DNT、竜のシェーンコップと魔術師のヤンの似非ファンタジー。

本の森の棲み人 2

 黒髪の魔術師には予知の能力もあるのかどうか、今日訪れたシェーンコップの前へ差し出されたのは、皿に乗った焼き菓子だった。
 「私に?」
 「うん、いつもお茶だけで悪いなと思って。人間の食べるものは君の口に合わないかもしれないが。」
 それなりに大きな肉なら何でも食べる竜のシェーンコップは、魔術師の許へやって来る時はまるで断食中だと言うように、出される茶以外は口にせず、腹が減ったと狩りに出掛けるわけでもない。
 人間である魔術師も、竜にとっては捕食の相手だけれど、まさか恩人を食べることはしないし、魔術師の前であまり竜の本性を見せたくはない気持ちもある。そしてさらに正直に言うなら、肉付きの悪そうな魔術師は、どう見ても美味そうではなかった。
 その魔術師が、シェーンコップのために出してくれた焼き菓子は、元はもっと大きな固まりだったのか、噛みつける厚みに切られて、それが3切れ皿に乗り、断面には何か赤や、黒に近い濃い茶の丸いものも見え、甘酸っぱい匂いがする。
 使おうとするとつい不器用な動きになる指先を差し出して、シェーンコップはそれをひと切れつまみ上げる。人の姿で物を食べるのは初めてだ。
 捕まえたものを、小さければ丸飲みにし、大きければ骨も肉も何もかもまとめて噛み砕く、力強い牙の揃った竜の口とは違い、どちらかと言えば中に入ったものはすり潰す風の人間の口に、その、小麦粉やバターを混ぜて焼いた菓子を入れ、シェーンコップはまず舌触りを確かめて、それから歯を立てた。
 するりと歯に割られ、ほろほろと舌に崩れて来る。甘みが広がり、中に練り込んであるのは、味わって初めて果実を干したものと知れ、匂いを嗅ぎはしても食べたことはなかったそれの甘酸っぱさに、シェーンコップはわずかの間灰褐色の瞳を細めた。
 「美味い・・・。」
 竜の姿で食べれば、また違う感想になるのかもしれなかった。人の姿で食べる人の食べ物は、幅広の舌で崩れ、ゆっくりと喉の奥へ落ちてゆく。その後を、魔術師が一緒に出してくれた赤い茶に追わせる。美味い、とシェーンコップはもう一度つぶやいた。
 「大丈夫かな、君にも食べられるかな。良かった。」
 そう言う魔術師の前には、同じものがひと切れきり、シェーンコップが不思議そうに見ると、
 「私は、甘いものはそれほど好きではなくてね。」
 それなら、わざわざ主にはシェーンコップのために用意したと言うことか。いつ来るかも分からない竜の訪れを、魔術師らしい敏感さで悟って、今日のためにこうして準備していたのか。
 シェーンコップは、空になった指先でふた切れ目をつまんで、今度は、魔術師の思いやりと一緒に味わうようにゆっくりと食べた。
 竜のシェーンコップが口にするもので甘いものは滅多となく、血の、鉄臭い塩辛さには慣れているけれど、こんな風な甘みが舌に乗ったことはなかったから、肉とはまるで感触の違う焼き菓子を、口の中全部で味わっている。
 わずかに歯を立てただけで、他愛もなく崩れてゆく焼き菓子の身の、柔らかいような粉っぽくざらつくような、そこにくにゅりと歯に当たって来る干した果実の歯触りが小さな驚きになって、噛み砕いた骨片が上顎に当たるようなものかと、竜なりに、人の食べるものを理解しようと努めてみる。
 美味いと、舌も胃も感じている。それでもこの未知の感触はただただ不思議で、シェーンコップは自分が焼き菓子につけた人間の歯型を、面白いものでも見るように観察した。
 食べながら、血で、手指も口元も汚れないのが奇妙だった。唯一、空になった指先にバターの香りが残っているのを舐め取って、そんな仕草には確かに竜の様子が窺えて、魔術師は、
 「次の時には、焼いた鶏肉か何かを用意しておこうか。」
 申し訳なさそうに言うのへ、あっと言う間に自分の皿を空にしたシェーンコップは首を振った。
 「肉の類いは遠慮させていただきましょう。」
 肉の歯触りや血の匂いで、竜の本性が刺激されるのは避けたかった。
 人間の身の丈の5つ分はありそうな竜たちが、好きに肉を食い散らせば、あっと言う間にこの世は滅びてしまうだろう。そうさせないためのこの世の理なのか、体の大きさにも関わらず、竜たちはあまり空腹と言うものを感じないようになっていた。恐らく彼らの巨大な胃の半分は、彼らが生まれつき持つ魔力で満たされるのか、それによって彼らの数は抑制され、彼らの食料になる他の生きものたちの数も極端に減らされはしないのだった。
 飢えによる共食いと言うのは滅多と起こらなくても、死んだ同類を食べることに、竜の世界では禁忌はなく、それも人の世界とは違うことをシェーンコップは理解して、魔術師も、シェーンコップの運んで来た竜の書物ですでにそれを識っていた。
 竜は、自分の傷を治してくれたこの黒髪の魔術師を命の恩人と思い、自分の訪れを、嫌な顔も怯えた風も見せずに受け入れてくれるのに、心から感謝していた。
 魔術師は、あるとすら知らなかった竜の書物を、こうしてシェーンコップが携えて来て読ませてくれるのに、それに値する礼はないかと常に考え続けている。
 たかが焼き菓子で、その礼のわずかでも返せるとは思っていないけれど、せめてまともなもてなしでもと、らしくもなく考えた末だった。
 他人を避けて暮らす挙句に、受け入れたのが竜──人に姿を変えた──とはと、魔術師は内心で苦笑する。けれどこうして付き合ってみれば、人間よりよほど付き合いやすいとも正直思う。
 竜は、魔術師の黒髪も黒い瞳も気にする風はなく、魔術が使えるからと恐れる様子もなく、その力の説明も必要ない。何か不思議を起こしても、それはそういうことだとそのまま受け止め、いちいち魔術師に、あれは何だこれは何だと訊いては来ない。なぜそんなことができるんだと、問い詰めることもしない。
 散々不吉な存在と指差され、噂を立てられ、時には力づくで追い払われることもあった。追い払うだけでは安心できないと、殺されそうになったことも幾度もあった。
 互いに、関わり合いににならない方がいいと、人々から離れて森の外れにひとり隠れ住んで、本だけが魔術師の世界だった。それで十分だった。
 本で満たされていた暮らしに、シェーンコップがするりと入り込んで来る。魔術師が読みたいと思う書物を手に、ここにやって来る。魔術師は、竜のくれた赤い石──竜の鱗──を身に着けて、それによって竜の気配を探り、竜の訪れを予見する。
 少しばかり乱された自分の暮らしを、魔術師はけれど不快には思わずに、いつの間にか竜の存在に馴染んでいた。
 指をひと振り、お茶のお代わりを出す。それを美味そうに、竜が飲む。魔術師も、自分の茶へ口をつけた。
 今日竜が持って来てくれた書物を、まだ開いてもいなかった。何百年も昔、種の違う竜同士で争った時の記録だと言うそれへ、興味を引かれながら、魔術師は竜と一緒にお茶を楽しんでいる。
 竜はお代わりの茶を空にすると、いつものように魔術師の足元へやって来て、そこに坐り込む。魔術師の足を抱え込み、頭を膝に乗せた。
 黒髪のひと、と呼び掛けた続きに、美味かったと竜が言う。それはよかったと、魔術師は返しながら、指先に竜の髪をすくい取った。
 「ほんとうに肉はいらないのかい。」
 シェーンコップがまた首を振る。
 「いりません。あなたのお茶で十分だ。菓子も美味かった。」
 決して遠慮しているわけではないと、その声音に聞き取って、魔術師は渋々と言う風にうなずいた。
 「わざわざここまで来てくれるのに、申し訳ないな。」
 「私が好きですることです。あなたが気にすることはありません。」
 魔術師の膝に、頭の位置を定めながら、きっぱりと竜が言う。少しの間の後、考え込むように、シェーンコップがまた唇を開いた。
 「──それに、人に姿でなければ知れなかったこともある。」
 それきり唇を引き結び、うたた寝の準備のように目を閉じて、シェーンコップはもう動かなかった。
 魔術師は、髪を梳くてすさびを止めずに、一体何を知ったのかと、シェーンコップが説明をしてくれるのを待ったけれど、続く言葉はなく、それは、人間の言葉では説明できないからなのか、それとも言いたくないからなのか、どちらなのだろうと訝しんで、それでも言わないなら踏み込まないのが暗黙のルールのように、魔術師もまたひっそりと黙り込む。
 竜のままなら、人間の好んで食べる焼き菓子の甘さなど知ることもなかった。シェーンコップはそれを言わずに、ただ口の中で、ほろほろ崩れた焼き菓子の歯触りを反芻している。
 竜の鉤爪も牙も、今は人の姿に隠されて、それが魔術師を傷つけることは決してなく、人の姿にならなければ、こうして触れるひとの膚のぬくもりも知らないままだったと、もうひとつ、シェーンコップは胸の中で数え上げた。
 そうしながら浅く眠りに落ちて、竜は穏やかな寝息を立てている。
 魔術師は髪を梳く手を、竜のうなじへ移動させた。
 「竜の君・・・。」
 そっと呼び掛けて、予想通り返事はなく、魔術師はその手を、そのまま背中の方へ滑らせる。竜の時には羽の生える辺り、人間のシェーンコップの肩甲骨へそっと触れて、治しても跡は残ってしまった背中の傷の辺りへ、静かに指先を乗せた。
 何かつぶやいたのは、呪文や詠唱ではなく、魔術師がおぼろに覚えている子守唄だった。
 わずかに記憶にある、幾つかの言葉と、それが乗る旋律、竜には聞き覚えはないだろうそれを、魔術師はたどたどしく口にする。
 もう記憶も確かではなく、恐らく母親が歌って聞かせてくれたものだろうと想像するだけの、それが正しい言葉や旋律なのか、確かめてくれる人間の知り合いもいない魔術師は、それを竜へ向かってくちずさむ。
 竜の書物へは手を伸ばさず、魔術師は竜の背中へ触れながら、竜の眠りをただ安らかにするために、焼き菓子の匂いの残る息のまま、同じ唄を小さな声でそっと歌い続けた。
 積み上げられた本たちが、無言でその唄を聞き続けている。

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