路地裏の少年



8) 父と息子

 そうと、はっきり口にしたわけでもなれば、互いに確認し合ったわけでもなかったけれど、ふたりの間の距離は、少しずつ小さくなっていった。
 ジェットが学校へ行く前に、アルベルトの唇に軽く触れてゆくキスも、バスルームで、ジェットの背中を流してやる時に、ジェットがアルベルトに触れるやり方も、ソファに、ふたり並んで寝そべるのも、恋人同士のそれでは決してなく---少なくとも、アルベルトにとっては---、肉親に与えてもらえない愛情を、互いにねだっているだけのように見えた。
 恋ではなく、好意でしかない。
 それでも、求めれば手に触れるぬくもりは、ごく自然に、ふたりの距離を縮めていった。
 まるで、生まれたばかりの子猫が、一緒に生まれた兄弟と体を絡め、まるで毛糸玉のように眠るさまと、それはよく似ていた。
 暖かさがなければ、死んでしまう、その小さな命は、互いにぬくめ合いながら、必死に生き抜こうとする。
 アルベルトとジェットが、ふたりで生き抜こうとしていたのかどうかは、よくわからなかったけれど、それでも、死ぬよりは、いいこともあるのかもしれないと、ふたりは口に出さずに、そう思い始めていた。
 今は、ひとりぼっちではなかったから。
 木枯らしに吹かれた落ち葉が、かさかさと音を立てて身を寄せ合うように、ふたりは、世界の中で、互いに向かって手を伸ばし、その掌を重ねようとしていた。
 掌。薄く、骨張った白い掌と、生身ではない、鉛色の金属の掌。
 手を繋いで、それからふたりがどこへ行くのか、ふたりにもわからなかった。
 互いの暖かさが、ふたりの、それぞれの世界を、ずいぶんとましなものにはしてくれていたけれど、繋いだ手が離れてしまうことを、ふたりは考えずにはいられない。
 ふたりは、親と子ではなく、兄弟でもなく、血のつながりはなく、友人とも言い難かった。
 ほんとうに、動物のように、ふたりは寄り添っていた。
 アルベルトが、ジェットの寝息を背中に感じて眠るのに慣れ、ジェットの頬に、いつも薄く笑顔が浮かぶようになった頃、電話が鳴った。


 ジェットの父親だと名乗ったその声に、聞き覚えはなく、ついに名前を訊き損ねてしまったままの、ジェットの義父の顔を思い浮かべてから、アルベルトは、覚えている彼の声よりも、かなり甲高い、落ち着きのない話し方に、思わず眉を寄せる。
 そうしてから、まさか、と思って、ジェットを振り返った。
 ジェットは、いつものように床に坐り込んで、宿題と格闘の真っ最中だった。
 「ジェット、お父さんだ。」
 受話器を差し出しながらそう言うと、ジェットは面倒くさそうな仕草で立ち上がり、アルベルトの方へやって来て、サンクスと言いながら電話を受け取った。
 Helloと言ったその後すぐに、ジェットが、息を飲んだ音が背中に聞こえた。
 振り返って、おそらく石のように硬くなった肩の線を確かめようとして、アルベルトはやめた。
 ひそめた声で、短く、ああ、とか、うん、とか、そんな返事だけを返すのが、ようやく聞こえる。
 リズムに乗らない会話を、それでもあちら側が引き伸ばそうとしている、そんな気配があった。
 じゃあ、その時に。そう言って、ジェットは電話を切った。
 うなだれるように、手元の電話を眺めやって、唇を固く結んだ横顔に、憎悪の色が一瞬浮かぶ。見間違いかと思って、目を凝らそうとした時に、ジェットが、アルベルトの方を見た。
 電話の方へ、首を傾けて、一瞬前の表情など忘れたように、
 「親父だよ、生みの方。」
 そう、わずかに笑みを浮かべて言う。
 道理で声に聞き覚えがなかったはずだと思いながら、ジェットの頬に浮かんだ笑みと、さっき見えたような気がした憎悪の色が、どうしてもアルベルトの中でしっくりせず、訝しげな表情は消さないまま、アルベルトは、ジェットが続きを言うのを待った。
 「土曜の夜に、会おうってさ。」
 「キミと?」
 「ああ、1年ぶりだ、声なんか聞くのも。」
 1年間も連絡を取り合うことのない親子というのは、一体どんなものなのだろうかと、アルベルトはふと考える。
 ジェットから読み取れるのは、少しばかりの戸惑いと、照れらしいものと、それから、ほんの少し、何故か怯えのように思える、そんな表情だった。
 厳しい父親だったのだろうかと、過去形で考えながら、ジェットの義父の顔を、アルベルトはおぼろに思い出そうとする。
 ジェットの顔立ちから、生みの父親だと言う男の顔を思い浮かべてみようとしてから、そうしたくても、もう片方の、母親の顔すら知らないことに思い当たる。
 ああ、そうだったと苦笑をもらして、またリビングへ、宿題の続きのために足を運んでゆく、ジェットの薄い肩を見ていた。


 土曜日に、ジェットは朝からそわそわと落ち着かず、何度注意しても、しきりと両手の爪を噛んで、それから、いつも紅茶を飲む時に使う大きな厚いマグを、2度も床に滑り落とした。
 落ち着かせるために、午後の、あまり遅くない時間に、ジェットの好きなクッキー---砂糖の固まりのような、チョコレートチップクッキー---をテーブルに並べて、ふたりでゆっくりと紅茶を飲んだ。
 緊張して神経質になっている時には、糖分の摂取も悪くない。そう言いながら、普段は見向きもしないその類いのクッキーを、おどけた表情で、アルベルトは1枚食べて見せた。
 「キミの両親が離婚したのは、いつだったんだ?」
 そんな、他人の個人的なことには、いつもなら興味すらないけれど、ジェットが、何となく話をしたがっているように感じて、アルベルトは、言葉を選びながら質問してみた。
 「オレが、八つの時。ケンカばっかりしてたの、覚えてる。夜、眠れなくてさ、ふたりが下で大声で言い争いしてて、いろんな音が聞こえて、オレ、怖かった。」
 テーブルに頬杖をついて、マグカップに手を添えたまま、アルベルトは、聞いてるよ、という仕草をした。
 「母さん、もっと早く別れたかったけど、オレが生まれちゃったから、ガマンしなきゃらなかったんだって、いつも言ってた。だから母さん、オレのこと、嫌いなんだ。」
 吐き捨てるようにではなく、淡々と感情を込めずに言われると、言葉がいっそう真実味を帯びてくる。
 子どもを生むこと、生ませることは、単に起きてしまった事象に過ぎない。その先の、親になるということは、起きてしまうことではなく、本人が、意識を持って行うことだった。
 少なくともジェットの母親は、ジェットを生みはしても、ジェットの親になる気はなかったようだった。
 それとも、ジェットの首に跡を残すような暴力が存在しても、それでも彼女は、ジェットの親として、最大限の努力をしたのだろうか。
 親の元を、自ら逃げ出さなければならない子どもを、不幸だとアルベルトは思う。
 誰にはばかることなく、触れ合って愛し合える、そしてたまには憎むことさえある、そんな家族としての時間を、与えられる間もなく、そこから逃げ出さなければ、自分の身が危ないと感じる子どもたちのことを、アルベルトは不幸だと思った。
 「・・・・・・親父に会うの、怖い。」
 ぼそりと、いきなりジェットが言った。
 「どうして? お父さんも、キミのことを殴ったのか?」
 ジェットが、ふと瞳の動きを凍らせてから、それから、思い出したように、激しく首を振った。
 だったら、とアルベルトは言った。
 「きっと、キミがお母さんとじゃなく、俺と暮らしてるのを、心配してるんだろう。会って、話をするのも悪くないさ。」
 1年も会うことのなかった父親に対して、照れているのか、すねてでもいるのか、どちらだろうか、それとも両方かもしれないなと、アルベルトは、不意にまた暗さの増したジェットの瞳から、するりと視線を外しながら、思った。


 ダウンタウンの、少し外れにある、比較的大きなレストランで会うというので、アルベルトは、ジーンズは仕方ないにせよ、シャツだけは、前ボタンの、少しはめかし込んで見えるものを、ジェットに着せた。
 「デートじゃあるまいし。」
 「似たようなもんだ。大事な人に会うのは、相手が誰だろうと、デートだと思った方がいい。」
 「アンタ、デートのエキスパートみたいなこと言うな。」
 唇をとがらせて、それでも茶化すように言うジェットの、首のボタンを上まできっちりとめてやりながら、アルベルトは少し笑って見せた。
 薄いクリーム色のシャツは、ジェットの髪の赤を、いっそう燃える色に見せる。裾をきちんとたくし込み、袖のボタンをとめ、これもまた、普通のジャケットがないのを、少し残念がりながら、アルベルトはデニムの上着---アルベルトが選んで買った---をジェットの肩に乗せる。
 少なくとも、親に会いに行く、普通の14歳の少年に見えることを確認して、アルベルトは、よし、と言う代わりに、ジェットの肩をぽんと叩いた。
 時計に目をやり、約束の時間まで30分足らずなことを確かめてから、アルベルトは、自分も上着を取って、車のキーが、ポケットの中でじゃらりと音を立てたのを聞いた。
 「そろそろ行こう。遅れない方がいい。」
 ジェットの父親は、自分に会いたいとは言わなかったのだろうかと、ずっと思っていたけれど、ジェットがそれについて何も言わないので、会わなくてもいいのかとは、アルベルトは言わなかった。
 ジェットの母親同様、案外と、ジェットが誰と暮らそうと、ジェットが安全でさえあればそれで充分だと、親というものは思うものなのかもしれない。
 ジェットに会えば、少なくとも多少はましな生活をしているのだと、わかってもらえるだろうかと、アルベルトは思った。
 ジェットの肩を押して、ドアの外に出て、アルベルトは鍵を閉めた。
 階段を降りてから、張大人のレストランのキッチンへの入り口の前で、ジェットは足を止め、ふとそちらへ視線を流す。
 引きはがすように体を回し、建物も裏へ通じる扉を開けるジェットの背中を、アルベルトはじっと見つめた。
 車をゆっくりと走らせながら、人通りの多い、週末の街の中を、アルベルトはぼんやりと眺める。ジェットは、助手席で、また神経質に爪を噛みながら、車の中のあちこちに、うろうろと視線をさまよわせている。
 雨がぽつりぽつりと降り始め、レストランに着く頃には、路面はもう、真っ黒に濡れてしまっていた。
 駐車場に車を入れ、さて、とジェットに振り向くと、アルベルトはジェットの赤い髪を撫でた。
 「お父さんによろしく。」
 ジェットが、少し間を置いて、うんとうなずいて、それから、車のドアに手をかけた。
 その背に向かって、
 「帰りは、電話をくれれば、迎えに来るから。」
 そう言うと、ジェットは、ドアを開ける前に、思い出したように振り返って、アルベルトの首に手を伸ばした。最近はいつも、出掛ける前にそうするように、唇に触れるだけのキスをする。
 すっと体を離して、何も言わずに車を飛び出すと、小降りの雨の中を、レストランの入り口に向かって走って行く。
 その背が、いかにも洒落たデザインの、ガラスの扉の中に消えてしまったのを見送って、アルベルトは駐車場から出るために、また車を動かした。
 雨足は強くなるばかりで、激しく動くワイパーに合わせて小さく視線を動かしながら、アルベルトは、何となくアパートメントにまだ戻る気にならず、ゆっくりと車を、来た時とは違う方向へ向ける。
 雨をよけて、小走りに行く人たちを眺め、いつもよりもゆっくりと流れる、車の群れを眺める。
 ジェットはもう、父親と一緒にテーブルについているのだろうかと、ふと思った。
 表通りを少しそれ、道を曲がってまた表通りに戻って来ると、アルベルトはふと思いついて、小さなコーヒーショップに車を駐めた。
 土曜のせいか、これから出かけるための待ち合わせなのか、中は比較的混んでいて、カウンターで紅茶を受け取り、アルベルトは窓際の席に腰を下ろした。
 紙コップに入った、熱い紅茶を、ティーバッグを取り出さないまま、一口飲んだ。
 舌を焼くほど熱く、色は濃かったけれど、あまり香りはしない。ミルクの味を舌の上でより分けながら、そう言えば、ひとりで紅茶を飲むのは久しぶりだと気づく。
 紙コップを、小さな丸いテーブルに置くと、テーブルの上に腕を組んで、アルベルトは窓から外を眺めた。
 通りは明るく、路面は黒い。
 流れてゆく人々は、例外なく、ふたり連れか3人だった。ひとりで歩いている人影は見当たらない。
 ぼんやりとそれを眺めて、そんな中に紛れたことすらないのだと、思う。
 週末に出かける先は、大学の図書館に決まっていたし、誰かに誘われることがあっても---そんなことは、滅多になかった---、いつも困惑の笑みを浮かべて断ることにしていた。
 人嫌いだと言われれば、その通りだと否定もせず、好意を持って近づいてくる誰をも、ずっと避け続けていた。
 ひとりに慣れれば、それを淋しいとも思わなくなる。誰かに想われることは、戸惑いしか生まず、その先にあるのが失望だと思えば、誰かの想いを受け入れる気になど、到底なれない。
 それでも、ジェットといることに慣れ、今は、こうしてひとり、こんな場所で外を眺めながら、ジェットのことばかり考えている。
 1年も会わなかったのなら、つもる話もあるだろう。ジェットはともかく、父親の方には、訊きたいことが山ほどあるに違いない。
 元気だったか。学校はどうだ。友達はできたのか。成績はどうだ。先生とはうまくやってるのか。母さんはどうしてる。新しい家族はどんな調子だ。また背が伸びたな。髪が長すぎないか。何か必要なものはあるか、欲しいものはないか。
 ジェットの父親は、アルベルトのことも尋くのだろうか。ジェットは、どう答えるのだろう。
 オレのことはきらいじゃないって言うけど、オレには手を出さない。
 まさか、そんなことを父親に向かって言うはずもないのに、真面目な顔でそんなことを言うジェットを想像して、アルベルトは聞こえない笑いをもらした。
 右手が義手で、あんまりしゃべらなくて、いつも本ばっかり読んでる。
 あたりさわりのないことを言おうとすれば、その程度のことしが伝えられないなと、自分で思う。
 もしかして、ジェットの父親は、ジェットと一緒に暮らそうと、そんなことを言うために、ジェットに会いに来たのだろうかと、唐突に思いついて、アルベルトは、思いもかけず狼狽した。
 母さんと一緒にいないなら、そんな他人の、どこの馬の骨ともわからない男のところにいるより、父さんと一緒に暮らそう。
 どうしてそのことに気づかなかったのだろうかと、アルベルトは思った。
 そうか。
 もちろん、その方がいいに決まっている。血の繋がった父親と暮らすのに、何か不都合があるとは思えなかった。
 やっぱりそうなるのかと、アルベルトは思う。
 もう、舌を焼く熱さのなくなった紅茶を、また一口すする。
 馴染んでしまった頃、ジェットは去ってゆく。
 ふたりに慣れ、互いの空気を、互いにまとい始めた頃、ジェットは、ゆくべき場所へ行ってしまう。
 今夜、車の中でそれを告げられるのか、それとも、眠る直前か、それとも、なかなか言い出せずに、1週間も待たされるのか。
 父さんが、一緒に暮らそうって。オレ、だから、行くから。
 少しうつむいて、罪悪感を肩の辺りに漂わせて、けれど、嬉しさを隠しきれずに、アルベルトにそう告げる。
 アルベルトは微笑んで、ジェットの肩を叩き、良かったじゃないかと、大人の表情で言う。
 茶番だ。アルベルトは、頭の後ろでひとりごちた。
 行ってほしくないと、思った。
 ジェットが、父親と暮らすことを選ぶなら、それを止めるつもりはない。それでも、行ってほしくはなかった。
 やっと、ふたりになれたのに。
 初めて、ジェットが、自分の中に大きく育っていることに気づく。
 思っていたよりも、ずっと大きく。
 ジェットの、もう戻って来ることのないアパートメントを思っただけで、アルベルトは、右肩が痛むような気がした。
 熱を出して寝ていても、もう、ジェットが水やミルクを運んで来てくれることもない。額に掌を乗せ、その熱さを計ってくれることもない。張大人のレストランへ行き、ジェットのために、中国菓子をあれこれ選ぶ楽しさも、なくなる。
 またいずれ、ひとりには慣れるだろう。元に戻るだけのことだった。
 けれど、またひとりに平気になるまでの、淋しさを想像するだけで、すっと体が冷えてゆく。
 物思いから浮き上がって、店の時計に振り返ると、もう1時間も過ぎていた。
 すっかり冷えてしまった紅茶を、舌の上に苦く転がした。


 雨はやむ様子もなく、裏口の扉の鍵を開けながら濡れてしまった肩を払い、アルベルトは、きゅっきゅと濡れた靴の音を立てながら、静かに階段を上がった。
 張大人に、声くらい掛けようかと思ってやめ、そのままアパートメントへ向かう。
 薄暗い廊下を数歩歩いてから、アルベルトは、ドアの前に坐り込んでいる、ジェットを見つけた。
 驚いて、思わずあごを引き、そちらへ近づく前に、アルベルトを認めたジェットが、まるで突っ込んで来るように、アルベルトに走りより、弾みをつけて抱きついた。
 「濡れてるじゃないか。」
 どうして部屋に入っていなかったのだろうかと、不審に思いながら、すっかり濡れてしまっている赤い髪に、掌を乗せる。
 ジェットは、何も言わず、アルベルトの胸に顔を埋めたまま、肩を震わせていた。
 父親と、口論にでもなったのだろうかと思いながら、しがみついたジェットを、引きずるようにしてドアへたどり着き、アルベルトは片手で鍵を開けた。
 中に入りながら、どうしたんだ、と尋くと、ジェットが、顔を伏せたままで首を振る。
 何でもない、ということなのか、話したくない、ということなのか、どちらともわからず、まだ離れようとしないジェットの背中に、アルベルトはそっと両腕を回した。
 「お父さんに送ってもらったのか?」
 ジェットが首を振る。
 これだけ濡れているなら、あのレストランから歩いて帰って来たに違いなかった。
 コーヒーショップで過ごした1時間が、悔やまれた。電話をするように言ったのはアルベルトだったのに、ジェットは電話に出ないアルベルトに焦れて、雨の中を、ひとりで歩いて帰って来たのだろう。
 「悪かったよ。もっと早く帰って来ればよかった。」
 素直にそう口にすると、またジェットが激しく首を振る。
 「お父さんと、ケンカになったのか?」
 そう言った途端、レストランで起こったことを思い出したのか、ジェットが、堰を切ったように、声を出して泣き始めた。
 しゃくり上げ、肩を大きく揺らして、泣く。
 湿ったジェットの背中を抱いたまま、アルベルトは、落ち着くまではと、好きに泣かせることにした。
 「頼むから、オレのこと、イヤだって言わないでくれよ。アンタにイヤだって言われたら、オレ、汚いままだ。オレ、死んじまいそうだ。」
 アルベルトのシャツを握りしめた指先が、白くなっているのを、下目に見ながら、アルベルトは、ジェットの言葉の意味を受け取ろうと、ふと目を細める。
 「オレ、汚いままだ。アンタがイヤだって言ったら、オレ、一生このままだ。」
 「何のことだ?」
 「オレのこと・・・・・・頼むから、きれいにしてくれよ。」
 「ジェット?」
 「オレのこと、汚くないって、言ってくれよ。」
 「キミが汚いなんて、一度も言ったことないだろう。」
 「・・・・・・頼むから・・・・・・アンタが抱いてくれたら、オレ、きれいになれるような気がするんだ。でないとオレ、死んじまう!」
 叫ぶように言ったジェットが、ようやく、涙で濡れた顔を上げる。
 今まで、アルベルトに迫った時とは違う、切羽詰まった表情が、そこにあった。
 「言ったろう、オレは、キミとだけじゃなくて、誰とも寝ないって。」
 「わかってる、わかってる、でも、アンタじゃなきゃ、ダメなんだ。アンタが抱いてくれたら、オレ、親父のこと、忘れられる。親父がオレにしたこと、忘れられる。頼むから、オレのこと、汚いままにしとかないでくれよ。頼むから・・・・・・」
 ジェットに、そこまで言わせて初めて、アルベルトは、ジェットの言葉の意味をようやく悟った。
 なんてこった。口の中だけでつぶやいて、アルベルトは、ふと頭の中を空白にした。
 一瞬、何も考えられず、ジェットの父親が、ジェットに与えた暴力の形を思って、吐き気がした。
 いつ始まったのか、いつ終わったのか、何をしたのか、何をされたのか、一度きりだったのか、それとも何度もだったのか。
 初めてジェットに逢った夜のことを思い出した。
 ジェットに覆いかぶさっていた男。そんなふうに、ジェットを痛めつけた大人たちの中に紛れる、ジェットの父親。
 顔を知らないことを、初めてありがたいと思った。見知った顔なら、ほんとうに、その場に吐いてしまっていたかもしれなかった。
 息子じゃないか。血の繋がった、自分の息子なのに。
 そんなことが可能なのかと、ジェットの細い体を抱きしめて、思った。
 ジェットはまだ、アルベルトにしがみついて泣いていた。
 こんな気になることは、一生ないと思っていた。なるべきではないとも、思っていた。
 自分の腕の中にいるジェットが、言葉にできないほど憐れで、そしていとしく、傷ついて、死にかけた心を抱いているジェットに、手を差し伸べるべきなのだと、思う。
 鋼鉄の、醜いこの右腕であっても。
 ジェットをまた、力をこめて抱きしめて、アルベルトは、静かに決心した。
 ジェットの髪を撫で、頬に、右手を添えて上向かせると、アルベルトは初めて、自分からジェットの唇に触れた。
 唇が離れ、不意のアルベルトのキスに、泣くことも忘れ、濡れた目で自分を見上げているジェットに、アルベルトは、薄く笑みを刷いて、言った。
 「シャワーを、浴びよう。」
 世界のどこかで、何かが割れる音がした。そんな夜だった。