本の森の棲み人 4
「申し訳ありませんが、何か拭くものを。」扉を開け、挨拶も抜き、中には入らずにシェーンコップが言った。
魔術師は驚いて、もうお茶を出そうとしていた手を止め、シェーンコップの方へ小走りに駆けてゆく。
水も滴る、と言うのは、単なる比喩であって実際ではない。魔力で出した服は乾いているのに、シェーンコップの髪も顔もびしょ濡れだった。
「これは何とか濡らさないように気をつけたのですが。」
傍に来た魔術師へ、長いマントの下から、指先でつまむようにして、携えて来た丸めた書物の束を差し出す。それを急いで受け取り、竜の、濡らさない気遣いを無駄にしないために、魔術師はそれをテーブルに置きに行って、また小走りに戻って来る。
「ここへ来る途中で、嵐の中を通りましてね。」
「天気を変えるのは、わたしでも骨が折れるなあ。」
さっさと何か、大きな布でも出せばいいのに、手が追いつかない。魔術師はおろおろとずぶ濡れのシェーンコップの髪を、上の方へかき上げたりしながら、そこから滴る水を手に受け止めると言う愚かなことをしていた。
「もし、あなたが良ければ──。」
魔術師の仕草を、いかにも面白そうに見下ろして、竜が言う。
「外で鱗を乾かしたいのですが。」
「外で?」
「ええ、ここらは天気は良いようですし。拭うよりいっそ乾かした方が早そうだ。それに、少々体が冷えてしまって。」
そう言うシェーンコップの唇は、確かに今は少し色が褪せている。
「そうだね、風もそれほどないようだし、君に風邪を引かせるわけには行かないから、そうした方が良さそうだ。」
同意した魔術師へ、シェーンコップはかすかに眉を寄せた。
「かぜ?」
「君らは風邪なんか引かないのかな。熱が出たり、体がだるかったり、食欲がなかったり・・・。」
食欲がない、と言った魔術師へ、竜は片方の眉だけ上げてみせて、竜が食欲を失くすなんて言語道断だとでも言いたげに、この恐ろしく強い種族は、きっと病気知らずなのだろうと魔術師は思った。
結局そのまま、ふたりは連れ立ってそこを出て、いつも降り立ち飛び立つ野原へゆくと、竜は黒いマントを脱ぎ捨て、後は魔術師から遠ざかりながら着ていた服を霞のように消す。
裸の背中の筋肉が力強く動くのを眺めていると、その背がいきなり丸まり、次の瞬間には強い風が巻き起こった。
魔術師は吹き飛ばされないように体を低くして、シェーンコップが人の姿から竜へ戻るのを待つ。
伏せた顔に、それでもあふれるような光を浴びたような気がして、次の瞬間には、辺りを圧する、堂々たる竜の姿があった。
痛いほど喉を伸ばしてそれを見上げ、近づこうとした魔術師を、鉤爪の、体の大きさに似合わない短い腕を伸ばして、竜が止める。
何かと思ってそこから見ていると、竜は広げた羽と背中と尾をしなわせ、ぶるぶるっと全身を震わせた。
辺り一帯に、水飛沫が飛ぶ。竜の巨(おお)きな背中の向こうに虹が見えた。魔術師は思わずそれに見惚れ、やっと滴る水のなくなった、それでもまだ濡れている体をかすかに揺すっている竜へ、無意識に足を進めている。
遮るもののない野原の真ん中で、濡れた鱗にまんべんなく陽射しが当たり、それがきらきらと輝いて見える。きれいだと魔術師は思った。
この間もらった竜の姿絵よりも、やはり実物には生き生きとした迫力があって、魔術師は自分をつぶさないように地面に伏せた竜の、足の先へそっと触れてみる。
竜はぬくぬくと当たる陽射しの下で、羽をたたんで手足を集め、岩のような体を丸めると、長い首と尻尾を輪にして繋げるようにそれに添わせた。
鱗が乾くまで、大した時間は掛からないように思えたけれど、日向ぼっこが気持ちが良いのか、灰褐色の目をさっさと閉じ、自分の鱗を興味深そうに眺めている魔術師を、尻尾の先でつついて昼寝に誘う。
「ここで寝てしまうのかい。別に構わないが・・・。」
魔術師は、少し不安そうに辺りを見渡した。
竜より大きな生きものはこの辺りにはいないし、魔術師を害そうとやって来る人間たちも絶えて久しい。
そちらは杞憂としても、森や野原に棲む小さな──竜に比べれば誰も小さいけれど──生きものたちが、竜の姿に怯えてしまわないかと魔術師は心配して、結局いつものように、竜と自分の姿を防御の魔力で隠すことにした。
もっとも、隠しようもない羽ばたきの音で、森の生きものたちは竜がここにいることをとっくに悟っているだろうし、鼻の効く彼らは、竜が人の姿になっても、恐らく匂いで正体を見破るだろう。
それでも、竜をぐっすり眠らせるために、魔術師は自分たちの周囲へ向かって腕を振った。
覆われた内側からは透明に見える紗幕は、野原の風景を素通しにして、ふたりの姿は誰にも見えない。
突然、雨でもないのに湿りを帯びることになった野原の草は、急にその緑が鮮やかさを増して、それを照り返すシェーンコップの鱗も、空の青みと草の緑と、そして降り注ぐ光をすべて浴びて、豊かな土色のそれが今は淡い、複雑な色合いの黄金に見える。
魔術師は、飽きずシェーンコップの鱗を撫でた。
まるで魔術師の黒髪が小さな闇を運んで来るように、こうして魔術師の傍にいれば、睡魔に逆らわないシェーンコップだった。魔術師の携える闇は、閉じるまぶたの裏側の暗さに似て、どこか優しさと穏やかさに満ちている。
濡れていた体はすでに乾いてぬくまり、魔術師に護られて、仲間のいないこんなところで、シェーンコップは無防備に眠りを貪っていた。
魔術師は、かすかに動くシェーンコップの腹の、そこに集めた手足の間に膝を抱くようにして這い込み、人間よりは体温のやや低い竜の体にぴたりと自分の体を寄せて、シェーンコップがもう眠ってしまったことを確かめると、ため息混じりの苦笑をこぼしてから、指をひと振り、読み掛けの本を取り出した。
赤く光を発する栞のページを開き、それから、今度は呼び寄せたティーカップに、熱い茶を満たす。
外でこんな風に、陽と風を浴びながら本を読むのも悪くはないと思った。
そうして、眠っている竜の体をまた撫で、もしかすると鱗を乾かすと言うのは単なる口実で、閉じこもってばかりの自分を外に連れ出したかったのかと、訊いてみたいのに、竜を起こすわけには行かないのだった。
目を覚ましたら、訊いてみよう。そうだと、答えてくれるだろうか。
鱗を撫でる掌から、自分の体温が竜に伝わってゆく。血の青い竜に、赤い血の人の体温が心地好いものかどうか分からず、それでも魔術師は竜に触れたままでいる。
ぶ厚い鱗に遮られ、血の流れは掌には伝わって来ない。それでも、とくとくと、人間のそれと同じに動いているはずの竜の心臓の、弾む気配が寝息に伝わり、そのリズムに体を預けて、自分もうたた寝をしそうだと魔術師は思う。
そうできたらいいのにと、かすかに重みは増しても、睡魔とは縁遠いままの魔術師のまぶたは、変わらず紙面の文字を追っている。
野原の風景を写したように濃い緑の茶が、竜がこの草原を潤したように、魔術師の喉を穏やかに潤してゆく。
その指先は、飽かず竜の鱗を撫で続けて、野原を渡る風かそよそよと、草と黒髪をなびかせていた。