シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 17

 「今宵のご機嫌はいかがですか、提督。」
 大仰に、胸の前に腕を当て、軽く上体を折る姿勢を見せて、いかにも恭しくと言う風に、現れた途端シェーンコップが言う。
 ヤンは苦笑いで本から目を離し、そんなシェーンコップを見た。
 「特に良くも悪くもないよ。」
 椅子から顔だけそちらへ向けるヤンの傍へ、シェーンコップはドアの外をごく自然な素振りで確認してから、ゆっくりとした足取りでやって来る。
 「お邪魔でしょうから、すぐ消えますよ。」
 シェーンコップがヤンのためにこっそり用意していた秘密の部屋は、イゼルローンを退去し、再び戻って来た時に別の場所になり、同様にシェーンコップがこっそり──と言うことになっている──と新たに設えた部屋は以前のそれより少し広く、けれどヤンのための明るさは以前通りだった。
 目を刺すその眩しさはシェーンコップには少々辛く、ごくまれにこの部屋を訪れてもそれは極めて短い時間だ。ここでひとりになるヤンの時間を、邪魔しないためでもあった。
 少し広くなった部屋には書き物机も加わり、部屋のいちばん奥のベッドは、ひとりなら手足を伸ばせる大きさがある。
 ヤンの深夜の徘徊は、今ではもう滅多と噂にもならない程度に治まって、うろつく時には大体この部屋へ閉じこもるから、人目に触れることもなくなっている。
 ヤンは読んでいた本を閉じて、椅子から立ち上がるとシェーンコップの傍をすり抜けてドアの方へ行くと、そこの壁にあるスイッチをいじって照明の明度を下げる。白から深いオレンジに変わった明かりに、シェーンコップの瞬きが止まった。
 「お気遣いは無用ですよ、閣下。」
 そう言うシェーンコップにヤンは肩をすくめて見せ、元の場所に戻ってパジャマ姿の膝を覆っていた毛布を床から取り上げると、椅子の背に掛ける。
 「君の顔を見たら、眠くなっただけだよ。」
 ひとりで過ごす夜の不眠は相変わらずで、悪夢の内容も特に変化はない。それでも、眠れる夜が確実にあると言うのは、ヤンの張り詰めた神経をなごめてくれたし、自分の身に対する不安と緊張を、防御指揮官のこの男が分け合ってくれるのは、ヤンにとって大きな救いだった。
 シェーンコップは椅子の近くにはいても、ヤンに触れる近さにはわずかに届かないそこで、今夜はただ顔を見に寄っただけなのだと下ろしたままの腕に言わせて、先に進まないブレーキを掛けている。
 ヤンはそのシェーンコップへ自分から体を近寄せて、彼の腕を抱いた。
 「・・・何もしなくていいよ、君が仕事に戻るまでの間だけでいいんだ・・・。」
 肩口に頭をもたせ掛けてそこで静かに言うのに、シェーンコップの腕がようやく上がって、ヤンを抱き寄せる。
 「──生殺しですな。」
 笑いを含めて言っても、響きは案外冗談でもなさそうに、ごめん、とヤンが本気で申し訳なさそうに答えた。
 ヤンがそう言った通りに、シェーンコップはただヤンの体に腕を巻いてじっとしている。時々思い出したように背中を撫で髪に触れても、首筋と顔の辺りは慎重に避けた。
 くったりとシェーンコップへ上体を預けているヤンが、そのうち小さなあくびを始め、直に膚を覆うパジャマの生地の下で、かすかな眠気のせいで体温が少しだけ上がっていた。
 「部屋に戻るならお送りしますよ。」
 自分のベッドに戻れば、この眠気は去ってしまうと知っているヤンは、シェーンコップの肩へ額をこすりつけてそれへは否と返事をして、代わりに、そこから顔を上げて後ろへ振り向くと、少しの間考え込んでから、シェーンコップを見上げて腕を引いた。
 ヤンの動きに従うと、小さな部屋のいちばん奥へそのまま進み、ヤンはたどり着いたベッドの端へ腰掛け、さらにシェーンコップの腕を手前に引く。
 室内履きを、蹴るようにその場に脱ぎ捨て、整えられて使われた形跡のないベッドの上へ体を持ち上げると、その自分の傍らへシェーンコップを引き寄せた。
 ひと拍の間考えてから、ひとつしかない枕はヤンへ譲り、自分は腕を畳んで頭の下へ敷いて、シェーンコップはブーツを脱がずに、ヤンの隣りへ横たわる。
 向き合って、互いの腰へ腕を乗せ、ふたり分には狭いそこに収まるために体をもっと近寄せて、ヤンがシェーンコップの首筋へ大きく息を吐く。
 パジャマだけのヤンの傍で、軍服のシェーンコップの大きな体は裸よりもずっと嵩張って、ベッドで触れれば鎧のような上着の無粋な固さに、今はその隔てをむしろありがたく思いながら、ヤンは素足の爪先でシェーンコップのブーツを探る。
 足の親指が案外器用にスラックスの裾をつまみ上げ、ヤンの爪先はそこからシェーンコップのふくらはぎへ忍び込んだ。
 お返しのつもりか、シェーンコップはパジャマの裾からヤンの背中へ掌を差し入れ、いつもそうするように、数えるように背骨の凹凸を指先でたどる。
 ヤンが下から軽く睨んで来たのへ、
 「何もしませんよ。」
と返して、肩甲骨を大きな掌で覆った。
 そこから先ヘは進まないと、目顔で伝え合って、それでもふたりの手足は互いの体に絡んで、簡素なベッドはふたり分の重さに時々軋んだ悲鳴を上げる。その音だけが、部屋の中に大きく響く。
 これはこれで悪くはないと、ヤンの背中の素肌にだけ触れながらシェーンコップは思う。ブルゾンの袖の固さで、ヤンの皮膚をこすって傷つけてしまうことを心配はしながら、軍服を脱げば途端に嵩の減るヤンの、いつまでも少年じみた薄さの消えない体へ、軍服ごとで寄り添って、自分の熱さは伝わらないもどかしさを楽しめる余裕は、ヤンと過ごした時間の長さのおかげではあった。
 初めてほどの性急さは今はなくても、ヤンに触れたい気持ちは一向に鎮まらずに、相変わらずの手触りのヤンの膚は、いつまでもシェーンコップにとっては砂漠で見つけた澄んだ水たまりのようだ。
 抱き合えば、溶けた膚がどこまでも寄り添って来る。あたたかな湯につかったような、そうしてヤンに包み込まれて、水で呼吸をするように、決して死なない溺死をシェーンコップはいつも心底愉しんだ。
 皮膚を交わしてするおしゃべりの親密さは、ヤンの意外な表情をいつも見せてくれたし、ヤンに見せる、自分では知らなかったシェーンコップの表情もまた露わにした。
 言葉とは違う意味で、ヤンの躯は雄弁で、その言葉を聞き取るために耳を澄ませて、そこで一緒に聞き取るヤンの心音は、シェーンコップには子守唄のように聞こえる。
 生きているぬくもり、こうして抱き合えるのは、生きているからだ。
 戦死する気などあった試しのないシェーンコップは、今では本気で退役後の穏やかな人生を想像するようになっていて、そうしても自分の姿は、同じように退役したヤンの傍らに永遠にあるのだと、当然のように考えている。
 私人になっても、自分とヤンの繋がりはこのまま続くのだろうと、ヤンの不眠がいずれ完治する日が来るとしても、ヤンは自分を手放しはしないだろうと、シェーンコップは自惚れではなく思う。
 恋人と言えば甘ったる過ぎるけれど、何かそれに近いもの、そのようなものだと、シェーンコップはヤンと自分のことを受け取っていた。
 自分の髪が、いずれ色を薄め、ヤンの黒髪に白いものが混じり始め、手触りの変わる皮膚をそれでも変わらずにいとおしんで、ただ穏やかに抱き合って眠る夜を繰り返す、そんな人生もあるのだと、今そんな風に静かにヤンを抱きしめて、シェーンコップは自分の未来を想像した。
 それが許される自分だと思うのも、ヤンとこうしているせいだ。
 戦争と戦争の間の、束の間の平和。その時間を、ヤンと分かち合いたかった。
 今それを、ヤンに触れている掌に言わせて、シェーンコップはヤンの黒髪の上で小さく息を吐く。
 提督、と呼び掛けようとした時、上着のポケットの中で携帯の連絡端末が電子音を鳴り響かせ、水の底に沈んだような部屋の中で、不意にこの場を現実に引き戻す。
 シェーンコップは、慌ててヤンから手を離し、それをポケットから取り出して耳に当てた。ヤンの邪魔にならないように顔も体も向こうに背け、ヤンの足からほどいた自分の足は、もうベッドから床へ下りている。
 夜勤の部下からの定期連絡だった。緊急の用はないけれど、そろそろ今夜の持ち場に戻らなければならない。
 ベッドへ振り向くと、ヤンも体を起こして、だるそうに髪をかき回している。
 「わたしもそろそろ部屋に戻るよ。」
 そう言う声が、動きと同じに重たげだ。
 「部屋まで送りましょう。」
 「いや、いいよ。君は先に行くといい。仕事中に悪かったね。」
 さっきまでぴしりと伸びていたベッドのリネンは、今はふたり分の体の重みに、わずかにその形に凹み、しわを残し、体温がぬくみがまだある。シェーンコップはそれを名残り惜しんで、数瞬、動けずに掌を当てたままでいた。
 「では、小官は仕事に戻るといたしましょう。」
 軽く言ったのと同じ腰軽さでやっと体を持ち上げ、シェーンコップは背筋を伸ばしてドアの方を見た。
 そのまますぐに出て行く気にはならず、またヤンの方へ振り向く。ベッドのこちら側の端へ体を滑らせて来たヤンの頬へ、シェーンコップは思わず手を伸ばさずにはいられなかった。
 シェーンコップの掌へ顔を傾け、頬の線をすり寄せて来るヤンの、今は少しだらしなく半開きになった唇へ、親指の腹が滑る。その指へ向かって、ヤンが唇の先を軽く尖らせた。そうして、ちらりと見せた歯列の間へシェーンコップの指先を柔らかく噛み込んで、離す直前にまた唇の先がそっと触れる。
 ほんとうに生殺しだと、喉の奥に言葉を飲み込んで、外す指先を、未練がましくヤンの髪へ素早く梳き通らせて、シェーンコップはやっとヤンから1歩後ろへ下がった。
 では、と短く言い捨て、部屋を後にする。閉じるドアへまた振り返り、狭まる視界に、まだベッドにいてこちらに向かって手を振るヤンの姿が見えた。
 体を引き剥がすようにそこから立ち去りながら、シェーンコップは爪を噛む癖の振りで、さっきヤンが噛んだ自分の指先を、自分の唇の間へ挟んでいる。
 朝まで仕事で眠れない自分と同じように、ヤンもどうせ朝まで眠れないのだろうと、ちくりと胸に痛みを感じながら思った。

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