路地裏の少年


7) 熱

 雨の多いこの街で、けれど4日も降ったりやんだりが続くのは珍しい。
 濃い灰色の、低く垂れ込めた空を、表通りに向いた窓から見て、ジェットがぶつぶつと文句を言っていた。
 おとといから続いていた微熱が、今日は微熱以上に上がってしまったらしく、アルベルトは、やっとの思いでジェットを学校へ送り出すと、今日はもう、大学へは行かないつもりで、またベッドに潜り込んだ。
 雨の日には、部屋全体が湿っぽく、生ぬるい空気が膚に重い。冷たい毛布の下で、必死に少しでも気分の良くなる姿勢を探そうと、アルベルトは何度も体を反転させた。
 肩の辺りが、きしりきしりと、そのたび音を立てるような気がする。
 湿気のせいなのか、こんな天気が続くと、いつも機械の部分が錆つき始めるような、そんな気持ちになる。
 腐り落ちた、失った腕と同じに、この機械の腕も、いつか錆ついて、ぼろぼろに朽ち果てるのだろうかと、ふとそんなことも思う。
 アルベルトは、静かに目を閉じた。
 眠りはゆるやかにやって来る。それは、緩慢な死に似ている。
 二度と目覚めないことが恐くて、必死に、起きていようとしたこともあった。繰り返し打たれた鎮静剤や、手術の前の麻酔、眠りは、そんなものを思い出させる。
 ひとりで、久しぶりにベッドに横たわり、アルベルトは、閉じたまぶたの裏に、白く塗られた、この部屋の天井の色を、ふと思い浮かべた。
 ここは、自分の部屋だ。誰にも見張られてはいないし、誰も、ここへ突然入って来ることもない。
 閉じ込められているわけではない。外へ出たければ、いつでも自由に外へ出掛けられる。
 好きな温度でシャワーを浴び、好きなだけ、湯の中へ浸かり、好きなタオルで水滴を拭って、好きな服を着て、好きな靴を履いて、外へ出ることができる。
 誰に話しかけようと、誰を無視しようと、黙っていようと、歌を歌おうと、咎められることはない。好きにすればいい。
 何もかも、ひどく自由だ。
 そこでぽつんと、アルベルトは立ち尽くしている。
 自分の回りで流れてゆく時間を、ぼんやりと眺めている。
 何をしているのだろう。救われた命は、けれど救われる価値があったのだろうか。
 12歳の子どもの絶望が、大人のそれよりも深いはずはないと、誰に言えるのだろう。
 生きたいと、生きていて良かったと、心の底から思ったことは、ない。けれど、死ぬ気力はない。
 ただ何となく、呼吸を続けていれば、体は生き続ける。脳はものを考え、心臓は血を送り、神経はさまざまなことを感じ続けている。
 心は、とアルベルトは思った。
 心は生きているのか? 心は何をしている? 委縮して、縮こまったまま、まるでひざを抱えた子どものように、その身を小さくしたまま、どこかで、かろうじて息をしているのだろうか。
 失ったのは、腕だけではない。 
 肩からぶら下がったまま、死んでしまった、あの腕のように、心も黒く変色して、死んでしまったのだろうか。
 腐り落ちたのは、腕だけではない。心も、この体のどこかから、腐り落ちて、死んでしまったのだろうか。
 喉を大きく反らして、熱い胸の辺りに、アルベルトは湿った冷たい空気を送り込んだ。
 呼吸の数を数えながら、眠りの淵に手をかけ、それでもそこへはまだ落ちてゆけず、アルベルトは、切れ切れに考え続ける。
 あの、子どもの自分は、今どこにいるのだろう。
 服も靴もなく、太陽を浴びることさえ出来ず、閉じ込められたまま、自力で逃げることさえ叶わず、横たわった体に、差し込まれるメスの光。切り刻まれ、縫い合わされ、まるで、人形のように、手はここに、足はこちらに、皮膚の色と素材はこれで・・・機械の手を、アルベルトはきつく握りしめた。
 涙さえ流すこともなく、あの頃も、流れる時間---それさえ、目には見えなかったけれど---の中で、呆然とたたずんでいた。
 無力な子ども。
 今は、無力な大人でしかない。
 明確な意志は、あの腕とともに腐り果て、今は、この機械の腕のように、硬く冷たい残骸が、どこかにごろんと転がっているだけだ。
 何がほしい? 何がしたい? 何になりたい? これから、どうしたい?
 そう問いかけても、声は、空の胸の中に、虚ろに響くだけだった。返事はない。
 大人になった自分は---放っておいても、年齢だけは刻んでゆく---、絶望した子どもの、残滓なのだろうか。
 体ばかり大きくなった、空の中身。埋めるものすら見当たらず、埋める術も知らず、空ろは大きくなるばかりだった。
 体を横に向け、ひざを胸に寄せて、アルベルトはまるで胎児のように、ようやく暖まってきた毛布の下で、体を丸めた。
 頬ばかり火照って、首から下は、氷に包まれたように冷たい。
 寒い、と思わず肩を震わせてつぶやいた。
 肩を丸め、着ているシャツの首回りから、体温が逃げてゆくのを、なるべく防ごうとしてみる。
 ひとりきりだと、ふと、痛烈に感じた。
 あの頃と同じように、今もまだ、ひとりきりだ。
 誰もいない。誰ともいない。弱った体を横たえて、ひとりでいる。
 頭の後ろの辺りが、鈍くうずいた。
 枕の端を握りしめ、思わず目元に押し当てた。
 このまま、死ねたらいいのに。
 もう、目覚めることもなく、死んでしまえたらいいのに。
 誰も、悲しまない。誰も惜しまない。誰にも見送られず、このまま、息絶えてしまえればいいのに。
 あの時、死んでしまうはずだった。生き永らえたのは、幸運ですらなかった。
 体の苦痛の後には、心の苦痛。人生は、すでに拷問でしかない。
 残された人生の長さに、アルベルトはぞっとした。
 目が覚めたら、死んでいるかもしれない。
 そうなら、どんなにいいか。
 それでも、死の苦痛は恐ろしかった。
 死は、もうあまりにも身近にいすぎて、恐れさえない。けれど、死のもたらすだろう苦痛は、子どもの頃を思い出させる。全身に鳥肌が立つほど、それは恐ろしかった。
 眠るように、死ねるのだろうか。いつか。
 それともまた、苦しんで死ぬのだろうか。
 散々自分に使われた薬や、実験のせいで、アルベルトは、自分が長生きはしないだろうと感じていた。
 いつか、ふと病気になり、それはもちろん、実験の後遺症で、そのせいで自分は死ぬのだろうと、思っていた。そう思って、そしてまだ、生きている。
 人生は、苦痛の連続でしかない。
 その苦痛の中で、アルベルトは、死にながら生きている。
 空ろな体は、それでもまだ、呼吸を続けていた。


 額に触れられ、アルベルトは、不意に目を覚ました。
 うっすらと微笑んだジェットが、目の前にいた。
 「アンタ、ずっと寝てたのか?」
 額に置かれた手に、首を伸ばして、また額をすりつけ、アルべルトはかすれた声で、ああ、と答えた。
 「学校、終わったのか?」
 ああ、と今度はジェットが答えた。
 「なんか、食うか、飲むか?」
 骨の細い、薄い手首の皮膚に、血管が透けて見える。アルベルトは、掌の生暖かさに、ふと、微笑した。
 「ミルク、飲むか?」
 ジェットが、まるで声をひそめるように、奇妙に静かに訊いた。
 「もう、明日のシリアル分しか、残ってない。」
 「いいよ、どうせオレ、あとで買い物行くからさ。ミルク、飲むか?」
 アルベルトは、口元だけで笑って見せ、だるそうにうなずいた。
 ジェットが視界から消え、また、毛布に顔を埋める。
 またジェットが戻って来て、目を閉じていたアルベルトの肩に触れた。
 ミルクの入ったグラスを差し出され、アルベルトは、ようやく体を起こすと、その冷たいグラスを受け取って、渇いた喉に、一気にミルクを流し込んだ。
 熱で渇いた体に、するりと冷たい液体が、染み通ってゆく。
 アルベルトは、大きく息をついた。
 「熱あんのか?」
 ジェットが、空になったグラスを取り上げ、ベッドの端に腰を下ろす。
 口元を拭いながら、ああ、とまたアルベルトは短く答えた。
 「雨が降ると、肩が痛むんだ。」
 「機械の方?」
 「ああ。」
 雨のせいで、ずっと薄暗かった部屋に、ジェットが入って来た途端に、その髪の赤さのせいで、ふと明かりがともったように見える。
 ジェットが動くたびに、淀んでいた空気が動き、体温と室温がまざり合う。頬の上に、その流れをかすかに感じた。
 動き、音、気配。自分ではない、何か別のもの。それは、害意も敵意も持たずに、そこにいる。
 不意に視界が明るくなったような気がして、アルベルトは、なぜかほんの少し照れた。
 ジェットは、立ち上がる様子もなく、床の方へ垂れた両足を、ベッドのわきでぶらぶらさせている。
 アルベルトから視線をずらして、ジェットが言った。
 「オレさ、なんか買ってくるから、アンタ、いるもん、ある?」
 アルベルトは、ゆっくりと首を振った。
 「ミルクくらいだな。」
 「アンタ、薬飲んだのか?」
 薬と言われて、思わず頬が硬張る。
 はっきりと、それが顔に出たのか、ジェットが少しだけ、ひるんだようにあごを引いた。
 「薬は、嫌いなんだ。」
 感情のこもらない声で、それだけ言うと、ふん、とジェットが鼻を鳴らす。
 ジェットの機嫌を損ねたのかと、思わずアルベルトは、上目にジェットを見た。
 ジェットは、表情の読めない顔つきで、自分の言ったことが、アルベルトのどこかに刺さったらしいと、それだけはわかっているらしかった。
 キミのせいじゃない。そう言ってやれればいいのにと、アルベルトは思ったけれど、唇は開かなかった。
 「夕食は、作れそうにないから、張大人のところにでも行けばいい。」
 むりやり微笑みを浮かべて、ようやくそれだけ言う。
 ジェットが、わざとらしく唇を突き出した。
 「なんだよ、オレが料理なんかできっこないって思ってんのか。」
 「宿題があるだろう。」
 ようやく、いつものアルベルトらしい声で言うと、ジェットが、ふと安堵したように口元をゆるめた。
 「じゃあ、下に行ったら、アンタ用に、スープでももらってくるよ。」
 ああ、いいな、と逆らわずに、アルベルトは言った。
 「すぐ、戻ってくるから。」
 ベッドから、弾みをつけて飛び降りると、ジェットはジーンズの後ろのポケットに手を差し込み、上体を突き出すようにして、アルベルトに振り返った。
 にいっと笑って見せてから、白くなった空のグラスを片手に、ばたばたと部屋を出て行く。
 不意にまた、部屋が静かになった。
 頭の、鈍い痛みは、ほとんど消えていた。
 眠りに落ちる前に、頭の中を占めていたことは、熱が下がると一緒に、どこかへ消えてしまったようだった。
 またどうせ、そのうち戻って来るにせよ。
 アルベルトはまた、毛布の下に潜り込んだ。
 目を閉じても、暗い闇は、今度はやっては来なかった。


 目覚めると、薄暗い部屋の中に、またジェットがいた。
 「張大人が、お大事にってさ。」
 まだ、ぼんやりした視界を、軽く頭を振って、はっきりさせようとする。
 「今、何時だ?」
 「8時を、ちょっと過ぎたくらい。」
 「宿題は?」
 「終わったよ。スープ、飲むか?」
 優しい声音で、ジェットが訊いた。
 アルベルトは、ゆるく頭を振った。
 「今はいい。もう少ししたら、起きる。」
 明日は大学へ行けるだろうかと、そう思った時、不意に、ジェットが、アルベルトの上に、体を倒してきた。
 あ、と思う間もなく、冷たい唇が、重なってくる。
 頬に添えられた両手は、もう、大人のそれと同じほど大きかったけれど、冷たく、そして薄かった。
 抵抗はしなかった。唇を重ねるくらいなら、子どもでもやることだと思えば、それくらいならいいだろうと、まだ熱っぽい頭のすみで思う。
 両腕を投げ出したままでいると、唇を重ねたまま、ジェットの手が、下に伸びた。
 もう一方の手は、肩口から、シャツの下に入り込もうとする。
 慌てて体を起こして、アルベルトは、ジェットの肩を強くつかんだ。
 「何のつもりだ?」
 いきなりはっきりした声で言うと、ジェットが、目つきをきつくして、アルベルトをにらんだ。
 「アンタはおとなしくしてろよ。オレが勝手にやるから。」
 「いいって、言わなかったか?」
 「アンタだって、気持ちいいの、きらいじゃないだろ? 目つぶって、前に抱いた女のことでも考えてろよ。」
 ジェットは、アルベルトの腕を払い、まだ、アルベルトのシャツの胸元に手を伸ばそうとする。
 「なんか、アンタのために、やらせろよ。アンタ、オレに、なにもやらせてくれない。」
 泳いだジェットの手首を、今度はしっかりと捕まえた。
 ジェットの目を、正面から見て、アルベルトは、声を低くして、けれど威圧は込めずに、言った。
 「俺は、誰とも寝ない。今までも、これからも。だから、頼むから、やめてくれ。」
 ジェットが、冷水を浴びたような表情になって、もがいていた手を止めた。
 「冗談だろ、アンタ。」
 声が、急に子どもっぽくなる。
 「やったことないって、女とも、男とも、誰とも?」
 ジェットが一言言うたびに、アルベルトは、同意を示して小さく首を振った。
 両腕を下ろし、肩を落として、引き結ばれたアルベルトの唇の辺りを、ジェットは呆然と見ている。
 「なんで?」
 訊く声が、震えていた。
 アルベルトは、背中を丸め、あごを胸元に埋めた。ぱさりと落ちた前髪の向こうに表情を隠して、今まで、誰にも言ったことのなかったことを、初めてはっきりと言葉にした。 
 「子どもを、作りたくない。相手に、何か病気を伝染すかもしれない。それに、もしかすると、出来ないのかもしれない。」
 「病気かなんかか?」
 アルベルトは、力なく首を振った。
 「昔、子どもの頃、いろんな薬を使われた。実験体だったんだ。死ぬ前に、助け出されて、この国に送られた。」
 ジェットが、息を飲む音が聞こえた。
 深く息を吸って、アルベルトはまた続けた。
 「俺の体が、どうなってるのか、だから誰にもわからない。俺も、知らない。」
 「その腕も、その実験のせいなのか?」
 アルベルトは、右腕を持ち上げ、自嘲するように、唇を歪めた。
 「人間の体を、短時間で腐らせる細菌を、研究してたらしい。その実験に、右腕だけ、使われた。それから、今度は、戦争で手足を失くした兵士のための義肢の開発で、こんなものを着けられた。」
 赤く腫れ上がり、それから、黄色に変わった。気絶するほどの痛みの後、紫色がもっと濃くなって、指先から真っ黒に変色した。
 小指と薬指が最初に腐り落ち、残った指の、それぞれの先を失ってからようやく、アルベルトの腕は、肩から切り落とされた。
 また、死ぬ手前で引き戻され、今度は、機械の腕を装着された。
 腕の出来映えに比例するような、生体部分との拒絶反応に散々苦しんだ後、助け出されたのは、もう、アルベルトが15になろうとする頃だった。
 アルベルトは、ようやく顔を上げた。
 言葉を失くして、ジェットが、弱々しく視線を投げてくる。
 アルベルトは、大きく息を吐いて、首を振った。
 ジェットが、そっと、アルベルトの頬に触れた。それから、伸ばした腕を、首に巻きつけた。
 「なんにもしない・・・抱きつくぐらい、いいだろ。」
 アルベルトは、ひどくゆっくりと、目を閉じた。
 ジェットの背中に、触れることを怖がるような、そんな仕草で、両腕を回す。
 体温の低いからだ。それでも今は、暖かかった。
 抱き合って、ふたりは息を殺していた。
 ジェットが、アルベルトの髪を撫でて言う。
 「スープ、冷めるぜ。」
 アルベルトは、ジェットの肩の上で、首を振った。
 「いい、冷めたら、また暖め直せばいい。」
 思わず、ジェットの背中を抱いた腕に、もっと力を込める。
 「このままで、いてくれ。もう少しだけ。」
 細い体は、アルベルトの腕なら、肋骨くらい、簡単にへし折ってしまえそうだった。
 その薄い胸に顔を埋め、アルベルトは、自分の首に回ったジェットの腕を、ひどく大事なものに感じた。
 何をしているのだろう。誰かを、この腕に抱きしめている。空っぽだった腕の中に、誰かがいる。そして今、ふと、してみたいことがあった。
 アルベルトは、ジェットの胸に向かって、小さな声で言った。
 「泣いても、いいか・・・」
 返事の代わりに、ジェットの指先が、アルベルトの首の後ろを撫でた。
 涙は、頬に流れる前に、ジェットのシャツに吸い込まれた。
 小さく広がる染みが、頬に冷たい。
 アルベルトは、声を殺して泣き続けた。
 雨の降る、夜だった。