路地裏の少年


20) 日曜日

 もう、朝に近い時間に、まるで青いガラス越しのような、薄くなった闇の中で、目を覚ました。
 まだ少し、はっきりしない視界を、窓から天井へ、それからドアへ流し、そうして、隣りで、こちらに背を向けているジェットを見た。
 骨張った肩に、唇を寄せながら、その背に重なってゆき、腰に右腕を回す。
 ベッドの中で眠るうちに、少し上がった体温が、生暖かく皮膚に触れる。
 何となく、腰に回した右腕を下にずらし、ジェットの、肉の薄い腿を、指先で軽くつついた。肩が少し揺れ、それでも、気にもせずに、まだ眠っているジェットに、もう少し、親密に触れる。
 固い---今は、そんなに冷たくはない---掌を添えられて、ジェットが、かすかに声をもらした。
 「・・・なんだよ。」
 はっきりとそう言われ、ごまかすように、ジェットの首筋に、唇を当てた。
 「何でもない。ただ、触ってみたかった。」
 掌の中で、そこにあるに違いない熱と湿りを、からかうように、軽く指を動かす。
 「・・・やりたいのか?」
 ジェットが体をひねり、アルベルトの方へ向き直った。そうしながら、抱きついて、胸をすりつけてくる。
 外れた手を、また腰に回し、まだ大人に比べれば、平たいジェットの背中と腰の線を確かめて、もっと下へ、ずらす。
 「そうかも、しれない。」
 あまり考え込まずに、素直に口にした。
 気持ちは静かなのに、妙に、体のどこかが、ジェットと近くなりたいと、感じている。腰をすりつけると、ジェットと一緒に、ゆっくりと勃起し始めた。
 けだるげに、ジェットが腰を動かして、ゆるく勃ち上がったペニスを、すり合わせる。そうしながら、次第に、ふたりの間で固さを増して、互いを弾き返すように、音も立てずにぶつかり合う。
 ジェットが、ひょろ長い足を、片方だけアルベルトの腰に回し、もっと体を、近くすり寄せてきた。
 「口でやってやろうか?」
 上気した顔で、けれど、欲情の表情はなく、ジェットがアルベルトに尋いた。
 考えてから、いや、このままでいい、と答えながら、ジェットの、肉づきの薄い腰に両手を添えて、つかむように、強く引きつける。
 「・・・キミがしてほしいなら、する。」
 引き寄せられて、胸を反らせて、ジェットも、いらないと、そう言った。
 横たわったままでは、うまく一緒に動けず、焦れたジェットが、アルベルトを引き起こし、ふたりで、ベッドに向かい合って、足を開いて坐ると、ペニスが触れ合う近さに腰を近づけ、それから、唇を重ねた。
 ジェットが、軽く腰を揺すりながら、アルベルトの右手を取り、それに自分の左手を重ねると、並んだペニスに触れさせた。少し湿りを帯びた、張りつめた皮膚を、ふたつの手が、一緒にこすり上げる。
 ジェットを傷つけないかと、少し気にしながら、ジェットと、そして自分のペニスに、同時に触れる。
 ジェットの掌は暖かく、指が、誘うように、動く。ぬるぬると、滑り始めた、すっかり固くなった器官が、生身と機械の掌の中で、ゆるゆると昇りつめようとしている。
 人差し指を取られ、ジェットが、その指先を、自分の、濡れた先端に押しつけた。握り込むように、掌越しに押さえられ、ジェットが、唇を外して、小さく声を上げた。
 ぴったりと合わせた胸の、下の方で、暖かさが弾け、指先に、ぬめりが広がる。
 アルベルトの肩に頬を乗せて、少し荒い息で、ジェットが、ごめん、と言った。
 「オレが、先に、イっちまった。」
 「別にいい。」
 まだ、少し固さを残している、射精のすんだジェットのペニスから、そっと指を外し、ジェットの体液に濡れた掌のまま、アルベルトは、自分のペニスに触れた。
 そのぬめりの暖かさは、ジェットの内側の熱さに、少し似ていて、アルベルトは目を閉じて、自分の固い掌が、入り込めば、狭く包み込んでくる、ジェットの粘膜だと、ふと錯覚する。
 そうやって、他人の体液や粘膜に触れることを、汚いと思わない自分がいる。
 ただ、包むだけで動かさず、アルベルトは目を閉じて、自分の体温で、乾いてゆくジェットの体液の感触を、楽しんでさえいた。
 ジェットが、首に回した腕を引いてくる。繋がるための姿勢になろうとしているのだと悟って、アルベルトは、それを止めるために、ジェットの背中に左腕を回す。
 「このままでいい。」
 「・・・でも、アンタがまだだ。」
 「いいんだ。」
 ついばむように、自分のペニスに触れたまま---ゆっくりと、固さを失いつつあった---、ジェットにキスをした。
 射精のためではない。ただ、ジェットに触れていたかった。互いのすみずみを、重ねて、交じり合わせて、どこまでが自分で、どこまでがジェットのなのか、わからない、そんな感覚を、楽しんでいた。心の底から。
 部屋の中が、明るくなっていた。


 日曜の朝は、いつもゆっくりと起き、やるべきことがない限りは、特には何もせずに過ごす。
 シャワーを浴びて、バスルームから出て来ると、ちょうど、ジェットが、ザジを抱き抱えて、玄関のドアを閉めたところだった。
 「また、外にいたのか。」
 唇を突き出して、ジェットがうなずく。ザジは、身をよじって、ジェットの腕の中から逃れた。
 「発情期が近いんだ、きっと。」
 窓際へ走ってゆくザジを目で追いながら、ジェットがぼそりと言う。
 近頃、ふたりが見ていないすきに、どうやるのか、ドアを勝手に開けて、アパートメントの廊下に、出て行ってしまうことを覚えたザジが、たびたび脱走するようになって、ふたりで、首輪に名札をつけた方がよさそうだと、そんな話をしていた。
 アパートメントの外へ出たことはなく、それでも、名札をつけておけば、何かあれば、見つけやすいに決まっていた。
 発情期が近いなら、そろそろ獣医で、手術をしてもらう必要もある。
 ザジを避妊させることに、いまだ納得していないジェットの気持ちがわかるから、アルベルトは、その時を、何となく引き伸ばしている。
 それでも、そろそろ獣医に連絡をした方がよさそうだと、濡れた髪を拭きながら思う。
 「名札、買いに行こうぜ。」
 ジェットが、不意に言った。
 そうだな、とそれに答えて、キッチンへゆく。
 何となく、そうして、出掛けることになって、ばたばたと準備をしながら、そんなふたりを、ザジが窓際の日だまりに寝そべって、のんびりと眺めている。
 「行ってくるから。」
 そう、ザジに言葉を投げて、ドアを閉めて、ジェットが、アルベルトの手を取った。
 明け方に、そうして抱き合った時のように、近く体を寄せて、肩に頭をすり寄せてくる。なんとなく、じゃれ合いたい気分なのか、車の中でもジェットは、アルベルトの手を離さなかった。
 いつも行くペットショップの駐車場に車を入れると、ようやく、名残惜しそうに、アルベルトから手を離し、ふたりは、肩を並べて、大きな店の中へ入った。
 ジェットは、機嫌の良さを隠しもしない足取りで、アルベルトの先に立って、猫や犬の首輪につける、名札の並んだ棚を、きょろきょろと探し始めた。
 それから不意に、足を止めて、アルベルトを振り返り、少し高い声を上げる。
 「あ、機械があるんだ。」
 「機械?」
 眉を寄せて、怪訝な声で繰り返すと、今入って来たばかりの入り口の辺りを、ジェットが指差した。
 「名札の、機械。名前とか電話番号とか、プレートに刻んでくれるやつ。」
 振り返った方には、背の高い、大きなディスプレイとボタンのたくさんついた機械が、確かにあった。
 あれかと目顔で訊くと、うん、多分、とジェットがうなずく。
 ふたりでまた、そちらへ引き返し、目線よりも少し高いディスプレイを、並んで見上げた。
 ディスプレイの横に、数種類の違う形の、のっぺらぼうの名札が、見本なのか、並べてある。色も、数色あった。どうやら、好きなプレートを選ぶと、この機械が、名前や電話番号を刻んでくれるらしい。
 ジェットが、もの珍しそうに、ディスプレイのすぐ下の、キーボードに軽く触れ、ひゅっと唇から音をもらす。
 「どれにする?」
 名札の見本を指差して、ジェットが尋いた。
 猫用の、小さめのものは、2種類あった。丸い淡い金色のプレートと、ハートの形の、濃いピンクのプレートだった。
 「アンタ、ピンク、きらいなんだろ?」
 茶化すように、ジェットが言った。
 ピンクというよりは、少し赤みの強い紫に近いその色を、アルベルトは別に嫌いではなく、メスの猫にハート形の名札という凡庸さも、たまにはいいかもしれないと、自分を笑う気になった。
 「ザジは、胸の毛が白いから、こっちの方が目立つだろう。」
 決して、ごまかすための言い訳ではなかったけれど、ハートの形が好きだと、わざわざジェットに言う気もなく、そちらを指差すと、ジェットが意外だと言わんばかりに、軽く頭を揺らす。
 「ま、いいや。」
 アルベルトの趣味の変化を、それ以上は追求もせず、あっさりとジェットが、選んだプレートの番号を、キーボードに打ち込んだ。
 「ザジの名前と、住所と、電話番号、と。」
 つぶやきながら、キーボードにうつむき込んで、ひとつひとつの言葉のつづりを確かめながら、ジェットがゆっくりとキーを打つ。
 「アパートメントの番号も、ちゃんと入れた方がいい。」
 住所を打ち終わって、電話番号を打ち始めようとしたジェットに、アルベルトが言った。
 「外で見つかっても、ザジがどこから来たか、それならすぐわかるだろう。」
 ジェットが、素直に、4、という数字を住所の一番最後に付け加えて、それから電話番号を、確かめながら打ち込み、間違いのないことを、ふたりで確認して、終了と書かれた、ディスプレイに現れたボタンを、アルベルトが、革手袋の指先で、そっと押す。
 機械が、じーっと音を立てて動き出し、レコード針のようなものが、ディスプレイの下の、プレートの入っている空間に下りて来て、濃いピンクのプレートの上に、たった今、ジェットが打ち込んだばかりの文字を、ゆっくりと刻み始める。
 この名札をつけたら、次は手術だなと、アルベルトは、針の動きを見ながら、思った。


 何となく、明るい天気のせいか、ふたりとも、そのまますぐにアパートメントに戻る気にならず、ジェットが、アルベルトの大学へ行きたいと言い出した。
 日曜の午後も遅く、構内に人気はなく、明日にはまた、学生たちでいっぱいになる駐車場にも、数えるほどしか車はない。
 以前、ふたりで歩いた、並木の方へゆくと、暖かさに誘われてか、木の根元に、リスが走り回っているのが見えた。
 見上げると、葉の色が変わり始めていて、足元にも、黄色や赤の葉が、黒っぽいアスファルトを、わずかに彩っている。
 ジェットが、後ろを振り返って、周囲を見渡した後、そっと、アルベルトの右手を取った。
 手は握らずに、人差し指を、うつむいて、つかむ。
 アルベルトは、くすりと笑った。
 アスファルトに、革靴と、スニーカーの爪先が、並んで歩く。
 ひどく上機嫌なのを、ずっと感じていた。
 少しずつ、世界が明るくなって、その明るい世界が、いつまでも続いてゆくような、そんな気がする。
 こんなふうに、1日1日を、特別なことはなくても、幸せなまま、ずっと過ごせるような、そんな気がする。
 結婚しようと、ジェットが言ったことを、思い出していた。
 結婚という言葉が、自分たちにあてはまるのかどうかは、わからない。いつか、それが許される日が来たとしても、そうしたいかどうか、アルベルトにはわからなかった。けれど、このままずっと一緒にいたいと言う気持ちを、そうとしか示せないジェットの、精一杯の表現なのだとわかるから、そんなことはできないと、言うつもりはなかった。
 うまく行ったなら、ジェットは、18になった頃、ここへやって来る。その頃には、教授の助手くらいにはなれているだろうかと、思った。
 いずれ、家を買おう。ジェットとふたりで、それから、そこにはもちろんザジもいて、大きな、背の高い本棚を壁際に並べて、好きな本を、端から並べる。その頃には、ジェットは、アルベルトよりももっと背が高くなっているかもしれない。肩も胸も厚くなって、もっとひょろりと長くなった手足を、持て余すように、動く。
 もう、抱き上げることはできなくなっているだろう。ベッドも、きっと窮屈になる。
 大人になったジェットは、アルベルトとは、寝たがらないかもしれない。もしかすると、ガールフレンドを見つけているのかもしれない。
 そんな想像も、けれど、きっとそんなことにはならないだろうと、根拠のない確信があれば、胸も痛まず、笑いさえ小さくこみ上げてくる。
 ザジを膝に乗せて、大人のジェットが、本を読んでいる。ザジは、今よりも、もう少し大きくて、ふたりの邪魔をすべきでない時を、すべて学んでいる。
 その傍に、一体いくつになっているのか、今よりも年を重ねた自分の姿を思い浮かべようとして、うまく像を結べない。
 いつもと変わらず、紅茶の入った、大きなマグを片手に、ぶ厚い本を読んでいる。もしかしたら、眼鏡でもかけているかもしれない。剥き出しの、鉛色の右手が見えた。
 ジェットが握っている、右手の人差し指に、ふと意識が飛んだ。
 いつか、この右手を、隠さずに外に出ることが、できるようになるだろうか。握手に右手を差し出され、何のためらいもなく、この右手を差し出せる、そんな日が、来るだろうか。
 ジェットだけではなく、他の、この世の中に動いて、生きている人間たちと、今ジェットとそうしているように、触れ合うことを、躊躇なくできるように、なるだろうか。
 ジェットが、いきなり前へよろめいた。
 慌てて腕を引いて、肩を抱き寄せると、ジェットが胸の中へ倒れ込んでくる。
 見下ろして、片足を宙に、蹴るように上げて、ジェットが舌打ちをした。
 「くつのヒモ、踏んじまった。」
 ぱらりと解けた、スニーカーの靴紐が、だらりと垂れ下がっていた。
 アルベルトは、苦笑いして、ジェットの足元に膝を折った。解けてしまったそれを、丁寧に結んでやる。ジェットが動かずに、それを見下ろしている。
 立ち上がったアルベルトに、ありがとうと、ジェットが言った。
 スニーカーの爪先を、またジェットが見下ろす。そのジェットの手を取って、アルベルトは、しっかりと握りしめた。
 繋いだ手を、離さないまま、ふたりは元来た道を引き返し、黙ったまま、駐車場の方へ歩いて行った。


 何となく、街のあちこちをぶらついて、明日はまた月曜日だと思うと、せっかくだから、このままなまけてしまおうと、ふたりは、夕食を張大人の店ですませることにした。
 張大人は、にこにことふたりを迎えて、スープの代わりに、仕込みの残りだと言って、鶏肉のたっぷり入った中国粥を出してくれた。
 「なんだ、これ?」
 「黙って食べるアルね。体にいいヨロシ。」
 どろりとした、砕けた米がすっかり溶けている、大ぶりの碗に入った粥を、ジェットはおそるおそる口に運び、その熱さには閉口しながら、けれど味は気に入ったのか、前菜代わりのそれを、きれいに平らげた。
 「うまいけど、なんかヘンだ、これ。」
 空にした碗を指差して、そう言ったジェットを、大きな声で笑って、張大人は、赤い髪をごしごしと撫でた。
 キッチンへ消えてゆく、丸い背中を見送って、アルベルトが、ゆっくりとジャスミンティーをすする。
 「あの中国菓子、持って帰っても、いいか?」
 目の前に並んだ皿を、食欲旺盛につつきながら、ジェットが、油に濡れた唇で訊いた。
 これだけ食べて、まだ入るのかと、驚いて、呆れながら、笑う。
 ああ、とうなずいて、よく動くその口元に、ふと触れたいと思った。
 食事を終え、中国菓子を抱えて、アパートメントへ戻り、ジェットがシャワーを浴びる間に、アルベルトは、少し濃いめの紅茶をいれた。
 タオルを、濡れた頭にかぶり、ジェットが、キッチンへやってくる。
 皿に並べた、平たい中国菓子---甘くない、ごく軽いクッキー---をつまんで、口の中に放り込みながら、またバスルームに戻って、脱いだ服を抱えて戻ってきた。
 どさりと椅子にそれを置いてから、上着を取って、ポケットに手を突っ込む。取り出した手には、小さな名札があった。
 「ザジに、つけないと。」
 「そうだったな、忘れてた。」
 戻って来た時には、玄関のドアのところで、ふたりを迎えてくれたのだけれど、そう言えば、今は姿が見当たらない。
 どこにいるのかと、ふたりで、部屋の中を見回した。
 ジェットが、ベッドルームに、ザジを探しに行ったけれど、手ぶらで、首を振りながら戻ってくる。
 「ザジ?」
 少し大きな声で、リビングの方へ呼びかけた。
 ジェットの声に反応しないわけはないと思いながら、アルベルトも、同じように声を投げる。
 それでも、あの、小さな気配はどこにもなく、この小さなアパートメントで、ザジが隠れる場所など、たかが知れていた。
 ふたりは顔を見合わせ、軽くうなずき合った。
 いれたばかりの紅茶をテーブルに置いて、アルベルトは、苦笑を声にもらす。
 「また、外に出て行ったな。」
 廊下の、どちらの端にいるだろうかと思いながら、アルベルトは、テーブルについて、自分の分の紅茶を飲み始めているジェットの頭を、タオル越しに撫でた。
 「全部、先に、食べないでくれよ。」
 中国菓子の皿を指差して笑う。
 「まったく、いるのは名札じゃなくて、つないどく鎖だ。」
 つぶやいて、ドアに向かう。廊下に出て、10歩も歩けば、見つかるはずだ。
 「すぐ戻ってくる。」
 ドアから振り向いて、こちらに向いたジェットに、笑いかけた。
 ジェットが、アルベルトの笑顔を見た、それが最後の時だった。