路地裏の少年
5) 眠り
クローゼットとチェストのスペースを半分開け、ジェットが、そこに自分の衣類をしまった。リビングにある、大きな本棚の本を、少しばかりきつめに詰めて、ジェットの教科書を並べた。
それだけで、ジェットの引っ越しはすんでしまった。
もともと、持ち物の少ないアルベルトにアパートメントに、ジェットが何を運び入れたところで、それもたかが知れていた。
ジェットも、大した量の荷物は持っていなかったけれど。
「机が、いるな。」
リビングのスペースを眺めて、アルベルトが言った。
ジェットが唇をとがらせて、アルベルトを見上げた。
「いらないよ。アンタがジャマじゃないなら、キッチンのテーブルで充分だ。」
「あのテーブルでふたり一緒は狭すぎる。」
「じゃあ、アンタが勉強してる時は、コーヒーテーブルで勉強するよ。」
ソファの前の、背の低い---床に坐り込むことになる---細長いテーブルに向かって、ジェットがあごをしゃくった。
まあいいだろうと、言う代わりに、アルベルトはあごの先に、鉛色の指先を当てた。
アルベルトは、必要なもの、新しく買わなければならないもののリストを頭の中で作りながら、ジェットをキッチンのテーブルに坐らせて、紅茶をいれた。
新しいタオル、どうせそろそろ買い替えなければと思っていたところだ。
食器類、少し皿を買い足した方がいいかもしれない。
食料、朝食用と、ジェットが学校へ持って行くランチ用に、何か。それから、ミルクを少し多めに。
アパートメントの合鍵、ジェットのために、スペアキーをまた作らないと。
それから、と思って、アルベルトは、ひとりで眉をひそめた。
まあいい、それについては、また後でゆっくり、ジェットの意見も聞こう。そうひとりごちて、アルベルトは、熱い紅茶をジェットの前に置いた。
「朝は、何時に出るんだ?」
紅茶に息を吹きかけながら、湯気越しに、ジェットが言った。
「そこの角に学校のバスが来るのが、8時10分のはずだから、8時にここを出る。」
すでにテーブルに出してある、ジェットの学校からの書類を手に取って、アルベルトは、紙の上に視線を滑らせた。
指先で、幾行かをなぞりながら、ふん、と言った。
「じゃあ、7時前に起きて、シャワー、朝食、出発か。」
もともと、夜更かしをするタイプではないけれど、これからは、ジェットのために、今まで以上に規則正しい生活を強いられるのかと、アルベルトは少しばかり苦笑する。
「帰って来るのが・・・3時半か。」
大学の授業の時間割りを思い浮かべながら、アルベルトは、ジェットの生活に重なる部分を数えてみた。
週のどの日も、夕方遅く帰って来るアルベルトは、ジェットの帰りを待つことは、あまりなさそうだった。
慌ただしい朝と、夕食の時間。それから夜。週末は、もしかするとジェットは、親の家に戻るかもしれない。アルベルトは、まず確実に勉強で忙しい。
思ったよりも、あまり互いと過ごす時間はなさそうだと、アルベルトはそれを意外に思った。
マグを、手の中で遊ばせながら、ジェットが突然言った。
「オレ、学校に、あんまり戻りたくない。」
目を伏せ、突き出した唇が見える。
ここに戻って来て、やや元気を取り戻したように見えても、やはりまだ、顔色が悪い。
アルベルトは、軽くため息を滑り落とした。
「まあ、楽しみでしょうがないとは、思ってない。でも、読み書きくらいは出来た方がいい。学校に行けば、少なくとも、時間つぶしにはなる。」
「アンタは、学校行ってて楽しいのか?」
「いつもいつも、楽しいわけじゃない。でも、楽しい時もある。」
大学自体が楽しいわけでは、決してなかった。勉強をするのが苦痛にならないアルベルトにとって、あそこがいちばん居心地のいい場所だという程度に過ぎない。
それでも、ジェットを学校へ送り込むためには、少しばかりの脚色が必要らしかった。
「読み書きが出来れば、少なくとも、本が読める。本が読めれば、知識が増える。」
「知識が増えたら、なんかいいことがあるのか?」
下らない質問だったけれど、真理をつく、鋭い問いだった。
アルベルトは、ふっと薄く笑い、リビングの、大きな本棚の方へ視線をずらした。
「知識が増えれば、自分が誰だか、知りやすくなる。そうすれば、悩むことが減る。」
そんなことは信じられないと、ジェットの瞳が言っていた。
詭弁ではない。アルベルトが、そう信じているというだけのことだった。今はまだ、ジェットにわからないなら、わからなくてもいい。
アルベルトがまた微笑むと、ジェットが、ひるんだようにあごを引いた。
「学校に行く、努力だけはしてくれよ、頼むから。」
わかった、と、どこか投げやりにジェットが言った。
シャワーを浴びて終わって、濡れた髪を振って、アルベルトはタオルに手を伸ばした。
湯気でくもった鏡に、うっすらと映る自分の姿が見える。
輪郭はおぼろでも、体の部分の色の違いは、はっきりとわかる。
暗い灰色の、右腕と右肩。胸の右の部分も、ほとんどが、同じ色の金属板で覆われている。
今日は一日、この手を隠さなかったなと、アルベルトは思った。
ジェットを迎えに行って、手袋をし忘れ、そのまま、今の今まで、掌が剥き出しなことさえ気にもとめなかった。
ジェットが、時折ちらちらと見ていたような気がするけれど、それでも何も言わなかったのは、好奇心よりも、薄気味悪さの方が勝ったということなのだろうか。
ジェットの義理の父親だと言うあの男は、この手を見たのだろうか。見て、それでも何も言わずに、自分と出て行くジェットを止めなかったのだろうか。
いや、とアルベルトは思った。
おそらく、あの男は、アルベルトすらまともに見てはいなかったろう。いつか街ですれ違っても、見覚えのある他人とすら思わないかもしれない。
姿さえ見せなかった、ジェットの母親。
首を絞められたと言って、ジェットが見せた赤い跡。
一体何があったのだろうかと、またアルベルトは思った。
自分に14歳の息子がいて、その息子が、いきなり他人と一緒に暮らすと言って、自分は果たして無関心でいられるだろうか。その相手のことを、少なくとも知っておきたいと思うに決まっている。
ジェットの親たちの冷淡さを思い出し、血の繋がった親が、あんなにも自分の子を疎ましく思うことが可能なのだろうかと、アルベルトは、少しばかり吐き気を覚えた。
他人の家庭の事情は知らない。知るつもりもない。それでも、14歳という、大人には程遠い年齢の少年が、赤の他人と暮らすと言うのに、こちらの身元を知りたがるふうもないのが、解せないのを通り越して、不審でさえある。
アルベルトはまた、頭を振った。
何よりも、ジェットと暮らすと決めた自分が、いちばん不可解なのかもしれない。
腕のことを知られるのを恐れながら、こんなに近くに、人を寄せ、手元に置こうとしている。
今さら、何をしているんだと、自分に問う。
同情なのか、憐憫なのか、それともひとりの心細さに、何かがつけ入ったのか。
くもった鏡を、タオルで拭いた。
自分の姿が、くっきりと現れる。
何かを、かすかに期待している自分がいる。何かが起こるのを、心待ちにしている自分がいる。
冷静に、それでも踊る心が、どこかにある。
こんな自分は知らない、とアルベルトは思った。
自分を探すために本を読む。そう言ったのは自分なのに、本の中には見つけたこともない自分が、今はここに立っている。
ジェット、とアルベルトは、小さくつぶやいた。
あれはもしかすると、いなくなってしまった、子どもの自分なのだろうか。
どこかで見失ってしまった、子どもの自分なのだろうか。
違う、とアルベルトは頭を振った。
唇を歪めて、ひとりで笑う。
あの子どもは、もう、永遠に失われてしまっている。どこにもいない。見つかるはずがない。
ジェットが自分のはずはない。そうひとりごちて、アルベルトはようやく、タオルで濡れた体を拭いた。
何となく不機嫌に、アルベルトは、特に何も言わずに、おやすみとそれだけ言って、ジェットをリビングに残してベッドルームへ入った。
まだ濡れたままの髪にもかまわずベッドに入ると、わざと枕をベッドの真ん中に置いて、すぐに眠ってしまおうと目を閉じる。
10分もしないうちに、ドアが開いた気配があった。
足音を殺して、小さな気配がベッドの傍へ来る。
アルベルトは、聞こえないように、深く息を吸った。
「オレ、ここで寝てもいいか?」
だめだと言ったら、もしかすると泣き出しでもするだろうかと、少しだけ意地悪な気分になる。
アルベルトは体を起こし、毛布を持ち上げて、ジェットに、隣りに入るように促した。
何となくふたりで、並んでヘッドボードに寄りかかったまま、まだベッドには横にならずに、明かりのない部屋の中で、そうして黙り合っていた。
アルベルトは、右腕を、ほんの少し持ち上げた。
「俺の手が、気味悪くないのか?」
ジェットが、何を言っているのだろうという表情を見せて、軽く頭を振る。
「だってアンタ、その手でオレを殴ったりはしないだろ。」
確かに、この手で誰かを殴れば、痛いどころではすまないだろうと、初めて気づく。
人の手が、殴るという機能を持ち得るとジェットに認識させたのは、一体誰なのだろうかと、アルベルトは、姿を見損ねた彼の母親のことを、ちらりと思った。
手は、触れるためにある。ものを持ち、握り、運ぶ。手と手は、繋がれるべきものであって、殴り合うためのものではない。
少なくとも、そんな類いの暴力は、アルベルトの日常にはなかった。
もっとも、握り合う誰かの手が、傍にあったことも、ないけれど。
ジェットが、胸の前で膝を抱えた。
「キミの、お母さんは------」
言いかけたアルベルトを遮って、ジェットが、おかしげに笑った。声を立てて。
「だめなんだ、オレがいると、あの人は。」
あの人、という言い方が、突き放した言葉にも関わらず、ひどく淋しげな音に聞こえる。
「目ざわりなんだってさ。別れた親父を思い出すから、オレなんかいない方がいいんだってさ。」
ジェットに向かって、叫ぶ声。赤くはれた頬。喉に伸びた指。皮膚に食い込んで、跡を残す。
そんなものが、目の前をよぎった気がした。ジェットの上にのしかかる、女の顔は、相変わらず白い輪郭だけだったけれど。
「オレは別に、母さんに殺されてもいいけど、母さんが刑務所に行かなきゃならなくなるからさ。」
「死にたいのか?」
まるで、自分自身に問うように、アルベルトはジェットに訊いた。
体を前後に揺すりながら、ジェットは、涙をためた目を、アルベルトに向ける。
「生きてて良かったなんて、思ったこと、一度もない。」
傷。アルベルトが抱え込んでいる、傷。おそらく一生癒えることのない、傷。深くえぐられ、醜い様を晒している、傷。その傷が今、目の前にあった。傷ついた少年の姿をして、アルベルトの目の前にいた。
アルベルトは、静かに息をしながら、背骨の奥から這い上がってくる痛みを耐えようと、ぎりぎりと奥歯を噛んだ。
「そうだろうな。」
痛みをやり過ごし、そんなことはおくびにも出さず、穏やかな声で、まるで、いい子だと、子どもに言う時の口調のように、アルベルトは言った。
受けた暴力の種類は違う。それでも、ふたりとも、同じように傷ついている。
ジェットが欲しいのは、自分を殴るためではなく、優しく触れるために伸ばされる手だった。
その手が、母親や他の誰の、生身の手でもなく、アルベルトの、生身ですらない、受けた暴力の結果としてある、この醜い鉛色の手だというのは、とんだ皮肉だと思う。
この手は、けれど少なくとも、人を殴るために造られたわけではないのだと、アルベルトは思った。
「寝よう。」
短く言って、アルベルトは、ジェットの肩を、右手で軽く叩いた。
体を倒すアルベルトにつられたように、ジェットも、目元を着ているシャツの袖で拭って、アルベルトの傍にひっそりと体を横たえる。
それきりふたりとも何も言わず、きしりとも、ベッドも音を立てなかった。
しばらく経ってから、そろそろと、ジェットの両手が、アルベルトの右腕に触れた。
その腕を抱え込み、車の中でそうしたように、また額をすりつける。
じきに、腕にかかるのは、ジェットの細い寝息になった。
アルベルトは、奇妙に冴えた頭のすみで、ジェットを安心させる、自分の醜い機械の腕のことを考えた。眠りはまだ訪れず、重く落ちかかる闇の中で、腕にかかるジェットの呼吸の数を数える。
ジェットのために、もうひとつベッドを置こうか、それともこれより大きなベッドに替えるべきか、ジェットに尋こうと思っていたことを、不意に思い出して、今は、このままでいいかと、アルベルトは、自分に向かって小さくつぶやいた。
空気の薄い、闇の濃い、真夜中近くの夜だった。
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