路地裏の少年
22) 路上
立ち上がれば、それだけでふらつく体だったけれど、出掛けるために、シャワーを浴びた。
急いでも、もう、何も変わらないだろうと、わかっていた。
連れて行かれたことは、何度かある。けれどこうして、自分から足を踏み入れるのは、初めてだった。呼び出された先は、警察で、受付で、自分の名前と、電話で告げられた刑事の名前を言うと、5分ほどそこで待たされた後、奥の方から、貧相な中年男が現れた。
髪の一本もない、見事な頭と、少したれた大きな目のその刑事は、イギリス訛りの英語で、ジェットの名前を確かめた。
「きみは、弟か、何かか?」
ジェットは首を振った。
「一緒に暮らしてて・・・家族は誰もいないって、言ってました。」
刑事が、ほんの少し困ったように、眉の間を曇らせた。
「・・・話は、電話で言った通りなんだが・・・。」
語尾を濁して、刑事がうつむく。
「大丈夫です。」
どこから、そんな声が出るのかと、自分でも不思議に思いながら、刑事を説得するように、ジェットは言った。
ジェットを、うつむいたまま上目に見て、刑事は、髪の毛のない頭の後ろを撫でながら、ほんの少し唇を歪めた。
そうする間にも、ジェットの後ろでは、人たちが高い声で喋り、制服の警官が、数人歩き回っている。
こんなふうに忙しい場所には、あまり相応しくない、ふたりの間の、奇妙に手際の悪い空気だった。
「まあ・・・じゃあ、こっちに。」
先に立って歩き出した刑事の、丸まった薄い背中を追う。
建物の奥へ向かい、それから、暗い階段を、ずっと下に降りていった。
奥へは、入ったことがある。けれど、地下へ行くのは、初めてだった。
長い廊下を、またさらに奥へゆき、ふたりは、ずっと無言だった。
廊下の突き当たりは、両開きのドアで、刑事はそこでジェットに振り返り、少しの間、待つように言い残して、ひとりで中へ入って行った。
ジェットは、揺れるそのドアを見つめて、何度も息を止めながら、そうして、また深く空気を吸い込み、そこに混じっているかもしれない、ある匂いを見つけようと、ほんの数瞬、必死になる。
そんな匂いなんか、知りもしないくせにと、そう思い当たって、自分の必死さを、小さく笑う。
刑事が、ドアから顔だけ出して、おいで、と、ジェットに向かってあごをしゃくった。
奇妙な明るさに満ちた、天井の高いその部屋は、やけに硬質な色と空気と、病的な清潔さが、すみずみまで行き渡っていて、部屋の中央の細長いテーブルに、白いシーツに覆われた盛り上がりを見た瞬間、ジェットは、部屋の内装から、一瞬で意識を外した。
刑事は、ジェットの方を振り返りながら、そのテーブルに近づき、それからまた、ジェットに向かってあごをしゃくった。
「これなんだが・・・」
テーブルの傍に立ったジェットを、もう一度見つめてから、刑事は、両手でそっと、そのシーツをめくり上げた。
乱れた銀色の髪。青白さを通り越して、紙のように、奥行きなく白い膚。唇も白っぽい青色に変わり、閉じたまぶたは、ぴくりとも動かない。
唇の端、右の頬骨、右の眉、そこには、明らかに殴られた跡が見えた。左側から、背伸びをしてのぞき込むと、右の耳に、縫合された跡があり、耳の皮膚は、焼けただれていた。
ジェットは、奥歯を噛んで、唇を引き結んだ。
叫んだり、泣いたりしないように、こみ上げるすべてを、ゆっくりと、飲み下した。
「・・・間違いないかね?」
それがくせなのか、刑事は、またジェットを、上目遣いに見た。
そちらにちらりと視線を流して、困惑している、戸惑っている、そんな表情を、わざと頬に浮かべて、ジェットは、軽く首をひねって見せる。
「全部、見せてもらえますか。」
目の前の、まだシーツに覆われたままの盛り上がりに、かるくあごを向ける。
刑事が、はっきりと眉を寄せ、薄い嫌悪を、口元に刷いた。
「子どもが、見るもんじゃない。」
視線が、その、呼吸をしない顔の上で、絡み合った。
「ちゃんと、間違いないか、確かめたいだけです。」
声を震わせずに、ちゃんと、言えた。
刑事は、ジェットに、痛々しい視線を投げてから、投げやりに、シーツを全部剥ぎ取った。
鉛色の右腕が、現れた。
何をされたのか、数ヶ所、何かで切ろうとしたような跡があり、肩に近いところは、それがいちばんひどい。腕の一部は、完全にえぐれている。
全身に、小さな火傷の跡が点々と見えた。
黒に近い色合いの、大きな打撲の跡が、全身にあって、数ヶ所は明らかに、骨が折れているように見える。
ゆっくりと、足元まで、歩いて、眺めた。
爪先に視線をやって、そうして、爪が全部剥がされていることに気づく。
思わず、口元が凍った。
足元から回って、反対側にゆくと、左手の爪も、全部剥がされていることを確かめた。
足首と、手首に、細い線が残っていて、何か、細いひもか針金で縛られていたのだろうと、思う。
同じような線が、首にも残っていた。
「歯も、何本か折れてるよ。」
刑事が、抑えた声で、付け加えた。
「どこで、見つかったんですか?」
教えてくれるだろうかと思いながら、尋いた。
刑事は、煙草を吸うような手つきをしながら、ジェットからは目を反らしたままで、質問に答えてくれた。
「隣の街の外れの、牧草地の端の方だ。猫の死骸も一緒に捨てられてたんだが、心当たりはあるかね。」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
聞こえないように、乱れた呼吸を整えて、また、訊いた。
「三毛猫ですか? 赤い首輪の・・・」
「首輪は、どうだったかな。」
証拠に関わることなのか、刑事は、言葉を濁した。
「猫の、死体は?」
声の震えが、どうしても、止まらない。
「保健所に引き渡したよ。写真は撮ったがね。」
刑事の横顔から、また、白い皮膚に視線を移して、もう一度、全身を眺めた。
「猫も、こんなふうだったんですか?」
握りしめた両手が震えていて、それを見咎められないかとは、もう、思いつけもしない。
「・・・尻尾が、根元から切り取られてて、耳も片方、なかった。顔の右側を焼かれてて・・・・・・それから、両目がえぐり取られてたよ。針金か何かで、そうやってから、絞め殺したらしい。」
全身の血が、一瞬で冷えた。
ザジを探して、おそらく、アパートメントの外へ出て、ザジを抱きかかえていた誰かを見つけ、声を掛けるアルベルトの姿が、まるで、見ていたように、目の前に浮かんだ。
「知ってるかもしれないが・・・猫の、似たような死体が、見つかっててね、それに、浮浪者が数人、こんなふうに殺されてるんだ。」
刑事が、黙っているのに耐えられないように、ゆっくりと言う。
ひとりではないだろうと、ジェットは思った。
数人だ。きっと。ザジとアルベルトを連れ去って、こんな目に遭わせた。きっと、楽しみながら。
楽しみながら。
ひどい死体だと、見下ろして、思った。
すぐ戻ってくる。そう言って微笑んだアルベルトを、思い出していた。
また、死体を、顔から爪先まで、ゆっくりと眺めて、それから、そこで視線を止める。
両脚の間に、力なく横たわったペニスを、ジェットは、じっと眺めた。
そこもおそらく、痛めつけられたのか、皮膚が、青く色を変え、見覚えのある、ジェットの記憶のそれとは、違って見えた。
できるなら、そこに顔を伏せて、口づけて、そこから命を吹き込めたらと、願う。何度も何度も、触れたのに。触れるたび、熱くなって、応えてくれたのに。
冷たいからだ。
上着のポケットに手を入れ、指先につまんだ、ザジの名札を取り出した。
小さなハートの形のそれを、指の間に見つめて、それから、もう開くことはないまぶたに、強く視線を当て、刑事の視線を背中で遮って、ジェットは、その名札を、アルベルトの、鉛色の掌に乗せた。
死体が、アルベルトであることを確認して、署名した書類に、張大人の店の電話番号を連絡先として記して、ジェットは、警察を後にした。
ようやく昼を少し過ぎたばかりの時間で、街の中心は、妙にざわめいている。
そう言えば、ダウンタウンにひとりで来るのは、久しぶりだと気づいた。
小さな店ばかりが並んだ、本来のダウンタウンである古い通りは、以前ジェットが、そこにたむろしていた頃と同じように、昼間だと言うのに、どこか暗い雰囲気で、うろつく連中も、目を伏せて、何かを探しているような、そんな視線をさまよわせている。
浮浪者が、何人か殺されているという、刑事の言葉を思い出していた。
同じ連中---ジェットはもう、犯人はひとりではないと、決め込んでいた---がしたことという、確証はないけれど、アルベルトとザジを殺した連中に、いつか巡り会えるに違いないと、ジェットは思った。
こうして、外をうろついていれば、いつか、会える。
いつか、絶対に、現れる。
足を止め、ぐるりと周囲を見回して、以前、馴染んでいた空気に、また、馴染もうとしてみる。
ここにいた。ここで、生き延びようとしていた。ひとりで。ひとりきりで。
できないはずはない。
意味もなく唇を舐め、ジェットは、暗い瞳を取り戻していた。
大丈夫だ、元いた場所に、戻って来ただけだ。
前よりも多分、もっと強くなって。
だって、今は、生き延びる理由がある。目的がある。
探さなければ。ザジとアルベルトを殺した連中を、探して、見つけなければ。
見つけて、それから。
表情が消えた。体の中から、熱さが消えた。全身の血は、とっくに冷えていたけれど、今は、皮膚から体温が奪われていた。ちょうど、死体になったアルベルトと、同じように。
ジェットは、暗い、ぞっとするような笑みを、口元に刷いた。それは、まるで張りついたように、そこにとどまり、二度と消えることは、ないように思えた。
ナイフを手に入れようと思いながら、以前、よくいた場所へ、くるりと向きを変え、足を向ける。
ジェットの、見た目の幼さのせいなのか、拾われることには、あまり苦労はしない。わざわざ、いくつだと聞く男たちもいるけれど、この男は、薄笑いを消さずに、特に何も言わなかった。
こんなことに、慣れているのかいないのか、ジェットを、自分の家に連れて行った。
背の低い、若い白人の男だった。
小さな家は、人の匂いがして、家族と住んでいるのだろうと、こっそり中を見回して思う。
いくらもらえるだろうかと、そればかり考えている。
金をもらったら、それで、ナイフを買おう。
そして、待って、探して、見つける。いつか、必ず。
「マリファナ、吸うか?」
ジェットは、薄く微笑んで、それを断った。
男は、別に気を悪くもせず、ジェットに、服を脱ぐように促した。
濃い、金髪。瞳の色が、暗い青であることに、ほんの少し、安堵する。
シャツを脱いで、あらわになった男の上半身に、ジェットは、数瞬、目を奪われた。
抱き寄せようとする男の腕に、ほんの少し逆らって、怪訝に自分を見下ろした男の、右腕に触れて、それから、右肩に、額を寄せる。
「・・・腕が、あるんだな。」
「なんだ、それ?」
おかしそうに、男が笑う。
何かの冗談だと思ったのだろうか、それ以上は何も言わず、ジェットの薄い体を、ベッドの方へ、くすくす笑いながら押し倒した。
触れられても、反応する様子のない自分の体に、ほんの少し驚きながら、ジェットは、男を満足させるために、腕を伸ばす。
そうして、背中から肩に手を滑らせて、そこにはない、あの、固い冷たい感触を、心の底から恋しいと思った。
アンタじゃ、ない。
吹き上げてくる涙を、必死に押し殺した。
ナイフを、買うんだ。
握りしめた拳の中に、その、ナイフの柄の感触を、引き寄せる。
その手が、血に塗れる様を想像して、ゆっくりと、勃起が始まる。
アルベルト。
名前を呼んだ。脚を開いたその間で、見知らぬ男が、動いていた。
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