路地裏の少年



19) 未来

 学校の帰りに、ジェットが、必ず病院へ寄るようになってから、10日ほど過ぎていた。
 帰りが、いつもより遅くなるので、夕食の時間を少しずらし、ふと思いついて買っておいたターキーを、オーブンに放り込んだ。
 上手く焼き上がったら、骨と残りの肉で、スープを作ろうと思いながら、付け合わせのポテトも、スパイスを振ってローストにしようかと、思っていたら、ジェットが帰って来た。
 「ただいま。」
 明るさの戻った顔つきで、大きなバックパックを放り出すと、キッチンにいるアルベルトのところへ来て、まず、ただいまのキスをする。
 「おかえり。」
 軽く見下ろして言うと、ジェットが、にいっと笑った。
 「明日の朝、退院するってさ。」
 学校で、劇薬を飲んで、病院へ運ばれた友達---その時は、まだ友達ではなかったけれど、今は、友達と言える程度に、親しくなったらしい---のことを言っているのだとわかって、アルベルトは、そうかとだけ、短く言った。
 「宿題は?」
 いつもと同じ問いだった。
 ジェットは、玄関のドアのところに放り出したバックパックの方へ、また戻りながら、振り向かずに、
 「今日は何にもない。」
と、少し弾んだ声で返事をした。
 なるほど、いいタイミングだ。
 心の中で、そう思って、冷蔵庫の傍に置いてあるポテトに手を伸ばし、4つ数えて、ジェットに振り返る。
 「じゃあ、手伝ってくれ。皮をむいて、小さく切って、ローストにする。」
 ジェットが、リビングのソファの方から、また、アルベルトの方へ戻って来た。
 ふたり並んで、軽く洗ったポテトの皮をむく。
 アルベルトの方が、馴れていて、手際もいいし、早いけれど、ジェットももう、指を切りそうに危なっかしくは見えない。
 白くて薄い、プラスティックのまな板の上で、ふたりで肩をぶつけるようにしながら、ポテトを小さく切った。
 切った端から、水を張ったボールに放り込んで、半インチ角くらいのポテトが、ぷかぷかと水に浮く。それをジェットが、面白がって、ナイフの先でつついた。
 「もう、いいのか?」
 不意に、何気なく訊くと、ジェットは、病院の彼のことを言われているのだと、すぐに悟って、ほんの少しだけ、口元を引き締めた。
 こくこくと、ポテトから目は離さずにうなずいて、また、ふっと口元をゆるめた。
 「学校、移るってさ。しばらく休んで、別の学校に通うって。」
 ジェットの横顔から、ナイフの先に視線を移す。それから、考えて、言葉を口にした。
 「その方が、いいんだろうな。」
 ジェットが、まだ視線を動かさないまま、こっくりとうなずいた。
 ジェットの前に手を伸ばし、ポテトのボールから、水だけこぼすと、もう一度、ざっときれいな水で洗ってから、切ったばかりのポテトを、オリーブオイルを塗っておいた、陶製の深皿に、平らに並べる。
 アルベルトの、その手つきを、眺めながら、ジェットが、肩を軽くすくめた。
 「元気そうに、見えたから、多分、もう、大丈夫だと、思う。」
 「そうか。」
 短く言ってから、もう、とっくに焦げ目のついている、ターキーの隣りに、そのポテトの深皿を、滑り込ませた。
 「ターキー?」
 鼻をひくひくさせて、ジェットが、うっすらと微笑んだ。
 オーブンの前に、腰を折ったまま、アルベルトが顔だけ振り向いて、ジェットに笑い返す。
 ああ、と答えると、ジェットがまた、にいっと笑った。


 
 いつもより、ゆっくりと時間をかけて食事をすませると、また、ふたりで、仲良く肩を並べて、汚れた皿を洗った。
 いつの間にか、あまり目線の変わらなくなった、ジェットの横顔を、時折盗み見る。
 肩も胸も腰も、まだ薄い。それでも、背だけは、目に見えるほどはっきりと、伸び始めていた。
 手足の大きさを思うと、おそらく、いずれは、アルベルトの身長を追い越してしまうように思える。子どもの成長を見守る親は、こんなふうに、少しずつ、自分たちの目線の高さに近づいてくる、自分の分身を眺めるのだろうか。
 ジェットの親のことを、久しぶりに、思い出していた。
 母親と父親、それから、ジェットの母親と再婚した、義理の父親。
 彼らは、いずれ、ジェットとまた家族に戻ることを選ぶのだろうか。少なくとも、母親と、義理の父親は。
 家族に戻るということが、どういうことなのか、アルベルトにもよくわからない。また、一緒に暮らすということなのか、それとも、少なくとも、連絡を取り合って、互いの近況くらいは知っている仲に戻るということなのか。
 そのどちらも、もしかするとないのかもしれないと、アルベルトは、ぼんやりと思った。
 そう思うのが、ほんとうに、ジェットのことをわかっているからなのか、それとも単なる自分の希望なのか、どちらなのか、わからなかった。
 毎日、感じることがある。
 毎日、少しずつ、ジェットが、空気の中に、濃くなってゆく。ジェットがいなければ、もうしかすると、呼吸すらできないのかもしれないと、思う自分がいる。
 ジェットを守りながら、ジェットに、守られているのだと、知っている。
 アルベルトの中の、傷つけられたまま、成長することを許されなかった子どもが、今、ジェットと一緒に、成長し始めている。
 その、小さな子どもが、いずれジェットと肩を並べるほど、成長できるのかどうか、アルベルトにはわからない。ひざを抱えてうずくまっていたその子が、今は、体を伸ばして歩き回り、時折、何か、必死に、こちらに言葉を掛けようとしているのを、感じる。
 自分の中の、もうひとりの小さな自分が、ジェットの明るさを浴びて、少しずつ、目を開き始めている。
 ジェットは先に、濡れた手を拭いて、リビングへ行った。
 アルベルトは、ふたり分の紅茶をいれて、マグを抱えて、その後を追った。
 ソファに並んで腰を下ろすと、すぐにジェットが、肩に寄りかかってくる。
 右腕を伸ばして、髪を撫でてやると、その手を取って、ジェットが、自分の胸の前に回した。
 ソファの上に両脚を上げて、膝を引き寄せると、ジェットはもっと、体の重みを預けてくる。そうしてから、アルベルトの右手に、自分の掌を重ねて、そっと握った。
 「今日さ。」
 肩にかかる、ジェットの重みとぬくもりを楽しみながら、アルベルトは、ゆっくりと目を閉じた。
 「恋人いるかって、訊かれた。」
 「こいびと?」
 うん、とジェットがうなずく。
 「病院で、あいつの親、いなかったから・・・。」
 ジェットが、もぞもぞと動いた。
 「あいつ、クラスで好きなヤツに、バレて、気持ち悪いって言われたって。」
 そこで一拍、言葉を切った。
 「好きなヤツに、そんなふうに言われたのもショックだったけど、そんなこと言うヤツを、それでも好きな自分が、すげえやだったって。」
 ジェットの手を、握り返した。
 ザジが、どこからか現れて、ソファの背に飛び乗ると、ちょうど、ジェットの腕が伸びる辺りに体を伸ばし、まるで、ふたりの会話に参加するように、そこに腰を落ち着けてしまった。
 ジェットは、アルベルトの手を離し、ザジの背を、そっと撫でた。
 それからしばらく、ふたりで、ザジを眺めて、何も言わずにいた。
 紅茶を、2口3口すすって、ジェットがまた、手を握ってくる。
 「アンタ、オレのこと、好きか?」
 手を握り返してから、ああ、と答えると、ほとんど間を置かずに、ジェットが次の問いを重ねる。
 「じゃあ、オレのこと、あいしてるか?」
 まるで、生まれて初めて口にするように、loveという単語が、耳に幼く、舌足らずに聞こえた。
 そう言えば、ジェットにも、あまり口にする機会のない言葉かもしれなかったけれど、アルベルトには、それ以上に縁のない言葉だった。
 最後に、誰かにその言葉を使ったのは、一体、いつだったろうか。そう思ってから、使ったことがあっただろうかと、思った。
 ないな、と思って、答えを待って、自分を見上げているジェットへ、視線を移した。
 「それは、まだ、わからない。」
 うそをつかないことで、もしかするとジェットを傷つけるのかもしれないと、思った。それでも、気安く口にしたい言葉でも、想いでも、なかった。
 思った通り、ジェットの瞳が揺れて、ほんの少し、潤んだように見えた。それでも、今さら口にした言葉は取り返せず、今さらうそをつく気もなかった。
 「でも、オレがいなくなったら、心配して、探してくれるんだろ?」
 「ああ、必死になって、探す。」
 「でも、オレのこと、あいしてない?」
 「キミにとって、じゃあ、愛って何だ?」
 愛という言葉の意味がよくわからず、反論する気ではなく、アルベルトは問いを返す。ジェットが、言葉に詰まって、唇を噛んだのがわかる。
 「アンタ、いじわるだな。」
 唇を突き出して、悔しそうにジェットが言ったので、アルベルトは、思わず苦笑をもらした。
 「別に、そんなつもりで言ったんじゃない。ほんとうに、俺は、そういうものが、わからないんだ。」
 そう言われて、納得したのかどうか、ジェットはとりあえず、唇を元に戻した。
 「アンタ、家族、どこにいるんだ? 親とか、兄弟とか。」
 「キミが、ここにいる。」
 話を反らすつもりで、冗談めかして答えると、ジェットは、またからかわれたと思ったのか、少し怒った表情で、アルベルトを振り仰いだ。
 「違う、そうじゃなくて、アンタの、ほんとうの家族。」
 誰にも、触れられたくないことだけれど、今まで、ジェットにそれを尋かれなかったのは、まるで奇跡のようだった。
 ひとりの時間があまりに長すぎて、ずいぶん昔には、自分にも、家族と呼べる人たちがいたのだと、思い出すことさえ、ない。思い出したくもなかった。
 昔話だと、そう思ってから、静かに言葉を滑り落とす。
 「多分、殺されたと、思う。生きてるとしても、多分、二度と会えない。」
 「・・・なんで、殺されたって・・・」
 ジェットが、体をひねって、こちらを向いた。
 「父親は、政府の役人だった。失脚して、家族ごと、捕まった。俺は、人体実験のために、研究所に送られたから、両親がどうなったのか、知らない。多分、政府に処刑されたと、思う。」
 「誰も、教えてくれなかったのか?」
 「俺を人間扱いしたら、そうしてくれた人間も、犯罪者になる。」
 ジェットが、信じられない、という顔をして、目を見開いた。
 「そういう場所も、この世界には、ある。」
 念を押すように言うと、ジェットの喉が、ゆっくりと波打った。
 「じゃあ、アンタ、ひとりか。」
 「血縁って言う意味なら、そうだ。」
 深刻ぶらずに、平たい声で、答えた。
 「じゃあ、オレが、アンタと結婚したいって言っても、誰も反対しないよな。」
 今度は、アルベルトが、目を見開いて、今聞いたばかりの言葉を、聞き違いかと、ジェットを見返す。
 ジェットは、完全にアルベルトの方へ向き直ると、ほとんど空になっている紅茶のマグを、コーヒーテーブルの上に、かたんと置いた。
 「まだ、同性間の婚姻を、法的に認める法案は、通ってないだろう、確か?」
 大学の授業に、そんな話題はなかったし、そんなニュースがあれば、新聞の見出しに出ないはずはない。思い出そうとしながら、思い出せずに、アルベルトは、頭をひねった。
 「まだ、今はできないけど、でも、オレが、アンタくらいの歳になったら、もしかしたら、結婚できるようになるかもしれない。」
 生暖かい紅茶を、一口すすった。
 「それは、可能性として、ありうる。」
 結婚という、思い浮かべたことすらない単語を、頭の中でつづりながら、アルベルトは、もう笑うことさえ忘れていた。
 はぐらかすこともできず、それでも、結婚も離婚も、手をつなぐ程度に簡単なこの国では、恋をし始める年頃には、もう結婚ということを軽々しく口にすることを、先に覚えてしまうのかもしれないと、そう思った。
 思いながら、ジェットの瞳の真剣さに、アルベルトは、気圧されていたのだけれど。
 顔を隠したくて、また、紅茶を飲んだ。
 「オレは、アンタとずっと一緒にいたいから・・・そうしたら、結婚すればいいって、それしか思い浮かばない。」
 子どもっぽい、真っ直ぐな考え方ではある。
 好きだから、一緒にいたい。一緒にいたいなら、結婚すればいい。もし、そう、できるなら。
 そうできないなら、どうすればいいのだろう。
 実際には、付き合いのまったくない、大学にいる、同性愛者の学生たちのことを思った。彼らは、そんなことを、どう思っているのだろう。どうしているのだろう。
 それから、明日退院するという、ジェットの学校の生徒のことを、思った。
 自分は、もしかすると、案外と恵まれているのかもしれないと、唐突に気づく。
 家族を失くし、腕を失くし、希望も失くして、ひとりで、ただ、呼吸をするだけで生き続けてきたけれど、ジェットが現れて、すべてが変わった。
 ひとりではなくふたりになり、今は、守るべき小さな生きものも、一緒にいる。
 歳の差も、男同士であることも、今は深くも気にもとめず、一緒にいる。
 今恐れているのは、ただ、ジェットを失うことだけだった。
 それに気づいて、失いたくない相手が、真摯に自分を求めてくれるのは、幸せなことなのだと思った。
 伝えきれない想いを、ジェットほどは素直に口にもできず、それでも、何か、言うべき言葉を見つけようとする。
 ソファの背に、寝そべったままでいるザジの方を見て、それからまた、ジェットを見た。
 ジェットとのことを、悩むことすらしなかった、自分の愚鈍さを、おかしく思いながら、口を開く。
 「猫は、大事にすれば、20年近く生きることもあるって、本に書いてあった。」
 いきなり何の話かと、ジェットが眉をしかめる。
 「ザジは、ふたりで一緒に飼ってる猫だから、俺たちも、ずっと一緒にいるんだって、そう、単純に考えてた。」
 おそらくそれは、ジェットが結婚と称したものと、同じものなのだろうと思いながら、そう言った。
 「キミが傍にいないなんて、考えたことすら、ない。」
 ジェットの腕が、首に伸びてきた。
 ソファが突然揺れ、ザジが、何事かと、頭を上げる。
 膝立ちになったジェットが、しっかりと抱きついてくる。紅茶がこぼれないように気をつけながら、ジェットの薄い腰に、右腕を回した。
 「うだうだ言わずに、好きだって言やいいだろ、アンタ。アンタも、オレと一緒にいたんだろ?」
 焦れたように、ジェットが耳元で言う。
 腰から腕を伸ばし、髪を撫でてやりながら、アルベルトは、首を伸ばして、天井を仰いだ。
 マグをさっさと空にして、テーブルに置いていたら、このままジェットを両腕で抱きしめられたのにと、また、自分の要領の悪さを笑う。
 「ああ、ずっと、キミと、一緒にいたい。」
 言った途端に、気持ちが軽くなった。
 ずっと背が高くなって、体の厚みが増しても、こんなふうに、自分に抱きついてくるのだろうかと、首に回ったジェットの腕の細さを思いながら、目を閉じた。
 ザジは小さくみゃあと鳴いたけれど、ふたりは黙ったままでいた。
 自分の中の子どもが、微笑んだような、そんな気のした夜だった。