ろくでなしのBlues 13
目が覚めると、もう窓の外は明るんでいた。毛布から出ていた足が冷えていて、ヤンはまだ開き切らない目を瞬かせながら、その足を掌でこすった。
何時だろうと、部屋を見回して、部屋の隅に置かれた椅子に自分の服がまとめてあるのを見つけて、どこで外したか覚えてない腕時計は、きちんとサイドテーブルに文字盤が見えるように置かれているのが見えた。
終わった後で抱き寄せられて、髪を撫でられながら寝入ったのが何時だったか記憶はなく、わざわざベッドを下りてそれらの作業をしたらしいシェーンコップの気配も覚えはなく、夢も見たのかどうか、まったく思い返すことができなかった。
頭の後ろが軽い。枕から起こすのに、毎朝その重さに難儀するのが嘘のように、今は手足の指の先まで爽やかさが行き渡る。薬や酒を使って眠った後では、全身に粘る泥が満ちると言うのに、この違いはどうだろうと思いながら、ヤンはやっとベッドから足を落とした。
腕時計と上着はまだ残して服を着て、乱れ切ったベッドにちょっと肩をすくめ、さっきから居間の方から伝わって来る小さな物音へ耳を澄ませて、家主はもう起き出しているようだと、そちらへ足を向ける。
下着のシャツにネルのパジャマパンツと言う、昨夜の部屋着をさらに1枚剥いだ、シェーンコップの背中が見えた。そこからコーヒーの香りが漂って来る。
裸よりも、薄いシャツに覆われた方が体の厚みがよく分かる。今見える、軽くうつむいた首筋の太さと腕回りの大きさが、掌で覚えているそれと重なり、自分を押し潰しそうだった重みが蘇って、ヤンはそこで足を止めて、じっとシェーンコップの後ろ姿へ目を当てた。
ヤンがまだ寝ていると思うのか、なるべく音を立てずに食器を扱う手指。その手指が自分に触れる触れ方を、ヤンはとても好きだと思った。
どこにいても目に立つ容姿だったし、彼が動けば周囲の空気も一緒に動く、そこにいると気づかせずにはいない彼の存在感は、けれどこうして遠目に眺めていると、そうしようと思えば空気を乱さずにそこにいることもできるのだと知れる。目立つように動くのは、あれはわざとそうしているからなのだと改めて気づいて、人目を引かずにはいないと言うのも、案外気苦労があるのだろうとヤンは思った。
やっと靴下を履かない素足を前に滑らせて、おはようとヤンは声を掛けた。
「おはようございます。」
勤務中よりは少しやわらかな声で、シェーンコップが振り向く。
「お目覚めなら、紅茶を淹れますよ。」
そう言うシェーンコップの傍らへ、ヤンは滑り込むように体を割り込ませた。肩にあごでも乗せそうに近寄せて、
「よく眠れたよ。」
報告するように言うと、
「私もですよ。」
ヤンのために、薬缶に水を足しながらシェーンコップが言う。こちらも声音が爽やかに響く。
満ち足りたと言うのは、こんな朝のことを言うのだろか。私人のままの姿で、明るい部屋の中で顔を合わせる気恥ずかしさは差し出されたマグの陰に隠して、ふたりは向かい合って立ったまま朝のコーヒーと紅茶を飲む。
マグに巻かれたシェーンコップの指に、つい視線を引き寄せられて、ヤンは自分のカップの縁へ唇を寄せながらあごを胸元に引きつけ、上目遣いにその形をじっと眺めた。
節の高い、長い指。指の腹や掌に、ところどころ固い部分があるのは、戦斧を握るせいか。長方形に寄った爪の、生え際は時々ささくれが見えて、自分と違ってきちんと家事をしているせいかもしれないと思う。ユリアンに、ちょっといいハンドクリームでも買ってやった方がいいかなと思いついて、素早く頭の隅にメモをした。もしシェーンコップが嫌がらなければ、彼にもいずれひとつ。
自分を見ているヤンに気づいて、何か、とシェーンコップが目配せを返して来る。
手指の形も整っていて、さすが色男呼ばわりは伊達じゃないと、そう思っていたなどと答えられずに、ヤンは慌てて紅茶をひと口飲む間に、適当な言葉を考えた。
「君は、ちゃんと爪があるんだなと思って。」
「爪?」
「パトリチェフの爪が、とても小さいんだ。体はあんなに大きいのに。」
シェーンコップが妙な表情を浮かべる。恐らく、パトリチェフの爪の形などわざわざ見たこともないだろうし、もしかして他人の手指をつい観察するのは、自分の癖なのかもしれないと初めてヤンは思い当たっていた。
指の中に押し込まれてめり込み、いじけてしまったような小さな爪──ヤンのそれの、半分くらいの──、指先を守ると言う役目はとても果たせそうになく、あれはどうやって切るんだろうと以前不思議に思ったことがある。
目の前のシェーンコップのように、見た目が恐ろしいほど整っていても、体のパーツひとつびとつを見れば案外完璧には程遠く、人と言うのはそんなものだとヤンは思う。アッテンボローがまだほんとうに後輩の頃にこっそり見せてくれたいかがわしい女性の写真の、体のラインは確かに美しかったのに、足首の線がどうしても気に入らずに、アッテンボローのようにはその写真に夢中になれなかったことを、今突然思い出す。
シェーンコップはヤンに言われて、初めて見るように自分の指先を目元へ近づけ、
「爪・・・。」
異界の生物でも眺めるようにつぶやいてから、
「ブルームハルトのやつが、最初の頃は爪を噛むくせがひどくて、先をぼろぼろにしてましたがね。」
「へえ、意外と神経質なタイプなのか。」
「しょっちゅう自分で噛み切って血が出たって騒ぐのに、リンツがいい加減怒って、女のやる付け爪をさせて、強引に直させてましたよ。」
「女性用の付け爪で、サイズが合うのかい。」
「さあ、噛むのが自分の爪でなけりゃよかったんでしょう。あれは丈夫で、噛み切ろうとすると多分歯の方が折れますよ。」
それを知っているのは、ブルームハルトのせいなのか、それともどこかの女性の使っていたそれを実際に噛んだことがあるからなのか、片方の眉が知らず吊り上がるけれど、問い詰めるわけにも行かずに、ヤンは気づかなかった振りをした。
「貴方はいつもそんな風に、他人を細かく観察してるんですか。」
ちょっと可笑しそうにシェーンコップが訊く。付け爪の件をごまかされているような気がして、ヤンは軽く唇を尖らせると、そんなことはないよと否定した。
「別に、観察しようと思って見てるわけじゃない。ただ、こういう立場になって、人となりと言うのは自分なりに把握しておいた方が、後々楽になる場合が多いと気づいてね、自然に、眺める時にはそういう目になっているのかもしれない。」
「信用できるかどうか、ですか。」
「──それもある。」
それだけではないけれど、それは確かに大事な部分ではあった。
シェーンコップが、一瞬複雑な色を頬の辺りによぎらせて、ヤンは、ああこの男は、イゼルローン攻略作戦の時のことをまた考えているのだと思った。ヤンがそう思った通りに、シェーンコップが口を開く。
「以前からお訊きしたいと思ってたんですが、ヤン提督。」
「何を?」
満ち足りた夜の後に、すっかりなごんでいた頬の線が、いつもの人の悪い笑みへ変化する。気に食わない上官──ヤンのことではない──には遠慮なく食って掛かる部下の顔つきになって、声にいつもの凄みが戻っていた。
「私を信用すると、最初の時におっしゃったが、あれの根拠は一体何です。トリューニヒト派のいけ好かない連中から少女をかばった私を見たからと貴方はおっしゃったが、本当にそれだけですか。」
灰褐色の瞳が、急に明るさを増して、肉食の獣に睨まれているような気分になる。嘘にはすぐ気づくからと、その瞳が言っていた。
急に、自分の頭蓋骨が素通しのガラスになったような心持ちになって、ヤンは落ち着かずに短く瞬きした。あの時そう言ったのは嘘ではなかった。言ったまま、その通り、トリューニヒト派の将校たちに絡まれていたウェイトレスの若い女性を、シェーンコップたちが助けたのを見て、ヤンは彼と彼らを信用できると思ったのだ。
けれどそれだけではなく、まだ他に何かあったと、シェーンコップには見抜かれている。
この勘の良さは天性のものと、そして恐らく、軍の鬼子扱いの結果の、身に付けなければ生き残れなかった、処世術のようなものだろう。それを少し淋しいと思ってから、だからこそ笑われても正直に言うべきなのだろうとヤンは思った。
頬に指を押し当て、言い難そうに、ヤンはいいっと歯を剥き出す。その指を唇に当てて、下唇を押し下げるようにしながら、無理矢理言葉を押し出した。
「あの時、君がぶちまけたのが、コーヒーだったから、かな。」
「は?」
声の根が低まった。新兵だったら、それだけで心臓発作を起こしそうな恐ろしい声だ。士官学校の頃、訓練教官に呼び出されて睨みつけられた時の気分を思い出させる、シェーンコップの部下たちを、ヤンはちょっぴり気の毒に思った。
「だから、あの時君があの将校に引っ掛けたのがコーヒーだったから、わたしは君を信用できると思ったんだ。」
呆気に取られると言うのは、こういう表情のことを言うのだろう。信じ難いと言う表情で、シェーンコップがヤンを見つめている。
「それはもしかして、あの時、あの将校にぶちまけたのが紅茶だったら、今の私はここにこうしてはいない、と言うことですか。」
必死に、訳の分からない話の筋を通そうと、冷静な声を作っているけれど、語尾が震えているのは隠せない。
「・・・そうなるかな。そうかもしれない。」
ヤンは考えて、頭の中で道筋をたどった。最初の出会い、その印象、攻略作戦の話、そこから繋がる、今。あれが紅茶だったら、きっとまずもったいないことをすると眉をしかめたろう。実際にあの時、あんな風にされたのが紅茶でなくてよかったと、ヤンは思ったのだ──途中で考えを止める。そうだ。そうだが、違う。そうではない。そこではない。あの少女をかばったと言う事実が何よりまず先だ。
ヤンは慌てて付け加える。
「違う、君のことはもう信用できると思ったんだ。コーヒーの件は、その信用を強めてくれたに過ぎない。それに、コーヒーの方が温度は低いだろう、それをわざわざ使ったのを、君の優しさだとも思ったんだ。」
シェーンコップが、何かに耐えるように眉根を寄せ、あごの先を左肩の上へ持ち上げて横顔を見せた。瞳が迷うように動き続けて、そうしてやっと、
「それだけですか。」
「・・・それだけだよ。」
顔の位置が正面に戻る。ずっと寄り掛かっていたカウンターへ手にしていたマグを置いて、
「コーヒーだの紅茶だのが、昇進にそんなに重要とは思ってもみませんでしたな!」
突然叫ぶように言うと、シェーンコップは大声で笑い出した。
片手で額の辺りを覆ったり、その手を口元に移動させたりしながら、今にもカウンターの表面を拳で叩きたそうにして、そこまで笑わなくてもいいだろうとヤンは憮然とひとり紅茶を啜る。
だからあの時の、ばか正直に全部は話さないと言う判断は正しかったと、あの場で全員から向けられる呆然とした表情、その後の気まずい沈黙を想像して、いたたまれない気分になっていた。予想通りのシェーンコップの笑いっぷりに、ヤンはそろそろ神経を逆撫でされ始めている。
「爪だの、コーヒーだの、貴方って人は、本当に──」
「黙れシェーンコップ准将。」
爆笑の間に苦しそうに言うのに、ヤンは思わずぴしりと言った。恥ずかしさに頬が赤らんでいては迫力も何もなく、シェーンコップの笑いをいっそう煽るだけだけれど。
「まったく、貴方って人は──変わり者とは聞いていましたがね、まさかここまでとは。」
「2千人からいるローゼンリッターになら、わたしみたいなのもいるだろう。別にわたしひとりがそれほど──」
「貴方みたいなのがいたら、初陣に出さずに後方に移動させますよ。連れて帰る死体はひとつでも少ない方がいい。」
ヤンに最後まで言わせずに、そう言った終わり際にはシェーンコップの本音が混じる。実戦では役立たずどころか足手まといになるヤンへの、シェーンコップの正直な評価だった。
自分に対する評価へのお返しだったつもりはなかったけれど、結果としてそうなった形に、ヤンがむっと頬をふくらませる。
「どうせ私は首から下は無用の長物だよ。」
シェーンコップがやっと爆笑を、いつもの人の悪い笑みに戻し、片方の眉をひどくチャーミングに吊り上げて見せる。
腕を伸ばしてヤンから紅茶のマグを取り上げると、自分のコーヒーの傍らへ置いた。
「・・・と言うほどでもなかったと思いますが、閣下。」
腕の長さ分の距離を、突然爪先の触れ合うほど詰めて来る。そうして、ふたりとも素足の爪先が、確かに触れ合った。
「無用の長物とおっしゃるなら、小官がありがたく賜りましょう。」
ヤンが、マグを取り返そうと伸ばした腕を取って自分の背中へ引き寄せ、シェーンコップは、もうすっかり朝日の昇った時間を、わずかに夜の方へ引き戻す。
ヤンはさり気なくかかとを後ろへ引いて、引きずり込まれない用心に、距離を作る悪あがきをした。
それでも、取られた腕をシェーンコップの背中から外しはせずに、
「──百年後には多分、首から上も用済みになるだろうから、全部君が好きに持って行くといい。」
途中でつっかえないかと不安混じりに、ヤンは一気に言った。声はかすれたけれど、言い直す羽目にはならずに済んだ。言い終わってから、引きつった笑みを浮かべて瞳をシェーンコップからずらす。そのずれを直すように、シェーンコップがヤンの頬へ掌を当てて、自分の方を見るように促した。
「書面に、署名入りで、その旨残していただけますか? 百年待てば閣下は私のものだと。」
冗談めかした口調のくせに、声の底が湿りを帯びて、それは確かにヤンを昨夜に引き戻してゆく。眠気のせいではなく何もかもがほとんどおぼろな昨夜のことを、ヤンはシェーンコップの瞳の中に探ろうとして、自分を見つめる彼の目がいつもより明らかに熱っぽいことに気づくと、自分もきっと同じような目で今彼を見上げているのだろうと思う。
百年後かと、再び爪先をシェーンコップの方へ近寄せながら、ヤンは思った。
「別に、百年待つ必要もないだろう。」
そう言った途端に、ヤンの目の前で、シェーンコップの瞳孔が開く。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。気がついた時には背伸びをして、引き寄せるようにシェーンコップのうなじへ掌を添え、唇を近づけていた。
自分からこんな風に、口づけを仕掛けるのは初めてのような気がしたけれど、それが事実がどうかは分からずに、シェーンコップがやっと目を閉じたのを確かめた後で、ヤンもそっと目を閉じた。