本の森の棲み人 3
また竜がやって来る。魔術師は羽ばたきを聞き分けて、急いで外に出た。扉を開けると、はるか向こうに、地上に降り立つ竜の羽の先が見え、ざわざわと鳥たちが代わりに飛び立った後に、今度は人の気配がやって来る。
そのまま少し待てば、黒いマントに身を包んで、ゆっくりと長身がこちらへ近づいて来た。
自分を迎える魔術師を見て、竜が微笑む。近頃、やっとそうする人の笑い方に慣れたのか、以前は少し引きつっていた口元が今は自然に持ち上がり、唇の間から覗く歯列に牙のないのがもう当たり前のように、魔術師も無意識に竜に微笑み返している。
「待ち切れませんでしたか。」
竜のシェーンコップが、いっそう深く笑う。
マントの下から早速取り出すのは、竜の文字で記された書物だ。魔術師が、これを心待ちにしているのを知っていて、ちょっと焦らすように、差し出しながら魔術師の伸ばす手よりわずかに遠ざける。
「早く見せてくれ。」
「これもいいですが、今日はもうひとつ、あなたのお待ちかねがありますよ。」
やっと魔術師の手に、先に差し出した丸めた紙の束を乗せ、シェーンコップがまた焦らすように言う。
「何だい。」
魔術師が、ちょっと眉を上げて訊くのに、シェーンコップはまだ何も出さずに、中へ入ろうと魔術師の背を押した。
押した戸をくぐりながら、おっと、と竜が頭を下げた。
「今日はちょっと、縮み方が足りなかったみたいだな。」
魔術師が声を立てて笑う。
魔術師に合わせて人の姿になるシェーンコップは、時々自分の大きさを間違えて、そうなりたいよりもずっと大きいままのことがあった。一度すり抜ける扉の上に頭をぶつけてからは、魔術師の頭からこれくらいと、人の自分の背丈を、魔術師の住み処に入る前に必ず確かめるようにしているけれど、今日はそれでも小さくなり方が足りなかったらしい。
少なくともぶつけはしなかったと、シェーンコップはちょっと胸を張るようにして、それでも魔術師の目の前で、扉を振り返りながら人差し指の半分くらい背を縮めた。
「で、わたしのお待ちかねってのは一体何だい。」
「あなたに、頼まれていたものです。」
そう言われて、魔術師がはっと思い当たったのか、抱えていた書物をテーブルの上に放るように置いて、両手をシェーンコップに差し出して来る。
シェーンコップはゆっくりとマントの下で何やら両手で探り探り、さっき渡した紙の束よりも少し長さのある別の束を、丁寧に両手に抱えて取り出した。
「あなたの、ご希望通りなら良いのですが。」
そっと受け取る魔術師の手が、ほんの少し震えている。
いつものように、竜の姿で飛んで来て、人の姿で魔術師にお茶を振る舞われ、ひと晩、心地よい眠りで過ごした後、シェーンコップは再び竜の姿に戻って、自分の住み処に戻ろうとした。
魔術師の住み処から少し歩いて、怪我をしていて魔術師と初めて会った場所より少し手前に、ぽっかりと野原がある。少し進めばまた新たな森に入るそこで、シェーンコップは人の姿から竜に戻った。魔術師は、その一部始終をじっと眺めていた。
大きな羽を広げ、では、と、少し離れている魔術師へうなずいて見せて、飛び立とうとする。そのシェーンコップを、魔術師が止めた。
「君に、頼みがあるんだ。」
──頼み? あなたが、私に?
もう竜に戻ってしまった細長い舌は、人の言葉を操るには使えず、シェーンコップは竜の思念で魔術師に問い返す。
「うん・・・その、君たちが、紙に文字を写すように、君の姿も紙に写せるのかな。」
──私の? なぜ。
不審や不満を表す仕草で、竜は長い尾を小さく振る。
「なぜって言われても、ちょっと困るんだが・・・。」
魔術師はくしゃくしゃの髪をかき混ぜながら、答えを探すように足元へうつむいた。
「君はその、大き過ぎて、わたしには全体がよく見えないから、竜の時の君をどうにかしてちゃんと見れないかと思って、それで・・・」
困ったように言う魔術師に、さらに困ったように竜が頭の位置を落として来る。その竜に触れようとしてか、魔術師はそっと手を伸ばして来る。
「人間の時の君は、近寄ることもできるし、一緒にいることもできるが、竜の時の君は、こうして遠目に見ることしかできない。君の、とてもきれいな鱗の形や、君の瞳の形を、もっとはっきり見てみたいんだ。」
自分の言うことに説得力を持たせるためのように、魔術師は竜の鱗を流れに沿って撫で、小さな──実際に小さいのだけれど──生きものみたいに、上目遣いに竜を見た。
魔術師の言うことは、シェーンコップにはよく分からなかった。そんなものを見て一体どうするんだと思って、それでも、魔術師がそう言うならと考えを巡らし、そこは近頃身についた人間めいた仕草で小首を傾げて、
──あなたがそう言うなら、やってみましょう。
いつも、森や岩や空を眺めて、何やらごそごそやっている仲間がいる。あいつに頼んでみようと、シェーンコップは考えた。
──できると約束はできません。いつとも分かりませんが、やってみましょう。
魔術師が、黒い瞳を輝かせた。こうして眺めれば、この色が不吉と言われる理由が定かではなくなる。星の瞬く夜空のようなその瞳に、シェーンコップは目を細めて一瞬見入った。
今度こそ、ほんとうに飛び立つために羽を広げ、また遠のいた魔術師へ灰褐色の目を凝らしたまま、シェーンコップは名残り惜しげに飛び上がる。
あっと言う間に小さくなる魔術師が、自分に手を振る間はそちらを見るのをやめずに、シェーンコップは常になくそこに心を残したまま、青い空をゆっくりと横切って行った。
魔術師は巻かれた紙を開き、そこに竜の姿のシェーンコップを認め、1枚目は横から、2枚目は後ろ姿──あの赤い傷跡がある──を、3枚目は真正面から、魔術師がそうと願った通りの角度のシェーンコップが写されて、彼らの世界にそのような言葉も技術もないけれど、まるで写真のように、まったくそのままの竜のシェーンコップがそこに在った。
ひと抱えもある大きな紙は、広げ切るには魔術師の腕の長さが少し足りず、魔術師は紙を手に床に坐り込み、
「ちょっと、ここを押さえててくれ。」
立ったままのシェーンコップを手招いて、紙の上部を押さえさせて、自分は下を押さえ、魔術師はやっと紙に描かれたシェーンコップの全体を、床の上に眺める。
「すごいなあ・・・。」
感嘆の声。
シェーンコップにしても、水に映る自分の姿を垣間見ることはあっても、しげしげと眺めることなどないから、こうして紙に写されて、自分の腕の長さや鉤爪の鋭さなど、初めて見るに等しかった。
「お気に召しましたか。」
「うん、すごいよ、思った以上だ。どうもありがとう。」
シェーンコップの鱗の形を指先でなぞりながら、魔術師が興奮に上ずった声で言う。
その、緻密に描かれた竜の3枚の絵を、魔術師は元通り巻き戻さずに、床の上に、指先で四角を書いた。
簡素な木枠が現れ、1枚ずつその絵を取り囲む。枠の中にぴしりとその中に伸びた絵は、魔術師の指先の動きに従って壁に向かって泳ぎ、割れるように左右に分かれた本の塔の間に、その絵は並べて飾られた。
魔術師はその絵たちの前へ行くと、また指先を振って高さを調節し、ちょうど自分の目の高さに絵の竜の目線が来るようにした。
そうして眺めれば、人の背丈に少し足りないだけの大きな絵たちは、決して広くはない魔術師の住み処を大きく占領して、本の山と一緒に魔術師と竜を圧倒して来る。
「これで、君がいない時も、君と一緒にいられるよ。」
感慨深げに魔術師がつぶやくのに、シェーンコップは隣りに立つ魔術師の胸元へ手を伸ばし、そこを軽く叩いた。
「私は、いつでも、あなたと一緒にいます。」
魔術師がシェーンコップを見上げ、それから自分の胸元へ手を添えて視線を落とす。
「うん、そうだ、ここにはいつも君の鱗がある。これを通じて、わたしはいつも君を感じている。でも、少なくともこれのおかげで、君の姿がいつでも見られるよ。」
魔術師は、壁の竜の絵を指差して言う。
竜のシェーンコップには、自分の姿を手元に置きたがる魔術師の気持ちはよく分からなかった。自分には馴染みのない自身の姿に頓着もなく、それを見たがると言う気持ちは理解できず、それでも、魔術師がそうしたいと言うならそうすればいいと、よくできた自分の姿をちらりと見て、そこにきちんと絵が飾られたことは、分からないなりに少しばかり誇らしかった。
それなら、と不意に思いついて、そのちょっと意地の悪い笑い方は竜の時を思わせる笑みを浮かべて、
「今度は、あなたの姿を写させて下さい。」
「え、わたしの?」
「私のだけでは不公平だ。私も、あなたの姿を手元に置いておきたい。」
「・・・物好きだなあ。」
呆れたように魔術師が言うのに、あなたがそれを言うのかと、さらに呆れた顔を、シェーンコップは魔術師そっくりに写して見せる。
「人の姿になればあなたはよく見えるが、竜になると遠く小さくなる。それに、竜の目で見るあなたと、人の目で見るあなたと、もしかしたら違うかもしれない。」
「・・・そうかなあ。」
疑り深そうに魔術師が言うのに、そうです、とシェーンコップはにっこり笑って言い切った。
「それは別にいいけど、君は字じゃなくても写せるのかい。」
「いえ、無理でしょう。それができる仲間はいますが。」
「君を写したのも、その仲間かい。」
「ええ、そうです。」
ふうんと、魔術師はまたしげしげと絵を見つめた。
「いつか、あなたが私の許を訪れる機会があれば、その時はぜひ、あなたを──。」
静かに、けれど否の返事を受け付けない強さをこめて言う竜へ、
「いつかね、そんなことがあれば・・・。」
魔術師はふっと苦笑を漏らし、再び絵に指先を伸ばす。紙に焼き付けられた精緻な線をたどり、その鱗の輪郭に、ほんものの感触を指先に蘇らせて、同時に、自分の胸元の赤い石にも掌を乗せた。
こことそこにシェーンコップがいる。そして隣りには、今はほんもののシェーンコップがいる。
魔術師はやっと体ごとシェーンコップへ向き直り、
「お茶にしよう。」
本の山のテーブルへ向かって、シェーンコップの背中を押す。
押しながらもう一度壁の絵に振り返り、魔術師は深々と、穏やかな優しい笑みをそこに刻み、同時に、同じ笑みを目の前のシェーンコップへ向けた。