路地裏の少年
4) 親
ジェットのいなくなった部屋で、ひとりで食事をし、ひとりで本を読み、ひとりでお茶を飲み、ひとりで眠る。
ひとりごとが多くなっているのに、アルベルトは気づいて、少しばかり淋しいと感じる。
電話は鳴らず、滅多と使われることもなく、電話のそばでほこりをかぶっている留守番電話の機械に、メッセージが残されていることもなかった。
親の元へ帰ったのだと、思う。
本来、14歳の少年がいるべき場所へ戻ったのだと、アルベルトは自分に言い聞かせた。
電話が鳴るなら、それは、ジェットが少しばかり弾んだ声で、オレ、大丈夫だよと、そう告げる声であるべきだった。
アルベルトは、ジェットを親の家へ送り届けた。正しいことを、果たすために。
ジェットから、まだ連絡はない。恐らくジェットも、親の下へ帰って、何が正しいことなのか、ようやく気づいたのだろう。
親子は、一緒に暮らすべきなのだ。ただ、親子であるという理由のために。憎み合っても、許し合えるからこそ、親子は一緒に暮らすべきなのだ。
ジェットはどうしているだろうかと、ふと思う。
話を、きちんとしているだろうか。別にアルベルトのことではなく、これから、彼らがどうするかということを、きちんと話し合っているだろうか。
それとも、親子と言うものの常で、言葉には出さなくても、顔を見ただけで分かり合えてしまうのだろうか。
ここに戻りたいと、ジェットが無言で言う。親たちは、そんなジェットの表情を見て、黙って、ジェットのいた部屋---もちろん、ジェットが出て行った時のままだ---を指し示す。
お休みなさい。また明日ね。
母親は、静かに、いつもと変わらない口調でそう言って、キスの後、ジェットを部屋に送り返すのだろうか。
ジェットは自分のベッドで、ひとりで眠り、目覚めれば、おはようと言って、朝食のテーブルにつけばいい。
いつもと同じ朝と、同じに。
きっとそんな生活を、少なくとも14年間繰り返して来ただろうジェットにとって、また同じ朝がひとつ重なる、というだけの話。
父親の顔は、変わったのかもしれない。小さな兄弟や姉妹---半分きり、血の繋がった---も、増えたのかもしれない。それでも、そこにはまだ、生みの母親がいる。
家族、とアルベルトは思った。
そんなものは、もうとっくに失くしてしまった。
ふふっと、悲しげに、アルベルトは笑った。
痛々しいと、以前張大人が、たどたどしい英語で、切なそうに、そう言った、笑い方。
淋しいと、アルベルトは、思った。
小さな、自分。
裸で、今のジェットよりも、もう少し幼い。
体中に、さまざまな器具が取りつけられていた。頭や胸から、周りを囲む大きな機械に伸びる、無数のコード。ピッピッと、耳障りな音が、緑色の線を機械の画面に描きながら、高く響く。
白衣を着た大人---男ばかりだ---たちが、数値を紙に書き込み、それについて、言葉を交わす。
何を言っているのか、アルベルトには理解できない。
今日は何をされるのだろうかと思った。
この間飲まされた薬は、ひどい脱水症状を起こした。死にかけるのは、いつものことだ。
そのための、彼らが特効薬と信じた薬は効きが、思ったよりも悪く、体中に、水分を補給するためのチューブを差し込まれた。
脳波を調べるために、髪はいつも剃り落とされている。もう、自分の髪の色さえ思い出せない気がする。
あちこちの血管に、血液採集のために針を差し込まれるため、いつもあざだらけだった。
軽い電気ショックの実験。脳にこんな刺激、あんな刺激、こんなやり方、あんなやり方。実験のための実験。彼らの、好奇心を満たすために行われる、さまざまな試み。
血の流れる、反応を返す人形。それがアルベルトだった。
殺さないように、死なないように、処置をされる。死ぬ寸前を記録して、彼らは、またアルベルトを蘇生させる。また、殺しかけるために。
麻酔を打たれて、眠らされた。
ああ、今日はまた、体のどこかを切り開いて、何かを埋め込むのか、何かを取り出すのか、何かを観るのか。何をされるのだろうと、思ったのが最後だった。
自分の体が、さまざまな実験に使われている、アルベルトが知っているのは、それだけだった。
何のための実験か、何故そんなことをするのか、誰のための実験か、そんなことは、もちろん何ひとつ知らされなかった。
誰が、実験用のモルモットに、そんなことを伝える必要性を認めるのだろう。
誰も。
アルベルトは食事を与えられ、体を洗われ、実験材料として、大事にされた。決して、保護の必要な子どもとしてではなく、彼がが、彼らのやりたいことを何でもやっても良いのだと、許可を与えられた実験材料として、大事にされた。
決して、傷つきすぎないように、死なないように、次の実験に耐える余地を残すように、大事にされた。
言葉を、人間と交わすのは、彼らの質問に答える時だけだった。
会話は、アルベルトの、そんな日常の中には存在しなかった。
閉じ込められ、隔離され、実験が行われる時にだけ、外に連れ出される。
太陽の下を駆け回れるのは、それが実験の一部である時だけだった。
時には、投与された薬のために、食事も水も、与えられないこともある。
裸に、布をくるりとかぶせただけのような、服とも言えないものを、ずっと着せられていた。靴も靴下も、与えられなかった。
実験体としてだけの、存在。
守ってくれるはずの両親は、すでにこの世にないことを、聞かずにアルベルトは知っていた。
ひとりぼっち。
泣いたのは、最初だけだった。そのうち、泣けば鎮静剤で無理矢理に眠らされるとわかって、泣くのすら、やめてしまった。
いつ、殺されるんだろう。いつ、死ねるんだろう。いつ、父さんや母さんに会えるんだろう。天国で。
考えるのは、そればかりだった。
ひとりぼっちで。考えることは、死ねる日のことばかりだった。
まだ、子どもだった。14歳のジェットよりも、背も低く、体ももっと薄く、笑うことも泣くこともなく、神経の通った肉体としてだけの存在として扱われていた、自分。
逃れられたのが幸運だったのか、それとも不幸だったのか、今もアルベルトは答えを出せずにいる。
こんなふうに、ひっそりと生きるために、誰からも顔を背け、笑顔も見せずに生きるために、誰かと関わることを恐れて生きるために、逃れたのか。
今は、死ぬ気力すらない。
生きる気力は、あるかどうか、定かではない。
生きるということは、呼吸をし続けるということではないのだと、アルベルトは体で思い知っている。
心を殺されてしまったのだと、認めてしまえば楽になるのだろうかと、考えることもある。
それでも、死んだと思いたい心は、時折、そのかすかな息吹の気配を、アルベルトに伝えてくる。
俺は生きてる。生きてる。
心の底からの声を、耳をふさいで、聞こえないふりをする。
けれどその声は、次第に音量を増して、今では、無視するのがひどく難しい。
小さな子どものアルベルトが、静かに唇を動かした。
どうしてぼくは、こんな目に遭うの?
その自分の姿が、ジェットに重なった。
どうしてオレが、こんな目に遭うんだよ?
抱きしめるために、伸ばした手が、空回った。
機械の右手を、不思議そうに見下ろして、周囲を見渡した時に、目が覚めた。
また、ひとりきりのベッドの中だった。
電話が鳴ったのは、ジェットが家に戻ってから、一週間ほど経った頃だった。
オレ、と電話に答えた瞬間に声が返ってきて、アルベルトは思わず、電話を握りしめた。
どうしてる、と尋くと、ジェットは答えずに黙り込んだ。
「オヤジがさ、アンタに会いたいってさ。」
「おやじ?」
「義理の方。」
電話を渡す気配があって、低い、大人の男の声に、電話が変わった。
ジェットの義父、ジェットの母親の現在の夫だと言ってから、男は名前を告げた。
ジェットが家を出て、アルベルトのところへ行くのに、問題はないけれど、一応会っておきたい。そういう趣旨のことを、男は簡潔に言った。
低い声で、きっかりと喋る話し方は、いかにも高い教育を受けた、社会的に認められた地位を持つ、男のもののように思えた。
電話はまた、ジェットに渡され、ジェットの声が小さく、耳に流れ込んでくる。
「今日、アンタ、来れるか?」
声に、どこか切羽詰まった響きがあった。
親が傍にいて話しづらいのか、送話器を手で覆っているような気配がある。
どこかちぐはぐな様子に、アルベルトは、電話を持ったまま、顔をしかめた。
「オレのこと、連れに来てくれるか?」
何があったのだろうと思いながら、それ以上は尋かずに、アルベルトは、ああと答えた。
「何か、持って行くものはないのか? 身分証明書だとか、履歴書だとか・・・」
言いかけたアルベルトを遮るように、
「いいから、来てくれよ。オレはアンタといたいんだ。」
叫ぶように、ジェットが言った。
言葉の最後に、女の声で、何か怒鳴る声が聞こえ、雑音が入り、電話は向こうから切られてしまった。
かけ直そうにも、ジェットの家の電話番号を知らないことに、やっと気づく。
電話を置いて、もしかしたらかけ直してくるかと、15分ほど待ったけれど、電話はそれきり鳴らなかった。
アルベルトは、思いつく限りの身分証明書と、ずいぶん昔に作った履歴書を乱暴に上着のポケットに突っ込み、アパートメントを飛び出した。
車に飛び乗って、街中に走り出す。
道を覚えていることを祈りながら、車を走らせた。
ずっと北に上がって、道が終わったら右。それから左。それから・・・?
かすかに見覚えのある家々を確かめながら、ジェットの名字さえ知らないことに思い当たる。
それなのに、ジェットは、アルベルトといたいと、電話で叫んでいた。
一体、何があったんだろう。また、思考は、あの電話へ戻ってゆく。
信号が青に変わるのを、らしくもなく、いらいらと待ちながら、アルベルトは、慌てて出て来たせいで、手袋をしていないことに気づいた。
ドイツ語で、罵り言葉を吐いて、アルベルトは思わず自分の頭を打った。
よりによってこんな時に。
よりによって、これから、ジェットの両親に会いに行く時に、この右手を隠すのを忘れるなんて。
手袋を取りに戻ろうかと、思った時には、もう北の外れに着いていた。
頭を振って、自分の迂闊さを責めながら、ついには投げやりに、もう、なるようになれと、もう一度吐き捨てるようにつぶやいた。
幸いに、迷わずに、見覚えのあるジェットの家に着いて、アルベルトは、前回と同じように、ドライブウェイに車を乗り入れて、駐車した。
2台、すでにそこに駐めてある車は、おそらくジェットの両親のものだろうと、アルベルトは思った。
車を出て、歩きながら呼吸を整える。
握手の習慣を、ジェットの義理の父親が無視してくれればいいがと、そんな都合のいいことを祈った。
ドアを開けようとした瞬間、中からドアが開いた。
ジェットが、泣き顔で、そこに立っていた。
飛びつくように抱きついてきたジェットを、よろけながら受け止めて、アルベルトは思わず、しっかりと抱きしめていた。
ジェットの後ろから現れた、長身の男が、苦虫をかみつぶしたように、そんなふたりを見ている。
白いワイシャツに、すこしゆるめたネクタイ。いかにも、仕事から帰ったばかりのように見える。
疲れた顔をしていて、それでもアルベルトを、品定めするように、じっと見ていた。
「ジェット、キミのお父さんと、話をするから。」
背中を軽く叩いてやると、少しだけまたアルベルトに抱きついてから、ジェットはようやく体を離した。
家の中へは招かれず、玄関に立ったままで、父親は、まるでアルベルトを中へは決していれまいとするかのように、そこに立ちふさがるように、大きく胸を反らしていた。
握手を求められなかったことに、こっそりと安堵して、アルベルトは、さり気なく、右手を背中の後ろに隠す。
「ジェットの、健康保険証、銀行のカード、月に一度、連絡をいただければ、必要なだけ入金する。学校の書類は、ジェットが、一緒に荷造りしてある。我々は、ジェットが君と一緒に暮らすことに、異議はない。」
アルベルトの前に、カードや書類を差し出して、極めて平たい、感情のない声で、男は必要なことだけをアルベルトに告げた。
アルベルトは、わかりました、とだけ短く言って、男と親しく話をする必要はないのだと、瞬時に空気を読み取った。
早く、ジェットを連れて出て行けと、男は言葉の外に言っていた。
自分の横で、上着をつかんで、無味乾燥な会話を聞いていたジェットに、アルベルトは静かに振り返った。
「荷物を、取っておいで。」
ジェットが、驚いたように、アルベルトを見上げる。
「一緒に、帰るんだ。」
ジェットの親に対する、些細な意趣返しだった。
帰る、とはっきりと言って、アルベルトはジェットの背中を押した。
ジェットは、弾かれたように、少し奥にある階段に向かって走り出すと、そのまま、上まで一気に駆け上がった。
アルベルトは、そこに父親と一緒に取り残され、けれど、あえて自分からは口は開かない。
受け取った小さなカードを、きちんと上着のポケットに入れて、アルベルトは、真正面からもう一度、男を見た。
ちらりと、ずっと奥に、女の姿が見えたような気がして、アルベルトはふと目を細める。
あれが母親なのだろうかと、視線をずらそうとすると、それに気づいた男が、それを妨げるように、少し肩を動かした。
それを怪訝に思って、視線を険しくする前に、ジェットが、大きなバッグをふたつ抱えて、下に降りてくる。
足元に、ぽんと置かれたバッグを指差して、これだけかと訊くと、うん、とジェットがうなずいた。
もう、ここには用はない。
バッグの、重そうな方を持ち、ジェットの肩を抱いて、アルベルトは、家の中に背を向けた。
静かに、憤りが身内を満たしていたけれど、それを外に出すのは、あまり適切でないように思えた。
ほんとうに、会っただけだったなと思いながら、アルベルトは、わざと静かにドアを閉める。
じゃあ、も、また、も、元気で、も何もない、簡単な別れ。まるで、1時間後には、ジェットはここに戻って来るとでも言うような、簡単な別れ。
車の後ろにバッグを放り込んで、アルベルトは行こう、とジェットに言った。
角を曲がって、家が見えなくなってようやく、ジェットが、大きく息をついた。
「ごめんよ、こんな急に呼び出して。」
ずいぶん素直だなと、驚いてジェットを見る。
「母さんが・・・ひどくて・・・オレ、あそこにいたら、また骨折るところだったんだ。」
また、と聞き咎めて、アルベルトが眉をひそめる。
「首に、跡残ってるだろ。首絞められたんだ。」
髪を少しよけ、首を傾ける。そこには、赤い細い筋が、3本並んでいた。
「オレさえいなきゃ、うまく行くんだ。オレさえ、いなきゃ。」
つぶやくように言ってから、ジェットは、不意にアルベルトの右腕を取った。
手袋をせずに、剥き出しのその手を見たのかどうか、アルベルトにはわからなかったけれど、ジェットは、そのまま腕を抱え込み、額をすり寄せた。
「泣いても、いいか?」
細い声だった。
車を止めるべきかどうか迷って、ああ、と答えたまま、けれどアルベルトは、そのまま片手で車を運転し続けた。
ジェットが、嗚咽をもらす。
子どもがやる、苦しげにしゃくり上げるような、泣き方。
アルベルトが、出来なかった、泣き方。
ジェットは、顔を伏せ、泣き続けた。
涙が上着をしみ通っても、その腕は、冷たさを感じることはない。それを、アルベルトは少しだけ残念に思った。
人気の少ない、ある日の午後だった。
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