路地裏の少年



21) 待つ

 紅茶が、すっかり冷めてしまっても、アルベルトは戻って来なかった。
 湿ったタオルを取り、バスルームに戻して、その後も、部屋の中でぐずぐずした後、ジェットは、ようやく、アパートメントの廊下へ出た。
 薄暗い、天井からの明かりだけで、人気のないそこに、アルベルトの姿も、ザジの気配もなく、ジェットは裸足のままで、廊下を、いちばん端からいちばん端まで、足音を忍ばせて歩いた。
 「ザジ?」
 小さく呼んで、けれど、動くいきものの気配はなく、ジェットは、怯えて、声を殺して、アパートメントへ逃げ帰った。
 ジェットの中で、何かが叫んでいたけれど、その叫びを聞くのが恐ろしく、ジェットは、ドアを閉め、鍵をかけ、それから、ベッドルームから毛布を持ち出した。
 アルベルトが戻って来たら、ドアを開けられるように、すぐにわかるように、その夜は、ソファで眠った。
 眠りに落ちるまで、震えが止まらなかった。
 朝がやって来て、目覚めて何時かわからず、学校へ行かないとと、すぐに思ったけれど、ひっそりとした部屋の中には、人の気配はなく、ぐるりと部屋の中を見渡してから、また、冷え始めた膚に、毛布を巻きつける。
 すぐに戻ってくる。
 アルベルトが残した言葉を思い出して、ドアから消えた姿を思い出して、コートも着ていなければ、右手には手袋さえしていなかったから、部屋の鍵を持って行ったとはとても思えず、このまま学校へ行ってしまったら、アルベルトが戻ってきた時に、部屋に入れないじゃないかと、そう思った。
 待ってなきゃ。
 初めてここへ来た頃、いつもそうしていたように。アルベルトを待って、一日中、このソファに坐って、ひざを抱えて、肩を丸めて、戻ってきた彼が、うっすらと、自分に微笑みかけてくれるのを、ただ、待っていたように。
 出て行ってくれと、いつ言い出すだろうかと、いつも怯えていた。
 自分に、優しくしてくれる---常に、ふりだけだったけれど---大人たちは、いつも、ジェットを人間扱いしてはくれなかった。
 彼らが欲しがったのは、ジェットの、まだ育ちきらない少年の体であって、その体の持ち主であるジェットが、何を感じ、何を思って、何を考えているのか、忖度する必要もなければ、そんなものがあるとすら、認識するつもりもなかったように見えた。
 それでも、彼らに拾われれば---ほんの数十分か、ほんの数時間か---、屈辱の代償として、何かが支払われた。金かもしれなかったし、マリファナかもしれなかったし、暖かいシャワーと、柔らかなベッドだったかもしれない。
 車の中から、おいで、と手を伸ばされ、それに従えば、何が欲しいのか、何をさせたいのか、欲情と期待に満ちた瞳で、男たちが伝えてくる。
 目の前に突き出された性器は、まだ、柔らかいままであることもあれば、もう、触れる必要さえないほど、張りつめていることもあった。
 唇を開き、それを、飲み込む。飲み込んで、舌を使う。すぐに終わらせてしまえば、不満に思う男もいて、吐き気をこらえながら、時間をかけて、満足させてやる。
 さまざまな言葉を、投げつけられた。
 誰か、知らない男や女の名前を呼ばれ、あるいは、淫売と罵られ、汚い言葉を、切れ目もなくつぶやき続ける男もいた。
 ジェットを、天使だと言いながら、喉の奥に、突き破りそうに強く、押し入れ、そこに吐き出して、こぼさずに飲めと、冷たく言った男は、ジェットの汚れた頬を、その後で何度も殴った。
 恐る恐る、ジェットの中に入り込んでくる男もいれば、何の準備もせず、引き裂くように強姦することを、好む男もいる。
 少年の体---だけ---を、愛すること、少年の体に、触れること、少年の体を、引き裂くこと、少年の体を、踏みにじること、男たちの求めることは、それぞれだったけれど、誰も、ジェットの心は欲しがらなかった。
 欲しがられても、もちろん与える気などなく、それでも、そうして体だけを繋げながら、ほんの一瞬、暖かいと錯覚できる他人の体温を、求めなかったと言えば、嘘になる。
 路上で生き延びるために、盗みや薬の売買でその日暮らしをする気にならず、そうなれば、できることと言えば、うしろめたさを全身ににじませて、少年を探しに来る男たちに、自分を切り売りすることだけだった。
 父親だけにさせていたことを、他の男たちにさせる、それだけのことだと、必死で自分に言い聞かせた。
 家には、戻りたくなかった。ジェットを、その機会さえあれば、この世から消してしまいたいと、常に願っている母親と一緒に暮らすのは、耐えられなかった。
 どうして、あんたなんか産んじゃったのかしら。あんたなんか、産まなかったら、あたし、もっと幸せになれたのに。
 実の父親と別れてからは、そんなことを、もう、隠しもせずに、ジェットに向かって言うようになった。
 ジェットと、別れた夫との間にあったことを、知っていながら、止めることもせず、むしろ、それで自分の身が安全なら、それで良かったのだと、酒に酔って、ジェットに言ったことさえあった。
 どうせ、あんたが誘ったんでしょ?
 ジェットを守ることが、彼女に離婚を決意させたのだとしても、その程度に、ジェットを、自分の息子として愛していたのだとしても、それでも彼女は、ジェットを憎むことを、決してやめなかった。
 酔っていた母親が、突然、腕を伸ばし、ジェットを押し倒して、首を絞め始めた。抵抗して、彼女を振り払ったジェットを、彼女は、手近にあった、大きなランプで殴り、肋骨にひびを入れた。
 それから、腕を折られ、階段から突き落とされて、足を折り、見て見ぬふりをしていた義理の父親が、ようやく、いつか妻が、義理の息子を殺すかもしれないと、思い始めた頃、いつものように、ジェットに絡み始め、ジェットを殴った母親を、ジェットが、ついに耐え切れずに、腕を振り上げ、殴り返した。
 その場で、倒れて泣き始めた妻を、かばうためだったのか、義理の父親は、拳で、ジェットを殴った。
 彼の瞳は、怒りではなく、悲しみと困惑に満たされていて、こんなに壊れてしまっている女でも、愛しているから、捨てられないのだと、俺が愛しているのは、この女であって、おまえではないのだと、その瞳の色が、伝えていた。
 なぜ、誰も自分を愛してくれないのだろうかと、ジェットは、うつろに思った。
 ただ、優しく抱きしめてほしいだけなのに、どうして、それを与えられないのだろうかと、思った。
 自分を抱きしめる腕は、欲情を果たすためのものであって、愛をくれない。自分に伸ばされる腕は、殴るためであって、抱きしめてくれるためではない。
 この世から、消えてしまいたいと思った。
 このまま、母親と暮らし続ければ、いつか彼女が、自分を殺すことが、目に見えていた。けれど、そうすれば、罪を問われて、裁かれる母親がかわいそうで---こんなになってさえ、彼女は、ジェットの母親だったから---、もう、何も考えられずに、ジェットは、家を出た。
 捜さないだろうと、わかっていた。
 同じ街にいれば、いずれ、噂が耳に届くにせよ、自分を見つけるために、母親と、義理の父親がやって来るとは、とても思えなかった。
 路上に飛び出して、そこで、自分と同じような境遇の、何人もの少年たちと出会った。
 自分だけが、愛されていないわけではないのだと、そこで知った。理由はさまざまではあっても、家族に愛されない少年たち---もちろん、少女たちは、もっとたくさんいる---が、路上にはあふれていた。
 そんな少年たちに、にせものの愛情を与えるふりしにやってくる男たちは、実のところ、少年たちに軽蔑され、嘲笑われながら---単なる強がりではあるけれど---、一方で、愛されたいと切望する少年たちに、愛されている錯覚を与えてくれる存在として、求められてもいた。
 歪んだ需要と供給が、路上では成り立っている。
 だから、ジェットのような少年が、身を切り売りしながら、生き延びることが許される。
 許されてなど、いけないはずなのに。
 夜になっても、アルベルトは戻って来なかった。


 空腹を感じることはなく、それでも、感覚すらない喉の渇きを癒すために、水とミルクを、流し込んだ。
 何日経ったのだろうかと、ジェットは、ソファの上で、毛布を体に巻きつけて、もう何度目か、同じことを思った。
 部屋の中はしんとしていて、ジェットが動かなければ、空気すら揺れない。
 時折、ドアの外をゆく足音が聞こえ、ジェットは、何度もそのたび、耳をそば立てた。そして、その足音が、ドアの前で止まり、開けてくれ、というのを、待った。
 足音は、いつもどこか別の場所で止まり、そして、消えた。
 動かない空気は淀んで、何となく、饐えた匂いを含んでいるような気がする。
 シャワーを浴びることもせず、部屋から一歩も出ないばかりか、ソファからも、もう滅多と立ち上がらない。
 知ることが、恐ろしかった。
 知ってしまえば、希望が砕かれてしまうから、知らないままで、いたかった。
 だから、捜しにゆけない。
 ドアを開けて、名前を呼びながら、外へ飛び出せば、何かがわかるかもしれないのに、それをすることができない。そうすれば、真実に近づいて、見たくないこと、知りたくないことを、目にすることになる。
 知らない方が、いいこともある。
 オレがいなくなったら、探してくれるか?
 アルベルトは、もちろんだと、答えてくれた。
 それは、ほんとうのことだろうと、思う。必死で、ジェットを探し回ってくれるだろう。見つかるかどうか、見つからなければどうなるか、そんなことさえ思わずに、街中を、ジェットを探し回って、歩くだろう。
 探すのは、希望があるからだ。希望を、信じていられるからだ。
 もう、どこにいないのだと、見つからないのだと、そうわかった瞬間、希望は消える。希望だけにすがっていた自分が、消滅する。
 それが恐ろしくて、ジェットは、動けずにいる。
 知らなければ、信じていられる。信じていれば、それだけで救われる。今ジェットがすがれるのは、小さな希望だけだった。
 早く、帰って来いよ。
 自分の肩を、抱きしめた。
 何かが起こったのだと、もう、否定することすらできない確信だけが、ジェットに残されていた。
 その、何かを、探し当てることが、怖かった。
 知らないふりをしていれば、目を反らしたままでいれば、ここでずっと、信じて、待っていられる。
 アルベルトが、ドアを叩いて、開けてくれと、外から言うのだと、そう信じていられる。
 ジェットは、それを待っている。アルベルトが、帰って来るのを、待っている。
 真実が、すでにそれを裏切っているのに、ジェットは、そうだと認めるのが恐ろしかった。
 どうしていいのか、わからなかった。
 何かが、どこかで、失われつつある。それを引き止めることができるのかどうか、ジェットにはわからない。
 アルベルトが、今、どこにいるのか、何をしているのか、知りたくて、そして、知りたくはなかった。
 知ってしまったら、取り返しのつかないことになる。
 互いに伸ばしていた腕が、どこにもない。
 待つことの幸せと、待たせることの幸せと、それを、楽しんでいたのに、今はもう、楽しめない。
 言葉を交わして、優しさだけを与えて、与えられていたのに、それが今は、どこにもない。
 いつだって、失うことを恐れていた。どんな形であれ、アルベルトとの生活が、終わってしまうことを、いつも怖がっていた。
 あの、どこか悲しげな、優しい微笑みを見るたびに、その恐怖は、おそらく恐怖だけで終わってしまうのだろうと、ジェットは心のどこかで確信していた。
 根拠はなかった。けれど、同じように傷ついたふたりは、まるでほんものの家族のように、ずっと一緒にいるのだろうと、ジェットはそう思っていた。
 いつまでも、いつまでも、アルベルトと一緒に、ザジと一緒に。
 ザジを連れて、戻ってくる。ここから外へ出てしまったザジを、ちょっと探しに行っただけだ。すぐに、もうじき、戻ってくる。
 コーヒーテーブルの上に、置いたままの、ザジの名札を、また手に取った。
 ザジが戻ってきたら、ちゃんとつけよう。そうすれば、こんなに、見つけるのに時間がかからない。すぐに、ザジがここに住んでるって、わかる。オレたちの猫だって、すぐわかる。
 握りしめて、そして、ジェットは、怯えて、全身を震わせた。
 怖かった。ひとりきりで、その震える肩を抱きしめてくれる誰も、ここにはいなくて、それが、怖かった。
 ザジがいない。アルベルトもいない。ジェットがだけ、ここに取り残されている。
 アンタが、いない。待ってるのに。アンタが、帰って来ない。
 まだ、帰って来ない。
 名札を、掌の中に、皮膚に食い込んで痛いほど強く、握って、ジェットは泣いた。誰も、いない部屋で、ひとりで泣き続けていた。

 夜が明けて、朝をやり過ごして、また夜が来て、ぼんやりと、天井を見上げたまま、真空になってゆく自分の体の中から、何かが確実に、ゆっくりと、流れ出している。
 時折ふと、意識が白く遠くなるのは、夢の中にいるせいなのか、それとも、待ちくたびれて、疲れてしまったせいなのか。
 このまま、自分が消えてしまうような、そんな気がして、それでも、アルベルトが戻って来たら、ドアを開けなければと、同じことをまた思う。
 戻ってくるまで、待ってなきゃ。
 どこかに行ったら、戻って来た時に、わからない。
 ここに、いなきゃ。
 ずっと、ずっと、いつまでも、戻ってくるまで、待ってなきゃ。
 ザジは、戻ってきたら、すぐに、エサを欲しがるかもしれない。
 夕食の時間なら、張大人のところへ行こう。また、あの、口の中にねばりつく、粥とか言うスープを、食べたい。
 空腹はもう、感覚ですらなく、何日も---正確な日数は、よくわからない---、胃液だけしか中にない胃は、縮まって、石のように固くなっていた。
 部屋の明るさも、暗さも、気にならず、意識は常に、半分は眠気に満たされている。
 眠りたいと、思った。心安らかに、眠れたらと、思った。
 眠れば、夢の中に見るのは、微笑むアルベルトと、その腕に抱かれたザジばかりで、腕を伸ばすと、かき消える。触れることもできず、手も届かず、言葉さえ、ない。
 戻ってきてくれよ。
 冷えた手足を、少しだけ動かして、ジェットは思った。
 早く、戻ってきてくれよ。
 心の中で、叫んだ。
 幻でもいい。ここに、戻ってきて欲しかった。ここに帰ってきて、ただいまと言って、ジェットの傍に坐って、肩を抱き寄せて欲しかった。
 夢の中でもかまわない。姿を見せてくれと、思う。
 ザジを膝に乗せて、ふたりで、お茶を飲んで、本を読む。夕食の話をして、学校の話をして、それから、一緒に笑う。
 夜になれば、ベッドに入って、近く、体を寄せて、抱き合う。
 ついばむようなキスをして、それから、互いに、相手を欲しいと思いながら、手を伸ばす。
 触れたい。触れられたい。
 あの、冷たい、機械の腕が、恋しかった。あの腕で、抱きしめられて、触れられたかった。
 ジェットだけに、隠さずに見せてくれる、あの腕が、欲しかった。
 ふと、思いついて、ジェットは、のろのろと、左手を、下着の下に滑り込ませた。
 そこにあることさえ忘れていたペニスに、触れる。触れて、握りしめ、それから、アルベルトの掌を思い出しながら、こすり上げる動きを、始めた。
 足を軽く開いて、目を閉じ、すっかり軽く頼りなくなってしまった自分の体を、慰めるためではなく、忘れて、眠るために、手を動かす。
 まるで、アルベルトと躯を重ねている時のように、声を上げて、たどり着くために、柔らかな皮膚を、夢中でこする。
 射精の後の、真空のような疲れが、欲しかった。そうすれば、安らかに眠れるような気がした。
 そうしなければ、このまま、眠れないまま、自分が死んでしまうような、そんな気がした。
 アルベルトの、重なる膚の熱さを思い出しながら、ジェットは、無理矢理に自分を追いつめ、そうして、ようやく、掌の中に、射精した。
 口元に、はかない笑みを浮かべて、汚れた手をそこに残したまま、また眠るために、目を閉じる。眠りに落ちながら、また、アルベルトの幻を夢に見た。
 動きも音もなかった部屋の中で、突然電話が鳴った。何の変哲もない、月曜日の、朝だった。