シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 10

 何かがそっと動き回る気配、そして空気の揺れに、シェーンコップは素早く目覚めた。寝付きと目覚めの敏速さは、前線に出る兵士の必須だ。
 将官になってもそれは変わらず、シェーンコップは慣れない空気の感覚に、まず部屋の中へ動かずに視線を回す。
 すぐに手の届く武器の位置を視界の隅で確認してから、今夜がいつもと違うのは当然だと思い当たって、ベッドのスペースに腕を伸ばす。まだぬくもりの残るそこに求める人影はなく、シェーンコップはそこでやっと体を起こした。
 ヤンがいない。当人は静かに動き回っているつもりだろう軍靴の気配が、はっきりと居間を通り抜けているのを聞き取って、キッチンへ向かうのかどうか、覗いながら、自分の方は完全に気配を消してベッドを降りた。
 ドアへ向かう床を探って服を取り上げ、今は最低限だけ身に着けて、ヤンの足音がはっきりと玄関に向かうのに気づくと、シェーンコップはほとんど走り出すようにそれを追った。
 黒い影が、いかにも怪しげに動いて、そんな風では不法侵入をさっさと疑われるのにと、自分には気付いてないらしいヤンの背中へ、シェーンコップは暗闇の中で苦笑を浮かべる。
 「こそこそ、逃げるみたいに出て行くこともないでしょう、提督。」
 声を掛けた瞬間、突然撃たれでもしたように、背がぴんと伸びた。
 「シェーンコップ・・・。」
 横顔分振り返って、体は向こうへ向いたままだ。
 「別に、逃げるわけじゃあないよ。」
 ばつの悪そうな表情が、シェーンコップにはぼんやり見えた。
 「それとも、今夜は小官の方が先に寝て、ご不満でしたか。叩き起こして下されば良かったのに。」
 「せっかく寝てるのに、そんなことできるもんか。」
 「私も、数年振りの快眠でしたよ。」
 ヤンの言い方を真似ながら、シェーンコップは大きな歩幅でヤンとの距離を縮め、当然と言う風に腰へ両手を添える。自分の方へ向かせながら、慌てるヤンを逃さずに体を近寄せた。
 「せっかく寝てたのに、起こして悪かったよ・・・。」
 「私はともかく、閣下の方は、少しは眠れたんですか──。」
 部屋を出る時に時間を確かめなかったけれど、カーテン越しの外はまだ真っ暗で、せいぜいが深夜の半ばと言うところのようだ。
 シェーンコップとの間に腕を差し入れて距離を取りながら──けれど用心深く、今は裸のシェーンコップの胸には直に触れないように──、ヤンがシェーンコップの方は見ずにやや体を向こうにねじる。
 「寝た。夢は見なかった。ただ、その──君が──」
 「小官が──?」
 「君が、その、抱きついて来るから──わたしは・・・」
 ヤンが頬を赤らめるのが、明かりのない場所でははっきりとは見えない。目を伏せるヤンの、まぶたの丸みへ視線を当てて、いい眺めだとシェーンコップは思う。
 なるほど、記憶にはないけれど、夢の中で不埒な行いに再度及びでもしたか。目覚めていなかったのも、覚えていないのも惜しかったと、表情には出さずに思ってから、慌てて身に着けたせいか、まだ襟元のいちばん小さなボタンはとめていないヤンの首筋へ、さり気なく掌を移動させ、うなじの方から指先を滑り込ませた。
 憶えている通りの手触りに、思わず目が細まる。
 「申し訳ありません、次回はベッドはお譲りしますよ。」
 「別にいいよ、ここは君の家だし、君のベッドだ。わたしがさっさと退散すればいい話だろう。」
 「で、こんな風にこっそりお帰りになるところだと──。」
 ヤンは、シェーンコップが明らかに誘いを掛ける手つきで触れているつもりにまったく気づいてはいず、今夜、自分に精一杯の様子で応えて来たヤンの、不慣れとは言えすでに成熟し切っていた皮膚の下の熱さに、意外な執着を覚えて、まだ帰したくないのだとはっきりと思った。
 そしてこの、膚の手触り。
 シェーンコップの指先が、さらにシャツの襟の内側を進む。
 「まだ、朝まで時間がありますよ・・・。」
 耳元でささやいてから、首筋へ唇を押し当てた。逃げはしなくても、はっきりと強張るヤンの肩を抱き寄せて、そこからまた家の中へ引き戻そうとする。
 もう1枚の、シェーンコップ自身の皮膚のように、こちらへ隙間もなく添って来るヤンの膚を思い出しただけで、ヤンを強引に抱え上げてベッドに連れ戻したくなる。あれに触れたまま眠るためなら、今のダブルベッド──男ふたりには、少々狭い、らしい──をシングルに取り替えたいと、滑稽なことすら考えていた。
 「うん、だから、わたしは帰って寝るよ。貴官も、早くベッドに戻るといい。」
 胸の間に、またヤンの腕が入り込む。そうしても、シェーンコップの腕力にかなうわけもなく、抱きしめられた体の位置は、確実に玄関からじりじりと遠ざかりつつあった。
 「私に、ひとりで戻ってひとりで寝ろと?」
 からかう口調に、思わず半分ほど本気が混じる。腕の輪の締まりようは、本音の方へ寄っていた。
 「その──君が、満足できなかったんなら謝るよ・・・わたしが、あんまり、その──」
 ヤンは口ごもって、胸の間で腕を伸ばし、必死で距離を作った。
 今は、シェーンコップに直に触れるのが恐ろしい。
 先に眠りに落ちたシェーンコップが、丸めた体を胸の辺りへ近寄せて来て、健やかな寝息をヤンの皮膚に掛けて、乱れた髪越しにそうして見下ろす彼は、普段よりずっと少年めいて見えた。眠ると幼くなる性質(たち)の男だとは思いも寄らず、その寝顔を守るようにヤンはシェーンコップの背中をそっと抱いて、自分もじきに寝入った。
 重ねた皮膚の上で発した熱に、眠って上がる体温が合わさる。上質の毛布にくるまれているような心地好さで、ヤンは再び、悪夢のない眠りを味わった。
 誰かとこんな風に体を近寄せて眠るのに慣れず、シェーンコップの腕の輪の狭まる感触で目覚め、それでも短い眠りは充分に深かったのか、寝不足は感じないまま、またシェーンコップの髪の乱れた頭を抱き寄せる。
 そうして、彼の手が、眠ったまま動き出したのに、どうやってそれを避けるか思いつけなかったのが半分、その手指の動きにそのまま従ってしまいたい自分を見出して、それはまずいと思ったのが半分、慌てて、それでもシェーンコップを起こさないようにと言う気遣いは何とか忘れずにやっとベッドを抜け出したと言う顛末だった。
 起こさないようにと言う心遣いはすでに台無しだけれど、朝までもうひと眠りする時間はある。何とかシェーンコップをベッドへ戻そうと、ヤンは思案を巡らせる。
 結局のところ、嘘でも何でも、適当なことを口にしたところでこの男を説得できるはずもないことに思い至ると、正直に、今夜はこのまま帰りたい理由を告げることに決めた。
 「君と、その、ベッドに戻りたいのは山々なんだが──」
 「──が?」
 ヤンの語尾を俊敏に捉えて、シェーンコップがいっそう腕の輪を縮めて来る。ヤンはシェーンコップのあごの先に額をくっつけるようにして、顔を伏せた。
 「・・・体が、痛い。」
 言った途端に、シェーンコップの肩の筋肉が明らかに力を抜いて、しまったと言う風に、今度はあごの線に別の力が入る。
 シェーンコップは片腕だけヤンの腰から外すと、額に手をやって、同じタイミングで目を閉じた。
 「手加減が、足りませんでしたな、小官の不徳の致すところで、申し訳ありません、閣下・・・。」
 思い返して、今自分が言ったほど、手加減したかどうかも実のところよく覚えていなかった。ヤンの膚に触れて、それに目でも洗われたような気分になったことしか、はっきりとは覚えていない。
 しくじったと言う感覚はなかったけれど、少々夢中になり過ぎて最初から飛ばし過ぎたと、シェーンコップは普段に似ない素直さで反省する。
 何しろ時間を掛け過ぎて、前回はそうなる前に寝入られてしまったし、同じ轍を踏むまいと無意識に焦ったのが裏目に出た。
 最初から、何もかもがしっくり行くはずもないけれど、2度目を拒まれるのが今は何よりいちばん怖い。
 「君のせいじゃない、わたしが、その、あんまり、君に、何もできなくて──」
 シェーンコップの両腕が外れると、今度はヤンの方が体を寄せて来る。俺を煽るな、とシェーンコップは正面を見据えて奥歯を噛んだ。
 「この埋め合わせはするから、もうちょっと待ってくれ。そのうち、わたしも慣れると思──」
 心底申し訳なさそうに言うヤンの声音で、シェーンコップの忍耐が切れた。手加減云々と言った舌の根も乾かないうちに、シェーンコップはヤンのあごを持ち上げて、噛み付くように唇を重ねていた。
 言葉の終わりを全部吸い取られてしまってから、ヤンの方も結局はシェーンコップに応えるのにやぶさかではなく、けれどここで止めるべきだと状況を正確に判断して、ヤンはシェーンコップの胸を押した。
 「ごめん、シェーンコップ。」
 外れた唇の間でそう言って、そういう自分の表情がさらにそそると言う自覚は当然なく、シェーンコップはやっとの思いでヤンを放すと、今さら気づいたように玄関の明かりをつけた。
 突然のまぶしさに、一瞬目を瞬いて、互いに互いの姿をうまくは捉え切れない間に、おやすみ、とヤンが背を向ける。
 「お休みなさい、ヤン提督。」
 ドアが閉まって、ひとりそこに静かに取り残されると、シェーンコップは肺を吐き出すように息を吐いて、ここでヤンを押し倒さなかった自分をうっかり褒めそうになった。
 おい待て、俺は16、7のガキじゃあないんだぞ。
 生まれて初めて誰かと寝て、世界中がそれ一色になってしまった思春期の少年のように、今頭の中にあるのは、自分の下でうねるように蠢いていたヤンの白い躯だけだった。
 ヤンを帰らせてしまったことをもう後悔して、それでも、それが正しかったことは理解していて、シェーンコップは再び明かりを落とすと、肩を落として自分の部屋へ戻ろうとした。
 暗い居間を通り抜けようとして、テーブルの上の白い影に気づき、何かと目を凝らしてから、ヤンに名前を書かせた紙だと思い出す。今はヤンに繋がる何もかもを振り切ることができずに、シェーンコップはそちらへ足を向けると、その紙を指先に取り上げた。
 闇の中で、ヤンの書いた字はよく見えず、それでも、ペンが走ったと思われる辺りへ指先を当てて、次の瞬間にはそれを、ヤンの代わりに抱きしめていた。
 恋を知ったばかりの、少年に戻っている。まさかと思いながら、そこへとどまりたいと思う自分が、確かにいた。
 もっと、上手くやれると思っていたのに。あしらっていなして受け流して操って、自分の感情ならそんな風に、思うままコントロールできると思っていたのに。
 ああ、無理だ。裸の胸に、ヤンの名の記された紙を押し当てて、シェーンコップは胸の中でうめいた。
 「・・・惚れたか。」
 声に出した瞬間に、それは確信に変わってしまった。
 一体いつからだったか、記憶を辿って、ひとり切ない気分を持て余す。今夜はもう眠れないだろうと思った。思いながら、紙片を手にしたまま、まだヤンの気配の残るベッドへ戻るために、シェーンコップは素足の爪先を寝室の方へ向ける。

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