を、顔の前に持ち上げていた。
 キッチンからは、本をばたばたと開く音や、ペン先が紙をこする音や、そしてたまに、ジェットが軽いかんしゃくを起こしている音が、しっかりと耳に届いている。
 助けが必要なら、そう言うだろうと、アルベルトは、こっそりくすくす笑いをもらしながら、ジェットの様子をうかがっていた。
 最近は、前ほど、字が読めないと、本を差し出すことも少なくなっているし、言葉の意味がわからなければ、自分で辞書を引くようになっている。辞書を、常に手元から離さないアルベルトを見て、そういうものだと悟ったらしかった。
 自力で、わからないことを調べるとはいいことだと、一度だけぼそりと言ったら、それ以来、そうしなければ、同じ大学になんか行けないと、心に決めたらしかった。
 頭をひねりながら、アルベルトの本を読んでいるジェットを、とりあえずは、ほほえましく見守っている。本を大事に扱うべきだとういうことも、きちんとわかっている。
 そんなジェットの態度を、少しだけ誇らしく思いながら、アルベルトはまた、本のページをめくった。
 窓際にいたザジが、部屋の中をうろうろし始め、ジェットの足元に、じゃれついていたらしかったけれど、テーブルの上に乗って、紙の上を歩き始めた辺りで、ジェットが少し声を上げ、何度か床に降ろされてから、ようやく今は、あまり相手にしてもらえそうにないと悟ったのか---猫という動物は、なぜか切羽詰まっている人間に、かまってもらいたがる---、少し肩を落とした歩き方で、アルベルトの方へやって来た。
 いかにも、ジェットが相手にしてくれない、悲しいと言う表情で、とんと、アルベルトの腹の上に乗って来て、本と目線の間に顔を差し入れ、撫でろ、かまえ、遊べと要求する。
 左手で頭を撫でてやると、いつも以上にかわいらしく、反応を返してきた。
 本を読みながらの片手間で、すりつけてくる耳とあごの辺りを撫で続けていると、ようやく満足したのか、アルベルトの腹の上に、くるりと体を丸めて、そこに落ち着いてしまった。
 いつもなら、キッチンで、課題や、授業の予習復習などで、目を吊り上げているのはアルベルトの方なのに、今日は、平和だなと、のん気なことを思う。
 そうして、ソファの上で、とろとろと居眠りをしてしまったらしかった。
 とんとんと、肩を叩かれ、体の上にいた---おそらく、こちらも眠ってしまっていたに違いない---ザジが、とんと、床に飛び降りた音がした。
 ジェットが、軽く唇を突き出した顔で、上からのぞき込んでいた。
 目の前にあふれる眩しさに、慌てて手を額の上にかざし、それ越しに、視線を投げる。
 「ごめん、起こさなくてもよかったんだけど、アンタも、紅茶、いるかなって。」
 言い訳するように言うジェットに、まだ、少しぼんやりした声を返す。
 「紅茶? ああ・・・その前に、眠気覚ましに、シャワー浴びてくる。」
 今寝てしまったら、夜眠れなくなる。頭を振りながら、アルベルトは、体を起こした。
 「課題は?」
 「アウトラインはすんだけど・・・」
 歯切れ悪く言うジェットに、優しく笑って見せて、アルベルトは、ソファから立ち上がった。
 「発表は来週だろう? あんまり焦らなくても、大丈夫だから。」
 頭を撫でてやってから、肩を軽く叩き、アルベルトは、そのままバスルームへ行った。
 熱い湯を、頭から浴びながら、もう少ししたら、ジェットを置いて、ひとりで出掛けようかと、ふと思う。ジェットが、それまでに勉強に飽きていれば、一緒に出掛けてもいいとも思う。
 どこへ行こうか。ひとりなら、大きな本屋か、ダウンタウンの小さなカフェか、ジェットが一緒なら、どこかもっと別のところ。ショッピングモールを、意味も目的もなくぶらつくのも、たまにはいいかもしれない。
 そう思ってから、まだ、ゆっくりとしたこともない、いつもは、必要なものだけ手に入れて、10数分で出てしまう、大型のペットショップを散策するのも、おもしろいかもしれないと、思った。
 いいなと、自分の思いつきを自画自賛したところで、バスルームのドアが、どんどんと鳴った。
 「電話、電話が鳴ってる!」
 ジェットの声が聞こえた。
 ふたりでいる時は、電話は取らなくていいと言ってあるので、わざわざ知らせているのだとわかって、慌ててバスタオルを腰に巻くと、アルベルトは髪から水を滴らせながら、バスルームのドアを開けた。
 濡れたままの体で、水滴をぽたぽたとこぼしながら、キッチンの端の方にある電話に、慌てて飛びついた。
 「もしもし?」
 そう言った途端に、向こうで息を飲む音が聞こえて、がちゃりと電話は切れた。
 様子から察すると、明らかに間違い電話で、ここに電話がかかることなど、月に何度もないことを思い出せば、無視しても良かったのにと、今さら思う。
 濡れた手でつかんだ受話器が、濡れてしまったのも少し業腹で、アルベルトは、珍しく唇を少し突き出して、受話器を元に戻した。
 まあいいさと、思って、くるりと肩を回す。
 バスルームからここまで、真っ直ぐに、大きな歩幅の、濡れた足跡が、くっきりと残っていた。
 開け放したドアからは、湯気があふれていて、濡れた体に、タオルだけ巻いた自分の姿と、そのひどく滑稽な眺めに、アルベルトは1分前の腹立ちも忘れて、思わずひとりで笑う。
 バスルームへ戻ろうと、足跡をたどって、キッチンの椅子に坐っているジェットの前を横切った時、ジェットが、腕をつかんだ。
 「電話、なんだよ?」
 上目にそういう声が、少しかすれていた。
 「間違い電話だ。すぐに切れたよ。」
 ジェットはまだ、腕をつかんだままでいて、どうしてか、目元が少し赤い。
 どうした、と見下ろしたまま目顔で訊くと、ジェットが、すいと目を伏せる。
 早く、バスルームに戻って、濡れた体を拭かないとと思いながら、ジェットと、つかまれた腕を、交互に見ていた。
 「オレ、なんか、ヘンタイみたいだ。」
 単語が一瞬聞き取れず、聞き取った後には、聞き違いかと、アルベルトは軽く眉を寄せた。
 「オレ、色情狂みたいだ。」
 もっと耳慣れない言葉が、ジェットの口からこぼれた。
 読んだことはあるけれど、音として聞いたことのない、ひどく日常語とはかけ離れた、その言葉を、ジェットの口から聞いて、アルベルトは思わずあごを胸に引きつけた。
 「オレ、色キチガイの、ウサギみたいだ。」
 言葉は少し易しくなったけれど、今度は、表現がわからない。
 学校で、何か、こんなことを言って、相手を煙に巻く遊びでもはやっているのかと、そんなことを思いながら、アルベルトは棒立ちになっていた。
 ジェットが、ようやく焦れたように立ち上がり、リビングの向こう側の、窓際まで、アルベルトを引っ張っていった。
 カーテンのない大きな窓は、外に向かって、20cm程度突き出していて、ジェットは、いきなりそこで、服を脱ぎ始める。
 「アンタ見てると、オレ、勝手に勃って、アンタの上に、一日中、乗っかってたくなる。」
 あまりきれいではない言葉使いで、ひどく苦しそうに、ジェットが言った。
 窓のふちに、全裸になって、薄い腰を乗せ、アルベルトの目の前で、大きく足を開いた。
 肉付きの薄い、細い腿の間に、軽く勃起しかけた、ジェットのペニスがあった。
 脱ぎ捨てた服を、片足でけると、ほら、と言うように、アルベルトに向かって両腕を伸ばす。
 立っている足元に、体からこぼれた水滴が、小さな水たまりをつくり始めていた。
 アルベルトの皮膚よりは、いくぶん血の色の濃い、ジェットの膚。触れると、熱くなって、掌の下で張り切る。喉や胸が、もっと赤く染まると、いつも、切ない息をもらし始める。
 ジェットは、片足を抱え上げると、もっとよく見えるように、勃起したペニスに、手を添えた。
 「・・・アンタが、欲しい。」
 今にも泣き出しそうな声で、切なげに、ジェットが言った。
 時折、下腹や、掌に触れる、ジェットのペニスの熱さを、思い出した。まだ、完全に成長しきっていない、少年の体同様、そこも、まだ少し、幼い。それなのに、あふれるように、アルベルトへ向かう欲情は、すでに大人のそれで、媚態としかいいようのない姿に、けれどジェットに自覚があるとは、とても思えなかった。
 ジェットの、伸びた腕の方へ、体を傾けた。
 一歩、前へ足を踏み出しながら、腰に巻いていたタオルを、外して、床に落とした。
 ジェットの視線が、すっとそこへ引き寄せられる。
 アルベルトも、勃起していた。ジェットの欲情に、誘われたように、欲情していた。
 窓のガラスは、陽にぬくめられて、冷たくはなく、そこに手を添えて、ジェットにキスをした。
 伸びた喉から胸元に唇を落とし、そこからゆっくりと、床に膝を折りながら、胸から腹へ下りて行った。
 開いた腿の内側に、そっと手を添えて、それから、初めて、ジェットに触れた。
 ジェットが、驚くほど大きな声を上げて、上体を硬張らせた。
 いつも、ジェットがそうするように、湿らせた唇を開いて、舌の上に乗せる。
 確かめるように、ゆっくりと、舌を動かした。
 嫌悪感も不快感もなく、深く舌を絡める接吻と、同じほどの気持ちしかない。ジェットがいつも、こうしてくれているのだと思えば、自分だけ何もしないのは、ずるいと思った。
 けれど、それよりも何よりも、陽の光の中で、ジェットが見せた、勃起したペニスを、ひどくきれいだと思ったのだと、そう言ったら、ジェットはどんな顔をするのだろう。
 ゆっくりと、勃ち上がって、硬さを増す、その器官を、ジェットの一部として、心底いとしいと思った。いとしいと思って、触れたいと思った。
 唇の中に取り込んで、噛みつくことだけはしないよう気をつけながら、アルベルトは、ジェットを悦ばせるよりも、自分が確かめたくて、自分を見て勃起するジェットの、その奇妙にいとしい器官の形と熱を、自分で確かめたくて、舌と唇で、輪郭をなぞっていた。
 張りつめた、腿の皮膚に指を滑らせると、ジェットの足が震える。
 濡れたままの髪に、ジェットの指先がもぐり込む。声が、頭上で、切れ目なく響いていた。その声を聞きながら、アルベルトは、勃起した自分のペニスに触れる、ジェットの濡れた舌を感じていた。
 「・・・はな、せよ、イっちまうから!」
 ジェットが、強く髪を引いた。
 潤んだ目でアルベルトを見下ろし、そのまま、ずるずると、床に滑り落ちて来た。
 「信じらんねえ、アンタが、こんなことするなんて。」
 泣きそうな顔でそう言われ、アルベルトは、思わずうろたえた。
 「・・・いやだったのか? だったら悪かった。」
 「バカか、アンタ。」
 濡れた唇に、ジェットの指が触れる。
 「アンタが、オレの、舐めてくれるなんて、思わなかった。」
 裸で、床に坐り込んだまま、うつむいて、ジェットが小さな声で言った。
 言葉の下品さに似合わない、ひどくかわいらしい仕草に、ふと、うずくものがある。
 どうしようかと、指先が迷った。
 「・・・キミくらいうまくなるように、ちゃんと練習する・・・。」
 何を言っているのか、自分でよくわからないまま口を開くと、ジェットが、困惑した表情で、首に両腕を巻いてくる。
 そのまま体を引かれ、自分の下にジェットを敷き込む形になると、ジェットが、下肢に手を伸ばしてきた。
 「いい、アンタは別に、うまくならなくってもいい。でないと、アンタのこと、オレ、放っておけなくなる。」
 手を添えて、ジェットが、アルベルトを促した。
 「今だって、オレ、アンタとヤることしか、頭にないのに・・・」
 頭を抱え込んで、下から、唇が重なった。
 いつもよりも、もっと誘うように、ジェットが躯を動かしてくる。
 痛めないように、そっと進もうとすると、ジェットの手が、強く腰を引き寄せようとする。
 「いいから・・・もっと、全部、アンタが欲しい。」
 うわ言のように、耳元でささやかれ、ふっと、理性が消えた。
 窓の下で、熱いほど、陽の光を浴びながら、ジェットを抱きしめた両腕の輪を、強く締めた。
 もっと深く、いつもよりも激しく、ジェットの内側に入り込んで、ジェットの熱に包まれていた。
 ジェットが、叫ぶ。痛みのせいではないと、包む内側が伝えてくる。
 体を持ち上げ、ジェットと繋がったその部分に、ふと視線を落とした。
 さっき、唇で触れたジェットのペニスが、濡れて、きらきらと光って見えた。
 またそこに、口づけたい衝動にかられながら、代わりに、右手で、そっと包む。
 どくんと、心臓が、跳ねた。
 熱はまだ引かず、ふたりは、はあはあと、あえぎながら、また唇を重ねた。
 ジェットの細い体を抱きしめながら、アルベルトは、さっきどこかへ消え去った理性を、たぐり寄せようと、無駄な努力をしてみる。
 まるで、発情期の獣のようだと思って、けれどそれを楽しんでいる自分がいた。
 まだ足りないと言いたげに、体をすり寄せてくるジェットを抱き返して、アルベルトは、またジェットの下腹に、掌を滑らせる。
 眩しい光の中で、きらきらと光る汗を混じり合わせて、奔放さに流されてゆく、明るい日の午後だった。