シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 11

 食堂の隅、目立たない壁際で、シェーンコップは本に目を落としていた。組んだ足の上に本を乗せ、あまり先を急がずに、時間を潰すための贅沢な読書だ。
 テーブルの上ではコーヒーがもう冷めて、お代わりはせずに仕事に戻る予定だけれど、この読書と言うバリアを使った、誰もが足を踏み込むことを一瞬躊躇う空間で、シェーンコップは静かな時間を楽しんでいる。
 「やあ、ここ、いいかな。」
 それを軽々と破る、ちょっと気の抜けた声。一緒に漂って来る、あまり上等ではない紅茶の香り。
 紙面からちらりと目だけを上げ、本来なら即座に立ち上がって敬礼するところだろうけれど、そこはシェーンコップだから、そんなことをするはずもないと先方も分かっているし、期待もしていないのはシェーンコップ自身が承知だ。
 読書の邪魔、ひとりの時間を妨げられたと言う不快感など、この相手に対しては幸いちらりとも湧かず、
 「どうぞ。」
 唇は自然にほころばせて、シェーンコップは声の主、ヤンへ向かって、本から外した片手で、自分の向かいの席を指し示した。
 一応は湯気の立っている紅茶のマグをまず置いて、ヤンが椅子を引いて腰を下ろす。
 「邪魔をしたかな。」
 念のため訊いておくと言う風な口調で、半ばは本気で邪魔をしていると思っている声音をシェーンコップは聞き取った。それを否定するために、改めて笑みを深くして見せる。
 「貴方を邪魔にはしませんよ、司令官閣下。」
 どうだか、と言う風に首を傾げ、ヤンも薄く微笑んだ。
 シェーンコップは、読んでいた指を挟んで本を閉じ、テーブルの端に置こうとしてから、栞代わりにしていた黒のティーバッグを取り上げる。それを、持ち上げたカップの陰から素早く見て取ったヤンが、シェーンコップにだけ分かる目の色の変化を表して、カップの動きを一瞬止めた。
 「・・・それ、早く飲まないと、味が落ちるよ。」
 本を置いてから、シェーンコップは自分のコーヒーのカップへ指を掛けた。
 「貴方と、一緒に飲みたいと、思ってましてね。」
 意識してひと言ひと言区切って言うと、ヤンがさらに瞳の色を深める。
 最初の夜に、ヤンがそうして置いて行ったティーバッグだった。まるで、わざと痕跡を残して去って行ったように、シェーンコップはだから本からそのティーバッグを取り離すことができずに、読み終わった本から次の本へわざわざ移して、栞代わりに使い続けている。
 最初にあった香りはとうに飛んで、今はもう本を開いても紅茶だとは分からない。それでもヤンが触れて、自分のために置いて行った彼の跡だと思うと、本好きのヤンと一緒に読書でもしているような気分になれたから、シェーンコップはそれを目にするたびに、こっそり微笑むのをやめられないのだった。
 「貴方のユリアン坊やほどは上手く淹れられないでしょうがね。」
 シェーンコップの言い草を否定はせずに、ヤンは食堂のぬるい紅茶に口をつける。 
 シェーンコップは微笑みを消せずに、ヤンを見つめていた。
 先夜感じた、立ち去るヤンへの未練が、今目の前にいると言うのに突然募って来て、ここでは腕を伸ばして触れることも引き寄せることもできないのが、今ひどく惜しい。
 ところ構わず押し倒すと言う理性のなさはさすがに押し隠して、この距離で会った途端に、そのことしか頭に浮かばない自分ののぼせ具合を、シェーンコップは改めて思い知る。
 今ヤンが唇と手指を寄せているカップにさえ嫉妬が湧いて、シェーンコップは組んでいる足をほどいて組み直し、椅子の中で背筋を伸ばし直した。
 「ユリアンの紅茶には誰もかなわないよ。」
 シェーンコップの思うことが通じるわけもなく、ヤンが長閑に言う。
 ベレー帽はどこへ置いて来たのか、あちこちぴんと跳ねている髪を気にしている風もない。だらしないと、ユリアンが小言を言うのが目に浮かぶようなヤンの風体だけれど、顔色はややましに見えた。少しは眠れているらしいと、ひとりベッドで体を丸めるヤンを想像して、シェーンコップは何よりだと思う。もちろん、それに今すぐ手を貸したい気持ちは、さらに強く押し隠して。
 カップには手を掛けたまま、空いた方の手で頬杖をつき、ヤンがシェーンコップへ視線を当てて来る。見つめていたヤンに見つめられて、似合わず戸惑い、シェーンコップは思わず自分の胸元を押さえた。
 「何か?」
 思わず問い詰めるように訊くと、ヤンはつかみどころのないぼんやりとした笑みを浮かべて、
 「いや、つくづく君は、目の保養だと思ってね。」
 は、と思わず頓狂な声が出た。外見を褒められるのは別に珍しくもない。けれどこの、その手のことにはとんと疎そうな上官の口から出ると、それは自分に言うべきではなく、もっと別の誰か──例えば、彼の優秀な副官の才媛──に対して言うべきではないのかと、シェーンコップは心配になった。
 「何かまた、ローゼンリッターを使う物騒な作戦でもお考えですか。」
 おだてられて、ろくでもない作戦で前線にでも送られるのかと、以前は当然だった展開を思い出す。その以前では、おだてられる前振りも滅多となかったけれど。
 この男に限って、自分を死なせるために作戦を立てるようなことはしないと分かってはいても、過去のろくでもない経験が頭をもたげて、シェーンコップは思わず内心で身構えた。
 「大事な君たちを、そうそうむやみにこき使えるもんか。」
 今度は無邪気にヤンが笑う。艦隊戦では陸戦部隊の出番など滅多とないけれど、それでは暇を持て余すからと、ヤンを何かとせっついているのは当のシェーンコップだ。使い捨てにされないと言う信頼の上での、シェーンコップの進言──無茶──を、ヤンは大抵聞き流して、それでも必要な時が来れば躊躇も遠慮もなくローゼンリッターをどこへでも送り込むだろう。
 そうして、危険な任務を命じて、ヤンはきっと、ローゼンリッターの背中を守ることをそうとは言わずに誓うに違いないのだ。
 そうだとシェーンコップが思うのは、先夜ヤンと肌を交えて、言葉にはせずに通じ合う何かを共有したせいだろう。
 信頼、とシェーンコップは胸の中でひとりごちた。
 ヤンが手元へ視線を移し、言葉を続けた。
 「美しいものを堪能できるのは、平和な証拠だよ、シェーンコップ。戦争の間は、戦争に必要ないものはことどごく軽視される。軽視程度ならいいが、排除さえされかねない。美しいものがそこに在れるのは、平和のために必要なことだと思ってね。君はそういう意味では、わたしにとっては平和の、あるいは平和への希望の象徴みたいなものだ。」
 「元薔薇の騎士連隊第13代連隊長へ向かって、面白い見解ですな。人殺しの野犬集団に向かって平和の象徴とは、貴方も突拍子もないことをおっしゃる。」
 反論のつもりはなかったけれど、まったく思いもかけないヤンの言葉へ、シェーンコップの声が思わず尖った。
 馬鹿にしてるのか。ヤンがシェーンコップへふざけた論調で喧嘩を売る理由も見当たらず、シェーコップは軽い怒りの上へ困惑を刷く。混乱のまま、シェーンコップは反駁した。
 「美しい云々なんて、所詮主観的な話だ。今日美しいとされたものが、明日には醜悪の極みで破壊されるかもしれない、美がどうのなんてその程度の話でしょう。恒久ならざる平和を語る貴方が、美がつまり平和であると言うなら、美はつまり恒久的なものではないと言うことになる。そんな頼りにならないあやふやなものを希望と呼ぶのは、いささか夢の見過ぎではありませんか、閣下。」
 言葉が過ぎると思いながら、止められなかった。ヤンでなければ、侮辱罪と即座に言われるところだろうと、自覚はあった。
 ヤンは穏やかな笑みを消さないまま、シェーンコップの言葉を最後まで聞いた。
 「美は恒久的なものではない、その通りだ、何が美しいかなんて判断はあてにはならない。だが、その曖昧さ、不安定さ、儚さ、美は滅びるからこそ美しいのかもしれない。永遠に続けばいいとわたしも思うが、そうなった試しはない。だからこそ、わたしは今とりあえず、目の前の美しいと思うものをせいぜい大切にしたいと、そう思った次第だ、シェーンコップ。」
 一体何の話をしてるんだったかと、シェーンコップは一瞬頭をひねり掛けた。もしかしてこの男は今、自分のことを大事だと言ったのか。まさか。
 「虐殺者のわたしが、一生ぐっすり安らかに眠れるようにはならないだろうが、少なくとも時々、悪夢を見ずに眠れる夜を与えられることもあると、教えてくれたのは君だ。夢の見過ぎと言う君の言い方じゃないが、夢はまず、見なければ叶わない。もちろん、悪夢の場合を除いてだがね。」
 最後の方には純粋な茶目っ気を覗かせて、ヤンが言う。
 「平穏な眠りと言うのは、わたしの長い間の夢だったんだよ、シェーンコップ。」
 心の底の方へ、ひと雫滴るような、ヤンの声音だった。
 言いたいことを吐き出してしまった後特有の虚脱感に、ヤンの黒い目が一瞬虚空を漂う。それがシェーンコップへ戻ると、まるで子どもがそうするように小首を傾げてにっこり笑い、ヤンは照れたように慌てた仕草で残った紅茶を一気に飲み干した。
 カップを置いた途端、ばたばたとテーブルの隅へ手を伸ばして紙ナプキンを取ると、ポケットから取り出したペンで何か書き、書き終わると何も言わずに立ち上がる。
 「君の淹れてくれる紅茶が楽しみだ。」
 紙ナプキンをシェーンコップの方へ滑らせて来た。自分を見つめたまま、そこから指を外さないヤンを上向いて見つめ返し、シェーンコップは紙ナプキンの上で、わざとヤンの指に触れる。見つめ合う視線に、一瞬、ふたりにだけ分かる熱がこもった。
 ヤンの指が遠ざかり、歩き去る背中も次第に見えなくなって、やっとナプキンを裏返す。次の君の休みにと書かれた下に、ヤンの、あの字の名前。
 シェーンコップはそれを丁寧にたたむとポケットに入れ、ふうっと息を吐いた。
 次に読む本は、紅茶の淹れ方の指南書にでもするかと、半ばは冗談で考える口元に、安堵と歓喜の程良く交じった笑みがくっきりと浮かんでいた。

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