シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 14

 執務室を出た途端、待っていたように長身が近づいて来る。明らかにヤンの出て来るのを予想して、そこに佇んでいたのだと隠しもしない笑みを浮かべていた。
 前にもこんなことがあったなと思いながら、立ち上がれば自分の背を越しそうな大型の犬をちょっと思い起こさせる彼──シェーンコップの立ち姿に、ヤンは呆れたような気分を交えた笑みを浮かべて見せた。
 「わたしの護衛役かい、ご苦労さま。」
 「お互い暇なのは良いことですな。」
 軍人が暇なのは、たとえ給料泥棒と謗られようと、確かに良いことだと内心で同意して、自分の傍らへ立つシェーンコップをちらりと視線を流す。
 とは言え、要塞司令官と要塞防御指揮官のふたりが暇なはずもなく、ヤンがこっそりやり繰りして作った1時間程度の休憩──キャゼルヌは分かりやすくサボリと言う──に、シェーンコップが合わせたと言うだけの話だ。
 数日置きにあるかもしれないこの細切れの休憩時間を、ヤンは時々、例の秘密の空き部屋で過ごす。勤務中に消息を断つわけには行かないので、そうする時にはせいぜい30分強、あの部屋でほんとうにのんびりするのは、眠れない夜にひとりぼんやりする時だった。
 あの部屋のおかげで、深夜の徘徊は少し減っていて、キャゼルヌやアッテンボローの心配顔も同じように少し減って、そしてさらに時折シェーンコップの傍らで過ごす夜には、悪夢を見ずにぐっすりと寝足りるせいで、近頃飲酒の衝動も少し減っている。まあ、いいこと尽くめだなと、ヤンは胸の中でひとりごちる。
 どこへとも訊かずに、シェーンコップはヤンの隣りを一緒に歩いて来る。馴染みのない方向へ進んでゆくと人気もなくなり、敬礼して通り過ぎる誰もいなくなった頃、ヤンはやっとぶ厚い、凝った装飾の両開きの扉の前で足を止めた。
 片方をいかにも重たげに開いて、シェーンコップが押さえたその間に、ヤンは中へ滑り込む。後を、訝しげにシェーンコップが続き、真っ暗なその部屋で目を細めた時、ヤンが壁のどこかを探って明かりを点けた。
 照明があっても薄暗い、窓の見当たらない天井のむやみに高いその部屋は、本棚の間に簡素な机と椅子の置かれた、個人の所有にしては本の数が膨大過ぎ、公けのそれにしては趣きの閉鎖的な、巨大な書斎のような小振りな図書室のような、埃くささとインクと紙の匂いに満ちた、少し懐かしい空気の漂う場所だった。
 「よく分からないんだが、研究所のようなところの蔵書を受け継いで個人が管理していた場所らしくてね。専門書ばかりだが、奥に同盟語の本ばかりの棚があるんだ。」
 奥のどこかを指差しながら説明するヤンの声が、明らかに弾んでいる。
 「何の専門なんですか。」
 「宇宙における物理法則とか、そういうものらしい。まれに哲学書も混じってるが、わたしの帝国語ではそこまでは読み切れないんだ。」
 シェーンコップの専門でもない。一応は母国語である帝国語にどれほど飢えていたとしても、ぜひ読みたと思う類いでもない。それならまだ缶詰のラベルでも読んでいる方がいい。
 ヤンはシェーンコップを導くように前を歩きながら、その読むつもりはないと言う本の、古色蒼然とした革張りの重厚な背表紙に触れて、うっとりとした横顔を見せる。
 「貴方の、秘密の場所ですか。」
 一瞬目を走らせただけでは、シェーンコップにも読み取れない単語の並んだ本の背表紙を、ヤンの視線の後で追って、シェーンコップはちょっとからかうように訊いた。
 「これを全部自由自在に読めるなら、そうなっただろうな。」
 いかにも残念そうに、脚立がなければ届かない上の棚へ目をやって、ヤンが上の空に答える。そこで足を止め、一番上の、ほとんど天井に届きそうな棚の、どの本かを、ぜひ読みたいと切望しているような表情を浮かべて、ひとり言のように言葉を続けた。
 「わたしの、士官学校の校長が語学に堪能でね、何度か彼の書斎を見せてもらったんだが、見たこともないような言語の本が山ほどあって、校長はそれを原語でそのまま読むんだ。時々面白そうな本は、その場で適当に分かりやすく訳してもらったこともあったが、言葉と言うものは、別の言葉を介した段階でまったく別のものになってしまう。できるだけ元の意味に近くなるように訳してはくれるが、元の言葉の意味が欠け落ちてしまったり、翻訳側で余計な意味が加わってしまったり、それが歯痒くて仕方がないって顔を校長はいつもしていたよ。」
 シェーンコップは、そこから先へ進まないヤンと一緒に足を止めて、腕を組んで本棚に寄り掛かった。
 「貴方は、両親の方の言葉もできるんだと思ってましたが。」
 「使えるうちには入らないよ。子どもの作文レベルの、日記程度がせいぜいだ。」
 「私の帝国語も、似たようなものですがね。」
 「でも君は、使おうと思えば使える相手がいるだろう。」
 それは確かにそうだ。ローゼンリッターの隊員の他にも、帝国語を同盟語と同程度に使える人間は少なくない。ヤンの両親の言葉は、すでに存在すら忘れられようとしている。
 ヤンが、少し淋しそうな顔を見せた。
 「わたしのあの名前も、あれを字として読める人はもうほとんどいない。わたし自身、あの名前を、ほんとうに正確に発音しているかどうか分からない。それが分かる両親は早くに亡くなってしまったからね。」
 亡命者として、同盟側で根無し草の生き方を余儀なくされて来たシェーンコップは、ヤンもある意味では自分と同じような根無し草なのだと気づいて、最初からずっとあったヤンに対する、不思議な親近感はそのせいかと、今さらの小さな驚きに、ヤンには見えないように目を見開いた。
 自分の孤独とヤンの孤独と、比べてどちらが深いと言えるものでもなく、同じように孤独に喘ぐ同士が引かれ合った、当然の流れだったのかもしれないと、シェーンコップはまだ上を見ているヤンへ1歩近づく。
 あの字も含めて、ヤンが恐らく自分だけに見せる、ヤンの断片。剥ぎ取った裸のさらに奥の、手指でただ触れられると言うわけではない、ヤン・ウェンリーと言う人間を形作る元素のようなもの。自分も同じように、ヤンにだけ見せる自分と言うものがあるのだと思いながら、シェーンコップはヤンの背中へ腕を伸ばした。
 「貴方の両親は、どんな人だったんですか。」
 そう訊かれて、ようやくヤンが本棚からシェーンコップへ視線を移す。わずかの間考え込むように、ヤンの瞳が左右にずれる。
 「ごく普通の、善良な人たちだった。ペテン師で、君に言わせれば稀代の詭弁家のわたしと違ってね。」
 可笑しそうにそう言ってから、思い出を手繰り寄せる風に、懐かしむ色で視線が遠くなる。シェーンコップは、ヤンのその瞳へじっと目を凝らした。続きを促されているのだと読み取ったヤンが、遠い視線のまま、ゆっくりと先を言い継いだ。
 「母は、よくわたしに本を読んでくれたよ。わたしが自分で字を書くようになると、自分が使っていた古い辞書をくれて、わたしが自分で本を読めるように使い方を教えてくれたんだ。」
 キャゼルヌが、何かの雑談のついでに、ヤンの母親が亡くなったのは彼がまだほんとうに幼い頃だったと言っていたのを思い出して、シェーンコップの頭の中に疑問符が湧く。辞書、と思って、口に出るそのままで訊いた。
 「いくつの時ですか、それは。」
 「4つだったかな。確か。母が死ぬ前だったから、確かそうだ。母の辞書は形見でね、探せばまだどこかにあるよ。ユリアンに訊けば分かるかな。」
 最後の辺りはひとり言のように、シェーンコップの方は見ずに言う。
 「4つ? 予想はしてましたが、随分と早熟な子どもだったんですな、司令官閣下。」
 「小賢しいガキって言いたいんだろう? 別にいいよ。子どもの頃なんて誰でもそんなものさ。わたしが特別だったわけじゃないよ。わたしはただ、ひとりで本を読むのが好きだっただけさ。」
 4つか5つで母親を亡くした子どもが、本の世界にひとりで沈み込む。その姿は、シェーンコップにも容易に想像できた。自分も似たようなものだったと、この場では言わずに思い返して、口の中に苦い味がこみ上げて来るのを、ヤンには気づかせずに飲み下す。知らず強張る舌を無理に動かして、問いを重ねた。
 「父上は?」
 ヤンの懐かしそうな微笑みが、いっそう深くなる。
 「自分の好きなことに熱中して、他のことは割りとどうでもいいと言う、そういう人だったよ。母が死んだ最初に、リンゴさえひとりで食べられれば生きて行けるからって、わたしにナイフの使い方を教えてくれた。」
 うっすらと、頭痛と目眩に襲われる。母を亡くしたばかりの子に、ナイフの使い方をまず教える父親、極めて実際的ではあるけれど、ここへ至ってシェーンコップの想像を少しはみ出し始めていた。
 「ナイフの使い方、ですか・・・?」 
 「うん、子どもじゃ、リンゴをそのままかじれないから、まずナイフで切って、芯を取って、剥きたいなら皮を剥いてって──ナイフはよく切れないと怪我をするからって、研ぎ方も習ったんだが、そっちは忘れてしまったなあ。」
 妙にのんびりヤンが言う。
 「自分の腹さえ自分で満たせれば、とりあえず生きて行くことはできる。父から学んだのはそういうことかな。正直、それを早くに教えてくれたことに感謝してるよ。」
 腹の満たし方、孤独な時間の過ごし方、確かに大事なことだ。けれど4つや5つの子どもにまず教えることではない。もっと別の、何か──と思ったところで、シェーンコップにも、子どもにまず教えるべきことなど分かりはせず、自分の両親以外の、世にいる親たちと言うのは子どもを十重二十重に保護して豊かな愛情を注ぐものだと思う、子どもなど作る気も育てる予定もないシェーンコップの、決して口にはしない理想──あくまで単なる理想だ──が音を立てて崩れてゆく。
 ヤンの両親の、ヤンに注いだ愛情が的外れだったとは思わない。それでも、戦争の天才のヤンが、ごく普通の生活能力に著しく欠けているのはこのせいかと納得して、それが顔に出たのかどうか、ヤンがちょっと唇を尖らせた。
 「分かってるよ、わたしがこうなのは親のせいかって思ってるんだろう。それははっきり否定しておくよ、シェーンコップ准将。」
 「そんなことは思ってませんがね。」
 白々しく嘘をつく。ヤンは易々とそれを見破り、自分の足元へ視線を落とすと、
 「親は、精一杯自分の知ってることを、最善と思うことを子どもに教えるだけさ。子どもが、きちんと自分がいなくなった後も生き延びられるようにね。親ができるのは、それだけだ。」
 言葉を連ねてみても自信なさげに言う声が、薄暗い床に沈んでゆく。血の繋がった子どものいないヤンが、どれほど親子のあるべき姿を熱を込めて語ろうと、それは戦略や戦術の話以上に机上の空論でしかない。けれどヤンには、ユリアンと言う養子がいる。傍目には、しっかり者のユリアンが、頼りない保護者のヤンの世話を焼いているように見える。それでも実際には、ユリアンは確かにヤンの背中を見て、親としての彼の生き方を学んでいるようにシェーンコップには思えた。
 親のそれと言うよりも、師としてのその色合いが強いにせよ、ヤンは確かにユリアンの保護者であり、ユリアンと共に過ごす時間を通して、ヤン自身が学ぶことの多さに驚いているような、そんな気がした。
 親としての自身の振る舞いに、自分を育てた親の姿を見つける。自分がどのように育てられたのかを、自分が誰かを育てながら発見してゆく。ユリアンへ掛けるヤンの愛情を思って、シェーンコップはヤンが受けた、ヤンの両親からの愛情をそれに重ね、そうして同時に、自分を捨てたも同然の親のことなどちらとも思い出さない自分の、ローゼンリッターの部下たちへの態度の一部は、否定のしようもなく親から受け継いだもののはずだと、かすかに反省と自戒の念も湧く。
 子は親の鏡だ。そして人は、自分がそう扱ったように、人から扱われるのだ。
 狂犬呼ばわりで捨て駒扱いの、ローゼンリッターへの軍の扱いは、一体鶏が先か卵が先か、ヤンが初めて自分たちをまともな軍隊の一員として扱い、自分たちは正しくそれに応えたのだと、シェーンコップは今ひそかに心中で胸を張る。
 「貴方の坊やは──ユリアンは、とてもいい子だ。貴方の育て方がいいからですよ、ヤン提督。」
 静かな声でそう言うのに、今度は嘘は一片もなかった。
 「わたしは何もしてないよ。ユリアンは元からあんな風にいい子なんだ。ユリアンだから、わたしと一緒にいてくれるんだよ。」
 ヤンがそう言い返す声音にも、嘘の響きはなく、心底そう思っているヤンへ向かって、シェーンコップは体を傾けながら、
 「・・・貴方と一緒にいる私も、いい子ですか・・・。」
 言葉の最後を上げたような上げなかったような、疑問の形になったのかどうか、シェーンコップにも定かではなかった。
 シェーンコップが与えた間(ま)に、ヤンは答えを探しあぐね、シェーンコップは答えを待たずに唇を触れ合わせて塞いでしまった。触れるだけで素早く去った口づけは、埃の匂いがした。
 不意の口づけに驚いているヤンへ、シェーンコップは代わりに自分でそれを言った。
 「飼い犬としては上等の類いと、自負していますがね。」
 いい子呼ばわりに続けて、突然自分を犬呼ばわりしたシェーンコップに、ヤンはもっと驚いて、眉を寄せて唇を喘がせる。
 「君は、犬なんかじゃないよシェーンコップ准将。」
 「犬ですよ。ローゼンリッターは、全員貴方の飼い犬だ。貴方の言う通りに行って動いて、貴方の言う通りに戻って来る。貴方の、忠実な犬だ。」
 自虐でも卑下でもなく、シェーンコップは頭を真っ直ぐに上げ、そう言いながら胸を張っていた。誇り高い猟犬、主人と認めた者にしか懐かず、飼い慣らすには相当の手間が掛かる。それに成功したのはヤンだけだ。シェーンコップを含めた彼らが、従おうと決めたのはヤンだけだ。
 「私は貴方の犬ですよ、ヤン提督。」
 ごく穏やかに、シェーンコップが繰り返す。
 そういう言い方は好きではないと、言おうとして、ヤンは眉を寄せたまま唇を噛む。その言葉の選択は間違っていると、シェーンコップに言うのは容易かった。けれど恐らく、シェーンコップの言うことは間違いではないのだ。最も的確に彼らのことを表現しようとすれば、そんな言い方しか、ヤンにも思いつけない。侮蔑の空気を含んでいるくせに、彼ら──いや、シェーンコップを犬と呼ぶ時には、それはなぜか親愛の部分ばかりが強調されるように、今ヤンの耳にはその音が響く。
 自分の傍らにいる彼を、うれしそうに寄って来る犬みたいだと、そう思ったのを見透かされたように思って、そちらを恥じたのかもしれないと思い直して、思った時には口が先に動いている。
 「わたしの犬、か──。」
 「ええ、貴方の犬です。」
 本棚に手を掛け、ヤンは少しの間考え込むように、目の前の本をじっと見つめていた。
 それから、本のタイトルを読むように、シェーンコップの名を呼んだ。
 「君はいつも、わたしが君に与えられる以上のものをわたしに与えてくれる。それをどう返していいのか、わたしには分からない。わたしにできるのは、せいぜい君や君の部下たち──いや、君たちだけじゃない、敵味方関係なく、誰をもだ、誰もできるだけ死なせないように作戦を立てて実行することだけだ。」
 声は上ずったけれど、言葉は確かだった。常に頭の中にあることをつい吐き出したと言うように、淀みなくヤンはそう言い、それからシェーンコップを見上げて来た。
 「私が求めるのは、貴方が永遠に私の飼い主であるようにと言うことだけです。貴方は作戦を立てて、我々に命令して下さればいい。私は行ってそれを行って、成功したと報告に戻って来ますよ。」
 「できれば、無傷も付け加えてくれ。」
 「無傷で。」
 「約束してくれるかい。」
 「しますよ、貴方がそうしろと言うならいくらでも。」
 いつの間にかふたりの間に距離はなく、本にではなく、互いに視線を当てている。
 「君がそこまでしてくれるのに、わたしはどうしたらいいんだ。」
 「──頭を撫でて、よくやったと褒めて下されば結構。」
 「それだけ──?」
 「それだけです。」
 「君は無欲過ぎる。」
 立つ瀬のないようにヤンが言うのに、シェーンコップは苦笑を返した。
 「そうでもありませんがね。」
 言った瞬間、強欲の方が頭をもたげて来た。ひと拍の間考えて、シェーンコップは素早く答えを取り替える。
 「もちろん、ご褒美をいただけるなら、ありがたく頂戴いたしますよ、閣下。」
 例の人の悪い笑みが、唇の端に浮かんだのを見て、ヤンは即座に自分の言ったことを後悔した。
 「だめ。」
 「まだ何も言ってませんが。」
 「君がそんな顔をする時はいつだって無理難題を吹っ掛けて来るんだ。わたしだってバカじゃない。」
 「貴方がバカじゃないのは宇宙の隅々まで知れ渡っていますよ。」
 「そういう意味じゃあない。」
 ヤンが話を切り上げて本棚の奥の方へ進もうとするのを、シェーンコップは咄嗟に腕を掴んで止めた。
 「ならご褒美の件はまたにしましょう。それより──」
 「時間だ、わたしは仕事に戻るよ。護衛ご苦労! では、シェーンコップ准将!」
 普段に似ない身のこなしで、ヤンはするりとシェーンコップの脇をすり抜けて、小走りに扉へ向かう。重いドアを肩で押し、追い駆けようとシェーンコップがきびすを返した時には、もう外へ抜け出てしまっていた。
 逃げられたと、特に悔しさもなく思って、シェーンコップは頭をかきながらとぼとぼ扉の方へ足を向けた。ここにひとりでいても仕方がない。照明のスイッチを扉の傍に見つけて、消す直前に、扉の間に挟まった、ヤンが落として行ったらしいベレー帽に気づき、苦笑と一緒にそれを拾い上げる。
 返して欲しかったらお茶に付き合えと、脅迫状でも送るかと冗談で文面を考えて、そうしながらいつの間にか苦笑が消え、真顔になってヤンのベレー帽を両手の中にそっと握っている。
 貴方の犬だと、そんな言い方しかできない自分の意外な不器用さに自分で驚いて、そしてヤンが、自分のことをわたしの犬かとあの声で言った時に、今までのどんな時よりも心が満たされたのを、もう隠すことができなかった。
 自分は、いるべき場所を、戻るべき場所を、家(ホーム)と呼べる場所を見つけたのだと思った。欲しかったのは祖国ではなかった。求めても得られない、シェーンコップが欲しがったのはそんなものではなかった。
 ヤンが自分の居場所なのだと、そうはっきりと悟って、シェーンコップは思わずそのベレー帽へ唇を押し当てて、ヤンへ向かって膝を折る自分を想像しながら、私は貴方の犬ですと、また声に出して言っていた。
 同盟の犬と言われようと、戦争の犬と言われようと、もうシェーンコップの心が揺れることはない。ヤンの犬である限り、それらの言葉はもう何の意味も持たず、シェーンコップに響いて来ることもない。
 たった今、ヤンはシェーンコップの生き甲斐になり、そして死に甲斐になった。
 私が死ぬのは、貴方のためだけです、ヤン提督。
 本に囲まれた、ヤンには明るさの足りないだろうその部屋で、シェーンコップのその低い誓いの言葉を聞き取ったのは、手の中に握りしめたままの、ヤンのベレー帽だけだった。

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