シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 12

 ヤンがソファに腰を下ろすと、シェーンコップが早速キッチンに立って紅茶を淹れ始めた。
 例の箱から、どれをとも訊かずにティーバッグを取っているのが見える。互いに、公人の姿ばかり見慣れているから、くつろいだ部屋着でキッチンにいる背中は、奇妙に微笑ましい眺めだ。
 待たされているヤンは、退屈もせずに、シェーンコップを見ていた。きびきびとした動き、こちらを振り向きもしなくても、ヤンが見つめている視線は感じているのが分かる。心地好い緊張感にぴんと張った背筋は、明らかに人の視線──恐らく、羨望や感嘆──に慣れているそれだった。
 食器の触れ合うかすかな音。ヤンは、それを寛いだ気分で聞いていた。
 ティーポットは使わない──ここになくても不思議でない──代わりに、カップの上に皿を伏せ、きっちり時間を計っているのがそこからよく見えた。
 差し出されたマグは、大振りの、紅茶にもコーヒーにも使える、一切気取ったところのない機能一点張りのものだけれど、たっぷりとそこから立つ湯気の量にヤンは目を細め、
 「ありがとう。」
としっかりと届く香りに、礼の言葉の端が思わず和らぐ。
 シェーンコップも、今日は一緒に紅茶だった。
 ひと口飲んで、自分が淹れたのよりも十倍美味いとヤンは思う。これは90点くらいだ。常に完璧なユリアンの紅茶へ、120点をつけるヤンにとっては、これは特Aくらいの出来だった。バッグではなく葉で、そしてティーポットを使って淹れれば、間違いなく110点にはなるなと、ヤンは改めてカップの縁へ唇を寄せながら考える。
 何をやらせてもそつがないシェーンコップへ、ほんの少しだけ憎らしさを感じるのは、今では彼への甘えのせいだと気づいていて、それへもう知らない振りもしないヤンだった。
 「そうだ、忘れないうちに。」
 ヤンは一度カップをテーブルの上──きちんとコースターが用意してある──へ置いて、忙しげな仕草で自分の胸元を探る。上着の胸ポケットから封筒と取り出すと、それを隣りのシェーンコップへ差し出した。
 「私に?」
 そう、とうなずくヤンの頬の線が、かすかに気恥ずかしさにほころび、シェーンコップは怪訝そうにそれを受け取って、すぐに中身を見た。
 振って手の上へ出て来たそれは、大きさは大体同じ、けれど手触りやデザインはすべて違う、栞が3つ。ひとつはただ切りっ放しの茶色の革に、同色の革紐が平たく上へ通され、もうひとつはやや厚い、ざっくりと織られた白い生地に、豪奢に赤い薔薇が刺繍され、花弁と同じ色のリボンが上につき、最後の1枚は布と紙の中間のような少しごわごわした質感の真ん中に、水のように文字が薄墨色で縦に流れている。
 「これは?」
 「適当に買ったりもらったりで、別に集めてるわけじゃないんだが、たまたま手元にあっただけなんだ。いらなければ持って帰るよ。」
 言いながら、あらぬ方向を見て、ヤンはまた取り上げたカップから紅茶をすする。
 「君も、本を読むみたいだから。ティーバッグよりはいいだろうと思って。」
 3つをしげしげと眺めながら、ありがとうございますとシェーンコップが素直に礼を言う。そうして、ヤンの方へ文字の書かれているひとつを差し出しながら、
 「これは、何と書いてあるんですか。」
 何となく、ヤンの名のあの文字と同じだろうと思って、訊いた。
 ヤンがちょっと言い迷うような表情を浮かべて、きちんと訳すのに数秒掛かったと言う風に、
 「本も人も大切にしよう、くらいかな。」
 言い終わるとすぐにまたカップで口元を覆ってしまう。わずかに嘘らしきトーンを感じ取ったけれど、シェーンコップはあえてそこは追求しなかった。少なくとも、こんな風に自分にくれるものなら、罵詈雑言と言うことはあるまいと、3つともを元のように封筒の中へ戻して、汚したりしないように、置いたカップから遠ざけてテーブルの上へ置く。
 手をカップへ戻しながら、シェーンコップはもう一度、礼の言葉を繰り返した。それをヤンは、照れくさげに聞いた。


 通された客用の寝室で、ヤンの躯は今夜は最初からやわらいでいて、シェーンコップに抱き込まれて、苦しい重いと、笑いながら文句を言いさえする。
 不眠のことを詳しく訊いたことはないけれど、確実に眠れると分かっただけでこれだけ上機嫌になるのかと、それが伝染(うつ)ってシェーンコップも笑いながらヤンを抱いた。
 ヤンの膚に触れるために、全身を預け切って、胸も腹も平たく重ねる。女か、あるいはそれなりに鍛えた男相手なら、背中が終わり、腰へ盛り上がる線へ、抱き寄せればシェーンコップの腕が誂えたように収まるけれど、何もかも貧相に薄平たいヤンの体にそんな場所はなく、骨の造りがそもそも違うのだと、触れながらシェーンコップは思った。
 同じほど鍛えたところで、恐らく同じ分量の筋肉がつくことはない。皮膚のあまりの滑らかさに、少年と錯覚しそうなヤンの薄い体を抱きしめて、反った喉へ尖る喉仏が、声変わりを迎えたばかりのように痛々しくさえ見える。
 その声の低さは、変声期などひと昔前に済ませた、間違いなく男のもので、声の根の広がりの違いもまた、自分とヤンの人種の差異ゆえなのだろうとシェーンコップは考えている。
 鎖骨へ歯を立てて、首筋を舐め上げた。ぴんと、見るだけで痛いほど張った皮膚の続きで耳朶まで上がると、そこはいっそう滑らかさの深い耳の後ろへ舌を進めて、また黒髪をかき分けるように鼻先を差し込む。相変わらず、水と使った石鹸の匂いしかしない。
 自分の皮膚に染み付いている、普段使いのコロンの匂いを移すためのように、シェーンコップはヤンの上で体を揺すり、全身をこすりつける。何の匂いも伝えて来ないこの膚に、せめて自分の痕をわずかの間でも残せないかと、無駄と思いながらもそうすることをやめられなかった。
 脚も腕もヤンに絡みつかせ、ヤンも手足全部でシェーンコップに絡みついて、合間合間に唇を重ねた時だけ、かすかに紅茶の香りがした。
 ヤンの膚が、シェーンコップの全身を包み込んで来る。掌が背中へ滑ると、微弱な電流でも通ったように皮膚の下がわずかに痺れて、そこに確かなあたたかさが残ってゆく。常に緊張している筋肉がそうされてやわらぎ、自分の手足と全身が、ヤンの上で伸び伸びと自由を味わっているのが分かる。不思議な掌と膚だと、シェーンコップは思う。
 うなじを覆い、指先は髪の中へもぐり込み、指の間へ通る灰褐色のそれををやわらかく握り込んで、ヤンの短い爪があくまで軽くシェーンコップの皮膚を引っかくと、もっと強く、引き裂いて傷を残すくらいにと、シェーンコップはまるでヤンと自分を一緒に唆すように思った。
 ヤンの髪は、皮膚と同じように、したたかにシェーンコップの指に絡みついて来る。強く引いてもちぎれる様子もなく、この膚も、噛みついた歯列を弾く張りを返して来て、骨の細さ──シェーンコップに比べて──を補うためかどうか、跡を残すならシェーンコップのそれの方が容易に思えた。
 明日目覚めた時に、ヤンの手指や爪の跡が自分の背中へ残っていないかと、鏡の中に探すのを忘れないようにしようと、埒もないことを考えて、今夜は丁寧に繋げた躯を、急がずに動かす。ヤンを傷めないように、手加減と言って、ヤン相手では加減も分からないけれど、それでもできるだけ自分のことは忘れて、ヤンのためにシェーンコップは動いた。
 ヤンが本を扱う時の丁寧さを思い出しながら、今日ヤンのために紅茶を淹れた自分の手付きを思い出しながら、できるだけ同じように、シェーンコップはヤンに触れた。
 壊すことよりも、この膚にひと筋の傷も残すことを恐れて、自分のそれよりも余程丈夫そうに思えても、だからと言って乱暴に扱っていいと言うわけでもないと、妙に殊勝な思いに取り憑かれて、そう言えば、あの栞にはそんなことが書かれているのだとヤンは言っていたと思い出しながら、シェーンコップはヤンの中で動き続けた。
 ヤンの声が少しずつ変わってゆくのを、耳でも躯でも聞き取っている。シェーンコップはヤンが自分を抱き寄せようとするのに、いっそう胸や肩を近づけて応えて、そうして、ふと覗き込んだヤンの瞳の瞳孔が開いて、自分を見返しながら焦点のぼやけているのに気づいた。
 提督、と耳へ唇を寄せて呼んだ。シェーンコップと声はきちんと答えて来る。呼ぶ声は、シェーンコップの動きに合わせて止まらずに、次第に声の端がかすれて、名前を全部呼ぶこともできなくなり始めた。
 アクセントのついたOの音を、ヤンは帝国語のようには発音できず──今だけかもしれないけれど──、同盟の共通語とも微妙に違う音でシェーンコップを呼び、ヤンの喉だけが発するその音へ耳を吸い寄せられて、シェーンコップは、自分がヤンを呼ぶ時の独特の発音に自覚があるようには、ヤンはその音の出し方に覚えはないのだろうと思った。
 Nまでは喉が動いて、けれどKには届かずに、唇だけが動いて声は途切れる。まるで、愛称のように途中で短く自分の姓を切って呼ばれるのに、シェーンコップは思わず目を細めて、その声を促すように動きをわずかに速めた。
 名前の方を短く縮めて、ワルトと呼ばれたことはないでもなかった。Tの音の語尾を切り捨てるように発するその呼び方を、シェーンコップは特に好きでも嫌いでもなく、けれど突然そう狎れ狎れしく呼ばれることは好きではなく、名前を呼ばれるのが非日常になった軍生活の中では、階級で表わされる自己に慣れ過ぎてしまって、今ヤンが無意識にしている自分を呼ぶ呼び方が、ひどく特別に思えた。
 馴れ合いの間に生み出される、互いにだけ通じる愛称。それがふたりの間に起こるならもっと時間の掛かる先だと思っていたのに、上で動く自分のせいでヤンが偶然したその呼び方を、シェーンコップはほとんど少年のような無邪気さで気に入ってしまった。
 提督、とまた呼んだ。ヤンが、シェンと、Kの音へはもうまったく届かせずに、シェーンコップを呼んだ。
 あごを突き上げ、喉を伸ばすのが、口づけをねだる仕草と気づいてもシェーンコップはヤンが自分を呼ぶ声をもっと聞いていたくて、少しの間、それに気づいていない振りをする。
 他の誰が同じように呼んでも、決してヤンのようには聞こえない、特別の呼び方だった。
 Nの音で閉じかけたヤンの唇を、ほとんどこじ開けるようにしながらやっと唇を重ねて、差し出された舌先を奪うと、声を封じられた代わりに、ヤンがシェーンコップの首筋へ指先を押し当てて来る。押し付けられて、爪のわずかに食い込む痛さに、シェーンコップは眉をしかめるより目元だけで微笑んでいた。
 交じり合うふたりの呼吸にまだ、かすかに紅茶の香りが残っていた。

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