路地裏の少年


6) ぬくもり

 食事を作るのは、それほど苦にならない。けれど、誰かのために作るとなれば、話は違ってくる。
 自分の食べたいものだけを、食べたい時に作るわけにはいかず、一応、その誰かのために、自分が空腹でなくても、食事の用意をすることになる。
 今さら料理の勉強をするとはな。
 ひとりごちて、下のレストランの張大人からもらったレシピを、アルベルトは冷蔵庫のドアに、マグネットで止めた。
 愛情込めれば、何でもおいしいアルよ。これ、料理の基本ネ。
 愛情、と言われて、思わず苦笑を返す。
 確かに、誰かのために作り、誰かと食べる食事は、ひとりのそれよりも、数段ましな味がするような気はする。
 ひとりでもかまわない。けれど、ふたりもそう悪くはない。
 とりあえず、作り慣れたものを作り、ジェットがいやがれば、もう2度とは作らない。あまり深くは、考えないことにした。
 意外に好き嫌いは少ないらしく、一度、ブロッコリーを、遠慮がちに皿のすみに残した以外は、ジェットはいつもきれいに皿を空にした。路上生活の名残りなのか、喉を通れば、何でも良いということなのかもしれない。
 そのブロッコリーも、伏し目に、小さな声で、
 「これ、残しても、いいか?」
と、アルベルトに尋いた。アルベルトは、うっすらと苦笑を浮かべて、ああ、と答えた。
 自分では食べないけれど、ジェットのために、チョコレートチップのクッキーを一箱。それから、朝を簡単にすませるために、シリアルの大きな箱。自分のためには、ドイツ人の経営するデリカテッセンで、何も入らない、ただ丸いだけのクッキーを買ってきた。ついでに、ランチ用のサンドイッチのために、ハムを幾種類か薄く切ってもらい、ニュージーランド産のチーズを買う。
 アパートメントに上がる前に、張大人の店に寄って、豚肉のローストを分けてもらった。
 大学の帰りに、片手にいっぱいの買い物をする。ひとりなら、こんなことはしない。
 ふたりというのは、こういうことなのかと、アルベルトは、小さな変化をひとつびとつ、数えるように、かすかに楽しんでいた。
 ふたり分の皿を、アルベルトが洗い、ジェットが拭く。
 キッチンがきれいになり、テーブルが空になれば、後はお茶をいれて、それぞれが、したいことをするだけになる。
 近いうちに、ジェットと一緒に、大きなスーパーマーケットに行って、必要なものを買い込んで来ようと、アルベルトは、冷蔵庫の中を覗き込みながら、頭のすみにメモをした。
 キッチンのテーブルでは、アルベルトが勉強をし、リビングのコーヒーテーブルでは、ジェットが床に坐り込んで勉強する。
 たいていは、アルベルトが帰って来るまでに、宿題を終わらせているので、アルベルトが夜、勉強をしていれば、ジェットは邪魔をしないように、リビングで音量を下げたテレビを、ぼんやりと見ている。
 時折、何か宿題や課題でわからないところがあれば、アルベルトに質問した。
 学校のことは、ほとんど話もせず、どうだと訊いても、まあまあ、と返事を返すだけだった。
 ジェットが戻って来て、最初の2週間は、そんなふうに、静かに過ぎていった。


 珍しく、課題の提出のない週で、アルベルトは、久しぶりに教科書以外の本を読んでいた。
 リビングのソファの横になり、もう何度も読み返した、お気に入りの本を、また読んでいる。
 今日はキッチンで、ジェットが宿題をしていて、数学の問題に手間取って、夕食の後も、時折小さな声で何かつぶやきながら、ノートに顔を埋めていた。
 ゆっくりと、もう何度も読んだ文章を、時折、またぺージや段落の最初に戻って読み直しながら、アルベルトは、以前読んだ時にはあまり注意を払わなかった表現に、ふと目を止める。そこを何度か読み返し、また段落の最初に戻って、読み直す。
 そんなことを繰り返して、なかなか進まないのを、ひとりで楽しんでいた。
 キッチンで、ぱたんを本を閉じる音がし、それから、ばさばさと紙のすれ合う音がして、ジェットが、ようやく宿題が終わったのか、ジーンズのポケットに手を突っ込んで、アルベルトの傍へやって来た。
 視線を上げ、本越しに、自分の目の前に立ったジェットを、ふと見上げた。
 「終わったのか?」
 うん、とジェットがうなずいて、ソファとコーヒーテーブルの間に、腰を下ろす。
 「アンタ、何読んでんだよ? また学校の課題か?」
 「いや、今日のは、純粋な読書だ。」
 大学では、論文を書くために、大量の本を読む。もちろん全部を読むわけではないけれど、少なくとも、自分の書くテーマに添っていると思われる部分を探して、10冊、多ければ30冊近く、本を目の前に積み上げることになる。
 本を読むのは苦にならないけれど、目次を斜め読みし、自分の求めている部分だけを拾い読みするのは、何となく、著者を馬鹿にしているような気分になる。
 本を読むために本を読むのではなく、知識の断片を拾うために、並べられた文字を拾う。それは読書ではなく、ただのデータのかけらの収集だった。
 それをいやだと思えば、大学の授業さえ受けられない。
 だからこの国には、いい本が少なく、本の好きな人間が少ないのだと、心の底でいつも思っている。
 アルベルトはまた、ページの上に視線を戻した。 
 ジェットが、床から体を起こし、横になったアルベルトの、腹の辺りに腰を下ろした。
 アルベルトは、何をしているのだろうと、下目にそれを見て、けれど何も言わず、ジェットのために少しだけ体をソファの奥にずらして、そのまま本を読み続けた。
 「それ、おもしろいか?」
 本の背表紙に手を伸ばして、ジェットが訊いた。
 「ああ、おもしろい。」
 短く答え、今度はジェットの方を見なかった。
 「何が書いてあるんだよ。」
 言いながら、ジェットは、ゆっくりと体を倒した。
 本を抱えた方の、アルベルトの左の二の腕に軽く頭を乗せ、ふたりが並んで横になるには、少しばかり奥行きの狭いソファに、胸と背中をぴたりと合わせて、ジェットは横になった。
 アルベルトは、ジェットの行動に驚きもせず、もう少し体を奥にずらして、ジェットがソファから落ちないように、その薄い腰に腕を回して、自分の方へ引き寄せさえした。
 「ポルノグラフィーと、人間の性文化の関連について、書いてある。」
 今は表情の見えないジェットの、首筋の辺りが、なんだ、というふうに揺れた。
 「いかに人間の男と女の在り方が、ポルノグラフィーによって規定されてるか、書いてある。」
 「ぜんぜん、なに言ってんのか、わかんねえ。」
 「読めばわかる。」
 アルベルトは、くすりと笑って、ジェットの頭を撫でた。
 肉の薄い体は、体温も低いのか、ジェットはいつも寒そうに肩を縮めている。今も、こんなに近くに触れ合っていて、アルベルトは、ジェットの体を暖かいとは感じなかった。
 ジェットの、裸足の指先が、アルベルトの足首の辺りに触れた。
 アルベルトの右腕を取り、自分の胸の前へ回す。その腕を抱え込み、ジェットは小さな声で言った。
 「アンタ、どうして、オレになんにもしないんだ?」
 ようやく、本から完全に目を離し、アルベルトはジェットの方へ視線を移した。
 「どういう意味だ?」
 ジェットが、アルベルトの腕に、あごを埋める。
 細い首筋が、目の前に見えた。
 「アンタ、オレがきらいなのか?」
 ぱたんと、音を立てて本を閉じ、その本で、アルベルトはぽんと自分の頭を軽く叩いた。
 「嫌いな人間と、一緒に住むと思うのか?」
 ジェットの息が、そうして眠る時と同じように、アルベルトの腕に暖かく当たる。
 薄い肩が、痛々しいほど、儚く見えた。
 「だってアンタ、オレになんにもしない。」
 ジェットの言っている意味をわかっていて、アルベルトはどう答えていいのかわからず、ジェットがもっと何かを言うのを、黙って待つ。
 ジェットは、もぞもぞと体を動かして、もっと近くに寄ると、首を伸ばして、自分の頭越しにアルベルトを見上げた。
 「女じゃなきゃ、ダメなのか?」
 稚ない貌で、ひどく大人びた事を言う。数学の問題は解けなくても、こんなことは知っている。
 どうして子どもを、無邪気な子どものまま、放っておかないのだろう。
 受けた親切の代わりに、自分の躯を差し出せと教えたのは、一体誰なのだろう。
 ジェットに見えなくて良かったと思いながら、アルベルトは瞳を伏せて、小さくため息をこぼした。
 こうして、近くに体を寄せ合って、それがいやなわけではない。
 ジェットが自分に触れてくるのを、はねつける気もなかった。
 けれどそれが即、ジェットと寝たいということにはならない。第一、そんなふうに、ジェットを見たことすらない。
 こんなやせっぽちな、男の体臭も女の体臭もしない躯を、おそらくそれゆえに押し開いた連中がいるのだと思うと、胸の奥で吐き気がする。
 親に与えてもらえないぬくもりを、ジェットはただ、何の他意もなしに、他人に求めているに過ぎない。けれどそれを、躯を繋げることと結びつけて考える連中がいるのだという現実が、アルベルトには鬱陶しかった。
 アルベルトは、ジェットが抱え込んでいた腕を抜き取り、ジェットの頭を撫でた。
 「そういうことは、キミが気にすべきことじゃない。俺が誰と寝るとか、そういうことは、キミには関係ないだろう。」 
 「でもオレは、アンタがやりたいなら、女の代わりもできる。」
 「やりたくないし、女の代わりもいらない。」
 途方に暮れたように、ジェットは目を伏せた。
 ようやく、それ以上言いつのるのをやめ、ジェットは体を起こすと、ソファから立ち上がり、アルベルトを振り返った。
 「オレ、風呂はいる。」
 短く言って、会話の語尾の名残りを、残らず消そうとするかのように、肩をすくめ、また本を開こうとしたアルベルトの手を、取った。
 「背中、洗うの、手伝ってくれよ。」
 ふと、視線が、宙で絡む。
 そのくらい、してくれたっていいだろうと、ジェットの瞳が言っていた。
 アルベルトは黙って本をソファに置き、ジェットの手に引かれて、ゆっくりと立ち上がった。
 手をつないだまま---まるで、捕まえていないと、逃げてしまうからとでも言うように---、ふたりはバスルームへ行き、ジェットはタブの中に湯をため始めた。
 細長いその空間の中で、アルベルトは腕を組んで、事の成り行きを見守っていた。
 アルベルトの目の前で、ためらいもせずに服を脱ぎ、下着から足を抜く。
 背中を向けたままでバスタブをまたいで、ジェットは、湯の中に入った。
 背骨の浮いた背中。肩甲骨が盛り上がり、肩の骨もくっきりと見える。
 愛情からではなく、こんな薄っぺらな体に欲情できる人間の存在が、いっそう信じ難い。
 湯の中に坐ったジェットの背中に、アルベルトは手を伸ばした。
 シャツの袖をめくり上げ、湯の中に手をひたす。
 体を洗うスポンジに石鹸をつけ、言われた通りに、背中を流してやる。乱暴にやると、皮膚が剥がれて、骨が折れてしまいそうだった。
 濡れないように、首筋に左手を当て、赤い髪を少し持ち上げる。
 アルベルトの片手で、へし折れてしまいそうな、骨ばった首筋だった。
 洗うのに、1分とかからない、小さな細い背中。湯につかって、少しばかり赤みが増している。
 頼むから、もっと太ってくれよ。アルベルトは、手を動かしながら思った。
 不意に、ジェットが体をねじって、アルベルトの腕をつかんだ。
 真っ直ぐに、アルベルトを見つめていた。ジェットには珍しい、強い視線だった。
 「オレ、アンタが、好きだ。」
 声が、かすかに震えていた。
 アルベルトは、視線を反らさずにジェットを見返して、湯の中に、泡だらけのスポンジを落とした。
 もう、言うべき言葉も見つからず、白くにごり始めた湯で、手の泡を流し、アルベルトはジェットから視線を反らさないまま、ゆっくりと立ち上がった。
 アルベルトが動くにつれて、ジェットの視線も動く。首が伸び、床近くから、アルベルトを見上げることになる。
 不意に、ジェットは勢いよく湯の中に立ち上がり、アルベルトに飛びついてきた。
 はずみで後ろに体が傾き、アルベルトはジェットを抱いたまま、洗面台のそばに倒れ込んだ。
 「ケガさせる気か?」
 しがみついてくるジェットを、片手で抱き返して、アルベルトは、少しだけ怒った声で言った。
 ジェットの濡れた体は、湯のせいか熱く、けれど服の上からよりもいっそう細い。
 「アンタが、好きだよ。」
 アルベルトの胸に顔を埋め、ジェットはまた同じことを言った。
 アルベルトはもう、隠す気もなく、大きくため息をついた。
 「アンタ、オレがきらいか?」
 ジェットの裸の背中に回っているのが、機械の方の腕であることに気づいて、けれど、腕をかえようとは思わなかった。
 「きらいじゃない。」
 「じゃあ、好きか?」
 慌ただしく、ジェットが質問を重ねる。アルベルトはまた、ため息をこぼした。
 「頼むから、あんまり急がないでくれ。キミが俺を好きなら、気持ちはありがたく受け取っとくよ。でも今は、それだけで勘弁してくれ。」
 言い逃れだったけれど、それ以外、言い方も思い浮かばなかった。
 14歳の少年に、寝ようと言われて、うかうかと申し出に乗るほどろくでなしでもない。
 第一、とアルベルトは思った。
 女とすら、寝たことがないのに。
 動かないジェットの薄い体を、邪険に押しやることもできず、アルベルトは、骨張った背中に今度は両腕を回した。
 求めているのは、躯の繋がりではなく、単純なぬくもりなのだと、求めている本人が気づかない。ひどい話だ。アルベルトはそっと心の中でつぶやいた。
 床に坐り込んで、ふたりはそうして、黙って抱き合っていた。
 湯気が次第に、色を失くしてゆくのが見える。
 ふたりが出逢って、一月が過ぎていた。水曜日の夜だった。