ろくでなしのBlues 15
それではお休みなさいと、シェーンコップがベッドを出ようとしたその腕を、ヤンが掴んだ。振り返ると、行くなと言う表情で腕を引かれ、シェーンコップは何かと思いながらまたヤンの隣りへ戻る。
「別に、ここで寝てもいいんだろう。」
ヤンが言う。目を伏せ、ずっとそう思っていたのをついに言ったと言う風に、自分の傍らへ再び横たわったシェーンコップの肩を、引き寄せるようにして、胸の辺りへ額を寄せて来る。
「私がいると、眠れないんじゃないんですか。」
終わるたび、眠そうなヤンを置いて、シェーンコップは自分のベッドへゆく。ヤンは朝までいることもあるし、目覚めるともういないこともあった。ヤン以外はもう誰も使わないシェーンコップの客用寝室は、近頃はヤンの別宅と化している。
「ここは君の家じゃないか。君が気を使うことはないよ。」
「眠るためにここに来ている、貴方のためですよ。」
思い出させるようにそう言うと、ヤンは子どもっぽく唇を尖らせて、
「君がいても大丈夫だよ。もう慣れたよ。」
貴方がそう言うならと、子どもじゃあるまいし、眠れなければ家に帰るなり、それこそシェーンコップの方のベッドかソファへ移動するなりするだろうと、シェーンコップはもう反論はやめて、ヤンの隣りで眠るために体の位置を定め始めた。
たいていは使われないままの、もうひとつの枕をきちんと引き寄せ、自分の頭の下に敷き、重過ぎないように気をつけながらヤンの腰へ自分の腕を置く。終わって、冷え始めた体の表面は、けれど珍しく残ったままのふたり分の体温で、再びぬくまり始めた。
すぐに眠ってしまうと思ったのに、やはりそうやって体を近寄せて眠るのには慣れないのか、ヤンはシェーンコップの肩口へ寄せた額を、ごしごしそこへこすりつけたり、寝返りを打って向こうを向くかどうか迷う素振りを見せたり、しばらくの間ごそごそと落ち着きがない。
「やっぱり、自分の部屋へ行きますよ。」
肩をずらす姿勢になりながら、そっとささやくように提案すると、案外強い声でだめと否定が返って来て、ヤンの腕が首に巻き付いて来る。
「いいんだ、いてくれ。頼むから。」
ほとんど懇願するような声音を聞き取って、シェーンコップは改めて枕をヤンのそれの方へ寄せ、自分もヤンと同じ位置へ頭を下げると、額と鼻先をこすり合わせる近さへ顔を移動させた。
「どうかしたんですか。」
声をひそめても、息はしっかりと唇へ掛かる。
「どうもしないよ。ただ、君と一緒にいるのに、最後まで一緒にいないのはもったいないと思っただけだよ。」
「・・・そんな嬉しがらせを言っても、酒は出ませんよ。」
「酒はいらないよ。君といると、酔っ払う必要がなくていい。」
ふん、と、どうにでも取れる相槌をして、シェーンコップはヤンの言ったことを考える。ヤンほどではないにせよ、シェーンコップにも酒抜きでは眠れない夜もある。以前、飲んで女を抱くのがいちばんだとヤンに言ったのはそのまま本音で、あの時はその両方が手元にあるのが常だった。
今は、とまだ寝入る様子のないヤンを見つめて、黒い髪をそっと撫でながら、どちらともいつの間にか疎遠になっていると考えた。
どちらにも特に惜しいと思う気持ちもなく、ヤンのために女を断っていると言う意識も特にない。どちらも、今の自分には必要がないからだと思って、それならヤンは必要なのかと思ってから、シェーンコップは珍しく自問をやめない。
違うな、俺はこの人といたいんだ。必要だからじゃない。
案外素直にそう思いついて、シェーンコップはヤンの額に自分の額をこすりつけた。
お返しめいた仕草で、ヤンもシェーンコップの髪を撫でて来る。そうして、何か思い出したように微笑んで、
「ユリアンが、わたしのところに来たばかりの頃に、夜、怖い夢を見たと言って泣きながらわたしの部屋に来たことがあってね──。」
目に入れても痛くない、可愛い養子の息子の話をする時には、ヤンは恐らく自覚はないのだろうけれど、顔の線すべてをゆるませて、完全に親の貌(かお)になる。その表情を好ましいとは思いながら、わずかな嫉妬も禁じ得ずに、シェーンコップはヤンの微笑みを自分の頬辺りへ写して、今はそれを押し隠した。
「どんな夢だったかは覚えてないけど、とにかく怖かったと泣いて泣いて、枕を半分分けて、結局一緒に寝たんだ。子守歌なんて知らないし、どうしていいか分からなくて、怖いものは見なくていいから、わたしだけ見てなさいと言って、ずっと頭を撫でてたんだ。子どもの髪があんなに柔らかいなんて知らなくて、乱暴に扱うとすぐ壊れるなと、ずっとそんなことを思ってた。ユリアンはあの目でじいっとわたしを見て、そのうち泣き止んで、じきに寝て、わたしはその頃もう夜は眠れなくなっていたから、結局朝までユリアンの寝顔を眺めてひと晩過ごした。明け方にはユリアンに枕を全部取られて、後から来た猫と一緒に、ベッドも半分以上取られて──」
そこでヤンの話は一度止まり、ふたりの前髪のこすれ合う音が後に続く。
「ユリアンがわたしのところに来たのはそれきりだったが、猫の方は時々わたしのベッドにやって来るようになって、我が物顔でベッドを占領するんだ。小さいくせにベッドを半分以上取られるんだ。」
「──ここのベッドが狭いと言う、遠回しの文句ですか。」
「違うよ。」
意外と強い声で即座に否定してから、ヤンは、違うよと、今度はもっと抑えた声で繰り返して、シェーンコップの方へ丸めた体を寄せて来る。それから、しばらく黙った後で、もう眠ったのかと思った頃に、シェーンコップの胸辺りで、ぼそぼそ聞き取りにくい声で突然つぶやく。
「猫にでも生まれたら、傍若無人に、君のベッドにずっといられるって、そう思っただけだよ。」
時々、自分の脱いだ服の上へ丸まって寝ている猫のことを、ヤンは思い出していた。
「猫でなくてもいつでも歓迎いたしますよ。私と一緒で、狭くてよろしいなら。」
単なる返答のような、あるいはほとんど本音のような、シェーンコップ自身もどちらなのか言ってしまった後で判別がつかずに、考えている間につい口が滑った。恐らく、眠気に襲われてもいたのだろうと、後で思ったけれど。
「それなら小官は、閣下の愛読書になりたいものですな。常にこの手に携えていただける。」
胸の間に落ちていたヤンの手を取り、口元へ運んで、つまんだ指先を唇へ当てさせた。
「本になら、わたしもなりたいものだな。本棚にずっといられて、誰にも邪魔されない。」
ヤンが妙に真剣に言うのに、意地悪い気持ちではなく、単なる疑問で、シェーンコップは訊いた。
「本棚に並べられただけで手に取って読まれない本に、存在意義がありますか。」
「──存在意義ね・・・この世に在ると言うだけで十分じゃないかな。本棚のその場所を、物理的に占めてる、それだけでわたしには十分だ。」
「読まれなくても、ただそこに置かれているだけで満足だと?」
シェーンコップはただ、訊いた。問い詰めているつもりはなく、ただ本になりたいと言うヤンの、その真意が知りたくて、重ねて訊いた。
「誰かが中身を書いて、誰かが印刷までこぎつけて、本にした。その努力の結果の形としての本だ、本の形としてそこにあるだけでもう存在意義としては十分だと、わたしは思う。」
「読書好きの貴方の物言いにしては、知識の塊まりとしての本をやけに物体としてだけ捉えているような気もしますが。」
「紙とインクの固まり、物体としてはそれだけだよシェーンコップ、それ以上でもそれ以下でもない。世の中には、何百回も読み返される本もあれば、結局1度も読まれないままの本もある。わたしが生涯で出会える本の数は限られてる。この世にあるすべての本を読むことは、いくら望んだところで不可能だ。だが、わたしが読まなかった本や出会えなかった本に存在意義や価値がないわけじゃない。それを本の形にしたいと思ってそうした人がいた、それだけで本の存在意義や価値は十分あると言えると、わたしは思う。」
本の話をしながら、何か別のことを語っているような気がして、シェーンコップはヤンの手を握ったまま、ヤンの言葉を反芻した。
そこに在るだけでいい。そんな本になりたい。
誰にも邪魔されずに、と言う辺りが本音だろうと思いながら、人嫌いなところなどまったく見せないヤンが、よりによって物である本になりたいと言うのも面白いことだとシェーンコップは思った。
肌を合わせた後で寝入ってしまうまでの間にする会話としては色気がなさ過ぎる内容ではあるけれど、生真面目なヤンの声がただ心地好くて、シェーンコップはその話題をまだ続ける。
「貴方の本なら、本棚に置かれたままだろうと百回読み返されようと、丁寧に扱ってもらえることだけは確かでしょうがね。」
「丁寧?」
ヤンが、意外なことを聞いたと言う風に、眉を寄せた表情を作る。ヤンの反応こそ思いがけず、シェーンコップも思わず同じような表情を浮かべた。
「丁寧って・・・?」
「貴方が、本を大切に扱う、と言う話ですが。」
シェーンコップが表情をとどめたまま、まるで子どもにでも説明するようにゆっくり言うと、ヤンは、視線を泳がせて黙り込んだ。取られていた指先をシェーンコップの手から抜き取り、隠すように自分の背中の方へやる。
自分が、本を大事に扱っている自覚はある。そうしない輩に、つい睨みつけるような視線を送っていたかもしれない。けれど、それに気づかれていたとは思わなかった。言葉に出して誰かをわざわざ注意したことはなかったように思うし、傷められてしまった本を見て、つい舌打ちしたのを聞かれたことはないように思う。
あるいは、ユリアンと話でもしていた時に、あの子がそんなことでも漏らしでもしたのか。ユリアンに気づかれていたのだとしたら気をつけなければと、不意に親の気持ちに戻って、ヤンは内心で自戒した。
動揺をごまかすためではなかったけれど、ヤンは不器用に話の矛先をシェーンコップへ向けた。
「君だって本はきちんと扱うだろう。前に、誰かが広げて伏せて置いていた本を、ちゃんと紙を挟んで戻してたじゃないか。」
以前目撃したままを言うと、シェーンコップは記憶をたどるように瞳の位置を上向かせて、
「私がそうしたのは、貴方がそうしていたのを見習っただけですよ提督。」
阿諛追従と聞こえないように、シェーンコップはごく平たい声でそう答えた。
元々、誰の所有にせよ、物を雑に扱うのは好きではない。あまり気配りができる風でもないヤンが、人にせよ物にせよ比較的慎重に扱う態度は、上官のそれとしては当然好ましいと思ったし、部下として学ぶべきところは学ぼうと、シェーンコップはそう思っただけだった。
急に、ヤンの首筋と頬が真っ赤に染まった。
「いつ──いつ、見てたんだ、そんなの・・・。」
羞恥が行き着く先が絶望と、シェーンコップは初めて知ったように、ヤンの突然変わる表情を見て、一挙一投足に注目されている自覚がないらしい、長い間英雄呼ばわりされている──多分に、政府の煽動はあるにせよ──この男の、ほとんど病的な無自覚を目の当たりにして、今度はシェーンコップの方が、ヤンの肩を思い切り揺さぶってやりたい気分になる。
自分はあれほど他人を観察しているくせに、なぜ同じように自分も見られているとは考えないのか。自分が他人に興味を持つように、他人も自分に興味を持つものだと、なぜ理解しないのか。相変わらず、この男の頭の働きようは自分の想像の埒外だとシェーンコップは思った。
自分の視線が、世間がヤンに向ける注目とは少し違うとは知っている。それでも、他人の視線に対してこれほど鈍感になれるものかと、見られることに慣れ切っているシェーンコップは信じ難い思いでヤンを見返していた。
ほとんど笑い出したい気分になって、ほんとうに、この人といると飽きないと思いながら、シェーンコップは、ヤンが本を扱う時の手付きを真似しているつもりで、ヤンの肩を引き寄せる。
「貴方が本になりたいとおっしゃるなら、小官は栞の役目をさせていただきましょう。」
背中へあったヤンの手を前へ引き出して、やんわりとヤンを自分の下へ敷き込んでゆくと、そのまままだ赤い首筋へ顔を埋めた。
「シェーンコップ!」
「どうせまだ眠れないんでしょう。」
「君に付き合ったら一生ベッドから起き上がれなくなるよ!」
「ちゃんと手加減はいたしますよ閣下。」
わざとらしい慇懃無礼さで、そうするとヤンが黙ると知っている耳朶を柔らかく噛む。
抱き込まれて、ヤンは口ほど抵わず躯をやわらげ、じきにシェーンコップの背中へおとなしく両腕を回して来た。
本になった自分が、ヤンの指先でページを繰られる想像をしながら、シェーンコップはまったく同じ動きで、今夜は二度目の、ヤンの膝をそっと開いて行った。