シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 9

 今回は、約束の時間ぴったりだった。1分と遅れずに、ヤンはシェーンコップのフラットに現れ、シェーンコップはそのヤンを中に招き入れ、ヤンはもうためらわずに居間へ向かうと、さっさとソファに腰を下ろす。
 一度帰ってから着替えて来たのか、ベージュの上着に水色のシャツ、スラックスはやや折り目が甘いけれど、一応上着と色は揃えてある。足元まで気が回り切らずに、そこだけは見慣れたブーツだった。
 一応、気は使ってくれたようだとシェーンコップは内心で苦笑ながら、ヤンの左隣りへ、肩が触れ合うようにして坐った。
 「お願いがあるんですが、提督。」
 「お願い?」
 もう目の前のテーブルに用意してあった紙とペンをヤンの目の前へ滑らせて、シェーンコップは、誰かに頼み事をする時に使う、とっておきの笑顔と声を取り出す。
 「あの字を、書いてみせてくれませんか。」
 「あの字?」
 「貴方の、名前の。」
 シェーンコップがこんな顔をする時は大抵悪巧みだと知っているヤンは、少し構えながら、肩を引いてシェーンコップから少しだけ距離を取る。それでも言い出したことが予想と違っていたから、ちょっと気の抜けた表情をうっかり見せて、まだシェーンコップが手を添えている紙とペンへ視線を当てた。
 ああ、あれかと、ヤンは深く考えもせずにペンを取り、手紙や書類用のサイズの白紙の上の辺りへ、よく見えるように、ゆっくりと大きめの字を書き始める。
 膝頭を触れ合わせて、シェーンコップがヤンの手元へ体を寄せて来る。
 ペンの動きに合わせて、灰褐色の瞳が確かに動いていた。
 かっきりと、直線ばかりの集まったその字は、字と言うよりも絵のようで、シェーンコップはペン先から淀みなくすらすらと現れるその形をいかにも物珍しげに眺めて、ヤンが最後の字を書き終わると、その字を指差して、
 「どの字をどう読むんですか。」
と、重ねて訊いて来る。ヤンはペンの先で字を示すと、自分の音に重ねて、その問いに答えた。
 「これがヤン、これがウェン、これがリー。」
 へえ、と言うシェーンコップの息が、かすかにあごの先に掛かって、ヤンは緊張に喉の辺りが強張るのを感じた。
 もう1回、と、書いた字の下をシェーンコップの指先がつつく。きれいに刈り込まれた爪の、形のいい長い指だった。
 ヤンは求められた通りに、もう一度自分の名前を、その字でまたゆっくりと書く。最初よりももっと丁寧に、線の終わりには思いがけない力がこもる。
 ヤン──楊──と言う字を書き終わった時、シェーンコップの唇がヤンのあごの線に触れた。唇は離れずに、そのまま首筋へ滑り、そこから耳朶へ向かった。
 ウェン──文──と言う字はすぐに書き終わり、その頃にはくすぐるようにヤンの唇の近くまで忍んで来て、また遠ざかると、今度は鼻先をヤンの髪へもぐり込ませるような動きに続く。小鳥にでも突かれているような、短くついばむだけの口づけが、決して途切れない。
 「シェーンコップ。」
 「何ですか。」
 「字を見たいんじゃないのか。」
 「──その字を書いている貴方が見たいんです。」
 ヤンの首筋へ唇を寄せたまま、悪びれもせずシェーンコップが答えた。全然見てないじゃないかと思いながら、掛かる息のくすぐったさに、ヤンは肩を浅くすくめた。もう頬が、そうとはっきり分かるほど赤い。
 二度目のリー──里──と言う字は、最後まで書くことができなかった。ペンは手にしたまま、ヤンはシェーンコップの方へ顔を向け、首筋やあごから頬へ移っていた唇を自分の唇の端で受け止めて、あごを軽く持ち上げられても抗わずに、ヤンは素直に唇を開く。
 肩に乗ったヤンの指から、シェーンコップはそっとペンを取り上げてテーブルに放り、そうする間も唇は一瞬も外れずに、そこから戻る途中でヤンの腿を撫で上げて、上着の下へ掌が滑り込んでゆく。
 腰に腕を回して引き寄せながら、上へ乗り掛かってゆくと、やや緊張しながらもヤンはおとなしくシェーンコップの下で体を伸ばし、すでに上からふたつは外れている普段着のシャツの襟元から揃えた指先を侵入させて、シェーンコップの鎖骨辺りへ触れようとしに来る。
 「・・・シャワーを、浴びますか。」
 「もう、浴びて来た。」
 固い、きっぱりとした声が言う。言いながら、目はもうひどく潤んでいたし、首筋は真っ赤に染まっていた。
 「随分と準備のよろしいことで。」
 いつもの調子でからかうように言うと、
 「手回しのいい部下を見習っただけだよ。」
 こちらも負けじと揶揄する声が返って来る。
 「今日、もしわたしが寝てしまったら、叩き起こしてくれ。お願いだから。」
 その時だけは生真面目に、ヤンが下から言う。シェーンコップはうなずいて、ヤンの額へ大きな音を立てて唇を押し当てた。
 その音の可笑しさに誘われて、ふたりでくすくす笑って、額をこすりつけ合って、ソファから起き上がるともう一瞬も時間が惜しいように掌は互いの体のどこかに必ず触れたまま、シェーンコップの寝室へ向かう途中、何度か立ち止まって重ねる口づけは、次第に深さを増してゆくばかりだ。


 床に、点々と脱いだ──脱がせた──服が落ちて、柔らかく盛り上がった道を作る。暗い部屋の中で、ふたりの剥き出しになった膚だけがほの白く浮かんで見える。
 そう言った通り、ヤンの髪の根はまだかすかに湿りを帯びて、裸にすると石鹸の匂いが鼻先に立って来た。ヤン自身の膚に匂いはなく、それに自分の皮膚をこすりつけて、シェーンコップは自分の匂いを移そうとしているようだと思った。
 すでに柔らかく伸びたヤンの体を、シェーンコップは掌の動きで追って逃げられながらさらに追って追いつき、ずれていたリズムがわずかずつ合ってゆく過程を、ひそかに愉しんでいる。
 シャツの小さなボタンを、ヤンの指は難なく外し、はだけたシャツを肩から落としてシェーンコップを裸にもしたし、ためらいもせずにシェーンコップの裸の背中へ腕を回して来た。
 かかとをすり合わせるようにして脱いだヤンのブーツは、部屋の隅に無雑作に放り投げられて、ごつんと思ったよりも大きな音を立て、ふたりは顔を見合わせてまたくすくす笑いをこぼすと、その笑いを終わらせるために再び唇を重ねる。
 年端も行かない少年がふたり、いたずらの最中に笑いをこらえられないように、そうやってじゃれ合う内に、いつの間にかそれは低めたささやきと熱っぽい呼吸に入れ代わり、いつか笑みの消えた、奇妙に真剣な表情で、ヤンもシェーンコップも互いの皮膚を探り合っている。
 ヤンの膚に全身をこすりつけるようにして、シェーンコップはなめらかさとその湿りに、時折呼吸を忘れるほど夢中になる。触れ合えば、もう引き剥がせないかと思うほどぴたりと重なって、包み込むようにこちらにまといついて来た。どこまでも滑(すべ)らかに、織り目の見えない上質の絹か何か、触れる指先が美味(あま)さに、舌と喉の代わりに感嘆の響きを漏らしている。こんな肌は記憶にない。
 骨や薄い筋肉の凹凸の隅々まで、シェーンコップは指先で覚え込もうとした。
 腹の間で勃ち上がったそれを、一緒に握り込んで、そのシェーンコップの掌にヤンの手指が重なり、ぎこちなく動かしながら指先が絡んでゆく。指とそれと、どちらに触れたいのか分からないまま、ふたりは舌と唇をこすり合わせて、どこからか聞こえて来る湿った音に、一緒に耳をすませていた。
 ぬるぬると、指が滑りながら絡む。時折、ヤンの方が腿の内側を深く慄わせて、耐えるために唇を噛む。シェーンコップはそこからそっと手指を離すと、もっと奥へ向かって指先を滑らせた。
 触れると、ヤンの目に正気が戻り、驚きと怯えの色が同時に、同じ量だけ瞳に一瞬走る。それを見てシェーンコップは指の進みを止め、ヤンの反応を窺った。
 ヤンは自分の下腹から手を外すと、シェーンコップの首へ両腕を回して目を閉じる。生贄の諦めに似て、けれどある種の期待を隠さずに、シェーンコップの掌へ、自分から腰を押し付けにゆく。シェーンコップの指先が、再び進んで来た。
 浅く入り込まれると、異物感に、ざっと肌が粟立つ。こればかりは自分では止められない。ヤンはそれでもシェーンコップへ躯を押し付けながら、これがさっさと、もう少し耐えやすい感覚へ変わるように祈った。
 指の腹が、内臓の内側を、羽毛の触れる軽さで撫でてゆく。筋肉と粘膜が、ただの反射でその指を締め付け、そのたびシェーンコップの表情に躊躇が混じる。ヤンの、痛みへの反応だけに注意を集中して、狭さが拒むのを半ば無視しながら、シェーンコップは辛抱強く指を進めた。
 シェーンコップの肩口へ額や頬を押し当てて、ヤンは息を止めたり吐いたり、息を吸い込むとひゅっと鋭い音が喉に突き立つ。その音の合間に、指が動いて、引き出す時には内側が引き止めるように絡みつく。その反応に励まされるように、シェーンコップは指の数をそっと増やした。
 浅い場所で、束ねた指をゆるくかき回すように動かすと、ヤンのそれが確かに反応するのが下目に見えた。喉が伸び、胸が軽く反り、下腹がかすかに震えているのが分かる。
 今では、拒むよりも狭さが奥へ引きずり込もうとしている。それに従って、シェーンコップは指をさらに先へ進めた。
 シェーンコップにしがみついて、ヤンはただ震えている。異物感は消えないけれど、それがシェーンコップだと思えば耐えられはした。内臓に直に触れられるのは、こんな状況以外では──でも──悪夢でしかない。シェーンコップの呼吸で上下する背中を抱いて、まだ眠ったりしていないと確かめるように、自分の指に噛み付いたりもした。
 内側で、シェーンコップの指がほどける。やや無理に開かれた躯は、次第にその状態に慣れ始め、シェーンコップがやっと指を外すと、不意に取り外された感覚を探してうっかりヤンの腰が泳いだ。
 陽を浴びない、両脚の間が皓い。シェーンコップはそこへ自分を埋め込みながら、正面からヤンを抱き込んだ。
 さっきの慎重さはどこへ行ったのか、今度は開いた躯が一気に充たされる。ヤンは窒息したように喉を伸ばして喘いで、同じように開いた気管に、空気を送ろうと必死になった。
 背骨の中を、衝撃が貫いてゆく。脳の下部へ伝わったそれが声に変わり、ヤンは無意識に、ほとんど悲鳴に近い叫びを上げていた。
 「──痛いですか・・・。」
 肯定する気の失せるほど、低い、優しい声が耳元で訊いて来る。痛くなかったら何だと、ヤンは横目でにらんだつもりで、目の色はやめなくてもいいと、先を促している。
 夢の中で殺される苦痛に比べれば、少なくともこれは耐える意味があった。この痛みの果てに死ぬ心配はなかったし、シェーンコップはヤンを殺そうともしていない。真逆だ。シェーンコップは、ヤンを生かすために抱いている。
 眠るためだったはずと思いながら、そんなことは頭からすべて飛んでいた。ヤンは、シェーンコップがゆっくりと動き出すのにただ手足を揺らして、腹や胸の、汗に湿った膚がこすれる、それだけを気持ち良く味わっている。
 ヤンの耐える痛みを理解して、いたわりのように、シェーンコップが頬や耳朶へ唇を寄せて来る。口づけの音が、別々の場所からずれて聞こえるのに、ヤンは白く飛び飛びになる意識で耳を吸い寄せられながら、次第に、躯の奥にこもる熱が全身に広がるのを感じていた。
 痛みは熱さに混じり、じきに熱そのものになり、躯の苦痛はこすれ合う皮膚の内側で極限まで薄められて、別のものに変わる。充たされた粘膜はシェーンコップの質量に添い切って、奥のないそこで、さらに先へ導くように促し続けている。ヤンにその自覚はなく、自分の内側が、シェーンコップへ向かって淫らに反応していることなど思いもせずに、自分はただ耐えているのだと思い込んでいる。
 平たく重なった躯の間で、互いの膚にこすり上げられて、先に果てたのはヤンの方だった。そうして、慄えが全身に走ると、背骨を中心にヤンの内側も深く震えて、それは驚くほど素早くシェーンコップにも伝わった。
 繋がった躯が、そこでさらに深々と絡み、密着していたのは腹や胸だけではなく、狭い熱に囚われて、シェーンコップは思わずうめいた。
 喉を伸ばして、あごの先にヤンの汗に湿った髪が触れる。鬱蒼とした森を思い出し、そこへ入り込んで迷子になりながら、もうここから出られなくてもいいと、森の静けさと不思議さに魅せられた、幼な子のような気分を数瞬味わう。重なりあった葉が見せる妖しい陰影の向こうに、ちらちらと見える陽の光に目を刺されて、シェーンコップは薄目になりながらヤンの上へぐったりを体を伸ばした。
 躯が外れると、ヤンの方がまだ正気を保った目の色でシェーンコップを抱きしめに来て、柔らかな髪を、犬にでもするように撫でる。今度はシェーンコップが、ヤンの肩口へ額を押し当ててしがみついた。
 汗に湿った体が熱い。できるだけ心を込めてヤンの首筋や鎖骨の辺りへ唇を滑らせながら、今夜礼を言うのは自分の方だと、まだ霞の掛かった頭の隅で考えている。
 黒髪の森の中へ深く入り込んでゆきながら、決して後を振り返ろうとはしないシェーンコップは、ヤンに抱かれたまま、あれこれとしたい話の断片を思い浮かべるのに、もうまぶたの重みに耐えられはしなかった。
 昼間とは少し匂いの違うヤンの、胸に額をこすりつけて、そのまま覚えのない深い眠りに引きずり込まれて行く。

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