シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 3

 はあ、と肺ごと吐き出しそうなため息をついて、ヤンは傍らの紅茶のカップへ手を伸ばした。
 わずかに底に残ったそれはすっかり冷め、香りも失せてしまうと色も褪せて見えて、ヤンは思わず口を付ける直前で品なく舌打ちをする。
 そんな自分の所作にいっそう気分の悪さを引き出されて、またもうひとつ、さっきのよりはやや軽いため息。
 目の前に山積みの書類と、朝から必死に格闘していると言うのに、高さはまったく変わらないような気がして、それでも右側に移動させた、処理済みの分は確かに嵩を増やしつつあるのだから、仕事は進んでいるはずだった。遅々ではあっても。
 斜め読み、いっそもう目も通さずに、書類を作成した人間を信用して、さっさと署名をしてしまうこともできる。決裁したのは自分だと、最終的に何があっても責任を取る気があるならそんなやり方もあった。
 けれど数瞬考えて、目を通そうと通すまいと、署名をした段階で全責任は自分に掛かって来るのだし、それなら納得してから責任を負いたいと考え直して、ヤンは髪をくしゃくしゃとかきまぜながらまた書類へ目を落とした。
 紅茶が欲しいな。ユリアンは今どこにいるんだろう。
 そろそろ午後になるこの時間は、前夜の寝不足がいちばん響いて、ほとんど禁断症状のようにカフェインが恋しくなる。軽い頭痛に後ろ頭が疼くのを、舌を焼く熱い紅茶でごまかす様を白昼夢のように思い浮かべながら、ついちらちらと、ほとんど空のカップへ目をやってしまう。現実逃避し掛かるのを、いかんいかんときちんと集中して、ついいい加減になる署名も、ペンの先へ力を入れ直してできるだけちゃんとした。
 字を読むのは嫌いではない。けれど仕事の書類と言うのはなぜこんなにも退屈なのか。しかも不特定多数の、それぞれ書き癖のある──個性と言う代物ではない──文章をきちんと読み解いて、理解したと言うしるしに自分の署名を記して、そうしながら書面のあちこちに訂正を入れたくて仕方がない。内容にではない、文法と表現と誤字脱字にだ。IQの高さと文章力は比例しない。自分も人のことは言えないなと、一応は反省しながら、こめかみをぐいぐい空いた方の手の先で押して、読みにくい文章へ再び目を凝らした。
 自分がもし、どこかの学校に教える立場でもぐり込めたら、こんな風に自分の生徒たちのレポートに頭を抱えることになるのだろうかと、今のこの状態とどちらがましだろうかと、さっき引き止めた現実逃避の方へ心が迷い出してゆく。
 つい癖で、また左手がカップの方へ伸びる。冷え切った取っ手に指先が触れてから、紅茶は空だと、今度は内心でだけ舌打ちした。
 さて、次、と、機械的に紙の束を取り、最初の段落と各段落の最初の1文と最後の1文、そして最後の段落にまず目を通す。ここに筋が通っていれば、残りはそれほどじっくり読む必要はない。そして幸いに、この文書はそれがきちんとしていた。
 どこか硬い印象の文体には覚えがあって、先に最後のページへ行って作成者の名前を確かめると、思った通りにシェーンコップの署名があった。
 そしてふと、最初の文字くらいしか読み取れない筆記体の署名の下の、確認のために改めて活字体で書かれた名前の綴りが、見たこともないそれになっているのに気づいて、ヤンは思わず紙面に顔を近づける。
 小文字の"O"に点がふたつアクセントについて、これは明らかに帝国語の綴り方で、亡命者であるシェーンコップには、そういう意味ではふた通りの名前、綴り方──そして発音──の微妙に違う名前がふたつあることになるのだけれど、もちろん同盟側では、帝国風を決して快くは思ってはいないのだし、亡命者はそうと言われずとも、元の綴りも発音も同盟風に改めるのが普通だった。
 そのくせ、帝国貴族を表す"von"の称号を名前から取り去ること、あるいは姓に混ぜてそうとははっきり分からないようにすると言うやり方を許さず、彼らが永遠に亡命者、あるいはその末裔であると言う立場を思い知らせるように、周囲に必ず知らせるようにし続けている。
 シェーンコップが、そんな同盟政府のやり方を不愉快に思っているだろうことは、ヤンにも容易に想像できた。とは言えあの男なら、たとえ改名を許されたとしても、腐り切った同盟政府への痛烈な皮肉として、自分の姓をあえて帝国風のままにしておくと言うこともしそうだった。
 やれやれ、とヤンは髪へまた指先を差し込む。
 けれど、突然書類に本来の綴りを書いて寄越すと言うのは、ヤンが目を通すと分かっていてのことだ。
 なるほど。
 亡命者としてのシェーンコップと対峙はしても、ヤンは彼を帝国側の人間と思ったことは一度もない。帝国のことを、自分よりは恐らくよりよく理解し、帝国語を母国語として使用でき、翻訳を介さずに解する能力を持つ、ヤンにとってシェーンコップはそういう人物だった。
 言葉は、使う人間の思考の仕方に深く関わっている。言葉を知ることは、その言葉を使う人間の思考を知ることだ。ヤンは、言葉を軽く扱う人間を信用しない。その筆頭がトリューニヒトだけれど、書類の山にうんざりし、寝不足の頭痛と戦っている今、あの男のことなどちらと考えただけで吐き気を催しそうになる。
 いやなことを振り払うために、2、3度軽く頭を振って、ヤンはまたシェーンコップの記した名前に見入り、このOは一体どう発音するんだったかなと、履修しても、喋る方はまったく物にならなかった帝国語の講義を思い出しながら、口の中で舌を動かした。
 喋る時の毒舌と皮肉がこうして活字で表されると、主流からはわずかに外れた、やや先鋭的な新聞の記事でも読んでいるような気分になる。シェーンコップは自分に独裁者になれと言うけれど、煽動者としてなら彼の方がよほど上だ。壇上に立って舌峰鋭くトリューニヒトと同盟政府の腐敗を批判する姿は、ヤンがそうする時よりもよほど人々に訴えかける力があるだろう。
 自分には、ああいうものはない。欲しいとも思わない。
 万人──女性は例外だとして──に好かれるタイプではないけれど、持たれた好意は長続きするタイプだ。一度魅きつけられた人々は、容易に彼には失望はしないように思えた。
 そうシェーンコップを評価するのが、ごく個人的な意見だと考えもせず、ヤンはじっとシェーンコップの名前を見ながら、書類の内容のことはすっかり忘れていた。
 そうして、考えながら、そんな男がなぜ、とまた思う。
 わたしみたいな覇気も野心のかけらもない人間のところに、よくいるものだな。
 あの男のひどく好戦的なところは、陸戦部隊と言う所属のためか、それとも帝国人特有のものなのか。ローエングラム公なら喜んで彼を重用するだろうとヤンは思う。そして恐らく、彼自身も、帝国側の軍人でいた方が、伸び伸びと彼らしく振る舞えるのではないかと、そこまで考えた。
 考えてから、いつ逆亡命するかと、最初から裏切る前提で見られ続けている彼にとっては、帝国側の方が居心地が良さそうなどと、ちらと思うことすらおぞましいのかもしれないと思い直す。
 どちらにも根の張りようのない、亡命者と言う存在。あの男の舐めて来た苦渋を想像して、ヤンは暗澹たる気分になる。
 ヤンは亡命者ではないし、同盟で生まれ育った人間だけれど、外見から人種が違うと明らかに分かるし、そのせいで余計な苦労をした覚えもある。シェーンコップのそれとは比較にならないと自覚した上で、彼の立場の一端は理解できると、ヤンはそう思った。
 我々は、思ったよりも似ているのかもしれない。
 そう言えば、そんなバカなと人は言うだろう。シェーンコップ本人に言えば、大笑いされるかもしれない。それでもヤンは何となく、シェーンコップはそうですなと、妙に静かにうなずくのではないかと言う気がした。
 目を通した後に作成者の手元へ戻る書類のいちばん最後に、ヤンは署名を入れる。自分でもどこがどのアルファベットか見極められない線を書き殴って、それから、その下へ、"楊文里"と書いてから、区切り線を斜めに入れて活字体で普通に記す。
 この字で自分の名を理解する人間は、もうヤンの周囲にはひとりもいない。これが本来の自分の名だと、見せた覚えももう長い間ない。字とすら認識されないだろうと思いながら、シェーンコップの帝国語の名前に応えるように、ヤンは久しぶりに自分の名を正確に書いた。
 ペンを置き、指先でシェーンコップの名をなぞる。"O"の上のふたつの点は、先に打つのかそれとも"O"を書いた後かと、そんなことを考えながら、ヤンはユリアンが新しい紅茶を持って部屋に入って来るまで、ずっとシェーンコップの名を指先でなぞり続けていた。  

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