路地裏の少年



18) 思い

 ジェットより、早く家を出て、ジェットより、早く家に戻って来た。
 課題の提出当日になって、参考文献のリストから、使った本のうちの1冊が抜けていることに気づいて、その本を、朝一番で大学の図書館で、もう一度探すためだった。
 幸いに、本は貸出中ではなく、必要なこと---題名、著者名、出版社名など---を書きとめてから、慌てて、大学のコンピュータールームへ走った。
 参考文献のリストを、もう一度打ち直すくらいのことは、大した手間ではないけれど、50台は並んでいるコンピューターのためのプリンターは、3台しかない。時計を何度も見て、いらいらと舌打ちしながら、やっと印刷し終わった後で、ページをすべてまとめるためのホチキスが、手元にないことに気づく。
 思わず、学生たちの大勢行き交う廊下で、立ち止まって、自分を大声で罵りそうになって、慌てて深呼吸する。
 焦っても、どうにもならないことは、どうにもならない。
 普段なら、家で全部すませて持って来るから、そんなものが必要だと、ちらとも思わなかった、不慣れな自分が悪いと、とりあえず、すぐ傍の壁に八つ当たりするのは、やめることにした。
 大学の敷地の、いちばん東側にあるコンピュータールームから、やや西寄りに、大学の中心部にある、事務所まで、また走る。
 事務所の女性は、にっこりと、ホチキスを手渡してくれた。
 がしゃんと、ようやく、紙を全部まとめ、ありがとうございますと、硬張る笑顔を返してから、今度はゆっくりと、提出先の、教授の部屋まで歩いてゆく。
 歩きながら、前日の夜に、きちんと確認しなかったのがまずかったなと、思う。
 いつもなら、誤字脱字の確認や、参考文献のリストのチェックは、きちんとすませておくのに、夕べは、もう書き上がっているからと、気が緩んだのか、ジェットに誘われて、早々とベッドに入ってしまった。
 寝過ごしは、さすがにしなかったけれど、朝の紅茶を飲みながら、参考文献のリストにミスを見つけた時は、思わずマグを、手から落とし損なった。
 寝ぼけ眼で起き出して来たジェットの目の前で、ばたばたと荷物をまとめ、行って来ると言い捨てて、アパートメントを飛び出した。
 教授の部屋のドアには、郵便受けのような差し入れ口があり、そこから、やっとまとめた紙の束を、するりと差し入れた。
 ぱさりと、ドアの向こうで音がしたのを確かめて、また、深呼吸をひとつして、アルベルトは、授業のあるクラスへ向かう。
 まずいなと、アルベルトは思った。
 ずっと、そう思っていたけれど、あまり重大なことだとは、考えていなかった。
 少しずつ、大学よりも、ジェットの方が、大事になりつつある。
 勉強をやめる気もなければ、大学を、つまらないところだと思う気もないけれど、ジェットのために、自分の時間を割きすぎているかもしれないと、ふと思った。
 大学に行くつもりでいる---その前にまず、高校がある---ジェットの前で、まさか大学を休学したり、中退したりする羽目になるわけには行かず、もちろん、そんな事態は、アルベルトの本意でもない。
 教授になるような野心はないけれど、大学に残ろうと思えば、せめて、助手くらいにはなる必要があった。
 こつんと、額を、自分で叩いた。
 しっかりしろ。
 こんな時まで、考えているのは、慌てて家を飛び出して、きちんと説明してやらなかったから、普段と違う様子に、もしかして心配していないだろうかと、また、ジェットのことだった。
 結局、授業はさすがにさぼりはしなかったけれど、最後の授業が終わった瞬間、飛ぶように、アパートメントへ戻った。


 アパートメントに着いて、何となくほっとして、コートを脱ぎもせずに、ザジと遊んでやってから、ようやくゆっくりと、紅茶をいれた。
 それから、教科書を何冊か、紅茶と並べて、コーヒーテーブルに積み上げて、ソファに横になった。
 夕食の支度を始めるには、少し早すぎたし、次のプレゼンテーションのために、もう準備を始めてもいい頃だったから、そのために割り当てられた部分を、読んでおいても良かった。
 じきに、ザジがやって来て、腹の上に飛び乗り、そこから首を伸ばして、本を押す。上に持ち上げると、胸の方へやって来て、くるりと体を丸めた。
 そこにいられると、明らかに、読書の邪魔なのだけれど、動かす気にもならず、重いのを我慢しながら、本を持ち上げたままで、読むことにする。
 こんなことにも、すっかり慣れてしまった。
 キッチンのテーブルに散らばった、文献からのコピーや、論文の下書きや、そんな紙類の上を、我が物顔で歩く。あるいは、その上に、寝そべる。
 ソファに、新聞を広げて読んでいれば、必ずその上に乗って来るし、たとえ抱えて読んでいても、膝に乗って来て、視界をふさぐ位置で、遊んで、と、見上げて、見つめて来る。
 何度か、床に下ろせば、邪魔なのかと、少し淋しげに悟って、どこかへ去ってゆく。
 ジェットがかまってやれば、アルベルトのところへは来ない。2番目なのかと、ちょっとだけ思ってから、でも、ジェットにはきっと一番だと、埒もないことを思った。
 また、ジェットのことを考えていると、そう思ってから、軽く頭を振って、視線を字の上に戻す。
 読み取った字の並びが、頭の中に、とどまらずに素通りしてゆく。
 集中できないなと、少し焦れ始めた辺りで、まぶたが重たくなった。
 とろとろと、軽く眠ってしまった辺りで、またゆっくりと目覚め、また、目を閉じる。そんなことを、数回繰り返して、それから、完全に眠りに落ちてしまった。
 胸に、ザジを乗せたままだったせいなのか、夢の中にジェットが出て来て、アルベルトの上に乗って、キスをした。
 ジェットに唇を舐められ、その、ざらざらとした舌の感触に、ようやく目を覚ますと、ザジが、胸の上に立ち上がって、アルベルトの頬を押しながら、唇の辺りを、ぺろぺろと、まるで犬のように、舐めていた。
 部屋の中はもう、薄暗くなり始めていて、ジェットはどこだろうかと、ザジを驚かさないように、ゆっくりと体を起こす。
 人の気配は、まだどこにもなく、そうしてようやく、ジェットはどこにいるのだろうかと、ふっと色の薄い眉を寄せた。
 ザジは、床に飛び降りて、それでもまだ、アルベルトを見上げるのをやめず、何か食べたいのだろう、大きな瞳だけで、そう訴えてくる。
 とりあえず、ソファから立ち上がり、部屋の明かりをつけた。
 自分の後を追って来るザジを連れて、キッチンで、猫の缶詰めを取り出して、缶切りを手に取った。
 その時、電話が鳴った。
 また、間違い電話だろうかと思いながら、床から伸び上がって、エサをねだるザジを見下ろしながら、けたたましく鳴る電話に、手を伸ばす。
 片手に缶切りを持ったままで、声を掛けると、向こうから、ジェットの声がした。
 「・・・家帰ったら話すけど、オレ、今、病院いるから。」
 「病院? ケガでもしたのか?」
 「オレは大丈夫だよ。とにかく、もうちょっと遅くなるから・・・それだけ。」
 「夕食、まだなんだろう?」
 ジェットが、黙り込んだ。
 何かまずいことを訊いたのだろうかと、思いながら、返事を待った。
 「・・・・・・食欲ないから、別にいい。」
 声をひそめて、そう言い捨てると、後ろで、がやがやと何か騒がしい電話は、素っ気なく切れた。
 電話を通したせいなのか、ジェットの声は、ひどく疲れているように聞こえたような気がして、一体何があったのだろうかと、短い、会話とも言えない会話を思い出しながら、アルベルトは、あれこれ、考えあぐねていた。
 ザジが、足元で、みゃうと鳴いた。
 ふくらはぎの辺りを、前足で引っかかれ---もちろん、爪は使わない---、それでようやく、手にした缶切りを思い出す。
 「ああ、悪かった。」
 缶切りで、ゆっくりと缶詰めを開け、それから、キッチンの、電話のある方とは別の端に置いてある、ザジ用の皿を取り上げた。
 手足は動いていても、頭の中では、ジェットとの会話を、ずっと繰り返し続けている。
 病院か、と、知らずにつぶやいていた。
 えさを入れた皿を置いてやると、ザジは、鼻先を突っ込んで、うれしそうに食べ始める。
 キッチンの椅子に、そっと腰かけて、ザジの、まだ骨張っている背中と腰の線を、じっと眺めていた。
 その、ふさふさとした毛の上からも見える、丸い硬い線は、ジェットのそれと、よく似ている。自分の下で、背中を丸め、伸ばすジェットの姿を、思い出していた。
 どこの病院にいるのか、訊けば良かったのにと、今さら思いつく。
 大丈夫だと言ったから、けがをしたわけではないらしい。電話をして来れるくらいなら、自力で歩けはするのだろう。気分でも悪くなって、もしかして、救急病棟にでも運ばれたのだろうか。
 迎えが必要なら、また電話してくるだろう。
 肩越しに、ちらりと電話を振り返って、また、ジェットのことばかり考えていると、思った。


 それきり、期待とは違って電話はなく、3冊目の教科書に手を伸ばした頃、ようやくジェットが、疲れた表情で、帰って来た。
 大きなバックパックを、引きずるように中に入って来て、ずるずると、這うように、ソファにいるアルベルトに近づいてくると、そのまま、その隣りに、どさりと体を投げ出した。
 「お帰り。」
 肩を抱き寄せ、いつもなら、ジェットがそうするように、ジェットの髪に、そっと口づける。ジェットが、頬を肩にすり寄せて、深々とため息をこぼした。
 「ケガは、してないんだろう? 気分でも悪かったのか?」
 腕を撫でてやると、ジェットが、もっとすり寄って来る。
 ようやく帰って来たジェットの足元で、ザジが、尻尾を立てて、うろうろと歩き回っている。
 「オレじゃない。学校の、知ってるヤツ。」
 「友達?」
 ジェットが、上目にアルベルトを見て、それから、ちらりとザジに視線を流した。
 疲れきった表情が、目の下から頬にかけて、まるで黒い痣のように、色濃く浮かんでいるのが、下目に見える。それに目を細めて、アルベルトは、また、ジェットの髪に、キスした。
 「・・・友達じゃないけど、お互い、顔は知ってる。」
 いつも以上に、口が重い。
 話させた方がいいのだろうかと思いながら、指先で髪に触れて、先を促す仕草だけを見せて、口は開かなかった。
 ジェットが、アルベルトの腕の中で、小さく体を伸ばすと、体を倒して、膝に頬を乗せてきた。
 こちらには視線を向けず、どこか、目の前の、空の辺りを眺めたまま、ジェットが、ゆっくりと唇を動かし始める。
 「理科室で、奥の方にしまってある、劇薬出して、それ、飲んだんだ。」
 細い肩が、アルベルトの手の下で、揺れた。
 「・・・すげえ音がして、ヘンだなって思って、中に入って、探したら、床に倒れて、がくがくしてた。吐いて、泣いてて、どうしていいかわからなくて、誰か呼ぶのに、大声出した。」
 息を吸い込んだ音がして、ジェットが、両腕を、胸の前に引き寄せた。
 「顔見たら、知ってるヤツだったから、びっくりして・・・・・・そのまま、そいつは病院に送られて、オレは、警察に連れてかれた。」
 「・・・死のうと、したのか?」
 一瞬、視線を迷わせて、止めて、それからゆっくりと数回瞬きした後、ジェットが、こくこくとうなずいた。
 「そいつ、オレ、知ってたんだ、ゲイで、なんか、悩んでるらしいって。」
 「ゲイ?」
 「なんか、クラスの別の男のこと好きになったとか、そんなんだと思う。オレのこと、わかるヤツはわかってるから、なんか、オレと話したいとか、そんなことも、言ってたって。オレは、自分がゲイでございなんて、言う気ないから、知らんふりしてたけど。」
 ジェットの髪をすいて、耳の後ろを、撫でてやった。
 閉じた瞳から、涙がこぼれ落ちるのが、見えた。
 「・・・親にも言えなくて、誰にも言えなくて、それでなんか、死ぬ気になったらしい。家出とか、考えてたとか、そんなことも、言ってて・・・」
 「・・・今は、大丈夫なのか?」
 長いまつげが、震えている。
 「胃の中とか洗って、今は、目が覚めてる。ちょっとだけ、話、した。親が来て、オレ、すぐ黙ったけど。苦しくて、仕方なかったって、言ってた。」
 だろうなと、そう言って、まつげに、指先を、そっと当てた。
 「家出したら、親が探してくれるのかって訊いたら、多分って、なんか、ちょっと笑って言ってた。」
 とりとめもなく、頭の中に思い浮かぶことを、ジェットはそのまま口にする。
 不意に、伸びた腕が、アルベルトの右手をつかんだ。
 今は剥き出しの、その冷たい手を、ジェットが、浮かせた頬の下に、そっと敷き込んだ。
 涙で、少しだけ濡れた目元を、感じた。
 「・・・オレが、もっと早く、友達になって、話してたら、あいつ、死のうとか、せずにすんだのかな・・・」
 涙がまた、アルベルトの掌に、こぼれた。
 震える肩を、アルベルトは、ただ見下ろしている。
 「さあ、それはどうかな。死にたいと思う人間は、周りがどんなに止めても、死のうとするだろう。他人に止められるほど、ああいう気分は、軽くて浅いものじゃない。」
 言いながら、黒のタートルネックのセーターの胸元を、アルベルトはそっとつかんだ。そこにまるで、自分の心があるかのように、掌を当てて、じっと、自分の内を、のぞき込んでいた。
 「誰かが死にたがってるのを、自分が止められたかもしれないと思うのは、傲慢だと、俺は思う。」
 目が、大きく開いて、瞳が、ゆっくりと動いた。瞳だけで、アルベルトの方を見ようとした。
 「キミは、もし、キミが自殺したとして、キミの友達の誰かが、自分を責めるのが、うれしいか?」
 瞳の位置を元に戻し、考え込んでから、ジェットが、ゆっくりと首を振る。
 「そういうことだ。」
 言っていることは、ただの理屈だった。
 死ぬために、劇薬をあおった人間を目の前にして、しかも、それが知っている人間なら、気にするなと言う方が、無茶なことはわかっている。それでも、ジェットが自分を責めても、今さら、起こってしまったことは変えられない。ジェットが、不必要に傷つくことはないのだと、そう言いたかったのだけれど、それが、ジェットにきちんと伝わったのかどうか、言葉を重ねて確認する気はなかった。
 「気にするなとは、言わない。でも、できたら、もう、起こってしまったことを気にするより、これから起こるかもしれないことを、気にした方がいい。自殺に失敗したら、どんなに惨めか、わかるだろう?」
 経験があるならわかるだろうと、はっきりとは口にせずに、遠回しに言ってみた。案の定、ジェットは、素直にこっくりとうなずいて、また、目を閉じて涙をこぼした。
 痛みは、わかる。
 誰かが、目の前で死にかけたから、痛いのではなく、そこへたどり着いてしまった苦しみがわかるから、痛いのだ。そこへたどり着いて、けれど果たせず、少なくともしばらくの間、記憶に苛まれながら、生き延びなければならない苦しみがわかるから、痛いのだ。通り抜けてきた苦しみがわかるから、痛いのだ。そして何より、自分の記憶を、そうやって、また、体験しなければならないから、痛いのだ。
 未遂は、ある意味では、ほんとうに果たしてしまうより、苦しい。その苦しみは、果たせずに、生き延びてしまったことのある人間にしか、わからない。
 ジェットにはわかる。アルベルトにもわかる。だから、アルベルトは、今ジェットが襲われている痛みを、まるで、自分のことのように感じていた。
 彼を通して、ジェットは痛みを感じ、ジェットを通して、アルベルトは痛みを感じている。
 苦痛は、こうやって、伝染する。伝染によって、苦痛が薄まるなら、どんなにいいかと、アルベルトは思った。
 減ることはなく、広がれば広がるだけ、深まってゆく、苦痛。時間と、その人間の強さだけが、苦痛をやわらげてくれる。
 不意に、ジェットが唇を開いた。
 「病院で、そいつと、ぼそぼそっと話して、オレ、その時に、オレにはアンタがいて、ラッキーだと思った。自分のこと、比べてて、いやな人間だと思ったけど、オレは、自分のこと、よかったって、そう思った。」
 表情を変えないまま、アルベルトは、ジェットを見下ろしたままでいた。
 「・・・アンタは、もし、オレがいなくなったら、探してくれるだろ? オレのこと、心配してくれるだろ?」
 ジェットが、自分の親たちのことを言っているのだろうと、アルベルトは思った。
 「多分、あちこち、必死で探し回るだろうな。」
 くくっと、ジェットが、肩を揺らして小さく笑う。
 「大学休んでも、探す?」
 「見つかるまで、休学する。」
 すかさずそう言った途端、ふっと、ジェットの肩が、止まった。
 3つ数えられるほどの、短い沈黙の後で、ジェットが、ゆっくりと瞬きをする。
 「あいつも、親が多分探してくれるって、思ってるみたいだから、大丈夫だと、思う。」
 俺は、と、深く考える前に、唇が開いていた。
 「キミと出逢ってから、少なくとも、死ぬことを、考えなくなった。」
 次の言葉の前に、胸に深く、息を吸い込む。吸い込んで、音を立てずに、吐き出した。
 「勉強より、大事なものがあると、今は、思う。そういう大事なものがある自分を、多分幸せなんだろうと、思う。」
 それがジェットなのだとは、はっきり言うのは、やめた。
 言わなくても、とうに伝わっているはずの、ことだったから。
 ジェットは、敷き込んだ、アルベルトの右の掌に、額をすりつけ始めた。そうして、ゆっくりと動きを止めてから、小さく声を上げて、泣き始めた。
 ジェットの足元で、ザジが、体を丸めて寝そべっている。泣き声に、時折、少しだけ、心配そうな視線を投げる。
 震える細い薄い肩を、アルベルトは、しんぼう強く撫で続けていた。
 痛みを分かち合いながら、言葉ではなく、沈黙が雄弁に語る、重苦しい夜だった。