シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 18

 帝国側との和平の話し合いと言う、ようやくその時が来たと、要塞内には過度の疲労のせいの怠惰にも感じられる空気が満ちて、一部の人たちは緊張感を保ったまま、けれどそれもどこか春先の眠気につい誘われるような、安堵による長閑さの侵入を防ぎ切れないでいる。
 切れた緊張の糸を結び直す力など、もう誰にも残ってはいず、ヤンが和平交渉の座に着けば、後はもう訪れる、戦後と言うその時を待てばいいだけだと、気の早い連中はすでに浮足立ってもいた。
 レダUでそこへ向かうヤンは、ユリアンの詰めてくれた小さなスーツケースひとつを手に、準備と言って、もう何年も考え続けた和平の条件へ、自分たちと同盟側の残留勢力の現状を深慮した修正を加えたそれを頭の中に携えて、皇帝の前へ赴くだけだ。
 まさしく、その身ひとつで。ヤンにとって、空手で歩き回るのはいつものことだけれど、帝国側には、脅威になるものをすべて置いて来た、まさしく平和を求めてやって来たのだと、そう映るだろう。
 そのヤンとの同行を求めてキャゼルヌに却下された要塞防御指揮官は、わずかばかりの不機嫌を隠さずに、ふたり揃って身をひそめた物陰で、上着の襟から引き出したヤンのスカーフとネクタイをずっと手の中でもてあそんでいる。
 「君を連れて行くと、空気が剣呑になる。」
 言わずもながのことを、ヤンは苦笑を交えて繰り返していた。
 ローゼンリッターと名乗っただけで、誰も敵意に眉を吊り上げるか、恐怖に後ずさりして逃げ出すか、自身が戦斧そのもののようなこの男を、傍らに置いて和平交渉と言うのは、あまりにも絵面が嫌味だと、ヤンだけではなくシェーンコップ自身も理解はしているのだ。
 連隊長のリンツすら憚りを考えて、結局副連隊長のブルームハルトが護衛で同行すると、それがヤン側とシェーンコップとの妥協点だった。
 「貴方のことだ、どうせカイザーも煙に巻いて、こちらに有利な条件を引き出して戻って来るんでしょうがね。」
 「どうかな。わたしはこういう交渉は苦手でね。相手を怒らせないことだけを祈るよ。少なくとも、暖簾に腕押しの、どこかの保身に必死な政治家連中よりは実のある話ができそうだがね。」
 「無能と話をする時間の無駄遣いをせずに済む、と言うところですか。」
 ヤンの、あえて言わない辛辣さを、シェーンコップが代わりに引き取った。
 「──天才ひとりでは、国は成り立たないよ、シェーンコップ。」
 笑みは消さずに、けれどたしなめるようにヤンが言う。
 「無能に手厳しい貴方が、そういうことをおっしゃる。それも貴方の信奉する、民主主義の理念とやらですかね。」
 肩をすくめながら、いかにも可笑しそうにして見せるシェーンコップの、信奉、と言う言葉に、ヤンの眉がちょっと寄った。けれど、シェーンコップの毒舌にはもう慣れ切っているヤンは、そこから意識の引っ掛かりを外し、自分のスカーフとネクタイをいじり続けているシェーンコップの手を、そっと自分の手に取る。
 「人は、ひとりでは何もできない。必ず誰かが必要なんだ。」
 指を絡めるようにしながら、目を伏せてヤンが言う。その指を強く握り締めて、シェーンコップはいっそう近くヤンへ体を寄せた。
 「私が、常に貴方を必要としているようにですか。」
 「逆だよ──わたしが、君を必要としてるんだ。」
 「──眠るために。」
 語尾をすくい取る素早さでそう言って、まだ腕はヤンに掛けないまま、けれど額を寄せて来るシェーンコップの影に覆われながら、ヤンはシェーンコップの決めつけるような声音へ顔を上向かせて、
 「それも大事だが、それだけじゃないよ、シェーンコップ。」
 「それはそれは。小官がそれ以外に、閣下のお役に立っているとは存じませんでしたな。」
 そんなずるい言い方で、ヤンからもっと耳に触りの良い言葉を引き出そうとする、この男の奇妙な無邪気さを、ヤンは実は気に入っていた。
 君が必要だと言いながら、内心でその言葉の坐りの悪さに、別の言葉を考えながら、必要と言う段階はもうとっくに通り越して、ヤンは素直に自分はシェーンコップが欲しいのだと思う。大切な誰か。必要ではなくても、傍らにいて欲しい、大事な誰か。
 安らかに眠るために、ヤンはシェーンコップを必要としている。けれど眠るため以外でも、今ではもう腰の辺りが繋がってひとつ身になってしまった不思議な双子のように、ヤンはシェーンコップを自身の続きのように考えていた。
 そんなこともいつか、他に煩いのない、ふたりきりののんびりした時間の時に、ゆっくりシェーンコップに伝えたいと思いながら、ヤンはシェーンコップの肩へ頬を寄せて、もっと強くシェーンコップの指へ自分の指を絡めて行った。
 「戻って来たら、君のところでゆっくり寝たいな。」
 もうしばらく、そそくさと唇を盗む時間さえなかったのだ。今も、そろそろこの物陰から出て、互いの持ち場へ戻るべき時間が近づいている。
 「さっさと行って、さっさと用を済ませて、貴方がさっさと戻って来るのをお待ちしますよ、ヤン提督。シーツを新品にしておきましょうか。」
 「新品より、君の匂いがする方がいいな。その方がよく眠れる。」
 まだ残る疲れと、これからへの緊張が、うっかりヤンの舌を滑らせたのかもしれない。やけに素直にそんなことを言ったヤンを、小さな驚きをこめて、シェーンコップは両腕の中に思わず抱き寄せていた。
 それからヤンの頭にあごを乗せて、妙に真剣な声で言う。
 「お願いですから、銀河一の美男子と評判のカイザーの前で、そんな物言いはしないで下さい。帝国が貴方を戻したくないと言い出したら困る。」
 ヤンは思わず喉でだけ笑って、
 「わたしについてそんな心配をするのは、この宇宙広し言えど君だけだ、断言するよシェーンコップ中将。」
 「どうですかな。」
 いつもの軽い調子ではなく、根の広い深い声でヤンの言うことを否定して、シェーンコップはヤンの黒髪に両手を差し込み、ヤンを上向かせて顔を近づけた。
 触れるだけの口づけが1秒。
 すぐに離れたシェーンコップへ、照れたように、ヤンが唇の端を上げ下げした。
 「銀河第二の色男がこんな物好きだなんて、誰も知らないんだろうな。」
 「第二、と、物好き、と言う部分だけ余計ですな、閣下。」
 その後は、自分を、そしてヤンを黙らせるために、シェーンコップは改めてヤンの唇を自分のそれで塞いで、今度は我慢をせずに舌でヤンの歯列を割った。
 わずかに酒の匂いのするシェーンコップの息を、自分の呼吸のようにしながら、まだ疲れの取れない脳髄の芯がじきに痺れ始めて、ヤンは知らずにシェーンコップにしがみつくように彼の背中に腕を巻いていた。
 いつもよりゆるやかに動くシェーンコップの舌先にあやされるように、ヤンはあたたかなシャワーでも浴びているように、ゆっくりと全身を伸ばしてゆく。服の下で、皮膚と筋肉が人の形を保ち切れずに、軟体動物のようにシェーンコップへ絡みついてゆく様を想像しながら、シェーンコップと抱き合う時には常にそうなるように、かすかな睡魔の足音を聞いて、けれどとどまらずまた遠ざかってゆくのへ、無意識に耳を澄ませていた。
 このまま、シェーンコップの傍らで、明日のために眠れたらいいのにと思っても、今はそういうわけにも行かず、せめて唇の感触だけでも思い出しながら眠ろう──眠れるなら──と、ヤンはシェーンコップの唇へ、乾いた自分の唇をこすりつけた。
 唇が離れるのと一緒にシェーンコップは体を引いて、それでもまだヤンの首筋へは手指を添えたまま、
 「──眠れますか?」
 少し心配そうに訊いて来るのに、ヤンは困ったように眉を下げて見せた。
 「寝不足の回らない頭でカイザーの前に出るわけには行かないからね、何とかするさ。」
 それから、シェーンコップを真似て、シェーンコップの頬と首筋へ手をやり、ふと思いついたように、スカーフの下へ指先を差し入れる。
 「君のこれ、わたしのと、取り替えてくれるかい。」
 言いながらもう、襟の中から引っ張り出したスカーフの結び目をほどいて、シェーンコップの首から引き抜き始めている。
 自分のスカーフも、もうシェーンコップがほどんと解いてしまっているのを自分の首から抜き、ヤンはシェーンコップの方へそれを差し出した。
 「君の代わりに、一緒に行くよ。」
 かすかに、シェーンコップの使っているコロンの香りがする。抱き合うと時々鼻先に立つその匂いに、ヤンは思わず目を細めている。
 「それがあれば眠れますか。」
 いたずらっぽくシェーンコップが笑って言い、ヤンも同じように笑って、ふたりは取り替えたマフラーをそれぞれの首に巻く。シェーンコップはヤンのマフラーに、こっそりあごの先を埋めるようにして、ヤンの膚とは違うけれど、自分のよりもなめらかな気のする生地の感触へ、ヤンには見えないように1秒ほど長い瞬きをした。
 上着の前をきちんと整え、シェーンコップはついでのようにヤンの襟元も真っ直ぐにしてから、
 「あまり留守が長いと、貴方の飼い犬が淋しがって何をするか分かりませんよ。」
 「いたずらは控えてくれよ。いい子で待っててくれ。」
 立ち去る前に、もう一度額をこすり合わせて、触れるだけの口づけをする。
 先に薄暗がりを出てゆくヤンの、まだ疲れの見える少し丸まった背中を、シェーンコップは名残り惜しげにそこから見送った。

17 戻る 19-a (原作/OVA準拠編) / 19-b (捏造生存編)